木曜日の星
下校時刻をとうに過ぎた校舎は怖いくらいに静かで、足音が妙に響く。長い影の横たわる渡り廊下は蜂蜜色に染まり、どこか人がいてはいけないような雰囲気に満たされていた。
つやつやした渡り廊下をぬけると、ひびの入った壁に囲まれる。旧校舎は窓が少なくてうす暗い。自然と歩くのが速くなってしまう。
(今日ダメだったら、もうあきらめよう……)
そういい続けて一週間。みちるは埃っぽい階段の最後の一段を踏みしめ、もう何度目か分からないその言葉を、もういちど胸に響かせた。目の前には錆びの浮いたドア。そこに貼られた紙には「研究生以外の立入を禁ず」とある。みちるは深呼吸をひとつすると、ひんやりとしたドアノブにゆっくりと手をかけた。
ひゅおおん。
ドアを押し開けて外に出ると、待っていたかのように風が通り過ぎ、みちるの髪を乱した。みちるは思わず目をつむってしまう。風の行く先、高いフェンスの向こうでは、さっきまで蜂蜜色だった空がほとんど藍色になり、星が見え始めていた。
◇ ― ◇ ― ◇
第二屋上。
この場所を知っている学部生なんて、きっと自分くらいのものだと、みちるは自負していた。がらんとした正方形の空間に、小さな電灯がひとつだけ、入り口のドアに寄り添うように取り付けられ、みちるの前に薄い影を作っている。四方を囲む鉄のフェンスは、ところどころ外れていたり、穴が空いたりしていて頼りない。
だんだんと肌寒くなる星明りの下、みちるはきょろきょろとせわしなく屋上を見て回った。砂埃の積もったアンテナの横、貯水タンクの下、側溝の隅まで覗きこむ。でも結果は昨日までと同じ。みちるは小さくため息をついた。
「……やっぱり見つからないや」
立ち上がり顔を上げると、星のとけあう空が視界に飛び込んできた。みちるは久しぶりに見る木曜日の星に、思わず見蕩れてしまう。誘われるように縁まで歩いてゆき、フェンスの途切れ目から空を見上げた。遮るものがなくなった星空は、今にも音が聞こえてきそうだった。
「下ばっかり見てたんだなぁ……わたし」
小さくつぶやくと、みちるは劣化した針金に手をかけ、ゆっくりと身を乗り出した。すこしだけ、星が近づく。みちるは、なんだかうれしいような悲しいような、不思議な気持ちになった。
ひゅおおん。
また強い風が吹いた。胸の奥の脆くなっていた部分がじかに揺らされ、息が乱れた。だから、踏み出した右足が空を切っても気がつかなかった。
◇ ― ◇ ― ◇
え……?
遠くに見えていたビルの列が、斜めに回って止まった。
「……ふぅ、あぶなかったね」
リコーダーのような声。振り向くと、女の子に手をつかまれていた。
「んしょっ、と」
ぐいっと引き戻され、肩を抱きとめられた。みちるは状況が飲み込めず、両目をぱちぱちするばかり。
「よかった。星を見るときは、気をつけなきゃだめだよ」
みちるから一歩離れ、そう言って小さくはにかむ女の子。すこし眠たそうな、夜空色の目をした子だった。
「みちるちゃん、だよね」
「あっ、えっ……と」
「あたし、ちひろっていうんだ。よろしくね」
◇ ― ◇ ― ◇
ちひろは陣取っていた望遠鏡をたたんで、隣を開けてくれた。貯水タンクの上にふたり並んで腰かけ、同じ空を見上げる。風は穏やかになり、みちるの呼吸もすっかり落ち着いていた。
「はい。探してたでしょ」
唐突に差し出されたちひろの手。そこにあったのは、みちるがずっと探していた、三つ星の髪飾りだった。
「これって……」
どうしてちひろが持っているのだろう。みちるは驚きを隠せない。だけどそれ以上に、髪飾りが見つかったうれしさと安心がいっぺんに押し寄せてきて、どうしようもなく瞼が熱くなってしまった。
「……ありが、とう」
ようやく搾り出せた言葉は、とても単純なものだった。
「どういたしまして。とってもだいじだったんだよね。最近風が強いから、また落とさないようにね」
ちひろはいいながら、淡い光に濡れた髪飾りでみちるの髪を留めてくれた。どこかうれしそうに光を増す髪飾り。みちるは散らかしっぱなしだった心がきれいに整頓されてゆくのを感じた。
「木曜日の星はちょっとかわってるから、不安でいっぱいの時は、あんまりじーっと見つめないほうがいいよ」
「そう、なの……?」
「うん。星にも、いろんな魔法があるからね」
手元の望遠鏡を短くしながら話すちひろ。垂れた髪から覗く夜空色の目には、不思議な光がたたえられていた。みちるはその光が気になって、ちひろの目を見つめてしまいそうになる。けれどそれはなんだかいけないことに思えて、すぐに目を伏せた。
◇ ― ◇ ― ◇
「あのっ、ちひろさん」
「あはは、先生じゃないんだし、ちひろでいいんだよ」
「えっ……うん。わかった。えっとじゃあ、ちひろ、ちゃん?」
「くふふっ、まあいっか。なあに?」
「その……どうしてわたしのこと、わかったのかなって」
「そりゃあ、ね」
ちひろは眠たそうな目をさらにとろんとさせて、遠くの星を見た。ゆるくウェーブのかかったショートヘア。ちひろの柔らかそうな髪が風に揺れ、星の光を甘酸っぱく反射している。
「ものってね、たいせつにしてくれた人のことをちゃんと覚えてるんだよ」
だから髪飾りを拾った時にすぐわかったのだと、ちひろは言った。小さい頃からちひろには物の記憶が見えるのだという。
「そうなんだ……」
みちるには、それはとてもすてきな魔法に思えた。それに、自分のたいせつにしていた気持ちが髪飾りにも伝わっていたと思うと、なんだかとてもうれしくて、自然と笑みがこぼれてしまう。
「あ、やっと笑った」
「え……そうかな?」
「そうだよ。ふふっ、かわいい」
「か、かわいくなんかっ」
「あははっ、やっぱりかわいいなぁ」
「もおーっ」
緩やかな風が通り過ぎる貯水タンクの上、同じ星空の下、みちるとちひろはだんだんと心を通わせていった。もしかしたら、これも星の魔法のおかげなのかもと、普段人と話すのがすこし苦手なみちるは思う。隣に並んで、星を見ながらのおしゃべり。みちるがクラスを訊くと、ちひろは「あたし定時だから、お昼には会えないんじゃないかな」と肩をすくめた。そんな木曜日の夜。
◇ ― ◇ ― ◇
「さーて、そろそろ帰るかなぁ」
ちひろが立ち上がりながら言った。
「えっ、帰っちゃうの?」
「うん。ねむたいしね」
ぽわぽわとあくびをするちひろにつられて、みちるも小さくあくびをした。顔を見合わせて、くすくす笑う。
「こんど来るときは、みちるちゃんも望遠鏡持ってきたらいいよ」
眠たそうにほほえみながら、リュックを肩に提げたちひろが言う。
「望遠鏡?」
「そうだよ。星読みの授業のときに、つくらなかった?」
「あっ、作ったかも。ちゃんと見えるかな?」
「もちろん。遠くの星が、きれいに見えるよ。そのときは、いろんな星の名前、教えてあげるね」
「えっ、ほんとに? たのしみ」
「あ、でもフェンスの向こう側は反則だよ。風が強くてあぶないからね」
タンクの上もずいぶんと反則の気がしたけれど、言わないでおいた。ちひろがみちるのことを心配してくれているのが伝わってきたし、なにより、人差し指を立てて注意するちひろがかわいらしかった。
「うんっ、わかってるもん」
髪飾りに手をやりながら、みちるは笑顔でこたえた。ちひろも小さくほほえむ。みちるは、またちひろの隣で星を見るのが楽しみで仕方なかった。望遠鏡はどこにしまってあったかな。そんなことを思いながら、みちるはもう一度、木曜日の星空を見上げた。