第20章6話 母のぬくもり
その赤い屋根の家は、歩いてすぐ近くにあった。
白い柵には野バラがからみつき、早咲きのチューリップが花壇で楚々として揺れている。
庭先の犬小屋には大きな白い犬が寝そべっていて、ニコラスの帰宅に人なつっこそうな尻尾を振った。
パッチワークのキルトが飾られた玄関を抜けると、クッキーのいい匂いがただよってきた。
タイル貼りのかわいらしいキッチンでお菓子作りをしていたニコラスの母親は、突然やってきたピエールにも嫌な顔ひとつしなかった。
「あら、ニコラス。お友達?」
「うん。僕の部屋で話してるから、お茶もってきて」
「はいはい。──いつもニコラスがお世話になってます。ゆっくりしていってね」
「あ……どうも」
なんとなくドギマギしながら、ピエールは案内されるまま二階に上がった。
ほどなくしてニコラスの母親が紅茶とクッキーののったお盆を運んでくる。
「学校でのこの子はどう? 迷惑かけてないかしら?」
「えっと……」
「母さん、そういうのいいから。さっさと出てってよ」
「はいはい」
息子に面倒くさそうに追い返されて、母親は階下に降りていく。
ピエールはクッキーをひょいとつまんで、口の中に広がる香ばしさに目をみはった。
「そう邪険にすることないじゃん。いいおふくろんさんだろ?」
「こっちが甘い顔するとつけ上がるから」
げんなりと、ニコラスは言う。
「やれ勉強したのか、忘れ物はないかってうるさいんだよ。自分のことぐらい自分でできるっての。あげく学校でのことまで口はさまれたんじゃたまらない」
「心配してくれてるんだろ」
「ひとの友達付き合いのことまで口出してきてさぁ、ほんと迷惑。自分は織物の会やら婦人会やら好き勝手してるくせに」
──ザワリ、と。
胸の中で何かがざわつく。
掃除の行き届いた部屋には、物が乱雑に置かれた机と本棚。部活のサッカーボールが転がり、壁にはユニフォームがかけられている。
机以外の場所はこざっぱりと片付いているところを見ると、どうやらニコラスがいない間に家族の誰か──多分さっきの母親──が整頓しているらしい。
窓辺には本人の趣味ではなさそうなレースのカーテンが揺れていて、ところどころよれた編み込みが手作りであることを物語っていた。
(……。何だよ。こんなによくしてもらっておいて……)
胸の奥のモヤつきを、ピエールは押し隠す。
よその家の家庭事情に口出ししても仕方ない。……話題を切り替えた。
「……で。話って何?」
「……っと。そうだった!」
ニコラスははっと我に返った。本棚の片隅に並んでいた本をごっそり抜き出しにかかる。
「えーっと、どれだったかな……。──あ。あった、あった! ほら、これ」
伸ばしたそで口で埃をぬぐいながら差し出したそれは──綴じひもでより合わせた冊子だった。
「初等部の卒業文集。途中から来なくなったから、受け取ってないんじゃないかと思ってさ。見る?」
「……へ?」
「ピエールのも載ってるよ」
ピエールは瞠目した。
卒業文集──といっても、寄せ書きのようなものだ。一人ひとりの冊子に、思い思いのメッセージを書いたもの。
まだピエールが学校に通っていた頃、行けなくなるとも知らずに書き記した想い。
「オレ、何書いたか覚えてないんだけど……」
「へへっ。いいから、いいから」
ニコラスが、なぜか照れくさそうに鼻の下をこする。
ピエールは受け取った冊子を開いた。
ページをめくるたび、かつての級友たちの名前と文字が躍る。彼らの顔と声がよみがえってくる。──将来の夢と希望にあふれたメッセージ。
「これ、グレッグ? よく忘れ物して廊下に立たされてた」
「そうそう」
「こっちはエミリオか! なつかしい! こいつが一番成績よかったよな」
「うん。今、生徒会長やってる」
「へぇぇ!」
「へぇ……じゃないよ。僕、ピエールがそうなるかと思ってたんだ」
「……は?」
「──だから、生徒会長」
ピエールはぽかんとした。
言葉の意味が脳内で像を結ぶにつれて焦りが出た。生徒会長なんてガラじゃない。
「なんでそうなるんだよ!?」
「だってさ、おまえ面倒見いいし。クラスだけじゃなくて下級生にも慕われてたし。ちょっとおっちょこちょいすぎるけど、成績もよかったし」
「おっちょこちょいは余計だって」
ピエールは耳まで真っ赤になった。
冗談を言っているのかと思った。でも、ニコラスの目は本気だ。
カールした茶髪の下、同じ色をした瞳がまっすぐピエールを見る。
その瞳の中に、ピエールが映る──逆さまに。
「放課後、よく勉強見てくれたじゃん。なのに、急に学校来なくなるんだもん。次に会ったときには大人に混じって働いてるし。……一言ぐらい相談してくれてもよかったのに。あのときはずいぶんクサッたよ」
「…………悪い」
ニコラスに勉強を教えていたことがなつかしく思い出された。
放課後の教室──夕陽に染まった十二歳の自分たち。明日もあさってもその次も、一緒にいるのだと無邪気に信じて疑わなかったあの頃。
「まったくさぁ。勘弁してほしいよ。課題写させてもらえなくなって、ずいぶん苦労したんだからな」
「自業自得だよ、バーカ」
ニコラスのぶっきらぼうな物言いに、ピエールは笑う。熱くなった目頭を、見られないようにぬぐった。
「やっぱりさ、ピエールが学校来なくなったのってアレ? ガイたちに陰口言われたから……だよね?」
「……え……」
──教室でピエールのことを嘲笑っていたクラスメイト。
その名前を急に聞いて、息が詰まった。
……努めて明るい声を出した。
「……違うよ。きっかけになったのは本当だけど。オレが働きに出なきゃ家計が火の車だったんだ」
「でも、仕事キツいだろ? ピエールがそんなことしなきゃいけないなんて……」
──ザワリ。
ピエールの中に、またすきま風が吹く。
「言うほどきつくねーって。上司のパルメラさんはいいひとだし、ちょっと気になる子もいるし……」
「でも、ピエールみたいな子どもが働くなんて間違ってるよ。親がそんなことさせちゃダメなんだ。ピエールが働く必要なんか……」
「……オレ、そろそろもう行かなきゃ」
配達あるから……と、口の中で言った。
なんだか言葉の歯車が嚙みあわない。
鞄の中の荷物は口実だった。ここから逃れるための……。
ひどい居心地の悪さを感じながら、ふと、ピエールは冊子に目を落とした。
「──これ、借りてってもいい?」
「うん。あ、待って。もうひとつ渡したいものがあるんだ。──はい、これ。これまでの教科書と参考書」
僕が使ったヤツだけど、とニコラスは言う。
布袋の中に教本がずっしりと詰まっているのを見て、ピエールは慌てた。
「え……。いや、ちょっ! こんなにもらえないって」
「気にするなよ。本当は勉強したいんだろ? ──僕はいつでも買ってもらえるから」
その言葉に、ゾワリと背筋が逆立った──「いつでも買ってもらえるから」。
その言葉の裏にひそむ、本人も気付かぬ陶然とした──優越感。
不意に──
ピエールの脳裏に、過去の情景が鮮やかによみがえった。