口唇雪辱室
今年に入ってから人が死にすぎる。刑部佑志は葬儀用ネクタイをむしり取りながらエレベーターに乗りこんだ。寝たきりだった母方の祖母が年明け早々亡くなったのを皮切りに、顔も見たことのない親戚がくも膜下出血で死亡。そして、見えない鎖でつながれているかのように、高校時代の同級生が先月急死した。顔と名前だけはかろうじて記憶にあるくらいの間柄だったが、連絡を受けた以上知らん顔もできず、葬儀に出向いた。ひどい雨だった。式場のトイレで隣合わせた男に、「心筋梗塞だって、かわいそうにな」と声をかけられた。顔に見覚えはあるが、どうしても名前が思い出せなかった。出棺時に、遺影を抱えた妻と、娘らしき小学生くらいの女の子がよりそって立ちすくんでいたのが印象的だった。妻は悲嘆のあまりか、親族の人が差しかける傘に入ろうという意志すら失っているらしく、髪も肩も濡れそぼって重たげで陰惨にすら見え、ことばを交わしたこともない彼女が哀れに思え胸にこみ上げるものがあったが、伏せていた頭をふとあげたときにかいま見えた横顔がすこぶる美しく、それに似たのか娘も人形のように端正な顔立ちをしていたからだろうか、ふと嗜虐的な快感が胸をよぎってしまい、うしろめたさに襲われながら霊柩車を見送った。
オフィスに戻って空調のきいた空気に触れて、佑志は初めて背中が汗で湿っていることに気づいた。デスクに向かわず奥のロッカールームに直行し、上着と葬儀用ネクタイをロッカーに放りこむ。見るからに安っぽい葬儀用ネクタイは、昨日、突然通夜の手伝いを命じられて近くのコンビニで買ったものだ。亡くなったのは取締役の実母だ。通夜なので別に普通のネクタイでかまわないと言われたのだが、どうせ葬儀にも駆り出されることはわかりきっていた。同級生の葬儀の後クリーニングにも出さずにクローゼットに放りこんだままの汗臭いネクタイをつけていくのは少しはばかられた。
「あ、お疲れ」
オフィスに戻ると、課長の坂本が佑志に気づいて立ちあがった。
「いつも悪いね、こういうのはやっぱり独り者が頼みやすくてさ。ほら、お通夜とか、家も空けやすいし」
坂本は、ねぎらうように佑志の肩を叩いてオフィスを出て行った。通販カタログ課でもっとも温和な性格の坂本を、佑志は嫌いではなかった。ときおり、早く結婚しろと諭されることもあるが、他の上司や同僚のように、三十七歳で独身である自分を物笑いの種にすることなく、本心で心配してくれている気持ちが伝わってくるので、うとましく感じることはなかった。
席に戻ると、佑志は、机に積まれた校正紙の山を校了日順によりわけながら、さりげなく営業課のようすをうかがう。壁の時計は午後四時を指していた。川瀬ひとみの席のノートパソコンは閉じられたままなので、まだ外回りから戻っていないのだろう。
佑志の席は、オフィスのドアを開けたすぐのところだ。人の出入りが激しく落ち着かない、とたいていのスタッフはこの席を嫌がる。だが、物事に入りこみやすいたちの佑志は特に気にならなかった。むしろ、川瀬ひとみが入社してからは、春先のレイアウト変更でこの席に変わったことを幸運にすら思うようになっていた。オフィスにはドアは一つだけなので、外回りの行き帰りや退社の際、川瀬ひとみは必ず佑志のそばを通っていく。そのたびにほのかな甘い香りが佑志の鼻孔をくすぐる。それが彼女の長い髪からたちのぼる香りなのか、もしくは香水の類によるものなのか、女性との交際経験に乏しい佑志には判断がつかなかったが、その香りは佑志のこころをほんのつかのまほころばせてくれる。
この席の利点はそれだけではない。机に向かうと、視線の先がちょうど川瀬ひとみの席なのである。背を向けているので顔は見えないが、佑志にとってはむしろその方が好都合だった。かすかに茶色がかったつややかな髪が空調の風にゆらぐようすや、腰のあたりの丸み、スーツのスカートからのぞく形のよいふくらはぎを気づかれることなく鑑賞することができるのだ。
ひっきりなしにドアが開いては閉じ、何人ものスタッフが行き来する中、修行僧のように身動きすらせず、デスクにつっぷして校正紙をにらみ続けていた佑志は、窓の向こうが朱色に染まり始めたころふと顔を上げた。ドアが開き、足早に佑志の脇を誰かが通り過ぎていった。川瀬ひとみだった。理由は自分でも説明できないのだが、佑志にはドアが開いた瞬間にわかるのだ。
席についた川瀬ひとみはノートパソコンを開くと、ミネラルウオーターのペットボトルをデスクに置いた。いつも決まって赤いラベルの同じ銘柄だ。その後、腕時計をはずしてペットボトルのラベルに重ねるように巻きつける。腕時計のベルトは伸縮性があるらしく、ずれ落ちたりすることはないようだった。当初、その行為の理由を佑志はあれこれと推測した。時計をどこかにぶつけて傷つけたりしないようにするためなのか、もしくは佑志の友人にもいるのだが、手首が汗ばんだりするのを嫌って腰を落ち着けた際にはかならず時計をはずすことにしているためなのか。が、あくまで佑志の想像にすぎないので、本当の理由ははっきりしないままである。
佑志にとって、川瀬ひとみは、まるでいつまで眺めていても見飽きることのない美しい熱帯魚だった。とりわけ佑志の心をくすぐったのは、水を飲むしぐさだった。ペットボトルを手にすると、まとわりつくこまかな髪をふり払うためだろうか、左手で口元をなでると小さくかぶりをふる。どういうわけか、それを目にするたびに佑志は全身がぞくぞくした。
川瀬ひとみはどちらかといえばめだたない女性で、同時入社の二人の女子社員、白石裕子と横山梨花がともに今どきの女の子らしい華やかな雰囲気であるのと対照的に、しっとりと落ち着いた空気を放ち、口調や物腰もやわらかだった。顔だちはすっきりとはしているがとりわけ美人というわけでもなく、どことなくあか抜けない川瀬ひとみになぜ惹かれるのか、佑志はときおり不思議に思うことがあった。むしろ、佑志のお気に入りの女優と似た雰囲気の横山梨花の方が理想に近いはずなのだが、彼女を前にしてもさほど心は動かず、意識はすぐに川瀬ひとみに引き寄せられるのだった。
とはいっても、佑志は何の行動を起こすわけでもなかった。気になる女性にアプローチをしかけるという発想は彼にはなかった。来る日も来る日も、ひたすら川瀬ひとみの姿を目で追い、その香りを味わうということをくり返すだけだった。帰り際の挨拶をのぞけばことばを交わしたことすらなかった。男性ならば当然有しているはずの、好きな女性と遊びに行きたいとか、恋人にしたいという欲求を司る部分が、もともと存在しないのか、何かが原因で覆い隠されているようにみえるのか、佑志には抜け落ちているようだった。佑志自身も、ときおり心の奥底で息づく女性への欲求にふと気づくことがあるが、恋人と一緒に過ごす自分の姿がまったくイメージできず、そのたびに場所も言語もはっきりしない国への旅行を企てているような漠然とした無力感にとらわれて、すぐに考えることをやめてしまう。その際に意識の深いところで影のようにゆらぐ恐怖、もしくは哀しみに似た感情に気づいてはっとすることがあり、それが問題の核心であるように思えてとらえようとしてみるのだが、たいていすぐに見失ってしまう。
終業時間はとうに過ぎていたが、佑志は校正作業を続けていた。葬儀で時間をとられた分、作業が滞っているのは確かだが、翌日にまわしても特にさしつかえがあるわけでもない。壁の時計は八時十分前を指していた。佑志の職場では、新人の女子社員の残業は八時までという暗黙のルールがある。川瀬ひとみはデスクの上の整理を始めているようだった。尿意をおぼえていたが、佑志はトイレにたつのをしばらく我慢することにした。
川瀬ひとみがパソコンの電源を落とし、ペットボトルから腕時計をはずして立ち上がった。校正紙に目を落としたままだが佑志にはそのことがわかっている。上司に挨拶したあと、いったんロッカールームに消え、バッグを手にしてふたたび現れた川瀬ひとみが、たったひとつしかないドアに向かって、つまり佑志の方に近づいて来た。佑志は、さりげない風を装って顔を上げる。佑志の手前でいったん足を止めると、「お先に失礼します」とていねいに頭を下げる。佑志は、緊張でこわばる頬になかばむりやりに笑みを浮かべ、くぐもったとおりの悪い声が少しでも快活に響くようトーンを高めに意識しながら、「お疲れ様でした」と返す。手にしたペットボトルを壁際のゴミ箱に捨て、川瀬ひとみがオフィスを出て行くと、儀式は終わり、佑志は帰り支度を始める。
退社時の川瀬ひとみは、たいてい特に楽しそうでも憂鬱そうでもない、いわゆる無表情なのだが、ときおりうっすらと笑みを浮かべていることがある。まれに、恋人を前にしたような、満面の笑顔のときもある。そんなとき、特別な意味はないとわかっていながらも佑志はうきうきした気持ちになる。そうかと思えば、すこぶる不機嫌そうで、挨拶のことばさえけだるそうな日もある。そんなときは、何か自分が原因で彼女が気分を害しているのではないかと佑志は不安になる。地味なわりには、表情が豊かに変わる女性のようで、昨日と今日で別人に見えることがあるほどだ。頭を下げる際に、必ずいったん足を止めるところが、品のよさを感じさせた。あわただしく業務に追われているときでもどこかゆったりとした雰囲気に包まれており、レンガをひとつひとつ積み上げるように一瞬一瞬を大切に過ごしているふうで、そんなところがものごとにじっくりと取り組むことを好む佑志の心の襞にしみこむのかもしれない。
オフィスを出ようとした佑志の目が、ふと、壁際のゴミ箱をとらえた。佑志は足を止め、ゴミ箱の投入口をのぞきこむ。川瀬ひとみのやわらかそうなくちびるが頭をよぎる。そのくちびるが触れたペットボトルがこの中に存在するのだ。佑志は足をとめ、ゴミ箱の投入口をのぞきこむ。かすかに甘酸っぱいような香りが漂ってくる。飲み残しの飲料の匂いなのだが、それが川瀬ひとみの唾液の匂いに思えてきて、佑志はしばらくゴミ箱の投入口を凝視していた。とつぜん背後から声をかけられてふり向くと、川瀬ひとみの指導係である営業課の渡辺がけげんな顔で立っていたので、頭の中を見透かされでもしたように胸がどきつくが、ただ自分がドアをふさいでいただけだったことに気づき、あわてて脇によけた。
佑志は、食堂の窓際の席に座り、黒く流れる運河がところどころ細かく光るのを眺めながらゆっくりと昼食をとっていた。佑志はたいてい昼休みが終わってから食堂に行くことにしていた。空いているからだ。たくさんの人間に囲まれての食事は佑志にとってあまり気持ちのいいものではなかった。
出勤途中で買ったコンビニ弁当を食べ終えてしまうと、食堂の隅の自販機でコーヒーを買った。席に戻ろうとしてふと見ると、佑志しかいなかった長テーブルに人の姿が見えた。思わず手にした紙コップを取り落しそうになる。佑志と同じテーブルの、ちょうど佑志が座っていた席の斜め前で、ランチボックスを包むピンクのナプキンを丁寧な手つきでほどいているのは川瀬ひとみだった。例の赤いラベルのペットボトルがテーブルに置かれている。浮き立つ気持ちと不安が互いに引き合って、佑志の足は力が拮抗した綱引きの綱のようにしばらく動かなくなったが、弁当がらと文庫本を置きっぱなしにしていることもあり、戻らないわけにもいかず、意を決して歩き出す。じっと床に目を向けていたが、視界の端の川瀬ひとみがどうやら自分に気づいたように見えたので、そしらぬふりをするのも不自然に思えて顔を上げると、川瀬ひとみが小さく頭を下げたので同様に返して席についた。紙コップの熱で指が焼けそうだった。
席につくと、佑志はすぐに文庫本を開き、それに没頭するふりをした。普段と勝手が違い、背後からではなく、川瀬ひとみからも自分が見える地点に位置しているせいか、居心地の悪さを感じながらもかすかなときめきを覚えていた。気づかれぬよう注意しながら盗み見ると、川瀬ひとみは左手で携帯電話をいじくりながら、手作りと思われる弁当を小鳥のように少しずつ口に運んでいた。自宅で一人過ごしているかのごとく、自然で何の気負いも感じられず、佑志の存在はまったく意識にないようだった。佑志はさびしさと同時に妙な気恥ずかしさに似た感情を覚えた。排泄行為を他人に見られて恥ずかしくない人間はいないのに、誰もが億することなく人前で食事ができるのはどういうわけだろう。佑志にとって、両者は入れるか出すかだけの違いにすぎず、栄養の補給と不要物の排出という生命体としての根源をさらけ出す行為という意味ではさほど違いはなく、他人に見られながらの食事はある意味恥ずかしい行為に思えてならなかった。
はじめのうち、佑志は気づかれることを恐れてきわめて遠慮がちに視線を送っていたが、川瀬ひとみが佑志の存在などまったく意に介していないようなので、佑志の気持ちはだんだんとゆるんでいった。顔が確認できる位置から川瀬ひとみをこれほどじっくりと眺めたのは初めてだった。卵焼きや黄金色の鶏肉をはさんだ白い箸が薄紅色のくちびるに吸いこまれたかと思うとつるりと出てくるようす、濡れたくちびると咀嚼するたびに盛り上がる白い喉元がなまめかしく、ときおり髪を耳の後ろにかき上げる動きも舞踏のように洗練されて見えた。食べるという恥ずかしい行為の真っ最中である川瀬ひとみをまのあたりにしている。そのことが佑志の気持ちを高ぶらせていた。そんな佑志の視線を吸いこむかのように川瀬ひとみのふるまいはあくまで凛としており、まるで自分が女で川瀬ひとみが男であるような錯覚さえ佑志におこさせた。
やがて食事を終えた川瀬ひとみは、ランチボックスを元通りナプキンで包み終わると、ペットボトルを手にとりふたを開け、例のかぶりをふるような動作のあとくちびるをつけた。その瞬間彼女の眼球がついと横に流れ佑志と視線が結ばれた。佑志の胸が跳ね上がったが、川瀬ひとみの目線がどこか穏やかで見ることを許してくれているような気がしたのでそのままでいるうちに瞬間がどんどん流れて結果的に見つめ合うかたちになった。ペットボトルをくわえこむ川瀬ひとみのくちびるは深海にすむまだ発見されていないやわらかないきもののようだった。その間、川瀬ひとみは佑志を見つめたままでいた。その表情には好意も嫌悪もうかがえず、眠りにつく前のようなけだるささえ漂っているようだったが、佑志の気持ちがわかっていてそうしているように見えないでもなかった。
ペットボトルからくちびるを離すと同時に彼女は目をそらした。横断歩道で信号を確認したあとのようなさりげなさだった。ペットボトルに巻かれたままの腕時計がさしこむ陽の光を反射してきらめいていた。
それから一か月ほどが過ぎたが、佑志の心にはずっと川瀬ひとみが居座り続けていた。だからといって何らかの行動を起こしたわけはないので、事態は何の進展もあるはずはなかった。過去に好意を抱いた女性に対しても、佑志は気持ちすら伝えようとすることもなく、蒔かれたはいいが、芽が出ることもなく土の中で腐っていく種のように何も始まらないままなんとなくその気持ちが消えていくということを繰り返していた。佑志はそのパターンにある意味慣れてしまっていて、川瀬ひとみの場合もじょじょにその姿がかすんでそのうち消えてしまうものとたかをくくっていたのだが、いつまでたってもそうならないことにとまどいを感じ始めていた。消えるどころか、その気持ちはどんどんふくらんで、何をしていてもいつのまにか川瀬ひとみが頭を占領していることに気づくたびに、これまで味わったことのない、切ないようなやるせないような気持ちに襲われた。そして、とりあえずは、仕事のことでもいいので、挨拶以外の会話らしい会話を交わしてみたいと考えるようになった。別に仕事上でなくとも、お互い顔は見知った仲なのだから、席の近くを通りがかった際や先日のように食堂で一緒になったときなどに雑談めいたことをしかけても特に不自然ではないはずだが、あからさまに迷惑がられたり事務的なリアクションをされることに対する不安ばかりが先にたち、具体的な行動をとれずにいた。そんな中、機会は突然訪れた。たいていのできごとがそうであるように、それは佑志の意図の外で、ふってわいたようにやって来た。
ある昼休み、オフィスで佑志は校正作業を続けていた。通販カタログ課のスタッフは皆食事に出ており、席にいるのは佑志だけだった。隣席の渡辺に何か指示を受けながら川瀬ひとみがふいに振り向いたので、佑志はあわてて校正紙に目を落としたが、視界の隅で、席を立ってこちらに向かってくる川瀬ひとみの姿をしっかりとらえていた。全身がこわばるのを感じた。
「お忙しいところすみません。少し、よろしいでしょうか」
初めて間近ではっきりと耳にする川瀬ひとみの声は、女性らしいまろやかさの中にもしっかりとした芯を感じさせる耳触りのよい声だった。たった今気づいたふりをして佑志が顔を上げると、身をかがめて彼をのぞきこむ川瀬ひとみの顔が目と鼻のすぐ先にあった。甘い香りが佑志の鼻孔に流れこみ全身を駆けめぐる。その顔があまりに近すぎることがうれしい反面、何かいけないことのように思え無意識に身をそらせながら佑志はうなづいた。
「こちらの再デザインをお願いしたいのですが」
川瀬ひとみは、校正紙をデスクに広げた。たしか、先週渡辺の依頼で佑志がオペレーターに指示を出して上がってきた校正だ。
「再デザイン、ですか?」
声が震えているのが自分でもわかった。川瀬ひとみとことばを交わしている。その喜びと緊張にくわえ、悪印象を与えたくないという気負いや作業の不備を指摘されるのではないかという不安、そういった様々な感情が入りまじっていた。
「指示どおりにあがっていないとかそういうことでしょうか」
「いえ、そうではありません。きちんとあげていただいてはいるのですが」
ろうそくの炎がかすかな吐息にほんのわずか揺らぐかのように、川瀬ひとみの口調は毅然としたなかにおぼろげに緊張の色がうかがえたが、単に仕事に対してまだ不慣れなせいだろう。
「メーカーの担当者さんに確認いただいたところ、このページが、いまいち個々の商品が映えて見えないといいますか、その、もう少しすっきりした感じにして欲しいとのことなんです」
川瀬ひとみは校正紙を見てそれから佑志を見た。それまでずっと川瀬ひとみの顔に向けていた視線を佑志は校正紙に向けた。
「担当の方が木曜から出張に出られるらしくて、無理を言って恐縮なのですが、明日中にあげていただくわけにはいきませんでしょうか」
「すいません、ちょっと待ってください」
佑志は思わず、川瀬ひとみの発言をさえぎるように声をあげてしまう。どうやら川瀬ひとみは校正の作業工程についてまだきちんと理解できていないようだった。
「デザインの変更はやります。納期については現場に確認してお答えします。ただ、そのためには指示をいただかないと」
「指示、ですか?」
口調がかすかにとげとげしさを帯びている。気分を害したのか不安になるが、そのくちびるがまるで自分を待つかのように目と鼻の先で薄紅色に光っていたので佑志の頭はたちまち白くなる。
「その、デザインをこう直してくださいという指示です」
「はい?」
声のトーンが突然上がり、突風に吹き飛ばされたかのように川瀬ひとみの表情が瞬時に険しくなる。佑志の発言が聞きとれなかったのだろう。低くくぐもった声に不明瞭な滑舌は、長年佑志が抱え続けているコンプレックスの一つだった。できるだけ明瞭に声を発するように普段は意識しているのだが、少し気持ちが動揺したりすると、発音が不明瞭となり、発言を聞き返されることは頻繁である。それは仕方がないとあきらめているのだが、その際に、きまって相手の表情がじれったそうに曇り、いらだちをむきだしにして声のトーンが突然上がる。それはつねに佑志の心をひどくかき乱す。今、まさにその反応を返してきたのは、佑志がひそかに想いを寄せている川瀬ひとみなのだ。
「だから、デザインの、ここをこういうふうに直してほしいという具体的な指示ですよ」
いらだちと緊張で自分でもぎょっとするほど声が荒くなってしまう。同時に、川瀬ひとみの黒目がぐいと大きくなったことが、さらに佑志の感情を泡立てた。
「メーカーの方がお気に召さないらしいですが、どこがどう気にいらないのか、その意図がわからないままで、直しようがないですよね。写真をもっと大きくするとか小さくするとか、配置をこう変えるとか文字のフォントをどうしてほしいとか、具体的に指示をいただかないと作業できません。その指示をするのは営業の担当者です」
早口でまくしたてるうちに、川瀬ひとみの表情がみるみる暗くしぼんでいった。
「坂本課長にお願いした方がよろしいでしょうか」
ひと呼吸おいて、川瀬ひとみは佑志の目をまっすぐに見て言った。その目もとにほんのかすかに侮蔑の色らしきものが浮かんでいるような気がした。まさか、こいつに頼んでもだめだとでも思っているのだろうか。
「なんで、課長に頼むんですか?」
営業課の数人の視線を感じたが、そんなことに気を配る余裕はその瞬間の佑志にはなく、頭の中はでたらめに絵の具をぶちまけてかきまわしたキャンパスのようだった。
「誰に言えばやってもらえるとか、そういうことじゃないです。組織としての作業分担のことです。入社してもう二か月くらいたちますよね。作業の工程くらい、もう理解しといてくれないと困りますね。ぼくが説明することじゃないんで、わからなければ上の人に聞いてください」
一気にまくしたててから、はっとした。しまったと思ったが、遅かった。川瀬ひとみは、「わかりました、すみませんでした」と押し殺した声で言い残し、校正紙をつかんで逃げるように立ち去ったあとだった。いつになく高く響く足音とは対照的に佑志の心は嘘みたいに静まりただただ哀しみにも似た後悔で満たされていた。
午後になってから、渡辺が坂本課長に渡したと思われる原稿が佑志にまわってきた。おそらく渡辺自身の手によると思われる再デザインの指示原稿だった。渡辺の性格からして、再デザインをこちらで手配するようゴリ押ししてくると予想していたので少し拍子抜けするのと同時に、佑志の心にある疑念がわきおこった。渡辺は日ごろから、自分たちの仕事をことあるごとに他部署に押しつけようとするきらいがある。ひょっとすると、作業工程を十分に理解していない川瀬ひとみをさしむけたのは、再デザインの指示なしでこちらに作業をさせることを意図していたのではないか。課長が不在の昼休みを狙ったように、依頼に行くよう指示したのもそう考えるとつじつまがあうような気もするし、渡辺が自ら依頼に行けば佑志が警戒するので、川瀬ひとみを利用したとは考えられないだろうか。
考えれば考えるほど、その推測が正しいように思えてきて、佑志の心は暗澹とした。もしそうだとすると、川瀬ひとみは渡辺に利用された被害者だ。我知らず放ってしまった厳しいことばと川瀬ひとみの暗い表情が脳裏をよぎり、佑志は無意識に手元のカッターを校正紙にすべらせてしまい、白いミニのワンピースの女の子が胴から真っ二つに切断された。
あらかじめそう定められていたかのように昨日も今日も見分けがつかない日々がどんどん過ぎていく中、あいもかわらず佑志はひたすら仕事の合間に、川瀬ひとみの姿を背後から眺め、仕事を終えた彼女と挨拶をかわしたあと退社する、ということを繰り返すだけだった。先日の出来事が、それ以上彼女に接近することを禁じる足枷のように佑志の心を縛りつけていた。
ある金曜日の夜、佑志はトイレで用を足しながら、そろそろ退社するか、もう少し残業を続けるかを迷っていた。その日に終わらせる必要がある作業はすでに終了していた。にもかかわらず、佑志が迷っているのは、川瀬ひとみがまだ退社していなかったからだ。腕時計をのぞくと七時半を少し回ったところなので、あと三十分以内に彼女は退社するはずだ。手を洗いながら、佑志はそれまで残業することに決めていた。川瀬ひとみとの仲を発展させることについてはほぼあきらめていた佑志だが、唯一のコミュニケーションである帰り際の挨拶についてはこだわり続けていた。
トイレを出たところで、オフィスのドアが開くのが見えた。現れた人影を目にした佑志の脚がもつれかけた。川瀬ひとみだった。いつになく急いでいるようで、廊下を小走りにどんどん近づいてきたかと思うと、すれ違う際にも佑志には目もくれずに「お先に失礼します」とほとんどひとかたまりに聞こえることばを投げつけてエレベーターホールへ消えていった。挨拶を返すまもなく取り残された佑志の耳に、エレベーターの駆動音がうっすらと響いてきた。
川瀬ひとみのそぶりから、この後何か大切な用事があることがうかがえた。どこに行くのだろうか。誰かと会うのだろうか。それが友達なのか、恋人なのか知るよしもないが、確実なのは廊下ですれ違った次の瞬間には川瀬ひとみの意識にはもはや佑志のことなどかけらも存在していなかったということだ。
オフィスに戻ってデスクを片づけていると、とつぜん佑志の背中に無力感がマントのように覆いかぶさってきた。全身の血の流れが接着剤で固められたようで呼吸が苦しくなり、佑志はしばらくじっと背を丸めていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、かばんを取りにロッカールームに向かった。デスクには校正紙が乱雑に散らばったままだった。
オフィスを出ようとしたところで、ふとドアの横のゴミ箱に目がとまる。入りきらないペットボトルが投入口から突き出している。かなりむし暑かったせいもあり、飲み物の消費量がゴミ箱のキャパを上回ったようである。佑志が足をとめたのは、突き出たボトルの側面の赤いラベルに気づいたからだ。佑志の胸がほんのりと温かくなり、すぐに熱くなった。身をかがめてゴミ箱をのぞきこむ。内部の水滴がやけに生々しく光っている。ひょっとすると、川瀬ひとみが捨てたペットボトルかもしれない。この赤いラベルのミネラルウオーターは他のものより若干割高な上、社内の自販機にはないので、オフィスではあまり見かけたことがない。ペットボトルを凝視していた佑志は、ふいに頭をあげてオフィス内を見回した。通販カタログ課と営業課は全員退社したようで人影はない。遠く離れた経理課に数人の姿が見えるだけだ。
佑志は意を決したようにそっと手を伸ばすと、ペットボトルの底をつかんで引っ張り出した。ゴミ箱の中で均衡を失った山が崩れたのかトタンを打つ雨音のような音がした。とっさに振り向くが彼を見ている者など誰もいない。大きく息を吐きながら向き直り、手にしたペットボトルを目にした瞬間、胸が激しくどきついた。赤いラベルに重ねるように巻かれた銀色に輝くもの。腕時計だった。
もう一度振り返ってオフィスを見渡す。残っているのはまちがいなく経理課の数人だけで、距離が離れている上に背をむけている。気づかれる心配はなかった。が、念のために
佑志は自席に腰をおろして、ドアの方を向いてパソコンのプリンタに身をかくすように背を丸めた。こうすればたとえ彼らがこちらに視線を向けたとしても佑志の姿は目に入らないだろうし、たとえ見えたとしても何をしているのかわからないだろう。
佑志は、あらためて時計を確認してみた。見覚えのある小さな文字盤と銀色のベルト。川瀬ひとみの腕時計にまちがいなかった。急いでいたせいではずし忘れたのだと思われるが、時計が巻きついたままになっている理由などどうでもよかった。重要なのは、今佑志が手にしているペットボトルは川瀬ひとみが捨てたものであるという事実が、これで疑う余地がなくなったということだ。佑志はペットボトルをまじまじと見た。自分が今手にしているペットボトルをほんの少し前、川瀬ひとみも手にしていたのだ。残ったぬくもりがてのひらを通して伝わってくるような気さえして、佑志はしだいにわくわくしてきた。体の奥からわきたつように衝動がこみあげ、どんどん高まるばかりのそれは、遠い昔に初めての勃起を経験したときのように制御不可能でどこか甘美だった。左手でそっとブルーのキャップをはずす。ペットボトルの飲み口をこれほど集中して見つめたことなどむろん初めてだが、なだらかに重なったねじの山はそこだけ見ていると不思議に美しい。顔を近づけるとかすかに甘い香りがする。佑志の顔のほんの数センチ先にあるこの部分に川瀬ひとみのくちびるが触れたのだ。おそらく佑志が永遠に触れることのできないくちびるが、何度も触れたのだ。ペットボトルと佑志の顔の間隔が少しずつ縮まり、一瞬、泡のように浮上したかすかな罪悪感もとめどない欲望の滝壺に飲みこまれてすぐに消え去り、数秒後には佑志自身のくちびるがペットボトルの先に触れていた。いったん踏み越えてしまえば気持ちを抑えるものは何もなくなり、佑志は無我夢中でペットボトルをくわえこんで舌をはわせた。目を閉じると、あたかも川瀬ひとみと舌をからめあっているようなすさまじい興奮が背中を駆けあがってかすかな声すら漏れだした。
突然の物音を佑志の耳は確かにとらえてはいたのだが、高く蹴り上げられたボールのように舞い飛んでいた意識が地上に戻ってくるまでのわずかな間に、勢いよく開いたドアからオフィスに飛びこんで来たその人物と視線がかちあった。反射的にペットボトルを口からはずした佑志の右手が勢いよく自らの腿を打ったが痛みなど感じない。
川瀬ひとみだった。時計がないことに気づいてあわてて戻って来たのだろう。肩が大きく上下している。にもかかわらず普段でさえほんのりと赤みがさしているその頬はデスクの上の校正紙よりも白かった。
川瀬ひとみがようやくノブを支える手の力をゆるめたのか鉄のドアが閉まるにぶい音がした。佑志の腿のあたりで握りしめられたペットボトルが震えている。川瀬ひとみはドアの前に立ちすくんだまま、佑志の手の中のペットボトルを見つめていた。佑志はラベルの部分を隠そうと指を伸ばそうとしたとき「その時計、あたしのなんですけど」と川瀬ひとみがそれをさえぎるように言った。
「あの」
佑志の口からくぐもった声がもれた。川瀬ひとみははじめてペットボトルから視線をはずして佑志を見たが、「あの」の「の」の形のまま停止した佑志のくちびるにちらっと目をむけたがすぐに床に目を向け、佑志に近づき、ペットボトルに手をのばした。佑志が動こうとしないので、「いいですか?」と空気に切れ目をいれるようにさくっと川瀬ひとみが言い放つと佑志はびくんとしてようやくペットボトルを彼女に渡した。川瀬ひとみはペットボトルを受け取ると、少しためらい、佑志に背を向けてはずした時計と左腕につけた。そして、ゴミ箱に向かいかけたところで、ふと動きを止めて何かを考えるようなそぶりのあと、
「さっき、何をされていたのですか?」
佑志に背をむけたままつぶやくように言った。
「さっき?」
佑志がほとんど吐息に近い声でそう聞き返すと同時に、川瀬ひとみがいきなり右足のかかとを支点にくるっと回転して佑志の方に向き直った。くくっていない髪が流されてばっと広がり猛獣のたてがみのようにみえ、あらかじめ演出された動作のようにすら思え、佑志はぎょっとする。
「あたしが見たとき、こうやって」
言いながら川瀬ひとみは手にしたペットボトルを口元に近づけようとしたところであることに気づいたのかはっとしてあわてて遠ざけながら、
「口にくわえているように見えたんですけど」
言いにくいことを口にしているにもかかわらずやけに落ち着き払った彼女の態度に驚きながら佑志は顔を伏せたままこの状況から逃げ出す方策を探したが何も思い浮かばなかった。川瀬ひとみはこの後予定があるはずなので、これ以上深く詮索してくることはなく立ちち去るはずだと心の隅でたかをくくっていた。
「すみません、少しお時間をいただけないでしょうか」
驚いて佑志が顔を上げると、川瀬ひとみはオフィスの奥に向かいかけていた。いったい、どうしようというのか。予想外の展開に佑志が身をかたくしていると、
「ちょっと、来ていただけないでしょうか」
川瀬ひとみがまた言った。その声音はか細いなかにも有無をいわせぬ色が見え、佑志のしていた行為がうしろめたいものであることを理解していることがうかがえた。経理課のスタッフがけげんそうに二人を見ている。佑志は立ち上がり、川瀬ひとみの後に続く。他に選択肢はなかった。
壁際に金属製のロッカーが棺のように並べられたスペースを抜け、突き当りを曲がると、元は別の色だったのだろうが、もはやミルクを入れすぎたコーヒーみたいに変色した壁に等間隔に並んだ一番奥のドアのノブに手をかけたままじっと立っていた川瀬ひとみは佑志が追いつくのを待ってドアを開いた。佑志は足を止めて川瀬ひとみが入るのを待つが、彼女はドアを開いたままの姿勢で動かない。どうやら佑志を先に入れようとしているらしく、昨日までならば、敬意の表現と受け取れるその動作も現在の状況下では皮肉めいて感じられる。
壁も天井も机もほぼ見分けがつかないベージュ系の色で統一されており机の上の安っぽいアルミの灰皿だけが銀色に光ってのっぺりした室内の唯一のアクセントとなっている。少し迷って、佑志は奥の席に腰をおろした。川瀬ひとみは、佑志に続いて部屋に入りかけたところでふと思い出したように、「すいません、ちょっと待っていてください」と言い残し、廊下に出てドアを閉めた。少し間があいて、ドアの向こうからささやき声がとぎれとぎれに聞こえた。会うはずだった相手に連絡をしているのだろう。親し気でどこか甘い口調から、おそらく相手は恋人なのだろうが、佑志にとってもはや関知するところではなかった。することもないので周囲を見回してみても壁は壁でしかなく、机には灰皿しかなく、佑志の意識を受け入れてくれるものなど何もない。やがてドアが開いて姿を現した川瀬ひとみは両手で丁寧にドアを閉めたあと、佑志の斜め前に腰をおろした。食堂でいっしょになったときと同じ位置関係だ。川瀬ひとみは手にしたペットボトルを灰皿の横に置いた。
ペットボトルの内部に点在する水滴が蛍光灯の光を反射してきらめくその場違いな美しさが佑志の心をしめつけた。すぐ隣によりそうように位置する灰皿とあわさって何か意味があるよう符牒のように見えてくるが、すぐにただの風景の一部になる。川瀬ひとみは黙ってペットボトルを見つめている。
「あの」
沈黙に耐え切れず佑志が口を開くと、川瀬ひとみは顔を伏せたまま上目遣いに佑志を見たが、すぐについとそらせて立ち上がると、手を伸ばして壁のスイッチを押した。頭上でにぶい音が響き、埃っぽい風がやんわり降り注いできた。
「時計は返すつもりでした。デスクの上に置いておこうとして」
そこでことばを失ってしまう。川瀬ひとみは佑志に背をむけてスイッチに手を置いたまま続きを待っているように見えたが、ふいに向き直って元通りに腰を下ろした。その間佑志に一度も目を向けることはなかった。
「ということは」
語尾をわずかに伸ばした川瀬ひとみの口調は、状況にそぐわずどこか甘えたふうにも聞こえた。
「あれがわたしの時計だということをご存じだったわけですね」
そのやわらかな口調とくちびるにかすかに笑みさえ浮かんでいたため、佑志は一瞬錯覚して返そうとした笑みをあわててひっこめた。空調の音がメロディに聞こえる。はるか昔に聞いたメロディだ。ぎんぎんぎらぎらゆうひがしずむ。学校で誰もが気軽に口ずさんでいたあの童謡が、どういうわけか怖くてしかたがなかった。まっかっかっかそらのくも。その恐ろしいメロディを耳にしながら、言い逃れのために残されていた余白を自ら塗りつぶしてしまったことに佑志は気づいていた。
「つまり」
川瀬ひとみの視線がふいに跳ね上がって、標的をとらえた銃口のように佑志に向けられた。
「あたしが捨てたペットボトルだとわかった上でああいうことをされてたんですよね」
ことばづかいがやけに丁寧なだけにかえって空恐ろしく響き、佑志の全身が凍りついた。
「なぜですか」
川瀬ひとみの口調からまろやかさがいきなりそぎ落とされたので、佑志ははっとして顔をあげた。黒く輝く瞳は確かに佑志に向けられてはいるが、佑志を見ているのではなく佑志を突き抜けたどこかに潜むものを見ているように思えた。その表情は怒りでも哀しみでもないすきとおるような無色で美しく、立場を忘れてあやうく見いってしまいそうになり、佑志はあわてて意識を戻してまた視線をそらす。
「あたしが捨てたペットボトルを」
川瀬ひとみは何かが喉につかえたようにいったんことばを切った。
「あんなふうにしていたのはなぜですか」
佑志の視線は、机の上のまさにそのペットボトルをとらえつづけていた。別に見たくて見ていたわけではなく顔を上げられないのでいやでも目に入ってくるのだ。
「何もおっしゃらないのは、答えられない理由だからですか」
佑志ははっとした。ペットボトルが輝いている。蛍光灯の光が反射しているだけのことで、川瀬ひとみがそこに置いたときからずっと輝き続けていたはずだが、佑志にはそのとき急に輝き始めたように見え、しかも、その放つ光がじょじょに強くなっているように思えた。このままどんどん輝きが増して、目も開けていられないほどきらびやかになり、音もなく爆発してすべてを吹き飛ばしてくれたらどんなにいいだろう。佑志はもはや川瀬ひとみの質問に対する答えを探すことを放棄して、ただこの状況から逃れることだけで頭がいっぱいだった。
「誰が捨てたペットボトルでも、ああいうことをされるのですか」
川瀬ひとみの声はあくまで落ち着きはらって常に同じ声量を保っている。まるで体のどこかにヴォリューム調節のつまみでもあるようだった。佑志が口を開こうとした一瞬前に、「女の子だったら」と閉まりかけた自動ドアのすきまからすっと体をすべりこませるようにつけ加えた。「いいえ」と答えようとしたにもかかわらず佑志の喉からもれ出たのはかすかな吐息だけだったが、嘘ではないので大きくかぶりをふった。沈黙が布のように舞い降りてきて周囲にたちこめた。川瀬ひとみは、しばらく手首の時計をいじくったり、机のタバコの焦げ跡を指先でさすったり意味があるとは思えないしぐさをしていたが、やがて大きく息を吸いこみ背筋を伸ばした。
「刑部さん、でしたよね? 刑部さんがなさっていたことの意味はだいだい想像つきますが、あまり深いところまでは知りたくないです。というかはっきりいって関わりたくないです。ずっと黙ってらっしゃるので、刑部さん自身もうしろめたい、罪悪感みたいなのがあるわけですよね。当然ですよね。人が捨てたペットボトルをくわえたりなめたりするなんて普通じゃないですもんね。普通じゃないっているか、すごく気持ち悪いです。異常です。誰に聞いたってそう言いますよ。違いますか」
川瀬ひとみは一気にそこまで言うと、大きく息を吸いこんだ。汚いものを吐き出してしまってきれいなものを取り入れようとしているように見えた。ふと佑志は、小学校の遠足で大便を漏らしてしまったときのことを思い出した。あのときの恥ずかしさやるせなさもいまだに夢に出てくるほどだが、今の状況に比べれば、天国だ。
「しかも、あたしが捨てたペットボトルだったからですよね。時計で、あたしのだってわかったんですよね。ということは、いつもあたしがペットボトルに時計を巻きつけてたことを知ってたってことか。じゃないとあたしの時計ってわかるはずがないもの。なんでそんなこと知ってるんですか。そこまで、あたしのこと見てたんだ」
気持ちが高ぶってきたのか、丁寧すぎるほどだった川瀬ひとみの口調が、乱暴にフォークを突きたてられたショートケーキから苺が落ちるように崩れ始めている。
「もちろん、気づいてましたよ。刑部さんがいつも私のことを見ていたこと。そういうのって、気づかれていないと思っているのは本人だけで、すぐにわかっちゃうものなんですよ。そのことをどうこう言うつもりはありません。誰だって、嫌いな人のことはわざわざ見ないから、刑部さんがあたしにどんな感情を抱いていたのか何となくわかるし、少し気になったこともありましたけど、今はそんなこと、どうでもいいです。私が聞きたいのは、刑部さん
がしたこと、あたしが質問しても答えられないようなことを刑部さんはしていたわけですよね。そのことを、どう思っているかということです。あのものすごくいやらしく汚らしい行為についてです」
川瀬ひとみは佑志をうながすようにことばを切ったが、むろん、佑志に返すことばなどあるはずもなく、探す気力もないので、黙っているしかなかった。
「いくら待っても答えはないですよね。別にかまいませんけど、それをわかった上でお聞きしているんで。このまま黙っていれば何となく終わって家に帰って普通の生活に戻れると思ってるんですよね。確かにその通りです。私、この後約束があるし、こんなことに時間をとられたくありません。ものすごく気持ち悪いことをされたとはいえ、時計は返してもらったし、あのペットボトルは私がゴミ箱に捨てた、つまり、私は所有権を放棄したわけなんで、刑部さんがどうしようが、法に触れたりすることはないわけです。何ならこれ、持って帰って好きなようにしていただいて結構ですよ」
川瀬ひとみは、ペットボトルを佑志の方に乱暴に押しやった。倒れたペットボトルは床に落ちて転がり、壁にぶつかり跳ね返っり、また転がって佑志の靴の先で停止した。
視界の端でペットボトルをとらえながら、佑志はそのときそのとき初めて川瀬ひとみに対して恐怖に近い感情をおぼえると同時に、ある疑念が浮かびあがった。自分が捨てたペットボトルの、自分がくちびるをつけていた部分をなめている男性を目の当たりにした女性の心境は、気持ちのよいものではあるはずはなく、耐えがたい嫌悪感とでも表現できるものだろう。そのような場合、女性はどのような態度をとるだろうか。むろん、その女性の性格、またその男性に対してもともとどのような感情を抱いていたかにもよるだろうし、あくまで佑志の想像でしかないが、別に肉体的な被害があったわけでもないし、どちらかといえば、あまり関わりたくない、早くその場から逃げ出したくなるのが自然なのではないだろうか。そう考えると、川瀬ひとみの態度は少し不自然なように思えてならなかった。逃げ出すどころか執拗に食いついてくる攻撃的とさえいえる言動は悪意すらうかがえる。そう、悪意なのかもしれない。
「このまま黙ったまま押し通すつもりですね。刑部さんはいいですよ、それで。でも、私はどうなるんですか。あんな気持ちわるいところを見せられて、いやな気持ちにさせられたのに、法にふれる行為じゃないからって、このまま忘れろというんですか。もちろん忘れたいですよ。ていうか、一刻も早く記憶から消したいくらいです。でも、見てしまった以上、完全に記憶から消すなんてこと、できませんよね。自分が捨てたペットボトルをああいうふうにされた人の気持ち、わかるわけないですよね。表面上は忘れたつもりになっていても、ふとしたときに、引き出しの奥から見たくもない手紙をたまたま見つけてしまうみたいに、ふいに思い出すこと、この先何度もあると思うんです。そのたびに、暗い気持ちになるというのに、刑部さんは、そんなこと知りもしないし、それによって何の影響も受けないし、今だって、反省しているふりしていますけど、きっと考えているのは自分のことだけで、私に対して悪かったとか、そんなこと、本気で思ってませんよね。もちろん、私、刑部さんがどんな人だとか、何も知りませんよ。一度お話したことあるだけですから」
ふいに額のあたりに熱いくらいの視線を感じて、佑志はおそるおそる顔をあげた。川瀬ひとみが佑志を見すえている。目の前にいるのは、確かに佑志が知っている、佑志がひそかに想いを寄せていた川瀬ひとみに違いないのだが、その目だけが、別の人間のものに見えた。まるで目の部分だけがくりぬかれた川瀬ひとみの姿をした着ぐるみをかぶった見知らぬ人物ににらみつけられているような気がした。
「いつだったか、校正の件でお願いに行ったこと、覚えてらっしゃいますか。私は覚えてます、ていうか忘れられません。かなりきつい言い方されましたから」
疑念が佑志の中ではっきりとした形になった。佑志の心にも重い後悔となって残っている、あの昼休みのことだ。やはり、あのときのことを根にもっているのだ。でなければ、ここまで佑志に執拗にくいさがることなく、さっさと恋人に会いに行っていたはずだ。
「もちろん私にも非はありました。業務の流れがまだよく理解できてなくて、いろんな人にご迷惑をおかけしているのはまちがいないし、あのときも刑部さんのお手を無駄に煩わせたことはあやまります。申し訳ありませんでした」
川瀬ひとみは頭を下げて、すぐに上げた。
「ただ、あのときの刑部さんの態度とものの言い方は、いくら先輩とはいえ、いえ、それなりのキャリアを積まれた方だからこそ、どうかなと思いました。ちょっと表現がむずかしいですが、必要以上に大声をあげて、高飛車というか、人を小ばかにしたような、といいますか、はっきり言ってすごく感じが悪かったです。新人の私の間違いをただすというよりも自分の感情をただ爆発させているだけのように思えました。営業課の先輩にもきびしい人はいますが、あんな言われ方をしたことは一度もありません。同期の女の子に、さっき怒られてたけど何したのってあとでからかわれて、すごく恥ずかしかったんです」
佑志は、胸の奥が熱くなるのを感じた。想いを寄せている女性から徹底的に攻撃されている哀しみと、十以上も年下の女性から一方的に責めたてられながらどうすることもできない無力感が混じり合ってこみあげてきた。
「とてもいやな気持ちでしたが、そのときは、間違いを正してもらったのだから、と思い直して、その後刑部さんに対して悪い感情をもたないようつとめてきました。なのに」
川瀬ひとみは軽く息を吐いた。
「本当を言えば、約束もあったし、気づかなかったふりをして時計だけ受け取っていったん帰ろうとしました。けれども、ふと、あのときのことを思い出してしまったんです。そうしたら、何かどす黒いものが全身を駆けめぐって気持ち悪くなってきて、無意識に刑部さんを呼びつけていました」
語尾があいまいにしぼんだので、佑志はそっと川瀬ひとみの様子をうかがう。壁の方を向いているのでは定かではないが、まさか、泣いているのだろうか。
「あたし一人でしゃべって、なんだかバカみたいですよね。このままずっと無言で終了ですか。いますよね。刑部さんみたいな人。状況をぜったいに自分からはどうこうしようとしないで、ただ黙ってじっと終わるのを待っている人。刑部さん、子供のころ、ご飯のときにつまらないテレビ番組が流れていても、何もせずにそのまま食べ終わるまで画面を見ていたタイプでしょう。違いますか」
ふいに、川瀬ひとみの口調が、ローラーで押し伸ばしたように平板になった。
「子供にもいろんなタイプがいます。何もしないでただ画面を見ているだけの子もいれば、勝手にチャンネルを変えて親に叱られる子もいます。私は、どっちでもなかった。チャンネルを変えさせてもらえなければ、自分の部屋にご飯を持って行って食べてました。部屋にテレビはありませんでしたが、見たくもないテレビを見ているよりは、壁を見ながら食べてる方がましですから。もちろん、叱られましたよ。わたしの母親は、どうでもいいことに口うるさくて、他人を自分の思っているとおりに動かそうとして、そうならないと怒り出すっていうどちらかといえば周囲の人間にとっては迷惑でしかないタイプでした。家の外であろうが急に怒鳴り出したりしましたからね。そう、ちょうど、あのときの刑部さんみたいな感じで。知ってます? ちょっとしたことでとつぜん怒り出したり怒鳴ったりするのは、劣等感のあらわれだそうです。劣等感って、ある意味恐いんです。その人だけの問題ですまないんです。劣等感が原因で戦争が起こることもあるらしいですから」
川瀬ひとみはふいに身をかがめてペットボトルを拾い上げ、机の上に戻した。別に今する必要もない脈絡のない行為は川瀬ひとみの心の乱れを表しているように思えたが、佑志にはどうすることもできないし、そもそも他人の内面の問題についてどうこう言える状況ではないのだ。
「すみません、あたしの母のことなんて、どうでもいいですよね。いずれにしろ、もう時間もないので、そろそろ終わりにしたいと思います」
佑志の全身から、どっと力が抜けた。結果はどうであれ、ようやくこの状況から解放されるという安堵に胸が熱くなるが泣くわけにもいかずおさえつけた。
「そこで、最後に、何か言ってもらえませんか。どんなことでもいいです。このままだんまりを押し通してすませるなんて、いくらなんでも、私、納得いきません。つまらないテレビ番組はじっとがまんしていればそのうち終わりますが、刑部さんとあたしのいる現実は、もちろんいつか終わりはくるけれど、とうぶんの間ずっと続いていきますよね。刑部さんが、これからも刑部さんの現実をこんなふうにじっと黙ったままやり過ごしていくのは勝手ですが、あたしのからんだこの件についてそんな態度は許せません。何でもいいですよ。この前みたいに大声あげて私のことなじっても、いいんですよ。開き直るくらいのこと、してみればどうですか。できないんですか。刑部さんにできることって、女の子が捨てたペットボトルをなめるという変態行為だけですか」
ペットボトルが反射する光がネオンのようにきらめいて見えるのは、佑志の目に涙があふれてきたからだ。いったん終わると安堵していたところにふりおろされた棘のはえたナイフのような川瀬ひとみのことばは、佑志の心をすっぱりと切断した。家畜にでもなったような気分だった。この部屋から逃げられるならなんでもする。佑志は必死になって頭をめぐらせたが、結局思いついたことばはただひとつだけだった。
「どうも、すみませんでした」
ふりしぼったつもりの声も涙にせきとめられてみじめにかすれた。見られている気配は感じるが川瀬ひとみから何も答えが返ってこないので不安になり、額が机に触れるくらい頭を下げて佑志は繰り返した。「どうも、すみませんでした」
「わかりました、これで終わりにします」
言いながら、川瀬ひとみが立ち上がる気配がしたが、佑志は頭を下げたまま動けなかった。狙撃手が立ち去ったからといって銃弾を避けて転げこんだ穴からすぐに這い出せるわけがない。
「今日のことは誰にも話さないと約束します。この先、刑部さんとまた業務上コミュニケーションをとる機会があろうかと思いますが、何事もなかったように接しますので、刑部さんもそうしてください」
顔を伏せたまま佑志はうなづいた。川瀬ひとみはいったんドアに伸ばしかけた手を止め、振り向いた。
「最後にひとつだけお聞きしていいですか」
涙がようやくおさまりかけてきたようなので、佑志は顔を上げた。
「わたしのこと、好きですか」
驚いて、佑志は川瀬ひとみを見た。そこには佑志が知っているいつもの川瀬ひとみがいた。口元に浮かんだおだやかな笑みをまのあたりにしたとたん、佑志は、自然にうなづいていた。
「ちゃんとことばにして言ってください。わたしのこと、好きですか」
佑志ははっとする。ずっと響いていたはずの空調の機械音がとつぜん今始まったかのように耳についた。逃げようがなかった。
「好きです」
生まれて初めて佑志が異性に好意を伝えたことばは、ほこりっぽい空調の風に吹き飛ばされ、排水口に飲みこまれるはなびらのように瞬時に消えた。
川瀬ひとみは、佑志のことばが空気に浸透するのを待つようにほんのひと呼吸の間、佑志を見つめていたかと思うと、「それでは、お先に失礼します」と頭を下げた。
川瀬ひとみの口調やとしぐさがあまりにも自然だったせいで、佑志は、ついさっきまでのことはすべてまぼろしで、自分のデスクで川瀬ひとみと挨拶を交わしているかのような錯覚にとらわれ、いつもどおりの口調で「お疲れさまでした」と返してしまう。ドアが開いて、ゆっくりと閉じ、川瀬ひとみの足音が遠ざかり消えてしまうまで、佑志はじっとそのままでいた。
ロッカーからかばんと上着を出してオフィスに戻ると、残っていた経理課のスタッフもすでに退社しており、オフィスは無人だった。動くものがなにひとつないオフィス内をしばらく見渡したあと、佑志は照明のスイッチを切って廊下に出た。エレベーターを待ちながら、手の中のペットボトルを見た。そして、少し迷ったあと、かばんに押しこんだ。
ビルを出て、駅に向かって歩きながら、佑志の胸はこれまでに経験したことのない感情で満たされていた。それは、生まれて初めて女性に好意の気持ちをことばにして伝えたことが関係しているように思われた。一組の男女がよりそって歩きながら佑志を追いこして行った。今日は金曜日だ。恋人に会いに行く者、家族のもとに急ぐもの、飲みにでもいくのか、数人で連れだって騒ぎながら歩道に広がって歩くグループ。誰もが、それぞれの目的を胸に、足早に駅に向かっている。とつぜん、佑志は胃のあたりから得体のしれないものがこみあげてくるのを感じた。それは、哀しみでもなくせつなさでもなく怒りでも恐怖でもなく、むしろそれらがすべてあわさった、これまでの人生でないものとして心の奥にしまいこんでいたものが一気に噴出してきたようだった。苦しさのあまり、佑志は思わず足を止めて、小さなうめき声をあげた。そして、次の瞬間、ついさっき川瀬ひとみに伝えた好意のことば、その先には何もないのだという事実が頭上におおいかぶさってきた。空も何もみえない高い塀にはばまれたいきどまり。そこから何かが始まる愛の告白のはずなのに、タイトルバックだけを残してその先のフィルムは永遠に失われてしまった映画のように、そこで、すべては、終わりなのだ。その先には、なにもない。
佑志はふたたび歩きはじめた。歩道を足早に、人ごみをぬって突き進んだ。さっき佑志を追い越して行ったカップルの男に肩先が触れたがかまわず歩き続けた。男の舌打ちが背後でかすかに聞こえた。早く、早く。耳元で声が聞こえる気がした。早足から、いつのまにか駆け足になっている。駅ビルの明かりが見えてきた。カラオケの割引券を配っている金髪の女の子が、佑志を見て差しだそうとした手をあわててひっこめた。
駅ビルのエスカレータを上りきったところで、佑志は見えない壁にぶち当たったかのように足を止めた。川瀬ひとみがそこにいた。目の先の改札をちょうど抜けたところだった。慣れない運動に呼吸がはげしく乱れている。見失わないようにうしろ姿を視線でとらえたまま、佑志は改札に向かった。
川瀬ひとみは下りのホームに向かったようだ。誰かとの食事や何らかのイベントごとを予定している者たちは、ほとんどが繁華街を目指すので、上りのホームに向かうはずだ。今日の予定は中止で、自宅へ戻ろうとしているのだろうか。それとも、恋人とどちらかの自宅で会う予定なのだろうか。あれこれ思いめぐらせながら、佑志は、川瀬ひとみの後に続いてエスカレータに乗った。彼女の背中を見つめているうちに、高まっていた気持ちが、急にしぼんだ。彼女のあとをつけて、いったい、何をどうしようというのか。あの卑劣な行為について土下座をして謝罪しようとでもいうのか。それとも、もう一度、自分の気持ちをきちんとした形で伝えようとでもいうのか。佑志は思わず目を閉じて、首を振った。いずれもできるわけがない。そんな勇気などあるはずはなかった。ならば、さっさと上りのホームに向かって、自宅へ戻って、金曜の夜はいつもそうしているように、ひとりコンビニで買った酒でも飲んでいればいいのだ。にもかかわらず、こうして彼女の後をつけている理由を佑志は自分でも説明できなかった。ただ、すべてがこのまま終わってしまうことがただひたすらに恐ろしかった。
エスカレータを上りきると、ホームの中央付近に立つ川瀬ひとみの姿が見えた。近づきすぎると気づかれてしまうし、あまり離れてしまうと見失ってしまう。佑志は、彼女の隣の車両になる位置で足を止めた。
しばらくして、列車がやって来た。帰宅ラッシュは過ぎていたため、車内はさほど混んでおらず、シートにもちらほら空きが見られたが、佑志は座らずに、車両の端のドアにもたれた。連結部のガラスのむこうに、シートに腰をおろす川瀬ひとみの姿が見えた。彼女は、しばらく携帯電話をいじくっていたが、しだいにその表情がぼんやりとかすんできたかと思うと、携帯電話を手にしたまま、目を閉じて、眠り始めた。佑志から少し離れたところで、数人の男子高校生がはしゃぐ声が聞こえる。列車が何度かスピードを緩めて停止し、また走り出した。その間、ずっと、佑志は川瀬ひとみの寝顔を見つめていた。やがて、佑志は、胸の奥からあぶくのようなものが浮かんでくるのを感じた。生まれて初めて感じる、切ない気持ちだった。思わず、佑志は彼女から目をそらせた。目の前に小さな羽虫がせわしなく飛んでいた。しばらくあたりをさまよったかと思うと、佑志のすぐ目の先の吊り広告にとまった。広告には、草原の真ん中に置かれた白いベンチに若い男女が手をつないで座っている写真に、白い文字で「あなたに触れていたい人がいます」と印刷されていた。ふいに、あぶくが佑志の体を駆けあがって、目元が熱くなった。自分は、川瀬ひとみが入社して以来、毎日彼女の姿を見ることが楽しみで出勤し、ずっと彼女のことを考え続けている。にもかかわらず、川瀬ひとみに触れたこともないし、彼女から触れられたこともないし、この先おそらく永遠に触れることさえできない。それどころか、彼女のことを何も知らない。誕生日も出身校も、何が好きで何が嫌いなのか、彼女がどの駅で降りるのかすら知らない。
何度目かに列車がスピードをゆるめはじめたとき、川瀬ひとみが顔を上げ、携帯電話をかばんにしまうのが見えた。列車が停止すると、川瀬ひとみは立ち上がり、開いたドアからホームに降り立った。指先ですばやく目じりをぬぐうと、佑志はドアへ向かった。
川瀬ひとみから少し離れてプラットホームを歩く。背後で嬌声がした。さっきの男子高校生たちもここで降りたようだ。歩きながら、佑志は、まだかたまり切らない決意にもどかしさを感じていた。川瀬ひとみに、今日の卑劣な行為についてきちんと詫び、そしてちゃんと向き合って、自分の気持ちを正直に伝えるのだ。
川瀬ひとみが改札を出て、ロータリーに続く長いエスカレータに消えた。彼女の頭が見えなくなってから、エスカレータに乗る。声をかけるタイミングを誤ると、駅までついてきたことを気味悪がられてしまうので、慎重を期さなければならない。すぐ背後で、高校生のグループの一人が、執拗にお笑い芸人のモノマネを繰り返している。佑志の前には、川瀬ひとみの姿しかない。佑志の胸がとつぜん緊張ではりさけそうになる。鼓動が激しく打ち苦しいほどだ。しばらく佑志は息をひそめて耐えていたが、あまりのつらさに、早く終わらせてしまいたくなる。目の前に続く銀色の階段が永遠に思えるほど長く見え、佑志は我知らず、一歩足を踏み下ろす。背後で、甲高い叫びが聞こえた。反射的に振り向くと、高校生たちが、ふざけて一人を突き落とすふりをしたようだ。すこしいらだちながら佑志が前に向きなおると、こちらを見上げる川瀬ひとみとまともに視線がぶつかった。彼女の瞳は、はじめのうち、夢からさめたような、ぼんやりした色を放っていたが、すぐに、恐いものを見る目になった。佑志は、そっとほほ笑んだ。だが、完全に我を失っていた佑志の笑みは、川瀬ひとみの目には笑みには映らなかったらしく、彼女の表情はますますかたくこわばり、佑志をじっとみすえたまま、階段をゆっくりとおり始めた。佑志から目を離したすきに何かが起こることを恐れているように見えた。佑志は、その意味が自分でもはっきりわからないまま、ほほ笑みながら首を振った。そして、階段を降りて川瀬ひとみに近づいていった。川瀬ひとみの体が、ふいに、がくんと傾いた。とっさに伸ばした佑志の右手の指先が彼女の肩に触れた。違う。そう叫んだつもりだったが、佑志のくちびるからもれたのは意味のないかすれ声だった。にぶい音と、硬いものがぶつかる高い音がランダムに小刻みに響き、合間に短い声がした。高校生たちのふざけあう声が切り落とされたようにやみ、エスカレーターの機械音が急に大きくなる。遠くで大声がした。やけにのんびりした声だった。駅員が駆けよってくるのが見えた。
クリーム色の床に、はりつくように、川瀬ひとみがあおむけに転がっている。はだけたジャケットが蝶の羽のようだ。いつのまにか佑志は膝を抱えてしゃがみこんでいた。ゆっくりとエスカレーターに運ばれながら、だんだん近づいてくる川瀬ひとみの姿を茫然と眺めていた。自分がコンベアーの上の荷物のような気がしていた。駅員が、川瀬ひとみの耳に口を近づけて呼びかけている。モップを手にした清掃員が、佑志を指さして駅員に何かを訴えている。駅員が顔を上げ、佑志を見た。洞窟みたいに黒い目だった。
顔を隠すように覆いかぶさった髪の隙間から川瀬ひとみの口元がのぞいている。くちびるはあのきれいな薄紅色ではなく、あごにかけてべったりと赤黒く濡れている。かばんがいつの間にか佑志の肩からはずれて足元に落ちていた。ぷっくりと妙な具合にふくらんでいるのは、佑志と川瀬ひとみをかろうじて結びつけているペットボトルが入っているからだ。あのとき、もう少し川瀬ひとみが早くオフィスに戻ってきていれば、そのまま時計を彼女に返して、なにごともなくすんでいたはずだ。うまくいけば、彼女に感謝されて御礼を言ってもらえたかもしれない。そして、それを機会に気軽に話ができる仲になれたかもしれない。そのうえで、責めたり、責められたりではない、なごやかな時を二人ですごせたかもしれない。そんな佑志の勝手な想いは誰にも届くはずがないし、いくら目をこらして待っていても、川瀬ひとみのからだは、両手を大きく広げたままどこも動かない。
(了)