2 あんぱん、橋の上、流れ星
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この街を流れる川は、駅や街の中心部からは少し離れた場所にある。
閑静な住宅街が広がるこの辺りでは、華やかで明るいイルミネーションや賑やかな路上ライブなんてものはひとつも無い。暗く、静かで、それなりに大きな川にかかる橋からは、星も多少は見える。
「おー暗いねえ。さっきとは大違い」
「向こうが明るかった分、余計に暗く感じるな」
「うん。でも、夜景の代わりに星がある。星も夜の景色ってことは、星空も夜景って言えるかな」
「少なくとも今の会話を聞いてなかった人には通じないと思う」
「そっか、残念。それにしても人がいないね。どこでご飯食べようか」
風が吹いて、美香が「ん、さむっ」と身体を丸める。おもむろに俺の腕を取り、胸にぎゅっと抱きしめた。
柔らかい感触を感じながらも、引っ張られている左腕を抜こうと肩を上に持ち上げてみるが、美香は離そうとしない。それどころか、さらに体重をかけてくる。
「美香、離して。重い」
「えぇ。寒い。腕くらい良いじゃん、けち」
ため息をひとつつき、美香を諭そうと左を向くと。
――そこには、唇を突き出した美香の顔があった。身長差の少ない俺達は、少し首を動かせば、鼻先が触れ合う、そんな距離だ。
気づくと俺は、美香の長い横髪を耳にかけてやっていた。全くの無意識である。
そしてそのまま、彼女の頭をぐっと引き寄せた。自分の顔を少し傾け、彼女の艶めく薔薇色に唇を合わせる。
周囲の音が消え、まるで世界に二人しかいないような錯覚に陥る。
何度か角度を変えながら押しつけた後、ゆっくりと唇を離した。
頬を薔薇色に上気させた美香が、ほう、と湿った吐息を零す。
「……もう、いきなりはやめてってば。いっつも言ってる」
「ごめん、つい」
「ついじゃなーい!もう、人がいなくてよかったよ、ほんと」
「そうだな。美香のそんな可愛い顔、他のやつにはぜってー見せたくねぇ」
吐き捨てるようにそう言うと。
「……うるさい」
美香はつんとそっぽを向いて、でも俺の腕はまだ掴んだまま、先にずんずんと歩き出した。
髪の隙間からちらっと見える耳は、赤く染まっている。それを見られただけでも、今日来た甲斐があったというものだ。
「ご飯買うよ」
「何か食べたいものあるか?」
「パン。あんぱん食べたい」
「りょーかい」
辺りは、再び静寂に包まれる。
俺は美香に掴まれている手首をそっと抜き、掴むものが無くなって空になった彼女の指に己の指を絡めた。
暫くして、美香がおもむろに口を開いた。繋がれていない方の手で、川の方を指さす。その先には、石造りの素朴な橋がある。真ん中が高い、アーチ型の橋だ。
二人きりの世界に、彼女の静かな声が響く。それは、まるで懐かしい思い出を紡ぎ直しているような、慈愛に溢れた旋律に聞こえる。
「私小さい頃、この橋怖くて苦手だったな。何だっけ、名前」
「『さかい橋』か」
「そうそう、それ。幅は狭いし、柵も低いし、石造りっぽい見た目だから崩れたらどうしよう、落ちたらどうしよう、って考えちゃって。そしたら途端に渡るのが怖くなってさ。大きくなると背が伸びるじゃん、そしたら昔より柵が低いところにあるから、余計怖くって。今まで渡ったこと、そういえば無かったなって思い出した」
「ちょっとわかる気がする。俺も昔橋の上で走っててバランス崩したことあるから。あの時は落ちそうで怖かったけど、案外落ちないものだぞ」
「じゃあその時ヒロくんが落ちなかったおかげで、こうして私達は出逢えたのか。落ちないでくれてありがとね」
「なんか変な事で感謝された気がする」
「とにかく、これからは橋の上では絶対に走らないこと!いい?落ちたらチーン、だからね?」
美香は微笑んだ。
微笑んではいるが、妙な迫力がある。目は微妙に笑っていない気がするし、口元が引き攣っている。
「わかった、気をつける」
「お願いだから、ね」
そのお願いは、どこか切実な響きを帯びていた。
川沿いにあるパン屋は、あんぱんが残り一個になっていた。
美香はぎりぎりゲットできたそれを誇らしげに掲げ、某有名人の真似をする。たしか、おじいちゃんがまだ子供だった頃にすごく流行っていたのだったか。彼女はなぜか、こういう昔のものに詳しい。
「あんぱんゲットだぜー!」
「手が滑って落とさないようにしろよ」
「大丈夫、滑らないし、滑らせないから」
「滑らせないって、どうやるんだそれは」
「うふふ、なーいしょ。あんぱん見てるとさっき乗った魔飛球思い出すなぁ」
「共通点、丸いところくらいしかないだろ」
「夜景、綺麗だったね。もっと見たかったなあ」
魔飛球とは、透明な丸いカプセルに魔力を流し、空を飛ぶ乗り物だ。昔の『気球』を、丸いカプセル型にして、もっと縦横自在に動き回れるようにした感じで、スピードは出ないため主に観光や外壁の点検などに利用されている。人間はカプセルの中に入り、各々のデイルバイスから操縦ができる。風に流される事もなく、狭い場所でも発着できて、揺れや騒音も無い。まったく、魔道具とはすごい技術だ。
河川敷のベンチに座ると、美香は早速食事を始めた。
「いただきます!」
大きく口を開け、あんぱんにがぶりと噛みついて、咀嚼する。もきゅもきゅと音が聞こえてきそうだ。小動物のようで可愛らしい。
俺も遅れて、紙袋からサンドウィッチを取り出して齧る。
「デイルバイス、今何時?」
美香が尋ねる。
すると、抑揚の少ない、中性的な声が返事をした。
『ただいまの時刻は午後八時。この後の予定は』
「おっけ、ありがと」
美香はデイルバイスの言葉を途中で遮り、一方的に会話を終わらせる。
そして俺の方を向いた。ちょうど街頭が彼女の背後にあるため、逆光で表情はよく見えない。
「ねえ、流れ星、見えるかな」
紡がれた言葉は、独り言のようでもあった。彼女がこちらを向いて喋っていると知っているから、俺に尋ねているのだと推測できる。
「流れ星?」
「うん、今日、流星群が見えるんだって。まだ時間、早いかな」
「デイルバイスに聞けば」
「そんなことしたら正確な時間、わかっちゃうでしょ。門限までしか会えないんだから、ヒロくんが隣にいるうちに見れるって希望を持ちたいじゃん」
「そういうものか?一人で見ても二人で見ても景色は変わらないと思うけど」
「彼氏と一緒に見たいの!もう、このわからずや」
「じゃあ早く食べて、見に行くか。橋の上なら、ここより多少は暗いだろ」
「行くなら車が通らないさかい橋ね。あーあ、これが私のさかい橋デビューか。暗いなあ」
残念そうな言葉とは裏腹に、楽しそうな声色だ。
「俺がいるんだから、怖かったら服でも腕でも掴んどけ。手、繋いでやろうか」
「……そうする」
美香はそれきり言うと、手の中のあんぱんを口に詰め込んだ。
俺は既に食べ終わっていたので、彼女が食べ終わるのを静かに待つ。
立派な頬袋を作りもきゅもきゅと口を動かしていた美香は、やがてその中身をごくんと飲み込んだ。
俺は立ち上がって美香に手を差し伸べる。
「ほら、行くぞ」
美香はその手を見つめ数秒固まっていたが、やがて意を結したように小さく頷いた。
「そんなに怖がる必要は無い」
「でもだってやっぱり怖いんだもん」
「手繋いでるだろ」
「うん。……あったかい」
美香は俺の手を顔に引き寄せ、頬擦りをした。
「美香は、何をお願いしたいんだ?」
橋に着くと、空を見上げて尋ねた。
「んー、お金持ちになりたい!とか?」
「定番だな」
ありがちな回答そのまんまの返事に、思わず笑みが溢れる。
「あ、こら、今笑ったでしょ。もう、人の望みを笑うなんてサイテーな男だね」
そう言う美香の声も笑い混じりだ。
「こっちは一応、真剣に、お金持ちがよかったなーって思ってるんだから。そう言うヒロくんこそどーなのよ」
「俺は、美香を幸せにしたい」
「相変わらず重いなあ」
美香は、困ったように眉を下げ、何か納得したように頷いた。
「でもそっか。そうだよね。ありがと」
何が「そう」なのかはわからない。だが、一層力を込めてぎゅっと握られたその冷たい左手は、どこか切ない声音も相まって、何かに縋っているように感じた。
まだ橋が怖いのだろうか。微かに震えている美香の手を握り返したその時。
視界の端を、一筋の光がかすめた。
「あ、流れ星」
俺の呟きに、美香はすぐさま反応した。
「え、どこ?」
「もう見えない」
「えーもっと早く言ってよ。予告して、予告」
「無理だろ」
「あはは。――……ヒロくん」
美香は、ふいに神妙な顔をした。何かをこらえるような、泣き出しそうな、怒り出しそうな、切なそうな、でもそのどれでもないような、複雑な表情。少なくとも、俺の見たことのない顔だった。
「?」
俺は視線で先の言葉を促す。
これから放たれる言葉が何なのかも知らず、ただ無邪気に。
「……私から、予告」
彼女には珍しい、重く響く声だった。
「なに?」
「次流れ星が見えたら、私行くね」
「は」
言葉に詰まったのは、彼女を構成する全てが、寂しい切なさを醸し出していたせいだ。
瞬時に、自分はその隣に居させてもらえないのだろうということが理解できた。
「どこに」
「大事なとこ。だから、ヒロくんとはもうすぐここでお別れ」
いつもならば、また明日学校で、なんて言うところだ。
けれど彼女の表情は、そんな簡単な別れではないことを物語っていた。
「どういうことだよ」
食い気味に問いただすが、要領を得ない答えが返ってくる。
「ヒロくんは、まだこっち側には来ちゃ駄目。この橋を渡ってしまえば」
俯き、マフラーの先をきゅっと握る。そして静かに目を伏せた。
「……死者の世界だから」
聞こえた声は消え入りそうなくらいに小さく、くぐもっていた。ここが人のいない橋の上でなければ、あるいは少しでも風が吹いていれば、おそらく掻き消されて聞こえなかっただろう。
「は、……なん、みか、」
言葉が出ない。脳が、心が、身体中が、理解することを拒んでいる。
いや、本当はきっと、わかっているのだ。
けれど思い出したくもないしわかってしまいたくもないから、蓋をしている。全力で、見て見ぬふりをしている。
だってほら、今にも、あの日の記憶が、蓋を押し除けて飛び出しそうなんだ。
「私はあの時、死んだの」
苦い顔をして、目の前の女が呟く。
視界がぐるぐるする。混乱して、何も考えられない。彼女が誰なのかも、わからない。さっきまではわかっていたはずなのに。
ただ、あの光景だけが、鮮明に頭を焼いている。
脳裏にこびり付いた、あの真紅に染まった景色が。
「あのときって、いつ」
なんとか尋ねる。彼女が誰なのかはわからなくても、自分にとって大事な人だったのだということは、なんとなくわかる。
しかしその問いはもう、意味を為さない。俺は、その答えを知っているから。いま、思い出してしまったから。
もしかしたら、他人から事実のみを告げられていたら、もっと冷静に受け止められていたかもしれない。俺はきっと、誰なのかすら認識できない目の前の彼女に、その『他人』の役割を求めようとした。
けれど彼女は、『当事者』だった。
そして俺もまた、『当事者』だった。
だから、己の問いに対する答えを、俺は知っている。鮮明に、覚えている。
――あの日。星空の美しい、流星群の日。
俺の頭上も、彼女の頭上も、美しい星々で埋め尽くされるはずだった。
そして二人で、その赤や青を指差して、笑い合うはず、だったのだ。
――それなのに俺達は、その輝きを見ることなく、一番星を見つけるよりも早く、黄昏に倒れた。
明日も更新します。