プロローグ(後編)
──思い出すのは、同い年だった友達のほがらかな声。
『私、いつかあのひとみたいに舞台で歌うの』
キラキラ光る舞台に立つことを夢見て、大好きな舞台の女優の名前を自分につけていた。メルよりも強くて明るかったのに、主人に魂送りを命じられ、亡者の群れに取り残されて死んだ──今はもういない奴隷仲間。
舞台『河のほとりの恋人たち』は、そんな彼女が好きだったお話だ。
物語は、ヒロインのリゼルが最愛の恋人を亡くす場面から始まる。
恋人の死を嘆いたリゼルは、生者と死者の世界の境目にある忘却の河で聖女アウグスタと取引をする。そして、恋人を生き返らせるため、生者には決して渡れないはずの忘却の河を渡って死者の世界に足を踏み入れる……。
「──、──……」
無意識のうちに、鼻歌を口ずさんでいた。
座席の下で、足がひとりでに動いてリズムを踏む。
リゼル役の舞台女優が歌い踊る、その動きをひとつも漏らすまいと食い入るように舞台を見つめながら、メルは夢想した。
もし、あそこに自分がいたら……──
きらびやかな衣装を着て、軽やかに身をひるがえし舞い踊る。亡者役の俳優たちの間をすり抜け、一路、愛しい者のもとへと舞い駆ける。あと少しで手が届く──というところで、けれども、無情に引き裂かれる恋人たち。
舞台の第一幕が終わっても、メルの心はまだ舞台の上をさまよっていた。
今がいつか、ここはどこか。そんなことすらあいまいに溶けて、身体の輪郭もおぼつかなくなる。
──と、そこへ、声がかかった。
「もしかして、おまえも舞台に出たいのか?」
「う、ううん! 違うの! 私なんかがそんなこと……」
一瞬で赤くなるメルを見て、アスターは、
(……わかりやすいヤツ……)
という顔をした。
メルは顔を真っ赤にした。
心の底で願っていなければ、動揺もしない。
「どうせ、ムリだし……」
足枷をつけた脚をもじもじさせる。
鎖の断たれた足枷。
本当は、もう、どこにでも行ける。
あきらめるのは、だから本当は、足枷のせいじゃなくて──
本気でやって、叶わないのが怖いからだ。
本当にやりたいことを、やるのは怖い。
──それが自分にとって大事なものであればあるほど。
今の自分の力のなさを、目の当たりにすることになる。
誰かに否定されたら傷付く。
丸裸の自分。本当の自分を見せるのが怖い──。
けれど、それは本当は──
自分がそうなれるかもしれないという未来を、心のどこかで知っているからこそ、怖いのだ。
自分の可能性を、知ってしまうのが怖い。
何かが変わっていってしまうことが怖い。
変わらなければ安心していられる。
今の幸せを失いたくない。
「……やってみる前から、あきらめてどうする」
「……え……」
「やってみたいなら、やってみたらいい。ダメだったらダメで、そのとき考えたらいいさ。戦う前から敵前逃亡してたら、行きたい場所にもたどり着けない」
「……。……アスターは強いから、そんなことが言えるんだよ……。私が亡者から敵前逃亡しなかったら、あっという間に食べられちゃう」
む……、とアスターは眉根を寄せた。
「俺だって、はじめから剣ができたわけじゃない。剣士になるのだって何度あきらめようと思ったか知れない」
「……え……」
……あんなに強いアスターが?
メルを励ますために言ったのかと思ったが、アスターはおもしろくなさそうな顔で腕を組んでいる。
「……考えてもみろ。あのクロードが同期だったんだぞ。将来、剣士になるわけでもない王子のあいつが、始めた頃は俺より強かったんだ。自分の才能のなさに、何度打ちのめされたか……」
「そ、それは比べる対象が悪いんじゃ……」
──否。
自分がなりたくても、なれないもの。
そうじゃなかったら、きっと、視界にも入っていまい。
あこがれも嫉妬も、自分もそうなれるかもしれないという期待の裏返し。お互いの姿を見る映し鏡。
だからこそ、ふたりは好敵手だったのだ……。
「頃合いを見て、もう食われるって思う百歩手前で逃げたらいい。……十歩手前だと本当に食われるから、逃げ時を間違えるなよ」
「……何ですか、そのビミョーな見極め……」
「自分が本当にやりたいことから逃げるなってことだ。……亡者になってから後悔しても遅い」
なんだか微妙に経験談からきている教訓に、メルは思わず吹き出した。アスターも目元をふっとやわらげた。
「亡者と違って、失敗しても命まではとられない。やってみて、できなかったらそれでもいい。──やるだけ、やってみたらいいさ」
「…………うん」
小さくはにかんで、メルは言う。
それが穏やかな日々が終わってしまう前の、ほんの刹那のひとときだったことを──
──……このときはまだ知らなかった。
(プロローグ・了)




