あの事件
『あの事件』は、今でも、彼を苦しめ続ける。
ある日の朝、僕が目を覚ますと、いつもの見慣れた日常の景色がなく、漆黒の風景ばかりが広がっていた。
どこだ、ここは…?
明らかに、自宅ではない中世ヨーロッパを意識したかのような白い壁に、ガラス細工のモザイクで作られた窓だけがある狭く薄暗い、小さな灯りの部屋に、僕が居る…。
そして、部屋には、顔見知りの居ない10人の老若男女が居た。
なんなんだ?と、皆が困惑している。
すると、部屋の片隅にあったスピーカーから、音が流れた。
『ようこそ…、みなさん…。初めまして…』
人の声ではない。
機械で調整された声だ。
皆が、部屋の片隅にあったスピーカーに首を向けると、スピーカーから、信じられない一言が放たれた。
『いきなりですが…、みなさん…、この場に来たからには、入場料として…、しんでもらいます…』
僕は耳を疑った。
なんで?なぜ、死ななければいけないんだ…?
嫌だ…。
死にたくない…。
僕は、吐き気に襲われた。
………………
あの信じられない一言が放たれた数分後…。
僕は、落ち着きを取り戻した。だが、まだ胃が痙攣し、足が震えている。
他の10名は、落ち着いている人間と、パニック状態に陥っている人間とで別れていた。
「ふざけんじゃあねぇ!!」
若い金髪の男が、壁を蹴る。見た目から解るくらいに、短気な男だ。
そして、彼を落ち着かせようと、若い女性と、中年のハゲ頭の男性が、その金髪の男の身体を抑えつけている。
「落ち着きなさいよ!」
女性が、そう叫ぶ。
だが、それでも、金髪が落ち着く気配をない。
すると…、一人、クスクス…と壁の隅っこで笑っている気味の悪い少年が居た。
こんな状況で、何故、笑っていられるんだ…、と思った矢先、少年のその笑い声は、金髪の男の怒りを買ってしまった。
「なにが、おかしいんだ!?てめぇ!?」
金髪の男は、少年の元へ駆け寄り、首根っこをわしづかむ。
それを、女性が止めさせようと、金髪の着ていたジャンパーを引っ張る。
すると、少年は口を開いた。
「これって、さぁ…、『あの事件』と、まったく同じだよね…」
少年が『あの事件』と言うと、皆が沈黙した。
『あの事件』…?なんだ、それは…。この様子では、この場に居る皆が知っているようだ…。
金髪は少年の首根っこを離して、今度は頭を抑えて叫んだ。
「うわああああ!!『あの事件』を思い出させるなぁあああああああ!!」
まるで、トラウマでも掘り返されたように、金髪の男が叫ぶ。
「ちょっと!君、『あの事件』を語るのはやめなさい!」
女性が『あの事件』と言った瞬間、急に冷静ではなくなり、少年を責める。
『あの事件』…。
急に、この状況を静まらせた、『あの事件』とは一体なんだ…。
僕は、その女性に、『あの事件』について聞いてみた。
「えっ…、君、『あの事件』を知らないの…」
女性が、鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を浮かべた。
すると、他の人々も…、本当に『あの事件』を知らないのか…。と次々に僕の顔に視線を刺し始めた。
さっき、取り乱した金髪も、なんか急に冷静になり、
「えー、『あの事件』を知らないなんて、『あの事件』より怖いわ」
と、見下すような一言を、僕に浴びせた。
いや、だから、なんだ、その『あの事件』って…。
すると…。
「うおぇ!」
急に、あのハゲ頭の中年が口元を抑えて、前屈みに倒れた。吐き気を催したらしい。
女性が、その中年に駆け寄り、彼を介抱すると、
「まさか、『あの事件』を思い出して、気持ち悪くなったのですか!?」
と言う。
吐き気を催すまでに、『あの事件』というのは、とてつもなく悲惨な事件なのか…。と、僕は『あの事件』の内容は知らないが、その中年の様子を見て、恐怖した。
しばらくして、落ち着いた中年が口を開く。
「すいません、二日酔いなんです…」
どうやら、『あの事件』とは関係ないようだ。
だから、『あの事件』てなんだ?と思っていたが、誰も教えてくれなかった。
………………
しばらくすると、また少年が口開く。
「なんで、『あの事件』て起きたんだろうね…」
また、『あの事件』について語り始めた。
すると、油を染み込ませた紙に着火した火のように、僕以外のみんなが、『あの事件』について噛み付き始めた。
「いいかげんしろよ!『あの事件』を思い出させるな!」
金髪が口火を切ると、女性が、
「『あの事件』は、カロリーメイトがおやつに含まれるか、どうかで、話が拗れたんでしょう!!」
と、その事件の内容に触れるようなことを言った。
どうやら、カロリーメイトが関係あるようだ…。しかし、なんで、カロリーメイトが関係あるんだと、僕は思った。
すると、金髪が、女性のその言葉が気に入らなかったのか、反論した。
「なに言ってんだ、てめぇ!?キムチが、意外とマヨネーズに合うことが事件の始まりだろ!?」
すると、女性が、それに反論。
「あなたこそ、なに言ってるの!?事件を解決した『フィフティー・セレブ、神崎誠』に対する冒涜よ!!」
「ああ…、フィフティー・セレブ、神崎誠が生み出した、セクシー割り箸割りは、確かに芸術的だったが、『お茶漬け少年、村村タモツ』のボーリングで、ピンに向かってピンを投げる行為が、事件を解決に導いたんだろ!」
『あの事件』については知らないが、出てくる単語の一つ一つが、なんか凄まじいくらいに、僕の頭を混乱させる。
誰だ…、神崎誠に、村村タモツって…。
すると、またハゲ頭の中年男性が叫んだ。
「うああああ!!」
『あの事件』に関することを思い出したのか!?
みな、そう思って、彼を見つめると、
「今日、返却のビデオを返すの忘れてた」
だから、なんだ。
………………
しばらくすると、鍵がかけられていた部屋のドアが開き、みんな、部屋から解放された。
部屋の外には、黒服の男たちが待機しており、一人から、入場料のシャーペンの芯を回収していた。
僕は勘違いしていた。
あのアナウンスの『入場料として、芯でもらいます…』を、『入場料として、死んでもらいます…』と聞き間違えていただけだった…。
みな、何事もなかったかのように、芯を渡して、映画でも観終わったかのような感じで、背伸びをしている。 さっきの金髪と、女性もなんか和解した様子だ。
僕は、黒服にシャーペンの芯を渡しつつ、『あの事件』ってなんだ?と考え続けた…。
………………
「はっ!」
目を開くと…、僕は自宅のベッドで横たわっていた。いつもの見慣れた日常の景色。間違いなく、僕の部屋。
どうやら、わけのわからない夢を見ていたようだ…。
僕はベッドから起き上がり、学校の制服に着替えた。
そして、家族の居るキッチンへ足を運ぶと、テレビからニュースキャスターの声が聞こえた。
「『あの事件』の続報が入りました!?なんと、『フィフティー・セレブ、神崎誠』のセクシー割り箸割りと、『お茶漬け少年、村村タモツ』のボーリングで、ピンにピンを当てる行為により、迷宮入り寸前だった『あの事件』が解決しました!!」
僕は耳を疑った。
キッチンで、おばあちゃんが、やっと『あの事件』が解決したんだー、と涙を流しながら、ニュースを見ていた。
それ以来、僕は毎日、ニュースを見るようになったが、僕は、今だに『あの事件』がなんなのかを知らない…。
小ネタマイペースで書いた『なんか、血生臭い俺の彼女』の逆に、一つのオチを、長々、引っ張る作品をやってみたい願望から生まれた今作。ホラー、サスペンス映画や、都市伝説に使われる手法で挑戦。今作はストーリーに重心を置いたので、それに沿うような形でキャラで作りました。オチはともかく、書いてて楽でした…。