通学電車ロマンス
半年前から、朝7:25の電車に乗ると見かける男の子のことがいつからか気になるようになっていた。彼は大体いつも5両目に乗っているので最近はずっと5両目を選んで乗車している。
彼は長めの前髪とその奥のくっきりとした二重が素敵な、所謂正統派美形だった。すらりと背が高くて、文庫本を片手で持って読んだり音楽を聴いたりしていた。どんな音楽を聴くんだろう? なんとなく流行りの曲じゃなくてクラシックとか洋楽とかを聴いていそうな雰囲気だ。彼はこのあたりで1番頭の良い高校の制服を着ていた。わたしなんかじゃ下駄を履かせても入れないような偏差値の高い高校だ。
彼に会えると嬉しかった。俳優のように整ったその顔を見ると眼福だった。見ているだけで幸せだった。ちょっとストーカーみたいだったけど彼と会話するところを想像してにやけたりした。シミュレーションは完璧だった。ただ、実行はしなかった。だってわたしはださくて暗くていけてないし取り柄もない。ないない尽くしの人間だ。そんなやつに話しかけられたら彼は困惑するだろうし迷惑だと思う。だから、同じ車両に乗って、彼に気付かれないように見つめていた。
その日は春なのにとても暑くて、学校に行きたくなくなったわたしは自主休校することにした。いじめられているわけではない、でも見えない壁は確かにあった。だから留年しないくらいの頻度でわたしは学校をサボった。不登校になるよりはましだと周りはそれを許していてくれた。だから、今日は天気が良いし気分転換に桜並木を見にいくことにした。これだけ暑かったら今週中には桜が散ってしまうかもしれないと思ったのだ。
満開の桜はとても綺麗だった。けれど平日の朝だからか犬を散歩させているおじいさんくらいしかいなかった。折角だしベンチで早弁するかなと思ってわたしはベストポジションを探すことにした。1人でお花見、非常に結構。みんながHRを受けているであろう時間にこんなに綺麗な桜を見ていることに少しだけ優越感を覚えた。ちらちらと落ちてくる花びらは白っぽいピンクでとても風情があった。
ペンキで青く塗られた良い感じのベンチを見つけてわたしはそこに座った。少し風が強くなって一気に桜の花びらが舞った。とても美しくてため息が出た。映画みたいだ、と思った。そして花びらが落ちた後、紺色のブレザーを着た男の人が歩いてきた。わたしは自分の目を疑った。そこにいたのは5両目の彼だったのだ。ここは彼の高校の最寄駅ではないはずだ。それなのにいるということは彼もわたしと同じく学校をサボっているのかも知れない。
彼からは丁度死角になっているようでわたしに全く気付いていなかった。桜を見つめる姿は一枚の絵画のように神々しく、思わず携帯のカメラで写真を撮っていた。これは盗撮で犯罪だ。それでも撮らずにはいられなかった。わたしは自分の犯罪行為が見つかることを恐れて中腰になってツツジの茂みに隠れた。そして、彼はわたしに気付かないまま桜並木を通り過ぎた。
その背中を見送ってから写真フォルダに収められた彼の姿を確認した。削除しなきゃいけないと理性ではわかっている。でも、本能がそれを拒否して結局消すことが出来なかった。一枚くらいなら、いや、でも犯罪だしとぐるぐる考えてわたしはそのまま自宅に帰った。ぼうっとしていてどうやって帰ってきたのか全然覚えていなかった。玄関で猫のミルキーがにゃあんと鳴いたので餌をあげた。
父も母も仕事に行っているけど一応自室の鍵を閉めてからさっき盗撮した彼の写真を見返した。格好良い、あまりに格好良い。涙が出るほど格好良い。こんなの消せるわけない。神様、お許しください。わたしは罪人です。でも、今日彼とあの場所で会ったのは偶然じゃなくて運命なのかもしれないとメルヘンチックなことを考えてからやっぱり違うよなと思い直した。
その週はなんだか気まずくて5両目に乗らなかったけどやっぱり顔が見たくなって今日は5両目に乗った。その間に写真を消すことはできなかった。何度も見返してその映画のワンシーンを切り取ったような彼の姿に見惚れた。彼を見つけた時になんとなく目が合ったような気がした。でも、今までそんなことはなかったから気のせいだろうと頭を振った。勘違いをしてはいけない。あくまでも彼は観賞用であってわたしのようないけてない人間は関わってはいけないのだ。
これが少女漫画のヒロインならダイエットしてお化粧覚えて釣り合うように勉強とか色々するんだろうけど生憎わたしにはそんな向上心も行動力もなかった。第一、努力して報われなかったらそれこそ悲劇だ。ブスはお洒落すると色気付いたと言われてそのままでいても女捨ててるとか言われるのだ。なんて理不尽な世界なんだろう。わたしがこの顔のまま男になっても多分不細工とは言われないだろう。ただ、女という性別ってだけでハードルが上がるのだ。
この剛毛の天然パーマも剃っても剃っても生えてくる産毛も奥二重の小さい目も骨太の身体もマイナス要因でしかない。前にストレートパーマをかけたらクラスの男子に落水花乃子目指してるのか? と笑われてから二度とかけないと心に誓った。落水花乃子自体は好きなモデルだけどそれを目指してるって言われると勘違いしてる痛いやつと思われそうで嫌だったのだ。中途半端な努力をしても嘲笑われるだけなら最初からやらないほうがましだとわたしは考えている。
真面目そうな見た目のわりにわたしは頭が悪いので放課後に喫茶店で勉強することにした。家で勉強をすると誘惑が多いからだ。漫画にアニメ、お菓子に猫。ついつい遊んでしまうから家は危険なのだ。
アイスコーヒーの真ん中のサイズとひとくちチーズケーキを頼んで端っこの席に座る。空いていればいつもこの席を選ぶ。端っこは落ち着くのだ。
まずは教科書とノートを開いて復習をして、そのあとはなんとなくの予習をする。予習をするにしてもちゃんと理解できていないので授業で補完する。予習しておけば急に当てられた時に少しだけましになるのだ。それが終わると受験勉強のために参考書を開く。この間の模試では第一志望がB判定だったのでもっと頑張らないといけない。
父も母も教育熱心というほどではないけど大学は行って欲しそうなので通える範囲で興味のある大学を選んだ。滑り止めも受けるけどなるべく志望校に受かりたい。塾に通うことも考えたけれど同世代に囲まれて勉強するのは学校だけで充分だった。揶揄われたり軽く見られるのが嫌なのだ。
悶々としながら長文読解をしてから小休憩することにした。チーズケーキをつまんでコーヒーを飲む。甘じょっぱいチーズケーキと苦いコーヒーの組み合わせが好きなので幸せを感じる。いくつかSNSをチェックしてから5両目の彼の写真を見る。相変わらず格好良い。こんなに素敵な人が存在するなんて世界はまだ捨てたもんじゃないなと思う。わたしがそんなことを考えていると後ろから声をかけられた。
「ねえ、それって俺だよね? 」
「えっ? 」
振り返ると彼がいた。長い前髪から覗く意思の強い瞳からは感情がまったく読めなかった。その突然の邂逅にわたしは戸惑った。
「盗撮って犯罪なんだよ、知ってた? 罰金刑でも前科は付くんだよ? 」
「あああのですね、えっとこれには深い事情がありまして……」
「ここじゃ目立つから移動しようか? 」
「……はい」
処刑を待つ罪人のようにとぼとぼと彼について行く。こんなに近付いたのは初めてだったけどめちゃくちゃ肌が綺麗でなんだか石鹸みたいな良い匂いがした。こんな展開は予想していなかったので心臓が破裂しそうだった。掴まれた手がしっかりとしていて男の人なんだ、と感心してしまった。
「ここなら誰も来ないかな」
彼はまわりを確認してからわたしに向き直った。彼に連れてこられたのは河川敷で対岸にはブルーシートで作られたテントがたくさんあった。ホームレスが昼間から楽しそう酒盛りをしていたけどこちら側には誰もいなかった。
「早速だけど学生証見せて? 」
「あ、あの……」
「早く」
「はい……」
「ふうん、観音七重さんね。じゃあ七重って呼ぶから。俺は青貝耀。呼び捨てで良いよ」
「えっと、話が全く読めないんですが」
彼は大袈裟にため息を吐いてからスマホのカメラで学生証の写真を撮り、わたしの鞄のポケットに戻した。
「俺、モテるんだよね」
「はい」
「それでさ、ストーカーみたいなのがいるわけ。君みたいに写真撮ったりとか後付け回したりとかそういうの。困ってるんだ。だから、女避けに彼女が欲しいんだよね」
「どうしてわたしなんでしょうか? 」
「ああ、タイミングが良かったから。別に誰でも良いんだけどさっき盗撮の証拠見ちゃったし。あ、そうだ。他にも写真あるの? フォルダ見せて」
「他はないです。神に誓ってないです!」
「見せて? 」
「……はい」
そうしてわたしは推しキャラクターの絵を保存したものが大量にあるカメラロールを見せる羽目になったのだ。彼は最初少しだけ驚いた後ニヤリと笑った。あんまり良い笑顔ではなかった。今まで妄想した彼と生身の彼は全然違う人間なのかもしれない。
こうして彼とわたしのニセモノの恋人生活がスタートした。今までと同じように毎朝同じ車両に乗る。でも隣には耀くんがいる。彼は優しく微笑んでわたしに話しかけてくる。
今日も顔が良い。これは夢なんじゃないかって思って頬をつねる。痛みがこれを現実だと教える。こんなに格好良い人とニセモノとはいえ恋人同士になるなんてすごいことだ。
自意識過剰かも知れないけどまわりの女の子が耀くんを見てからわたしを見て、二度見してからクスッと笑ったような気がした。釣り合わないのはわたしが一番わかってる。格好良くて勉強もできる耀くんがわたしみたいなのを選ぶ、というのは性格も良いというのをまわりにアピールしているようなものだ。
いつも遠くから見つめていた顔がすぐ側にある。この車両で一番格好良いのは贔屓目なしに間違いなく耀くんだった。
「あ、わたしこの駅だからもう行くね」
「うん。気を付けてね。放課後連絡するから」
「あ、はい。耀くんもお元気で」
「何それ? 変なの」
耀くんが笑うとお星様みたいだった。キラキラしてて眩しくて目がつぶれそうだと思った。うるさい心臓の音を無視してわたしは耀くんに手を振った。それを見てニヤッと笑ってからひらひらと手を振ってくれた。
その後、学校に行ってからもずっと耀くんのことを考えていた。いや、昨日からずっと考えていてあまり眠れなかった。写真はあの後、目の前で削除されてまあ当然だよなと思った。耀くんの長い前髪ときれいなくちびる、形のいい耳を思い出す。その日は授業にまったく身が入らなかった。昨日掴まれた時に感じた少し冷たい体温を思い出してまた顔が熱くなった。
ああ、恥ずかしい。これはきっと恋だ。わたしみたいな人間がこんな気持ちを覚えちゃいけないのに。女避けと言っていたからわたしがもし本気で好きになったことがバレたらきっと簡単に捨てられるだろう。だから、この気持ちは絶対にバレないようにしようと固く心に決めた。
放課後に耀くんと待ち合わせてわたしたちは駅ビルの中のカフェに入った。プリンが有名なその店はそこそこ賑わっていた。席に着くと近くの女性客がちらちらと耀くんのことを見ていた。こんなに格好良い人が近くにいたらそりゃ見るよなと思った。わたしはチョコプリンとアイスコーヒー、耀くんはメープルプリンとアイスティーを頼んだ。
「それじゃ、今後どうするか相談しよう」
「ええっと、どういうことでしょうか? 」
「俺たちがラブラブカップルであるアピールが必要だと思う。もしかしたらストーカーが見てるかも知れないし。手始めにそのチョコプリンをひとくち頂戴」
「あ、はいどうぞ」
わたしは彼の方にチョコプリンの乗ったお皿を近付けた。
「0点。全然わかってない。じゃあまず俺が見本を見せるよ。はい、七重、あーん」
耀くんがスプーンに掬ったプリンをわたしの口に近付けてきた。その意図を理解はしたけれど恥じらいが先に来てしまう。
「耀くん、ちょっとそれはわたしにはハードルが高いかなあ、なんて……」
「え? じゃあ七重が食べさせてくれる?」
「どっちもちょっと無理なんですけど……」
「はい、口開けて。それとも警察行く?」
その言葉を聞いてわたしは大きく口を開けるとスプーンを突っ込まれた。メープルシロップの甘さが程よい滑らかなプリンだった。
昔ながらのかためプリンよりもトロトロの方が好きなのでかなり好みの食感だった。
「美味しい」
「でしょ。姉ちゃんが良くお土産で持ってくるんだよね」
「じゃあ今度は七重が食べさせて」
「……はい」
チョコプリンをスプーンで掬って耀くんに近付けると彼はそれを口に入れてニヤッと笑った。虫歯ひとつない綺麗な歯だった。
「こっちのが甘いね。でも美味しい。いつもプレーンなのばっかり食べてるからたまには良いかも」
「それは良かったです。耀くん、ひとつ提案なんですがスプーンを交換しませんか? そっちはわたしが口付けちゃってるし」
「駄目。恋人同士は間接キスくらいふつうなんだからそれで食べて」
「でも……」
「警察」
「はい。いただきます」
その後もほぼ脅されつつ今後の方針を決めた。朝は一緒に電車に乗る。放課後は週に3回デートする。土日は隔週でデートする。メッセージは見たらすぐに返す。次の土曜日にお揃いのアクセサリーを買いに行く。サクサクと耀くんが決めてわたしはそれに従う。恋人なんていたことがないからわからないけど世間一般の高校生はきっとこれぐらいのお付き合いをしているんだろう。
「あの、そろそろ帰らないと」
「何? なんか予定あるの?」
「学生なので勉強をしないと」
「俺が教えてあげるよ。じゃあ平日は週に3回デートじゃなくて勉強で2回デートにしよう」
「平日って5日間しかないってご存知ですか……?」
「知ってるよ?」
何を言っても無駄みたいなのでわたしはもう諦めた。耀くんは萩北高の生徒だからきっと教えるのも上手くて内申が上がるんじゃないかと内心期待をした。それから近くの書店に行って参考書を選んだ。平台に並べられた参考書を吟味するその横顔の美しさに感動してため息が出た。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
「明日はうちで勉強会ね。両親はいないから」
「は?」
「覚悟しといてね」
最後にものすごい爆弾発言をしてから耀くんは帰って行った。おうちで勉強会、しかもご両親不在なんてまだ早いんじゃないかと思う。でも断ったら警察に突き出されそうだ。
わたしはもう彼の奴隷みたいなものなんだからNOはなしなのだ。
予想通り全然眠れないまま朝を迎えた。その中で少しだけ眠った時に悪夢を見た。耀くんが他の綺麗な女の人と腕を組んで『あんなの冗談だよ。本気にしたのかブス』と言ってきたところで目が覚めた。身体中にぐっしょりと汗をかいていて気持ちが悪かった。とりあえずシャワーを浴びたけれど胃のむかむかは消えなくて熱を測ってみると38.2℃だった。母に頼んで学校に休みの連絡を入れてもらった。
「大丈夫? 仕事休もうか? 病院行く?」
「多分ただの風邪だから大丈夫。病院好きじゃないから行かない」
「わかった。冷蔵庫にあるもの食べてね。足りなかったらテーブルにお金置いといたからなんかコンビニで買っておいで」
「うん。お母さんも気をつけてね。行ってらっしゃい」
母は心配そうにわたしのことを見てから仕事に向かった。風邪くらいなら1人で寝ている方が気を使わないので良かった、と思った。耀くんには風邪ひいたから行けないとメッセージを入れるとすぐに既読がついて電話がかかってきた。
「もしもし」
「大丈夫? 放課後お見舞い行くよ。なんか買ってきて欲しいものとかある?」
「そしたらりんごジュースとみかんゼリーとアイス買ってきて欲しい」
「オッケー。大人しく寝てなよ」
「うん。あ、住所送っておくね。最寄り駅からは徒歩5分くらいだから」
熱でぼうっとした頭に耀くんの声が染み入るようだった。からかったり笑ったりしない本当に心配している声。耀くんはなんだかんだ優しいなと思った。髪がまだ濡れたままだったけどそのまま布団に入ると寝不足のせいかわたしはすぐに意識を手放した。
ピンポーンとチャイムの音が遠くから聞こえて目が覚めた。時計を見ると16時過ぎで朝も昼も食べないまま夕方になっていることに驚いた。ドアホンを見ると予想通り耀くんが映っていたので鍵を開けた。
「どうぞ。あ、うつるといけないから近付かないで」
「うん。これ差し入れ。体調はどう?」
「あ、ありがとう。このアイス美味しそうだね」
「新製品ってあったから買ってきた。お腹空いてるんなら食べて。あと適当にお粥とか冷却シート買ってきたから使って」
「ありがとう。いくらだった?」
「いいよ。お見舞いだから」
「でも」
「良いの。彼女が風邪ひいたんだからこれくらいはさせてよ」
「ニセモノの彼女にも優しいんだね」
「そりゃあね。良い男は女の子には優しいんだ」
「うん。耀くんは良い男だね」
「何? 素直じゃん」
「たまにはね」
「それじゃあ、あんまり長居すると悪いから行くわ。また連絡する。お大事に」
「うん。ありがとう。帰り、気を付けてね」
耀くんが買ってきた柑橘とヨーグルトのアイスはさっぱりしてて美味しかった。スポーツドリンクを飲んだらすごく喉が乾いていることに気付いた。熱を測ると37.8℃まで下がっていてすこし安心した。かなり汗をかいて気持ち悪かったのでパジャマを着替えて冷却シートを貼ってまた眠った。今度は夢も見ないくらいぐっすりだった。
翌日には熱が下がって翌々日には学校に行けるようになった。混雑する車内の5両目で彼を見つけるとわたしは嬉しくなって近付いていった。耀くんの隣には大学生くらいの大人っぽい綺麗な女の人がいて、とても楽しそうに話していた。
見ちゃいけない、と思ったけど身体が言うことを聞いてくれなくなってその場から一歩も動けなかった。彼女が笑いながら耀くんの手に触れているのを見て、とても胸が苦しくなった。あまりにふたりがお似合いだから今すぐここから消えたい、と思った。
次の駅に到着して人の流れに流されて降りた。学校の最寄駅はここじゃないけどこれ以上同じ車両に乗っていたくなかった。なのに動き始めた電車の中にいる耀くんとバッチリ目が合ってしまった。彼はかなり驚いた表情をしていた。当たり前だ。ニセモノの彼女に女の人と仲良くしてるところを見られたんだから。
その後すぐに耀くんからメッセージと着信がたくさん入ってた。でも、出る気になれなくて携帯の電源はオフにした。追いかけてきて欲しいような絶対嫌なようなもやもやした気持ちで気を抜くと涙がこぼれそうだった。
通勤客が良く利用するこの駅に乗り換え以外で降りるのは初めてだった。ターミナル駅なだけあって賑やかな雰囲気で朝でも喫茶店がいくつか営業していた。駅ビルは11時開店のようで自動ドアの向こうはまだ薄暗かった。
駅のコンコースを歩いて行くと見慣れたチェーンのドーナツ店があったのでそこに入った。チョコレートドーナツとココナッツのドーナツ、エビグラタンパイとピーナツクリームのデニッシュ、それにアイスコーヒーを頼んで窓際の席に着いた。
出勤前っぽいサラリーマンと勉強をしている学生が少し居るだけで店内は空いていた。平日の朝だから当たり前なのかもしれない。
朝ごはんはちゃんと食べたのに目の前にドーナツがあれば食べたいなと思う。さっきはあんなにショックだったのに我ながら現金だ。
チョコレートドーナツをぱくりとひとくち食べる。この世の中には色んなストレス発散法があるけど一番簡単なのは食べることだ。あとで体重や肌にダメージを与えるけど食べている瞬間は嫌なことを忘れられる。耀くんとあの綺麗な女の人はどういう関係なんだろう。3日前は彼がお見舞いに来てくれたことがすごく嬉しくて、ちゃんとお礼を言いたかったのにもう会えないんだろうなと思うと悲しかった。
注文したドーナツを全部胃におさめてからSNSをチェックした。もうみんな学校なり会社が始まっている時間だからか投稿も少ない。好きな絵師さんの絵をチェックしてから今日は大凶と投稿した。リアルの知り合いはひとりもいないアカウントだから好きに書いてる。経堂で今日どう? とかしょうもないことを書いてひとりで笑う。大丈夫、わたしは大丈夫だ。
逆に深入りしてもっと傷付く前で良かった。あんなに格好良い人と少しでも一緒にいられたなんて奇跡だと思おう。明日から一本早い電車の5両目以外に乗ろう。耀くんのことは、もう忘れよう。恋だったけど、まだ愛ではなかったから平気だとわたしは自分に言い聞かせた。
勢いで学校をサボってしまったけどもう今日は遅刻して行く気分でもないので出かけようと考えた。よし、上野の科学博物館に行こう。昔から落ち込むといつも科博に行く。
大昔の翼竜の化石や色鮮やかな美しい蝶の標本。ひんやりとした鉱物にシロクマやパンダの剥製。日本館のクラシカルな雰囲気とキラキラと光るステンドグラス。物語の中に入り込んだみたいな素敵な建物は明治10年に建てられた重要文化財建築でそれを見るだけでもとても楽しい。平日の朝だからかなり空いていた。人気のない科博は良い、振り子時計を見ながら階段を昇る。コツコツとローファーが小気味良い音を立てる。やっぱり来てよかったなと思った。
科博は高校生は無料で入れる。一日中見てても飽きないのにこれが無料なのはとてもありがたいことだ。
何万年も前の生き物のことを考えると自分がちっぽけに思えるし、いまだに新しい元素が発見されることを知ると研究者の人たちの情熱に感動する。
わたしが一番好きな地球館の最下層にある霧箱で宇宙線を観察する。ぐねぐねしたりまっすぐだったり消えたり現れたりするのがとても楽しくてずっと見ていられる。
霧箱はひんやりとしていてとても癒される。箱の中を過冷却することによって荷電粒子や放射線が入って来たときに液滴が作られてその動きを見ることができるのだ。初めて見た時にこれが欲しいと母にねだったけれどとても買えるような値段じゃないと言われてわんわん泣いた。
その日は霧箱の前からずっと動かなかった。確かあの時はまだ母は専業主婦だった。ふたりで手を繋いで上野の街を歩いて、みはしでクリームあんみつを食べた。干しあんずをもっと食べたいと言うと母は自分の分をわたしにくれた。
その優しさがとても嬉しかった。そういうことを思い出すとなんだか心が落ち着いてきた。色んなところから現れては消える放射線を見ているとわたしが考えるすべてが些末なことに思えた。
科博内を3時間くらいぶらついて、そろそろ帰ることにした。帰ったら猫に餌をあげて、お気に入りの少年漫画を1巻から読み直していい匂いの入浴剤を入れたお風呂に入ろう。それが良い。今日はもう好きなことしかやらないぞと決めた。
平日の昼過ぎの電車は下りも上りも人がまばらだった。制服を着ているのはわたしだけだった。疲れた顔したスーツのサラリーマンに花柄のワンピースの女の人、おじいちゃんだかおばあちゃんだかわからない人に白杖を持った男の人、色んな人がいた。彼や彼女にもそれぞれの生活や人生があるんだなと考えるとなんだかちょっと胸がいっぱいになった。
最寄駅に着いて改札を抜けるとみどりの窓口の前に耀くんが立っていた。とても不機嫌な近寄り難い顔をしていた。美形が不機嫌だと迫力があるなあと思った。
わたしは気付かれないようにそっとその場を離れようとしたけどその努力も虚しく彼に捕まってしまった。強い力で手を引かれて、
ああ、前にもこんなことがあったなと思った。駅の近くの公園のベンチに座ってからそれまで黙っていた耀くんが口を開いた。
「七重、なんで携帯の電源切ってるの?」
「あ、電池なくなっちゃって」
「心配したんだけど」
「ごめん」
「どこ行ってたの?」
「科博」
「え? なんて?」
「上野の科学博物館」
「ひとりで?」
「うん」
「何で?」
「何となく」
「携帯の電池なくなったのに?」
「うん。いざとなれば公衆電話もあるし」
「俺が心配してるとか思わなかった?」
「あんまり」
「目、合ったでしょ? 何で逃げたの?」
「えっと、耀くんが女の人と楽しそうだったし、綺麗な人だからお似合いだなって思ってたら人波に流されちゃって」
「あのあとすぐ連絡したし誤解解きたかったのにいないからずっとここで待ってたんだけど。七重はその間暢気に科博を楽しんでたんだね」
「まぁ、結果的にはそうなるよね。でも、本当にお似合いだったからニセモノの彼女はお役御免かなって思ったの。わたしと耀くんは隣に並んでも釣り合わないし」
「あのさ、何で七重はそんなに卑屈なの? 」
「いや、わたしは耀くんみたいな人とは距離を置かないといけないんだよ。あのね、勘違いしちゃいけないの。根暗のブスは弁えないといけないんだよ」
「誰がそんなこと言ったの? 七重は暗いけど別にブスじゃないよ。ふつうだよふつう」
「小学生の頃に好きだった先輩に言われたんだ。そのころはまだわたしも調子に乗ってて周りにお似合いとか言われてその気になっちゃってね。それで勇気を出してバレンタインに告白をしたら目の前で手作りチョコをゴミ箱に捨てられて『身の程を弁えろよブス』って言われたんだ。その先輩は格好良くて運動ができて委員会が一緒でいつも優しかったのにあの時は心底嫌そうだったの。わたしはその一件で学んだんだ。ブスは期待しちゃいけないし格好良い人は見るだけにしないと恥をかくって。だから、耀くんと一緒にいるのは無理だなって思ったの」
「は? 無理って何? それにそいつ最低だよ。折角想いを伝えてくれたのにそんなこと言うなんて」
「でも、耀くんも知らない人とかどうでもいい人に告白されたら嫌でしょ? 」
「まあ、そういうときもあるよ。でも、全部が全部じゃないし、思ったことをを口に出すかどうかは違うだろ。わざわざ傷付けるような言い方をするのは性格悪いよ。っていうか胸糞悪い。七重がそんな言葉でずっと呪いみたいに傷付いて生きてきたなんて可哀想だよ」
「可哀想? そんなこと言われても嬉しくないよ。それにもうニセモノの彼女はいらないんじゃないの? 本物がいるんだから」
「彼女じゃないよ。元彼女。あの子の兄ちゃんが半グレでなんかされそうで怖いから強く言えないんだよ。でも、ちゃんと好きな人がいるって伝えたら渋々納得してくれたよ」
「え? 耀くん好きな人いたの!? ニセモノの彼女なんてそれこそ不誠実じゃない?」
「好きな人、今俺の目の前にいるから」
「え?」
「俺が好きなのは七重だよ」
「うそ、だってこの間初めて喋ったじゃん」
「喋るのは初めてだけど良く同じ車両になるから気になってて、あの日俺の写真を見てる七重を見てチャンスだと思って」
「わたし、元彼女さんみたいに美人じゃないよ?」
「見りゃわかるよ。いつも疲れた顔してるのにお年寄りとか妊婦さんに席譲ったりしてただろ? あと、痴漢に遭った女の人を助けてたじゃん。顔を真っ赤にして自分よりも大きいオッサンに怒鳴ってるの、格好良かった。あの時は離れたところにいたから手助けできなくて、でも七重は毅然としてて同じ歳くらいなのにすごいって思ったんだ。そういうところを見て、いつの間にか目で追ってて、好きになった。」
「……そうなんだ」
「あ、照れてる」
「照れるでしょ。ちなみに耀くんはいつからわたしのことが好きだったの?」
「1年前」
「えっ? そんなに前から?」
「悪い? 俺は奥手なんだよ。それでさ、七重の気持ちってちゃんと確認したことないけど俺のことどう思ってるの? 隠し撮りしちゃくらいだから嫌いではないよね?」
「うん、まあそうだね」
「じゃあ、好き?」
「うん」
「好きって言って?」
「……好き」
「もっと」
「ここ公共の場だからそろそろやめない?」
「じゃあ2人きりになれるとこ移動する?」
「あ、今日はやめとこう。それよりお腹空かない? なんか食べよう。こないだのお礼に奢るよ、1000円までなら好きなだけ」
「それって好きなだけなの? まあそう言うなら奢ってもらおうかな。ほら、手出して」
「あ、はい」
恐る恐る手を差し出すと耀くんのひんやりと冷たい手が躊躇いなくわたしの右手を掴んできた。そのまま恋人繋ぎにされる。顔が熱くなって鼓動が早くなった。
「あの、わたしの手、汗かいてるよね?」
「別に? でも柔らかくてあったかい」
「その感想はいらなかったよ……。恥ずかしくて死にそう」
「俺たち両思いなんだからこれからもっとすごいことするよ」
「……お手柔らかにお願いします」
その言葉を聞いて耀くんが楽しそうに笑った。青い空には雲ひとつなくて、眩しかった。この先わたしたちがどういうふうになったとしても、気持ちが通じ合ったこの日のことをわたしは一生忘れないだろう。今度はひとりじゃなくて耀くんと一緒に科博に行こう。それはとても良い案だと思って、わたしは勇気を出してそれを彼に伝えた。
このご時世なので科博に全然行けてなくて寂しいです。ブックマークやポイントを入れてもらえるととても喜びます。