1.
7月下旬に差し掛かった日の夜、事前連絡もなしに神城香織が家にやってきた。
「こんばんわ。今日も暑いね、玲於奈
マンションの一室。誰もいないはずの玄関からよく知った声が響く。
私は今、一つしかない部屋の隅に置かれたベットで横になっている。本来なら宿主として客をもてなすべきなんだろうが、よく知った奴だ。その必要はないだろう。
「もう、またそんな格好で寝ちゃって。風邪引くよ」
私の部屋にはベッド以外に家具がなく、玄関から部屋までの距離が一直線になっているからか、いつのまにか香織は私の部屋にまで辿り着いていた。
流石にここまできて顔を合わせないわけにはいかない。私は緩慢な動作で上半身を起き上がらせると、開口一番小言が出迎えが来た。
きっと今の私は香織から見ればたいそう不機嫌に違いない。昔からお人好しな男だ。私を慮っての言葉なのだろうがいかんせん頻度が多く、辟易している。だからつい彼を睨んでしまうのはとても自然な流れと言っても差し支えないだろう。
黒いズボンに黒のカッターシャツ。拘りなのかいつ見ても黒を基調とした服ばかり着ている気がする。手にはビニール袋を提げていて、香ばしい匂いがする辺り食料だろうか。
ここまできて何をするつもりなのか。検討もしたくないが、些事に違いない。
「好きにさせてもらえないかしら。冬でもあるまいし、心配されるほどでもないと思うけれど」
「いつもそう言うけど、僕としては心配しないわけにはいかないよ」
何故。そう簡潔に疑問を投げかけると、香織は苦笑いを浮かべながら子供に言い聞かせるような口調で口を開く。
「上半身Tシャツは良いとして、下はパンツ以外何も履いていないじゃないか。夏とはいえ夜は少し冷える。体調を崩すかもしれないし、あと少しは女の子としての自覚を持ちなさい」
「私はこれくらいで体調を崩さない。それに女の子としての自覚とか言われても分からないわ」
「本気で言っているのかキミは・・・・・」
私の答えに納得いかなかったのか、香織は呆れたように息を吐くと、部屋の真ん中へ移動し腰を下ろした。
「僕としては複雑なんだけど、今回は僕も悪いし、これ以上は言わないでおくよ」
そう告げて無理やり会話を終わらせると、香織は持っていたビニール袋から何かが入った透明パックを取り出した。
「なにそれ」
「焼きそば。知らない?」
「それくらい私でも知ってるわ」
「美味しいよね、焼きそば。ここに来る途中偶然屋台を見つけてね、匂いに釣られてつい買ってしまったよ。それとはい、お土産」
「・・・・・なにそれ」
香織が差し出した手のひらには、赤い天狗が描かれたクッキーが乗っていた。
「天狗クッキー。あまり見たことないイラストだったから気になってね。申し訳ないけど味は保証できない。でも売り物だから凄く不味いってことはないと思うけど、どう?」
香織の表情はどこか気まずそうだ。そんな顔をするなら初めから買わなくてもいいとも思ったが、何故か私の手は差し出されたクッキーへと伸びていた。
「ほんとお前っていつも変なモノを買うね。女の子としての自覚という前に、女の子にモノを渡すならもう少し女の子が喜ぶようなモノを買ったらどうかしら」
「面目ない。僕もこれを人にあげるにはどうかなと思ったんだけど、玲於奈なら美味しそうに食べてくれるかなって」
「保証もないのに美味しそうに食べるって、言ってることめちゃくちゃね。私、別になんでも食べれるわけじゃないんだけれど」
「まあまあ。そこはご愛嬌ってことで許してくれないかな。それにこれは言い訳じゃないんだけど、最近神隠し事件が多発してるだろ?」
「・・・・・集団失踪の?それとなんの関係が?」
「前の仕事の依頼で少しその事件に関わることがあってね。そこで知ったんだけど、神隠しは別名天狗攫いともいうらしいんだ。なんでも天狗は人を攫って人間の知恵を奪うと、その人間の認知を変えてしまうらしいんだ」
香織はパックの封を破ると、割り箸を割って焼きそばをつつきだす。
「おいしい。やっぱりインスタントと屋台は全然違うなあ」
「知らない。で?今のお前となにが関係あるの?」
「ああごめん、ついうっかり。気を取り直しまして、人間の認知を変えるということはその人の常識が変わるわけだ。僕たち人は認知と経験を経て成長していく。だから認知が変わることは世界が変わるに等しい。正しい基準が正しくなくなるからね。最終的にその人は周りから人扱いされなくなるんだ」
「へぇ、面白いお話ね。それになんだか身近でそんなことがあったみたいな話し方だけれど。経験でもあるのかしら」
「ないよ。僕は話を聞いただけ。でも話が話だけに妙に僕の記憶に残っててさ、だからそのクッキーを見かけた時無性に気になっちゃったんだ」
香織のこういう話は大抵奇天烈だ。けれど、御伽噺と片付けるにはどうも自分の中で納得がいかない。記憶のない香織からすれば預かり知らないところなのだろうが。
「あ、そういえば咲さんから一個伝言があるんだった。依頼が入ったから明日事務所に来いだってさ」
「そう。分かったわ」
要件を伝え終えると、香織は息継ぎをするように焼きそばを口に運び始めた。結局なんともいい加減な理由だったが、それ以上口にすることもなく私は手のひらに収まった天狗クッキーに視線を落とす。
天狗が人を不幸にする。そんな昔話だ。昔話はその時代の価値観や文化が都合のいいように編纂していく。なら、それは人が人の不幸を望んだと同義なのだろうか。であるなら曲がり間違って本当であってはならない。香織はそれに気づいて⎯⎯⎯⎯⎯
「ねぇ、香織。その焼きそば、私も一口ちょうだい」