2.
アイツが帰った後の深夜、時刻は午前二時にさしかかろうとしている。私は最近できた日課を済ませるため、白装束を纏ってマンションを出た。
街は静寂に支配されている。
人間の活動が緩やかになる中、虫は生き生きと喉を鳴らし、波長のない世界は虫の存在を強調させていた。
「・・・・・・今日も月が綺麗ね」
天を見上げれば、爛々と光り輝く月が悠然として街を照らしている。とても眩しい光だ。
月明かりは街を浮き彫りにするだけでなく、見つめるだけで精神までも飲み込まれそうな錯覚を覚えさせる。
「ほんと、あなたが憎いわ。でもそうね、進むしかないのよね」
退路はない。私はゆっくりと歩みを進める。
街道には経年劣化か時々点滅する電灯が定間隔に配置されており、人の気配はない。
「嫌ね。夜って」
澱みのない囁きは触れたくない過去を掘り起こし、思い出したくもない記憶を沸き起こす。
突拍子もなく改めて再認させられるが、私は一般と呼ばれる社会通念の基準を逸脱した異常者なのだ。どのような運命を乗り越えようともその事実は変わらない。その理由として、私は人として欠陥している。
ある時、事情を知った他者はこう説いた。
欠落なら補えばいい。罪科なら償えばいい。不適合なら賄えばいい。喪失なら嘆けばいい、と。
だが、それは叶わなかった。
何故なら私はその全てを禁止され、許されていないからだ。
結果として私は欠陥を抱えながら、人間のフリをすることを余儀なくされた。
それが功を奏したか、最近では人間扱いされることも増えた。因果は正しく機能した。つまり私の選択は間違っていなかったのだろう。
そもそも始まりからして普通ではなかった。
特別、特殊、奇異、特異ではない他者と比較したときに規格内となるの概念が普通なのだとしたら、私はほとほと規格外なのだろう。
規格外は化け物。そんな化け物も赤子の時はただの人間だった。
二十一年前、常識が狂ったとある集落で、五神 玲於奈は誕生した。
特別な出自といえば聞こえがいいが、正しく表現してみれば、私が生まれ落ちた場所は異世界だった。
子供を産み、社会に貢献し、老人を弔う。現代社会のサイクルは存在せず、生と死の概念もなく、人間の意思は介在しない。存在としての意義のみを追い求め、救済の歯車となった私は、周りの人間によって心を削ぎ落とされた。
「ガッ・・・・・・アッ・・・・・・」
一里歩いて一つ。
悲鳴が聞こえた。
泣きたくても泣けない、子供扱いされない哀れな少女。それが私。
親という存在を知らない私は、誰を頼ればいいのかわからなかった。不安と恐怖がないまぜになった心は日が経つごとに磨耗していき、幻覚が現実になる頃には周りの人間全員が大きな悪魔に見えた。
しかし、外道と唾棄する術を知らない無知な少女は、大人の言いつけを守ることが唯一の意思決定だった。
「・・・・・・ヤ・・・・・・メ・・・・・・」
百歩歩いて二つ。
いくらヤメテと叫んでも止まることはない。
人々が日常を享受する中、私の身体はどんどん人間離れしていく。
人と乖離していく身体に私の心は追いつかない。自分が自分でなくなっていく感覚は時間経過とともに大きくなっていく。
だが不思議と見るからに人ならざる存在に昇華していく過程を、私はどこか他人事のように感じていた。
「・・・タ・・・・・・ス・・・ケ・・・・・・」
十歩歩いて三つ。
居ても立っても居られなくて、誰もいないところで助けを呼んだ。
意味がないことだと分かっていながら叫ばずにはいられなかった。今思えばあれは発狂していたのだろう。
大人たちが私を見る眼は異常だ。言語化できなくてもなんとなく肌で感じたその異常性は、私の心を大きく蝕んでいく。
「・・・・・・イ・・・ヤ・・・・・・」
一歩歩いて四つ。
イヤダなんて言葉、いい加減聞き飽きた。
怨嗟も慟哭も通じない壁は心を閉じ込めてしまう。綺麗事なんて言っていられなくて、絶望だけが側に在る闇がどこか心地よく感じてしまう。それは私が私ではなくなった瞬間だった。
自分というものが分からない。自己保存も自己認識もできない私は人であり続けることを諦めてしまった。
生も死も選べない人間に尊厳はない。五神玲於奈を護るモノは全て失われたのだ。
「⎯⎯⎯⎯⎯⎯なんて、醜いのでしょう」
右手には夜に溶け込む日本刀。
一度振えば、藍色の刃は私が見たくないモノを細切りにしてくれる。
だから、私はソレが視界に入った途端、脊髄反射が働いたのか神速をもって一太刀に薙いでしまう。
つまり私が行ったことはこういうことだ。
人は嫌な現実に遭遇した時、攻撃、抵抗、退避、この三つの中から理性や感情を交えてとる行動を決める。
けれど、人ではない私はその三つの中から一つを選べない。いくら論立てても本能に寄った選択である以上、私の身体は正常に働かないのだ。つまり私ができることはただ一つ。三つの選択を受け入れず、無にすることだけだった。
無を選択した以上、相手は私の眼前に存在してはならない。だから消した。輪廻の理から。そうすれば私が殺したことにも辻褄があう。こうして世界の恒常性は維持される。
「⎯⎯⎯⎯⎯鉄の匂い」
どれだけ歩いただろうか。気づけば家からかなり離れてしまっている。
ある程度整備されたアスファルトに石造りの壁、路地と言われても違和感のない道の真ん中に私は立っている。
都心から大きく離れているからか街灯の絶対数が不足しているようで、稀に設置されている街灯も寿命に抗うように点滅を繰り返していた。
青い光は容赦なく死を浮き彫りにする。
あたりは血の海。人の形を忘却した肉塊が散らかって夥しい量の血の飛沫を壁に飛ばしている。
感覚が麻痺しているわけでも慣れたわけでもないが、いつ見ても悪魔の末路は可笑しい。
嘆きは因果を不変にする。末路と運命は連結だ。人は定められた結末を受けるほかない。だから可笑しくてたまらないのだ。
妄想に囚われて、結末がハッピーエンドだと信じて消えていく悪魔たちはひどく笑えるほどに滑稽だった。
「⎯⎯⎯⎯⎯ああ、綺麗だわ」
恍惚が身体を震わせる。
顔が自然とほころんでしまう。
美しいと感じた、それは本当だ。けれどもそれが何に対してなのか、私には分からない。
そうして解明できない感情に心躍らせ、私は出口のない闇を彷徨う。誰かが導いてくれるのを待つかのように、私は答えを出さず自問自答を繰り返す。
ああ、なぜだろうか。不覚にも、アイツの無防備な笑顔を思い出してしまう。
こうして突きつけられた刹那の思いは、私を別の人間に作り変えていく。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯私はそれが、ひどく恐かった。