十二支英雄見聞録・中章・日常編第一節
私の作品を読んでくださっている心の優しい方、大変お待たせしてしまい申し訳ありません。こういった事が続くと思いますが、これからもお付き合いいただきたく思います。
では、どうぞ。
将斗は、戌月との生活を正直嘗めていた。思っていたよりキツい日々だった。
その理由は多々あるが一番は、なんというか、戌月はボディタッチが多いのだ。ボディタッチは、女性が気になる異性に自分の気持ちをアピールする方法の一つで、また、気になる相手を好きにならせるテクニックの一つである。戌月がこれを意識している訳ではなく、本能でしてくる。
犬は飼い主に懐き忠誠を誓う。戌月は何百年、何千年と将斗の魂に付き添っているので、そこいらの犬よりも高い忠誠心を持っていた。故に懐きも半端ではない。一日の殆どを将斗と一緒に居る。十二支の中では下の方のせいか自制ができていない。それだけならまだしも、自分の匂いを付けようとしてくるのか、戌月は頭や躰を擦り付けてくる。
恋人居ない歴=年齢の将斗には、それがキツかった。女性特有の柔らかさがダイレクトに伝わってくる。これで漫画等でよくある、良い匂いがしたら理性が吹き飛んでしまったかもしれないが、戌月はまだ糠臭かったので大丈夫だった。それでも十代後半将斗君は悶々とした毎日をおくっていた。これで本格的に夏場になり、戌月が薄着になった時、自分は人としての一線を超えてしまわないか心配になる。しかし相手は一口に説明できない人外。多分大丈夫だ。
他にも本能による問題はある。例えばよく一緒に散歩に行きたがったり、構ってもらえなかったら部屋を荒らしたりして気を引こうとしたり等々。そしてある事件が起きた。とある日将斗が昼寝をしていた時、戌月は空腹だった。戌月は食べ物を探していたが、調理をしなければ食べられないものばかり。戌月は料理ができないのだ。将斗を起こして何か作って貰おうと思ったが、前に昼寝を邪魔して怒られたのを思い出した。我慢できない空腹、でも怒られたくない。そんな戌月は何を思ったか、将斗の唇、もとい口の周りを舐めた。口周りの違和感に目を覚ました将斗は驚きながら、戌月の脳天にチョップを繰り出して奇行を止めた。その後将斗は、自分にあれは唇を舐められていただけ、ファーストキスではないと言い聞かせながら具を何も入れないインスタントラーメンを戌月に作ってやった。
犬は、愛情表現として飼い主の唇や口の周りを舐めたりする。しかし、その行動には別の意味もあるのだ。子犬等は空腹を訴える時、親犬の口を舐める。戌月の大胆な行動も将斗という主人に、餌を求める為の本格的行動であった。
今まで犬としての獣的本能による、ある意味事件を挙げてきたが、人間らしい部分もあった。将斗と霊慧丸が遊んだりしていると、焼きもちをやくことがある。霊慧丸と将斗は仲が良いのでよくじゃれあったりしているのだが、戌月とっては面白くないのだろう。自分が一番将斗に構って欲しいのだ。
前に起きた事だが、時期が少し早いトウモロコシを食べる機会があった。まだ夏本番ではないが、日々暑くなってきている。ある日たまたま宗光が手に入れてきて、茹でてくれた。時期が早いと言っても粒は大きく、立派な物だった。将斗は自室でトウモロコシを食べていて、勿論霊慧丸達にも分けた。が、一つ霊慧丸に悪戯を思い付いた。
トウモロコシは霊慧丸の好物で、夏が楽しみだとよく言っていた。将斗がトウモロコシを霊慧丸に見せた時は、涎を垂らしながら喜んでいた。手渡そうとして霊慧丸がトウモロコシを掴もうとしたタイミングで、自分の頭の上くらいの高さに上げる。霊慧丸の身体的スペックは幼い子供と変わらないので、将斗の頭の上の高さは道具を使わないかぎり絶対にとどかない。愛おしいトウモロコシを追い掛けてピョンピョン跳ねるが、まったくとどかなかった。そのうち将斗の躰を攀じ登ろうとしたり、ポカポカと叩いたりしたが腕力が無いので意味が無い。いつもの霊慧丸なら言葉を使うだろうが、好物を目の前でお預けをくらい、それを手に入れようと行動しか起こさなかった。そして体力が限界に近づくと、霊慧丸は涙目になっていて、その顔がとても可愛いらしかった。完全に泣く前にトウモロコシを与えると、一心不乱に噛り付いた。お預けを食らっていてやっと有り付けたトウモロコシに喜んで、気がゆるんで変化が少し解けたのか、いつもは出してはいない本来の狐の耳や尻尾をだらしなく出しながら味わっていた。その姿もまた可愛いくて、将斗はほっこりしながら霊慧丸を見ていた。
それを見ていた戌月は、やはり焼きもちを焼いた。将斗は自分の物だと主張するかのようにくっつき、霊慧丸に威嚇する。引き剥がそうとしても、将斗の胸に顔を埋めて拒否する。最終的に宗光に怒られるまでそのままで、将斗はかなりの迷惑を感じていた。
結論、人間側としての戌月は焼きもちをよく焼く重たい女だった。愛の証にタトゥーを入れたい等とはまだ言わないが、肉体的年齢にそぐわない行動がうっとおしかった。
前世の記憶が殆ど無い将斗にとって、戌月の、十二支という生物の情報は己の眼と、前世の自分が残した手記と、霊慧丸等の存在しかいなかった。自分の眼で得られる情報は心元無く、手記はちゃんとした情報があるものの、ただ戌月とのイチャイチャした日々を記した物でもあった為、役に立たない事が多い。
「というわけでたまちゃん。十二支って動物より? 人間より?」
「いやどういうわけで?」
ソファーに座って一緒にテレビを見ていた霊慧丸が首を傾げた。戌月は床に座り、将斗の膝に擦り寄っている。今は平日の昼過ぎ、宗光が帰ってくるまで後二時間くらいの余裕があるので、戌月は耳と尻尾を出している。前にも言っていたが、彼女はこれが一番落ち着くのだ。
霊慧丸は将斗の質問に、小さい顎に手を当てて考える。霊慧丸は機嫌が悪くない限り、どんな質問でもちゃんと考えて答えてくれる。「ふむ……どちらかと言われれば獣よりなんじゃないのか? 元々獣の姿だったんだし」
「そうなの?」
「十二支守護獣って名前なんだぞ。獣として産まれて、成長し、契約者とよりコミュニケーションを取る為人の姿に化ける能力を得た。ワシだって三百を超えた頃に化ける事ができるようになったしの」
「ごろさんは? 化けれるの?」
「あー…アイツは、『緑色がマイアイデンティティー』とかほざいてあのまんま。まあ遠目から見ればなんとか人間に見えなくもないから、あんま厳しく言った事無いけど」
霊慧丸の話を聞きながら、戌月の頭を適当に撫でてやる。彼女はこれをしていれば大抵尻尾を振って御機嫌になる。
「ふーん、じゃあこいつは元々ただの犬?」
「ただの犬って心外っスぅ〜」
御機嫌でふにゃふにゃの戌月の声のトーンは、心外という言葉にはまったくあっていない。
「ワシら観測組や護衛組と違って十二支は上位の存在とされている。ワシはただの狐だが、戌月は凄いぞ。人間なんかより大きい山犬だ。昔の人間は、戌月の獣の姿を見て、その大きさと神々しさに記憶があやふやにされながらも戌月を神格化したり、神の使い、神使として崇めたりしていた」
神々しさやら神使やら、なんとも信じがたい話だ。今将斗に身を預けている戌月を見たら、昔の人間の信仰心なんか圧し折られるだろう。現代の人間が戌月を見ても、アキバ系のイタイ娘か、頭がイタイ電波娘にしか思わない筈だ。まあそのアキバ系の人ならば、リアル獣耳の戌月を信仰してしまうかもしれないが。
それこそ狐であり、化ける時がそれらしい霊慧丸の方が崇められてもおかしくないと思う。
「いやいや、ワシなんてそこら辺の野生とかわらんよ。昔何回狩人に狙われた事か」
自虐的に笑う霊慧丸の顔は、どこか影があった。なんでも狐としての霊慧丸は、他の大人の狐より小柄らしい。なので若い狩人の練習として狙われたり、他の狐に虐められたり、上位の捕食者に狙われたりエトセトラ。過去には基本温室育ちの将斗には想像できないトラウマがあるのだろう。
そんな敵だらけの人生を生きていた霊慧丸にも、仲間内以外の味方が出来た事があった。まだ五郎左衛門とコンビを組む前、例のごとく狐に虐められて、満身創痍だった霊慧丸を救った人間が居た。人間に狙われるのは日常茶飯事でも、救われるという体験は初めてであった。
「もしかしてのその人が?」
「その通り! 宗光さんと顔がそっくりの、愛しい人。宗光さん、性格もそっくりなのだよ」
先程まで感傷に浸っていた顔が、恋する乙女の表情となっていた。宗光の前では霊慧丸も、戌月の事を馬鹿にできない。戌月のように宗光に引っ付いて回り離れない。自室を与えられているのにもかかわらず、夜は宗光と同じ部屋で眠る。
宗光自身も霊慧丸を将斗のように可愛がっており、基本的に好きにさせていた。二人の気の合い方を見るかぎり、もしかしたら宗光は霊慧丸の初恋の人間の生まれ変わりかもしれない。
聞いてもいないのに、その人間の語る霊慧丸。こうなると年寄り同様話がかなり長くなる。流石にうんざりするので、聞き流して戌月に耳打ちする。
「なあ、お前って今も犬になれんの?」
将斗は内心期待していた。それほど迄に大きい犬、抱き付いてみたり乗ってみたいいと。小さい頃、昔のアニメ映画に出ていた大きい山犬に憧れていた時期があった。その夢が叶うかもしれないと、期待しているのだ。
しかし、戌月の答えはノーだった。
「それは無理っス。私達は眠りと目覚めを繰り返しているので、将斗様達の記憶とおんなじで能力が劣化してるっス。今の十二支に獣の姿に成れる人は多分いません」
「んだそれ。ポンコツじゃん」
古いビデオかよ、と。興がそがれた将斗は、戌月から手を離し自分の頭の後ろで組んだ。
「私ポンコツじゃないっス〜!」
今度こそ心外だと言わんばかりに泣き付く。くぅんと鳴くのは将斗の言葉にたいしてか、撫でられるのを止められたからか。
「おいお前等。ワシの話をちゃんと聞かんか」
自分の話を無視して、いちゃつく二人をギロリと睨んだ。霊慧丸は話を無視されるのを嫌う。人間態の霊慧丸は若々しいが、中身は年寄りのままだ。よく宗光の前であんなに猫かぶれるなと心から思う。
ごめんごめんと謝る将斗に、怒られてしゅんとする戌月。戌月は今、床ではなく将斗の隣に座っている。しかも肩にもたれかかるようにして。どんだけだよ、そう呟くのはやはり将斗だった。やっと静かになったので、霊慧丸は再び語り始めた。
「えーコホン。昔狐は色々と需要があってな、肉は食用になったり毛皮も売れた。だけど彼はワシを殺すさず、助けてくれた。それからじゃあ、ワシの人生最大の幸せの絶頂期が」
――ピンポーン。
イキイキと語る霊慧丸を遮るように、インターホンが鳴った。
分かりやすく霊慧丸の前髪を上げ、曝された額に青筋が浮かぶ。怒っているのだろうが、霊慧丸の顔では迫力がかなり欠如しており、更に怒らせたくなる物であった。
この状態の霊慧丸を玄関に行かせるわけにはいかないので、彼女が動く前に将斗が玄関へ向かった。無職の将斗はよく家にいるので、この家に人が来る時間は大抵把握しているが、この時間帯に人が来るのは珍しい。まさかまた詩織か? などと予想をしてる間に玄関に着いた。
ドアを開けると、そこには、
「やほ」
河童が立っていた。少し懐かしさを感じる五郎左衛門が、人の良い笑顔で右手を上げて挨拶をしてきた。
「いやー、やっぱ寂しかったから山降りてき」
セリフを最期まで聞かず、将斗は勢いよくドアを閉めた。何故だろう、辰雷並みのめんどくささを感じてしまった。故の行動だった。
再びドアを開ける事無く、将斗は居間に戻った。面倒に巻き込まれないように、早足で。居間には未だ青筋を浮かばせている霊慧丸が仁王立ちで立っていた。
「誰だった? ワシの話を遮った不届き者は」
「んー…なんというか、緑色のコスプレイヤー」
「なんだそれ? 緑色のコスプレイヤー?」
――ピンポーンピンポーンピンポーンピンピンピンポーン!
霊慧丸が首を傾げたと同時に、ピンポンラッシュが部屋に響いた。
「おいまっつぁぁぁん! 戌月ーっ! 霊慧丸様ーーっ! 開けてー、開けてー! 居れてーー! もう孤独は嫌だぁぁぁぁ! もう嫌なんだぁぁぁ! 死ぬぅぅぅ! 孤独死するぅぅーーーっ! 妖怪オタクの宝、河童が孤独死しちゃうよぉぉ!? 人によっては河童ってツチノコと同じ価値があるんだよぉぉぉ!!」
五郎左衛門の魂の叫びが近所迷惑のレベルで聞こえてくる。余程淋しかったのは十分伝わるが、正直なところかなりウザい。
将斗は、あぁあいつか、という顔をしている霊慧丸にどうするかを促した。
「ほっといてもそのうち勝手に侵入してきそうだからなぁ…しょうがないから入れてやって」
霊慧丸の指示に従い、情けなく泣き叫ぶ河童を家に招き入れた。再びドアを開けた時の五郎左衛門の顔は、軽くトラウマになりそうだった。
淋しさから解放された為嬉々として居間に入ったが、霊慧丸の怒ってますよオーラが充満している事に気付き少し後退った。
「ごろさんお久しぶりっス!」
「あ、おー、久しぶりー……」
ここで空気を読めない犬娘が気の抜けた挨拶をしたが、五郎左衛門は霊慧丸から眼を話せない。子供のような見た目をしている霊慧丸といえど、五郎左衛門の上司にあたる事にかわり無い。いつの時代も、起こった上司は怖いものなのだ。
「おい五郎左衛門。なんでお前ここに居る? 山で留守番って言ったろ」
「……孤独に耐えれませんでした。霊慧丸様だけズルいっスよぉ! まっつぁん家に転がり込んで、オイラだって人肌恋しいんですから!」
「河童をどうしろと。なあ将斗?」
「狐ならまだしもねぇ……たまちゃん狐として飼ってないけど」
「差別反対!」
四つんばいで涙ながらに床へ咆哮を上げる五郎左衛門。傍で心配そうに見つめる戌月だが、見つめるだけで何もできない。馬鹿は馬鹿なりに、この状況に介入しても意味は無いと理解しているのだろうか。
「霊慧丸様は良いよなぁ……狐の姿でも人間の姿でも可愛らしくて。それにロリだし。詳しくはロリババアだけど。そりゃあ時代によっては生きづらくても、今なら可愛がって貰えるわ。現代日本はロ●コン多いし、俺だって見た目ロリだったから下に付いただけだし。無知な奴は狐が可愛いだけだと勘違いしてるだろうしなぁ。いいよなぁ、ロリババア優遇は」
「なんか今、失礼な事と知りたくなかった事ラッシュでぶっちゃけられたんだけど」
グチグチと上司の愚痴、というか九割悪口を吐き出した。だがしかし、全てがただの悪口というわけではなく、真実を射ぬいているものもあった。
霊慧丸が宗光の許可がおり、この家に人の姿で住めるのも、その外見の幼さにあった。自分の娘が幼女趣味が無いのは十分承知していたし、なんだか近くに居ても悪い気がしないので良しとした。逆に宗光は戌月に悪い気しかしておらず、彼女は肩身の狭い生活を強いられている。
「ははは…まっつぁんには分かんねぇよな」
「え? なに、今度俺すか?」
「契約者なんぞ、十二支が目覚めれば眠りにつくまでリア充生活が約束されるもんよ…それにプラスまっつぁんは霊慧丸様まで居る。ロリババアとお馬鹿犬耳娘って、萌え泥棒か!? ラブラブエンドやら妊娠エンドとかしたい放題じゃないか! それに比べて河童重要は殆どない! もう河童と言えば薄い本の淫乱河童娘と東●のに●りくらいしか需要がない! 最近オイラ、ミ●レタって奴に間違われたぞ。なんだよミ●レタって、確かに見られたけども!」
「知らないっすよそんなこと……つか妊娠エンドってなに!? こいつ妊娠出来んの?」
こいつとは戌月の事を指す。何故か頬を赤らめてもじもじしていたが、無視した。
「出来るに決まってんじゃん。人間態の時は、躰の構造もほぼ人間だからな。確率はかなり低いが、生殖行為をすれば子供を成す事ができる。過去に契約者と子供作った奴もいたし。因みに生まれた子供は普通の人間として天寿を全うする。というかワシだってガキ作れるんだぞ。女の子の日だってちゃんと来てるし」
「あー……なんかいつの間にかトイレに増えてた小さいゴミ箱って、そーゆー意味だったのか…」
今まで男二人暮らしだった将斗は、そういう事に疎いのだった。
十二支の中に契約者と子供を作ったと言ったが、それは一体誰か。まさか過去の自分ではないか、と将斗はこめかみを人差し指で掻きながら考えた。十二支達が目覚めれば、平均として何日くらい起きているかは分からない。手記を見るかぎり前回は二年半。そして気持ち悪いくらいイチャイチャしていたのはよく分かる。その間に、所謂既成事実があり、子供が出来た。手記に書いていないので、可能性は限りなく低いが思わず考えてしまう。
そんなifとも言える可能性が、今起こったら。自分は一線を越えないと父に断言したが、それこそifが起きてしまうかもしれない。こんな事を意識したのは、将斗が戌月を〝雌〟ではなく、一応〝女〟だと認識したからであった。
こめかみを掻いていた将斗の腰を、霊慧丸が叩く。
「?」
「分かったと思うが、戌月も女なんだよ。ちゃんと優しくしてやれよ。お前、冷たいっつーか、よそよそしいからな」
「そんな事言われてもな……」
「簡単だよ。分かったなら、相手を再認識。宗光さんの息子なんだ、女の子って分かってれば優しくできるだろ?」
霊慧丸の眼は時折、教え子を見るような眼になる。将斗が義務教育と高校の中で出会った事のない、正しく本当に良い先生に部類される者の眼をする。将斗が今まで出会った教師は、ガラスのハートの学生に直ぐインターネットの掲示板にクズ教師と書かれそうな者か、生徒には興味が無い事をしまい込み、良い先生ぶる偽善者しかいなかった。どこにいっても良い部類はレアなので、将斗は教師に女々しく悲観し、しつこく陰口を言うような事はしなかった。
「そうは言われてもさ…」
親愛なるたまちゃん先生のお言葉を無下にはしたくないが、
「いやぁ、子供を作るなんてそんな恥ずかしい…でも将斗様が望むならば私は……ウヒヒ」
妄想を垂れ流して気持ち悪い笑みを零す戌月に、心から優しくするにはかなりの努力を必要とするかもしれない。戌月は稀に、将斗が生理的に受け付けない言動や行動をする時がある。これはまだ軽い方だ。彼女もまた、昔の将斗と同じでいき過ぎた愛の狂信者なのかもしれない。ペットは飼い主に似るのだ。
「ぶっちゃけ、優しくするしない以前に、あいつに近づきたくない時がある」
赤らめた頬に手を当てて恥ずかしがっている戌月を見る将斗の眼は、霊慧丸の眼と対照的に冷たかった。
「うん、なんというか…うん頑張れ」
「頑張ってるから辛いんだよ、たまちゃん。頑張れって言葉は凄く残酷なんだぜ」
「ごめん。無責任な事ドヤ顔で言ってごめん。正直嘗めてたわ、色んな事を」
将斗違って霊慧丸は、戌月の事を暖かい眼で見ていたが、それはどちらかというと生暖かいものだった。
戌月が二人がドン引いているのに気付き、居辛いそうに耳をへたらした。
「うぅ……なんだかお二方の眼が怖いっス。優しくして欲しいっス! さっきそういう話してたじゃないスか! 私だって優しくされたいです!」
「だって犬の飼い方に甘やかすと飼い主を下に見るって書いてあったし」
「犬だけど普通の犬扱いは勘弁して欲しいっス!」
戌月との同居が決定した時から、将斗の犬の躾情報に死角はない。
「優しくして欲しいなら、芸の一つでも覚えてみろ!」
「う、うっス!」
「良い返事だ。だったら今からお題を出してやるから、出来たら今日一日引くくらい優しくしてやるし、可愛がってやる」
将斗が提示した条件に、戌月は内心ニヤリとほくそ笑んだ。
戌月は確かに犬。だが、普通の犬とは決定的な違いが多数ある。一番の違いは、飼い主もとい契約者と完璧なコミュニケーションを取れること。いや今もあまり取れていないが。会話をし、言葉を完璧に理解できない時もあるが、殆ど分かる為ちゃんと指示通りに動ける。なのでお手は勿論の事、普通の犬のすることならば出来る。玉乗りを要求されても、持ち前のバランス感覚で軽くこなしてみせる自信がある。
なんでもドンとこいと言わんばかりに鼻息を荒くした。少し準備してくるといって台所に向かった将斗。戌月は飼い主が持ってきた更の上に置かれた物に、悪い意味で釘付けになり、固まった。
「芸として食ってみろ。食えたら約束通り可愛がってやる」
将斗が持ってきた物。それは、皮一枚剥かれただけの玉葱に、溶かしたチョコレートをかけただこという、料理の名を語ったら料理に失礼な何かだった。創作料理にも謝ってほしい。
チョコレートと玉葱。この二つは犬が食べてはいけない物の代表だ。玉葱、もとい葱類は犬の赤血球を破壊する物質が含まれているので、食べると貧血などの症状を起こす。チョコレートは犬には有害で動悸や血管の収縮などの原因となる。他にもカレー等のスパイス類や、コーヒーと紅茶、消化の悪い海鮮類、菓子、熱いものも駄目だ。
戌月は犬であるが、十二支であるがゆえこれらに耐性がある。カレーは辛いからあまり好きではないが食べられる、コーヒーは苦いからあまり飲まないが一応飲める、勿論紅茶もだ。菓子は大好きだ。熱いのも海鮮類も、苦手なだけ。だが、玉葱とチョコレートは絶対駄目。
玉葱は過去に、チョコレートは詩織の家で食べた。玉葱は事故で食べただけだが、チョコレートは匂いにつれられ口に含んだ。その後は大変だった、直ぐに酷い吐き気に襲われたのだから。その吐き気は胃の中身が無くなってもおさまらず、数時間続いた。それにより、玉葱とチョコレートは戌月の中で絶対に食べてはいけない物にカテゴライズされた。
それが今、目の前で合体した何かとなって差し出されていた。これは悪魔か、戌月の眼が分かりやすくキョどる。
「こ…こここ、こここりぇおどうしりょとととと」
「言ったろ? お食べなさい」
「でも芸をしろと、いいいったじゃないでぃすかかかか」
「普通の犬ができないこと。つーか飼い主がやらせないことをするんだ。立派な芸だから」
世間ではそれを芸ではなく、虐待という。
「…………」
将斗の横暴な言い文句に言い返さず、ただ黙って皿を受け取った。皿に乗っているチョコ玉葱と将斗の顔を交互に見る。
食べられる筈が無いと、将斗は思っていた。あの反応から考えて、食べた事がある事を確信できた。犬は、自分の躰に危険な食べ物は二度と食べないという。戌月にもその本能があるだろうから、食べれない筈なのだ。
匂いを嗅ぐだけで辛そうなのに、震える手でチョコ玉葱を掴んだ。眼には涙を蓄めていた。口をパクパク開けたり閉じたりしているが、それ以上はいかない。やはり駄目か、そう思った時戌月は眼を見開いた。
「南無三!」
「さっきから河童空気なんですけどォォォ!」
戌月の必死の気合い一発の一声と、放置されていた五郎左衛門の哀の雄叫びが重なりあった。その声を聞いて、将斗は五郎左衛門の存在を思い出した。
「河童はなぁ、淋しさがある一点を超えると死んじまうんだよォォォ!」
「それ河童じゃなくて、もはやウサギとかハムスターじゃないすか」
「寧ろ死ねよ」
「酷い! でもなんだろう、ちょっと興奮する」
霊慧丸の暴言に興奮した為、五郎左衛門は緑色の顔を紅潮させる。警察官が見たら、お仕事をするしかない表情をしている。
「俺まだごろさんと少ししか絡んでないけど、キャラ変わりすぎじゃね」
「孤独のせいだよ。孤独って奴が、オイラを変えちまったんだ」
「なんでちょっとかっこつけてんだよ。キモいなおい」
「暴言を吐く幼女…ハァハァ……」
どうやら五郎左衛門はMのようだ。駄目だこいつと、ため息を混じらせながら霊慧丸は黙りを決め込んだ。淋しさに毒され、狂ってしまった五郎左衛門に何を言っても無駄だし、何よりキモい。
と言っても、将斗の家に来た当初は霊慧丸もこんな感じだった。五郎左衛門以外の人物と話が出来る嬉しさを噛み締めて、ペラペラと喋ったものだ。
「つかごろさん、いつまで居るんすか」
「できるだけ居るぜ。というかずっと居たいんだぜ」
「ノーサンキューですよ。どうしたら帰ってくれるんすか?」
「えっ、邪魔? オイラ邪魔? しいていうならオイラもこの家に置いて欲しいんだけど」
「ちゃんと自覚してるのに家に居たいとか…もう家にはたまちゃんと飼い犬が居るんですよ。無理ですわ」
「じゃあどーすればいいんだよ! 俺はこのままだと二時間に一回のペースで来ちゃうよこの家に」
二時間しか我慢できないとかどんだけだよ。心中に浮かんだ言葉を飲み込んでどうするか考える。眼で霊慧丸にどうしようかと問うが、両手を上げてお手上げのポーズをした。面倒なのが住み着いてしまうのか、しかし、直ぐに将斗の悪知恵が働く。そうだ、淋しいだけなら他人に擦り付けてしまえばいい。
思い付いた将斗は自分の部屋にある物を捜しに向かった。捜し物は簡単に見つかり、居間に戻ると五郎左衛門に手渡した。それは、詩織から受け取った紙だった。
「ごろさん、ほい」
「何これ」
「寅の人達が住んでる住所。可能性として行ってみてよ、もしかしたら住ませてくれるかもよ」
「へぇ。だけどあの寅果が許してくれるか?」
「契約者の姉が優しいから大丈夫ですよ。淋しいんだったら、ガンガンいこうぜして可能性を掴み取るべきですよ」
渋る五郎左衛門を半ば無理矢理言い包める。しつこく食い下がるかと思ったが、意外にも簡単に承諾してくれた。五郎左衛門自身もお呼びでないのが分かっているのもあるが、霊慧丸が無言の圧力をかけているのが効果的だったのかもしれない。
一応五郎左衛門を玄関まで見送った将斗と霊慧丸。少し淋しそうだったが、意気揚々と木嶋屋へと向かった五郎左衛門、はたしてどうなるか。
「多分、ここと違って肉体的か精神的かのどちらかをボッコボコにされて追い返されるだろうね」
「寧ろそれ希望」
この言葉が聞こえなかったのが、五郎左衛門には幸か不幸か。
厄介者と言っても過言ではない存在を追い返して、ゆっくりとした静けさを取り戻した事に安心しながら居間へと戻る。
「…………」
「…………」
そこで発見したのは、床に力無く倒れている戌月。手に持っていた皿には玉葱は無く、更に皿に付着していたチョコレートさえも舐めとった跡がある。チョコ玉葱はどうやら、なんとか戌月の胃におさまったようだ。そういえば、五郎左衛門と会話している時に何度か嗚咽が聞こえていたような。
青い顔をした戌月が引きつった笑みを作る。
「全部…た、食べました……うぷっ」
酷い拒絶反応に襲われるのは本能が告げ、その本能が止めろと言っていたのに食した勇気と根性は何処から来たのか。答えは簡単だ。飼い主の将斗に優しくして欲しいから。これもまた、彼女なりの将斗の愛し方だった。愛しい人の望む事ならば、身を投げうって実行する。良くて一生懸命、酷ければ病的な愛と表現される行為こそが、戌月の究極の愛情表現、忠誠が証なのだ。
将斗は約束を守った。今日と明日一日、吐き気に苦しむ戌月を優しく看病してあげた。戌月は死んだ眼をしながらも、幸せそうだったという。
*
五郎左衛門が木嶋屋に到着したのは、辺りが真っ暗になった夜であった。五郎左衛門が本気で走れば直ぐに到着できる距離だったが、一目が少ない夜に移動した方がいいと判断したからだ。そして今木嶋屋の中、ではなく木嶋屋の裏。五郎左衛門が正座して、寅果が見下ろしている。
「で? たまちゃんに見放されてボク達の所へ厄介払い、と」
「……はい」
「厄介払いされた身の構ってちゃんがよくここにこれたね。厄介払いされるくらいなら、どこに行っても同じ扱いだろうに」
「……はい」
「他人の迷惑、考えずに来たの? もう何百年も生きてるのに、モラルを知らないのかな」
「……すみません」
「謝るって事は分かってるって事でしょ。なのにするとか。そこいらのナリヤンレベル、人の迷惑考えない頭足らずと一緒だよ」
「……あの、テンションがうなぎ登りだったので」
「それが、なに?」
「……ごめんなさい」
「謝れば許されるって考えは、世間知らずの子供しか通用しないんだよ」
寅果の日頃溜まったストレスと、猫科の生物が持つSっ気によって、五郎左衛門は見事な土下座を見せてから山に帰ったとさ。