第24章2話 産声をあげて
──それは、まごうことなきバケモノだった。
人間の形をした何かに、ドロドロに腐った何かがへばりついている。ふたつぽっかりと開いた眼窩は闇に落ちくぼみ、獰猛な爪と牙をもつ異形の存在。
それが何体も何体も湧いて、あろうことか五千の敵兵たちに追いすがり、食い散らかしていくのだ。
あまりの事態に恐慌状態に陥った敵兵たちに、すでにオズワルドたちの姿は見えていない。誰もそんな余裕などない。
ある者は益体もなく逃げ惑い、ある者は剣で交戦しようとしてなすすべもなく組み敷かれる。
厄災の手は、オズワルドたちにも平等に伸ばされた。
『殿下、お逃げください。バケモノです! 殿下! ……ぎゃぁぁぁぁっ!』
自分を逃がそうとした忠臣のひとりが、バケモノに容赦なく切り裂かれる。肉が裂かれ、骨が断たれる異様な音がした。
生温かい血しぶきがかかって、オズワルドは動けなくなった。
『殿下!』
『…………ぁ……』
もともと戦いは得意な方ではない。
将であるから甲冑と紫紺の外套を羽織っているだけで、彼の喉は歌うためのものだった。しなやかな指はリュートを弾くためのものだった。
もしも王子でなかったなら──
好きなだけ吟を歌って過ごしただろう。
リュートを弾いて人々の耳を楽しませただろう。
戦いになんか出たくなかった。
弱小国の王子になんか生まれたくなかった。
運命は、そんなちっぽけな願いすらゆるさない……。
『オズワルド様、お逃げくださ──……』
『爺……!』
老臣のサイラスが楯になって自分を逃がそうとする。とっさに剣を抜いた。彼を切り裂かんとするバケモノの爪を弾き、間一文字に斬り裂く。
『ギャアアアアァ!』
バケモノは怒りの雄叫びをあげた。ねらいの矛先をこちらに向けてくる。さっき死を覚悟したはずなのに、骨の芯まで凍り付いた。
──……冗談じゃない。
自分が死んでもいいと思ったのは、忠臣たちの──……ひいては国民たちの命乞いができると思ったからだ。敗戦国であるノワールの未来が、少しでも明るくなればと思ったからだ。
(……こんなところで……!)
こんなワケのわからないところで死んでたまるか。
こんな無意味な死に方を……してたまるか!
『うわぁぁぁぁ……っ!』
闇雲に剣を振り回した。無茶苦茶だった。
オズワルドは歴戦の戦士などではない。
バケモノとの戦い方なんかわからない。
がむしゃらに剣を振り回し、怪我をしたサイラス老をかばって立ちふさがった。守るべき立場が逆だ、ということは考えなかった。
『若……っ! この老人にかまいますな』
サイラスが自分を「殿下」ではなく「若」と呼ぶ。……幼少期の呼び方だった。忠臣の仮面が外れた老人を、オズワルドはかばった。
『……いい加減、やりたい放題やられてキレてるんだ。バケモノだろうと何だろうと、ギッタギッタにしてやらないと気が済まない!』
『次代の王ともいうお方がなんたる暴言を。……よく見なさい。あやつら、斬ったところから再生しておりまする。このままではラチが明きません。我らが楯となる間に、御身だけでも落ち延びなされ』
『けど……っ』
『状況が変わったのです! あなたさまが逃げ延びれば、まだこの国は──……!』
──そのとき。
こんな戦場で聞くはずのない幻の声が聞こえた。
『──オズ!』
『……っ!?』
兵士の駆る馬に乗って、場違いに白衣を着た黒髪の少女が駆けてくる。手にしているのは見たことのない短杖だった。
『エリー……ゼ!?』
こんなときなのに、胸が熱くなった。
黒髪の少女は馬から飛び降りざま、魂送りの杖を振りかざす。唇から殷々とした歌がこぼれ、神聖な踊りのステップが戦場にいる者たちの心をつかの間、解きほぐした──……刹那。
『グギャアァァァ……!』
『!?』
オズワルドによって致命傷を与えられていたバケモノが吠えた。周りのバケモノたちも次々と悲鳴をあげ、真白い光に浄化され、薄緑色の光の玉になっていく……──魂送り。
『なっ……!?』
そこまでやって──
……少女はガクリ、とひざを突いた。
『!? ……エリーゼ?』
『……オズ。逃げるの。私たちだけでも……』
『で、でも……っ』
いまだ神聖ガルム帝国の兵士たちを襲っているバケモノたちの方を見つめる。……今なら自分たちの方を襲ってくるバケモノたちはいない。……今なら。
『ふふ。ふふふふ……』
『? ……エリーゼ?』
『ついに、やったの。…………ついに』
意図した形ではなかったけど……、と少女はつぶやく。
オズワルドの背筋を、言い知れない悪寒が駆け抜けた。
『……まさか……。これ、君が……?』
黒髪の少女は微笑む。
……底知れない笑みだった。
『──この世界は変わる……』
『……え……?』
『亡者という共通の強敵を前に人類は変わる。……嫌でも変わらざるをえない。私たちが世界を変えるの』
『……エリー、ゼ……?』
少女が何を言っているのかわからない。
でも、わからないなりに、わかることはある。
今、目にしているこれが現実であること。
この世界に「もうじゃ」というバケモノが誕生した瞬間であるということ……。
黒髪の少女は両手を広げた。
まるで世界そのものを抱きしめるかのように。
『人間同士が血で血を洗う時代はもう終わり。これからは亡者という世界共通に強敵に立ち向かう時代が来る。──そして』
──この国は救われる……!
『あはははは! ふふふ。あははははは……!』
亡者に蹂躙された者たちの、血の雨が降る。逃げ場のない渓谷を真っ赤に染め上げていく。その光景を見ながら、少女が狂ったように哄笑する。
──それは、新たな地獄の始まりにすぎなかった。
オズワルドは──……破滅から救われたはずの王子は、背筋を凍らせた。




