第10章1話 前触れ
──落ち込むことなんか、ない。
居場所が、アスターのそばじゃなくなっただけ。
パルメラさんとピエールはいるし。
朝になったらまた商人ギルドに顔を出して。
溜まってる帳簿をチェックして、お客さんへの配達を済ませて……。
それから、それから……?
…………。
……………………。
…………おかしいな。
アスターが宿にいなくても、普通だったのに。
パルメラさんの家に、荷物を運んで。
隣の部屋には、灯りも点いてるのに。
……どうしてこんなに肌寒いんだろう……?
☆☆
「……ピエール」
「んー……?」
「最近のメルちゃん、どう思う?」
「……。どうって……」
パルメラに訊かれて、ピエールはチェックしていた配達伝票の束から顔を上げた。
昼下がりの、商人ギルドの事務室である。
居並ぶ机の向こう、メルが窓口でなじみの商人たちとにこやかに話している。
当初はメルの足枷に難色を示す者も多かったが、ギルドの職員たちがメルのことを歓迎しているのもあって、常連客たちも次第に抵抗を示さなくなった。
……それはいい。メルがギルドに溶け込んでいるのは。
問題は、その光景があまりにも自然なことだった。
アスターが王都リングドールに旅立ったあの日以来、パルメラもピエールも、メルが気落ちしているところを見ていない。
そのことに、どこか薄ら寒いような違和感を覚えた。
あの日以来、メルは、アスターのことを一言も口にしない。まるで彼が最初からいなかったかのように……。
パルメラがウェーブのかかった黒髪を掻き上げてため息をついた。
「ありゃ、あかん。どっからどう見ても強がりやろ。……ピエール、なんとかしぃや」
「パルメラさんにできないことを、オレがなんとかできるわけないでしょ……。まして──」
──アスターさんでもないんだし……。
その言葉を、ピエールはぐっとのみ込んだ。
あの日、メルに何もしてあげられなかった。
なぐさめる言葉ひとつ見つからない──そのどれも、メルが必要としていないのが、わかってしまった。
メルが奴隷としてどんな年月を過ごしてきたのか、ピエールは知らない。
どんな残酷を、どんな残虐を、その目で見てきたのか。
それはピエールの想像の範疇を超えていて、おぼろげながら伝え聞いても、到底理解してあげることなんかできない。
あの華奢な身体で、これまでにも、どんな絶望に堪えてきたのか……。
「…………」
黙って書類仕事に戻ったピエールを、パルメラはしげしげと見た。
「あんたはあんたで、最近、急に仕事やる気出すし。どないしたん?」
「……。メルの分も、ちょっとでも進める。これぐらいしかオレ、できることないし」
配達台帳に目を落としたまま、やさぐれ気味にこぼした。殊勝な態度で、メルみたいなことを言う。パルメラは感動した。
「──いやぁ、天地がひっくり返る前触れかと思ったわー。……どっかで頭でも打った?」
「ひとがせっかくやる気出してるのに、ひどいっ」




