267話 黒い木の向こう側4 ●(ザビーネ他)
鐘の音で目が覚めた。
口臭がする。そう思ったが、歯磨き粉も歯ブラシもないのだ。
硬く四角い藁が詰められた枕とて、高級品のようである。
隣で寝ているのは、美雪。反対側には、定子だ。
やってしまった。子供が、できるんじゃないか。と、恐怖した。
どうしてこうなったのだろう。何気ない、日々だったのに。
2人とは、腐れ縁ではあるけれど。異世界に行きたいと、思った事などない。
立ち上がると、がさがさした四角い貫頭衣を着替える。2枚と毛皮の服を着て、匂いがする事に気がついた。洗濯機もないのだ。洗濯でも金を取られそうである。
寒い。暖炉はあるけれど、火が消えかかっていた。薪を入れて種火をつけようとするが、うまくいかない。こういう時に、魔術が使えると便利なのだろう。
拓也は、剣士。生活魔法でもあって、水やら火を起こせればいいのだが。そうもいかないようだ。
2人の毛布をかけ直しておく。暖炉の火が付いた。食事にしよう。
2人は、疲れているのだ。
木の扉に設えてある鍵を開けて、取手を引く。廊下は、押して開ける窓から光が入ってきていた。
しかし、薄暗い。
通路を左にまっすぐいくと、扉越しに嬌声が聞こえてくる。お盛んな事だ。
人の事を言えないのに、気がついて股間は元気になった。戻って、やるべきなのか。
突き当りで、階段があり、右に曲がって下へ降りる。階段は、木で出来ていてぎしぎしと音を立てた。
それから、正面が出入り口。
右を向けば、冒険者たちがテーブルで雑談をしている。
その正面で、ギルドの職員が受付をしていた。奥の方にある張り紙を見に行くと。
「おはよう。拓也、よく眠れたか?」
「あ、おはようございます。えーと」
プレートが胸元にある。そこには、ジョブスと書いてあった。禿げ男だ。
「ジョブスさん」
「朝から、クエストを探しに来たのか?」
そうだ。何の指示もない。この世界に来て、引きずられるままだったけれど、考えて行動するべきだ。
「そうです。何かいいクエストは、ありませんか」
と、言えばジョブスは椅子を指し示す。座れという事なのか。食事をしたい。
「お前は、まだこの世界に慣れていないのだろう? であれば、まずスキルの練習をしておいて損はないぞ。と言っておくが」
スキルの練習。まるで、ゲームのようだ。あまりゲームをしない拓也には、縁遠い言葉だ。
「そうすると、何か良い事があるのですか」
ジョブスは、羊皮紙を広げると。
「スキルには、系統列がある。剣士なら、『壁』『防壁』が最優先。お前のとこの女治癒術士なら、『回復』。すれた感じの女格闘士なら、『俊敏』『剛力』だな。これを上げているかどうかで、戦闘で勝てるかどうかが決まってくる」
なるほど。続けて、ジョブスは太い指を紙に走らせる。書いてあるが、何がなにやら。ごっちゃに見える。しかし、血管のようにスキルが広がっているというのはわかった。
「剣士なのに、槍を使っているのは適正的には合わない。しかし、戦闘経験がないのならそれはベストな選択だろう。そして、朝からやるのは弓とスキルの練習だな。弓で先制して、スキルと槍で圧倒する。これを忠実にやっても勝てないのが、魔物だ。ゴブリンやらコボルトといった連中なら、先に見つけて攻撃さえすれば勝てる」
弓と矢を射つのなんて、経験がない。やれば、できるとは思うのだが土壇場は結局のところ出来ない事も多い。練習しておくことにこした事はないだろう。そして、仲間が欲しい。
食事をしてからクエストを探す予定で来たが、話を聞いておこう。壁には、時計がかけられている。針は、7時を回っていた。時間に余裕は、ある。
「レベルがいきなり上がったからといって、強くなっているのかといえば微妙だろう。アイスラット共は、繁殖能力が高い。ボスを失っても、侮れん。矢よりも早く動く個体もいるしな。そう。お前を勇者と言ったのは、侮って言った訳ではないんだ。単純に、称賛だよ。ついてこい」
飯を食べるよりも、先に運動か。ジョブスは左奥へと進んで扉を開ける。2重の方式になっていた。
空気、さみい。
「トイレは、彼処だ。こっちが、修練場だ。弓の練習も、盾スキルの練習もできる。1人で練習するのもいいだろうな」
朽ちかけた小屋が、トイレ。
弓道場に近い様式と。その横では、剣を振っている男たちがいた。槍を突いている男もいる。
「ちなみにだが、アイスラットの討伐は失敗する確率が高くて生還率も低い。ここにいるのだって、どれだけ生き残って帰って来れるやら」
それほど強いようには見えなかった。簡単に、子供が倒してしまったからだろうか。
「剣士は、剣スキルを使わないのですか」
ジョブスは、高い鼻の上を掻く。
「いいや。『斬撃』『横薙ぎ』『二段斬り』な。ここらは、初心者がもっとも使うスキルで奥義に繋がってくる奴だ。皆殺しの雌羊が、お前らのとこに加わったっていう話も聞く。奴は、縦長の大剣を軽々と使うだろう? 恐るべき刃だよな。基本の『斬撃』から『斬撃刃』。そっから『斬空閃』『空破刃』なんてのに繋がっていくんだ。派生が有り過ぎて、説明しずらいとこだ。ひたすら、そのスキルを使う事で岩も山も斬る奴だっているらしいからな」
視線が、向けられている。どこから? 周囲の練習をしている冒険者たちからだ。
圧力じみて、のしかかってくる。そんな大した奴じゃない。弁解したい。
「ま、そんな高望みはしないでおいた方がいい。剣士で盾役としての力を磨くのがパーティーとしては正しいわな」
「では、盾役としての立ちまわりを教えてください」
ジョブスは、剣を振る冒険者たちを眺めてから元の来た道へと歩き出す。慌てて、それを追う。
皆、朝から修練しているのだ。拓也は、気だるそうに起きてきたというのに。
「盾役、か。盾は、厳しいよな。撤退の判断。攻撃するかしないかの判断。一撃で倒せるかどうか。正直、あの子供たちがラットやらオークやらを倒したって話。冗談だと思ってた」
そりゃ、そうであろう。拓也だって、子供の手から赤い光が出て巨大な魔物が吹き飛ぶなんて信じられていない。今でも、ここにいるのですら夢ではないかと思うほどだ。
「敵の耳目を集めて、かつ必殺の攻撃を持っていないといけない。相手からして、無視できるようなら盾役ですらないからだ。どうした? 内股で」
寒いのだ。それで、腹もごろごろ。
扉を開けて、暖かい室内へ入る。トイレは、外にある事を思いだした。
「トイレに行ってきます」
「そうか。落ちるなよ」
恐ろしい事だが、そのトイレは水洗ではなくて落ちていく方式だ。板をかぶせるようになっている。
見た事がないそれと、紙がなくて困った。どうやって、穴を拭くというのだ。
ポケットに、紙があるのを思い出した。ユークリウッドが、渡してきた紙。なぜ、渡されたのかわからないかったが今にして思い返せばトイレ用なのかもしれない。
寒い。尻が氷そうだ。糞も凍りそうなくらい。
扉は、止める棒で鍵の替りにしていた。糞は、どうやって始末しているのか考えたくもない。
紙は、そのまま下に捨てて木の蓋を閉じる。さっと戻ると、
「おっはよう。注文しておいたぜ。おっさんの奢りだってよ」
「奢りじゃあない。お前ら、まずギルドカード代すら払ってない事を思い出せ。全部、ミッドガルド持ちなんだからな」
「さーせんー」
定子は、真面目にやっていないのがありありだ。
飯は、暖かな湯気を立てている黄色いスープ。肉と野菜の色が見える。それに、丸い茶色のパンが皿に乗っていた。飲み物は、木のコップに注がれた物。茶ではないのだろう。
一口飲むと、ただのお湯だった。
「ところでさー。ここのトイレ、どこなの」
スープを口に入れる。おいしくない。パンを齧る。堅い。
「それなら、外にある」
定子は、驚くだろうか。きっと、びっくりして飛び込んでくるに違いない。ウンコに紙がないとか。
席を立つ美雪と定子に、紙を渡す。きょとんとした表情だ。
「なに、これ」
「持って行ったほうがいいよ」
美雪は、察してか口元に手を当てている。かあっと顔を赤くして可愛らしい。抱きしめたくなった。
「ふむ。どうやら、厠に不満があるようだな?」
あるに決っている。日本であれば、紙がついているのは当然なのだ。場所によっては、ウォッシャーという尻穴まで綺麗にしてくれる素敵な物までついていたり。座ったら寒くないように、温かい便座であったりする。
しかし、異世界にはないのか。ハイデルベルの冒険者ギルドは、ウンコすら凍りそうな寒さであった。
その上、紙がない。これほどの不便を感じた事はない。
っていうか、羊皮紙を広げる辺り。未開すぎる。
「ええ。紙は、ないのでしょうか」
「ないな。そのような高級品は、貴族でも使っていない。ここじゃ、縄か。水属性の術者でもいないとな。ミッドガルドと帝国は、違うらしい」
紙を使っていない事に、愕然とした。当たり前だからだ。その絶望は、深い。
ということは、ティッシュペーパーもない。ジョブスの鼻を見れば、でかい鼻くそがある。
鼻もかんでいないのだろう。
定子が、暗い顔をして美雪と共に戻ってきた。ショックだったに違いない。
「揃ったようだな。今日は、スキルの練習だ。狩りに行くには早いからな」
入り口の方向から、男がよってきてジョブスに耳打ちをすると。
「本当に、アイスラットの親玉を倒したようだ。今でも信じられない」
「そんなに、凄い魔物だったんですか?」
「元は、そんなに大きな魔物でもなかったらしい。だが、ある時から突然変異して巨大化した群れとそれを手足のように操るボスラットがでてな。討伐隊を送っても、送る度に全滅していたんだ。この分だと、本当にオークも掃討しているのかもしれん」
どのくらい強いのかがわからない。簡単に、倒していたからだろう。拓也にも、できるような気がしていた。
「見ろ」
決して暑すぎるという訳でもないのに、ジョブスは上着をまくって見せた。そこには、鍛え上げられた筋肉と無数の傷がある。
「ラットたちは、すぐに増える。倒しても倒しても、やつらは増えてくるんだ。そして、鎧を引き裂く牙と爪。ラットを仕留めた後には、死の10秒間という物が存在する」
「死の10秒間?」
暴れるという事だろうか。簡単には、死なないらしい。
「俺たちの攻撃方法は、基本的にボウガンか弓で先制する。その後で、殺り合う訳だ。矢が当たっても、平気で動き回るし、頭に当たっても油断できない。来るとわかっていても、身体が動かないでやられる仲間なんていくらでも見てきた。仲間をすぐに呼ぶし、数では勝てないし。もう、滅茶苦茶だったな」
スプーンで救うと、不味かった。臭みが取れていない。吐き気すら催すが、腹に入れないと空腹で死んでしまうだろう。
「ジョブが適正でなくても、弓で攻撃するんですか?」
「当たり前だ。矢で、出来るだけ相手を減らして『盾』やらガードスキルを削って壁系の魔術を温存しておく。突撃となれば、臨機応変よ。弓が持てないっていう奴なんて、生き残れんぞ。魔力なんて、すぐに尽きるからな」
おかしい。子供が、魔法を無尽蔵に撃っていた。
とすると、ユークリウッドとその仲間というのは桁が違うのだろう。今後も、仲良くできるのか怪しい。
拓也たちは、固有能力や固有魔法がなくて城からお払い箱にあったのだ。
「さっそく、ご飯を食べてからご指導をお願いします」
「ま~まて。お前ら、迷宮で何をしていた?」
迷宮で? 迷宮では、槍を地面に叩きつけたりオークに槍を突き刺したり、だ。
「なんか、槍と盾持って歩いてるだけだったな」
「冗談だろう。そんなで、レベルが上がるものか」
「いや、だってねえ。嘘じゃないよな?」
同意を求められても、困ってしまう。しかし、肩を持っていないと敵扱いだ。女の子は、困った事にそういう風にしか見ない。自分の味方か敵か。単純にできている。
「そう、ですね。大凡は、間違ってません。オークを槍で倒していたりしましたよ」
はっきりいって、危険だ。冒険者をやらずに生きていけるなら、やらない方がいい。
拓也は、何ができるのか。考えても、答えは出てこなかった。漠然と、学校に行き、友達と喋って授業を受けて部活をしていたけれど。満足していたし、取り立てて異世界で戦う理由なんてない。
止めるべきなのだろう。2人とも、口に合わないのか。スプーンが進んでいない。
ユークリウッドのメイドが作っていた弁当は、美味しかった。あれを、また食べたい。
「オークか。やつら、弓を使っていたか?」
使っていたのかよくわからない。すぐに敵が、死んでいた。値踏みされているのか。そんな感じがする。
「いえ」
「3人共、弓の経験は?」
ない。定子も美雪も帰宅部だ。中学までは、美雪が図書委員だったりする。定子は、バトミントン。
頭を横に振ると。
「そうか。それじゃあ、ちょっくら教えるかね」
ジョブスは、席を立つ。まだ、食べていないのだが。
「はい」
「飯は、ちっと作りなおさせよう。口に合わないようだしな。香辛料の類は、高いんだぜ?」
味がしていないというか。塩くらいは、欲しい。獣臭いのも合わない。
「ありがとうございます」「まあ、お代はあの坊っちゃんにつけるんだけどな」
また、借りだ。逃げられなくなるではないか。
背の高く筋骨隆々な男は、前へすいすい行ってしまう。後を追いかけると、後ろから2人が追いかけてくる。
魔術の修行は、どこでしているのだろう。弓を射っている人が見える。反対側では、まだ素振りをしている剣士の男が雪が降っているにもかかわらずいた。
ジョブスは、薄着のままだ。弓を手にして、
「こいつは、簡単な奴だが引いてみろ」
渡される。矢を手にして、引っ張ると驚くほど簡単に引っ張れた。普通は、硬くて動きそうにないのに。
「ほう。やはり、レベル21だけの事はあるな」
「はあ」
ジョブスもまた弓に矢をつがえて、放つ。藁人形の頭へと刺さった。
「こんなもんだ。弓で矢を撃ちまくれ。レベルを持っているなら、そう簡単に皮が破れるなんて事はねえよ。あと、装備を作っているからよ。寸法が合っているのか、後でチェックしよう。頭丸出しってのは、いけねえ。顔が見えなくなるかもしれんが、魔装を使えるまでになれば問題ない。それよりも先に、オーク共の矢が刺さって死ぬ可能性が高いけどな」
何から何まで、気の回る男だ。死ぬつもりは、ない。帰るのだ。暖かい風呂すら、貴重らしいし。
「何から何まで、ありがとうございます」
「ふつーは、こんな事をしねえ。勇者さまだから、やるのよ。それと、上の方針が替わったからな。使えねえ王には、呆れ果ててんだわ。これは、他の人間に言わないでくれよな」
矢の入った筒が、置かれている。これも、金ではないのか。
勇者と呼ばれて、逃げ道が塞がれているように感じる。
にこにこする美雪とやる気になっている定子に、胸が痛くなった。




