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十二支英雄見聞録・第二章・玄武討伐編第三節

 将斗達が玄武と遭遇した同日、木嶋屋にて。

「ホント、君見てると羨ましくなるよ」

「…………何がだね?」

 今日は木嶋屋が休み。詩織と理音は出掛けており、居間には寅果と、遊びに来ていた辰雷が居た。狐狗貍が減った昨今、不謹慎だが十二支達はわりと暇だった。色々な所を遊び回っている十二支すらいる状況だ。辰雷もその一人であった。

「どうやったらそんなグラドルみたいな体型になれるんだが……」

「かーっ、またそれ? そんなジト眼で文句たれられたって、どうすることもできないざんす」

 所謂マッチョというほどではないが、十二支の雌の中で特に筋肉質の寅果はよくこういったネタで辰雷に愚痴る。入浴の際服を脱げば、いやでも洗面所の鏡に自分の裸体が映る。見なければいい話だが、たまに見えてしまう自分の堅そうな二の腕やら、薄く割れた腹筋やらが嫌になる。同じくらい鍛えている筈の戌月や辰雷は女性らしいラインやらがちゃんとあるのに、どことは言わないが自分のは貧相過ぎると悩む日々であった。

「いや同じくらい鍛えているっていいますがね、ちゃんと私だってやってますよ? トレーニングとか。この躰保つのだって大変なんすよ。でもねーちゃんのはやり過ぎ。減量中のボクサーみたいなことしてんじゃん」

「だって昔からの習慣だし」

「どんなことにも適量やら限度つーのあるっしょ。この時代で初めてあった時とかめっちゃ笑顔で、燃焼三十分以内に飲まなきゃ効果無くなるんだよ! ってプロテイン飲んでたじゃん」

「だってあの時はさぁ、まだなんでも現代の物が輝いて見えてて……プロテインスゲーってなってたんだよ……」

「今も飲んでんの?」

「……飲んでます」

 少し恥ずかしそうに応えた寅果を見て、肩をすくめる辰雷。じゃあ飲まなければいいんじゃない、と言ってしまえば簡単だ。しかし寅果は十二支の中でも真面目な性格、始めたことはほぼ習慣になり、中々止められなくなる。

「まーっ、いーんでねーの? そこまでムキムキじゃないんだし」

「できればちょっとぽっちゃりに憧れてる……」

「おいおい、それマジに言ってんの?」

「フフフ……腹筋割れのまな板よりマシだよ……裸にオーバーオールが似合いそうな君の豊満な肉玉が妬ましいよ……」

「あっ、ねーちゃんまたストレスたまり始めてんな? キャラ変わってきてるよ。つかしねーよ、そんな痴女コスプレ」

 寅果はストレスが過度にたまると暴走する。暴走すると言っても、殆ど大声を上げてわめき散らしたりするだけだ。暴走とはたまったストレスを一気に発散する方法の一つ。思い切り怒った時の、泣きたくなる感覚に似ている。そして寅果はストレスがたまり始めた兆候の一つとして、分かりやすいのがこの性格キャラ崩壊。十二支の中でも交流がある辰雷は他にも色々と知っている。苦労する立場の寅果の意外な愚痴の吐きだめが辰雷であった。苦労を掛けている自覚はあるので、辰雷はこの立場を甘んじている。

「そりゃあストレスはたまるよ。むしろたまらなきゃおかしい……十二支や契約者って性格に難ありの人ばっかだし、長男と長女はまとめようとしないから必然的にボクやんなきゃいけないし」

「性格に難ありって美空だよねやっぱ」

「君もだよ」

「え゛」

「というか陽組でまともなの空午だけじゃない? あとは馬鹿正直さなんかを眼を瞑った戌月とか」

「……アレ、自分のこと含めないんだ」

 それは辰雷にとって意外なことだった。確かに陽組の十二支の中で空午はまともだが、そのカテゴリーには寅果も含まれると思っている。自分の性格をちゃんと認識している辰雷は、まともカテゴリーに入るのは無理だろうと思っていた。

「こんな直ぐネガティブになる奴がまともなわけないでしょ。契約者とも関係不良、たぶん現段階の十二支で契約者とのコンビネーションは最低だしね」

 そう言って寅果はテーブルにぐでんと突っ伏した。その表情は暗い。

 詩織は何故か寅果のことを嫌っている。昔の記憶をしっかりと受け継いでいるのにだ。だから何故自分が気に食わないのかが分からない。何故あんな冷たい態度を取るのか分からない。今の彼は分からないことだらけ。それが寅果を疲労させ、彼女はいつも疲れた眼をしている。寅果にとって、十二支の使命やら姉弟の問題やらよりも、詩織の存在が寅果に重くのし掛かっていた。

 今日は理音と詩織は出掛けている。本当はついていきたかったが、詩織に睨まれ泣く泣く一人家に残った。辰雷が来てくれなければ非常に寂しい思いをしていただろう。

「そういえば、ねーちゃんの一人称がボクになったのも、詩織君の真似してだっけ」

「うん。なにかを真似したら、なにか同じ部分があれば昔みたいに仲良くなれるきっかけになると思ったけど、無駄だったよ。結局、ボクも習慣になっちゃって抜けなくなったし」

 突っ伏している状態で顔を伏せた。ちょうど辰雷に頭のてっぺんを見せるような姿勢だ。顔を伏せたのは泣きたくなってきたからだ。流石に泣き顔を見せたくはない。詩織の話をしていると泣きたくなる。涙腺が緩くなったか、それとも。

「う……」

 ネガティブになる事があっても、人の前でここまでなることは珍しいと、辰雷は困った顔をした。

 柔らかいモノほど壊れにくい場合もあれば堅いモノほど傷つきやすい場合もあれる。柔らかいモノは流れにあわせて受け流せるが、堅いモノは反発してしまい強く受け止めてしまう。辰雷を前者と例えれば、寅果は後者となる。人間にもよくあることだ。姿形が人間と同じ彼女らは、強く影響を受ける。

 この場合、気まずい雰囲気になれば人は嫌な気持ちになる。その気持ちに耐えきれない者は中身の無い慰めをしだす。慰めが全て悪いとは言わないが、考えてみよう。その言葉、その仕草、その行動に慰められている者は慰めてる者に見下されているように感じてしまう場合もあるのだ。傷ついて劣等感に苛まれている時に、分かりやすく心配そうに覗き込んでくる奴に、お前に何が分かるんだと思ってしまう。分かったふりをして取り敢えず声を掛けているいるんじゃないかという被害妄想。劣等感は感情の振り幅を増幅させる。それに一説には、可哀想という感情は相手を下に見ているから生まれるという。それこそ自分の臓器を全て売って、貯金と、最大まで貸金会社から借りた金を笑顔で恵まれない子供に提供でき、餓死寸前の子供に自分の血肉を捧げられる人間がいたならば、そんな事はないと否定されても反論できない。だが現代社会では可哀想を連呼するだけで、手を差し伸べるだけで救える人を助けないことばかりだ。本当に平等に愛する博愛の心で、人に何かして上げたり、尽くしたり、助けることは本当に難しい。博愛の心による可哀想と、羽毛のように軽い可哀想の線引きもまた難しい。そして自己満足による慰めなど、ナイフと変わらない。故に、慰めるという行為もまた大変難しいのだ。もし本当に慰めたい相手がいるならば、勇気を持って接しなければならない。

 だから辰雷は考える。今寅果は何をしてほしいのかを。寅果は人前で分かりやすく落ち込んで、薄っぺらい言葉でちやほやされて満足するような構ってちゃんではない。耐えられなくなったから暴走する、もう限界だから信頼している者のまえでつい弱くなってしまう。自分の心を表現し解放するのが苦手な、感情を抑圧してしまう真面目な頑張り屋が寅果であった。そのことを理解している辰雷は、あることを聞いた。

「今、何食べたい?」

「…………ガ●ガリ君」

「何味?」

「……梨味」

「よっしゃ、買ってくるわ」

 受け入れるとは、相手がしたいことをさせるとも受け取れる。今寅果は泣きそうになっている。ならばしたいことは泣くことなんだろう。寅果の問題は簡単に解決するものではない。だからしたい事をさせてガス抜きさせる必要がある、本当に爆発しないために。

 泣きたくなって顔を伏せた。つまり人に見られたくないということだ。それを察した辰雷は、食べたい物を買ってくるという理由付けて席を離れることにした。帰る気はない。それでは、寅果のことを受け入れたことにはならないからだ。これが正しいとは言わないが、辰雷はその人がしたいことをさせ、必要なら一時的に自分は離れ、直ぐ戻ってくる等をしている。これが辰雷の中で、寅果にとって最善の『慰め』だった。この行為をする時、辰雷は内心極度に緊張している。寅果はなんだかんだで傷つきやすい。十二支で割れ物注意のシールを張る人物を選べばと言われたら、迷わず寅果の額に叩きつける。上記した慰めによる最悪の状況、無意識によって見下し慰めのナイフの標的になりやすいタイプなのだ。昔なんどか失敗して、寅果を傷つけてしまった時は、何故か泣きたくなった。大人になった今も、あの感情はよくわからない。

 近くのコンビニはどこにあったかと思い出しながら、木嶋屋を出た。一人になった寅果は、寂しさを感じながらも、辰雷の心遣いに気付き感謝しながら、目尻を拭っていた。

 その後、辰雷は計算して十分後にコンビニ袋を手にして帰ってきた。寅果の眼が赤く腫れているのを確認したが、何も言わずガ●ガリ君を手渡した。それを寅果は小声でお礼を言って受け取り食べ始めた。辰雷も腰を降ろすと、自分用に買ってきてスイ●バーを口にした。

 アイスバーを食べる、シャリシャリという音と甘い匂いが居間に広がった。まだ現代で目覚めて一年そこらだが、去年の夏に食べて一発で気に入ったこの味を舌の上で転がし、スイカの種を模したチョコを噛み砕く。

「……辰」

「ん、何さ?」

 二人は視線を合わせようとしない。それでも、辰雷は寅果の表情を予想できた。

「…………ありがと」

「んふ、なーにがー?」

「……なんでもない」

 またシャリシャリと食べる。そしてほぼ同じタイミングで、二人共微笑んだ。こういう時、妹や弟の存在に感謝する。辰雷も戌月も空午も自分がダメになったら、こうやって助けてくれる。できれば詩織も、彼なりのやり方でいいから慰めてくれたらなんて、少々欲張りだろうか。

 詩織は慰めたりするのかなり下手くそなんだろうなと考えながら、ガ●ガリ君を噛った。理音関係なら最善を尽くすだろうが、他人ならば絶対適当に扱ってよけい傷つけるかもしれない。むしろ確実に見下すだろう。慰めるのが悪い例を擬人化したみたいだ。

 冷静になると、そんな考えにも笑えてきた。寅果がいつもの調子に戻ってきた時、彼女の携帯電話の着信音が鳴った。誰だろうと携帯電話を取り出すと、表示されている名前を確認した。



 現代で人目をはばかって移動するのがどんなに大変なことか。それでも交通機関を使うより、十二支は走った方が速く移動できる。新幹線より速く走れるわけではないが、ショートカットを自由に使えることを考えれば走った方が速い。

 着信は霊慧丸からだった。内容がよく伝わらなかったが、とにかく大変らしい。声から伝わるテンションは、かなり暗かった。内容が分かりづらかったのも、ずっとボソボソと喋っていたため聞き取りづらかった。猫科の動物の殆どは聴力が優れている。寅果もそうなのだが、機械を通した音はどうしようもできないうえ、耳が良過ぎるため音量を高くしてもノイズが酷くなるだけだ。しかし、携帯電話のマイクが戌月の悲鳴を拾っていたので、二人は急いで森重家に駆け付けた。

「まさかこんなクッソ暑い日に全力で走らされるとは……」

「昔はよくあったでしょこんなの」

 と言う寅果も、辰雷と同様に汗だくだ。体温上昇によりイライラしている辰雷は艶やかな自慢の髪を掻き、寅果は顎を伝う汗を拭った。暑さのため、腕が無い寂しさで出していた耳と尻尾を消している。とういかたまに邪魔な時がある。人間の形になれたからだろうかと、どうでもいいことが頭に浮かんだ。

「とにかく、入ろうか」

 流石にずかずかと入るわけにはいかないので、インターホンを押そうとした。

 ――ぎゃあぁぁあああーーーッ!

 二階から聞こえた悲鳴。この声は戌月の声だ。二人は顔を見合わせると、ドアを開け靴を荒々しく脱ぐと、二階へ向かった。一瞬だけ辰雷が速く、寅果が後を追うかたちで階段を駆け登った。辰雷は以前、盗聴器をしかけるのを手伝ったので森重家の内部を理解しているため、迷わずに将斗の部屋に迎えたが、廊下に転がっている何かに気付けず足が引っ掛かり転んでしまった。

「タコスッ!」

「ちょっと何やってんの。足下ちゃんと見ないから……って何これ」

「うぼほぉ……鼻がぁぁぁ……」

 辰雷がつまずいた物は、巻き鮨のように巻かれた布団だった。

「なんで廊下に……つーか気付よ自分」

 転んだ時に鼻を強打した辰雷は違和感を感じ、持ち上げてみる。持つと分かるが、明らかに布団の重量ではなかった。中に何かあって、包まっているのかと思い広げてみると、死んだ眼をした霊慧丸が廊下に力なく転がった。

「うっわダサ……じゃなくて何やってんのたまちゃん!? こんな猛暑日に布団包まって、自分の歳考えなよ! 外に比べて涼しい室内だけども死ぬよ! 冗談抜きでガチマジで」

 因みに今日の霊慧丸のファッションは、学校指定の体育着であるハーフパンツと、平仮名でせつでんと白い字で書かれた黒地のTシャツであった。

「……どうせダサいですよ、もう何でもいいですよ。干からびて死んでしまいたい。ドウセワシナンテ、ドウデモイイデスヨ」

「どうしたんだい? そんな死んだ魚……いや、バイオ●ザードにいっぱいいるアレみたいな眼になってるよ」

「フフフ……折られたんですよ。心をね。バッキバキに。もうこなごなっすわ。なんかもうすっごい狭いとこに挟まっていたい」

 電話の時と同じでボソボソと喋る霊慧丸。狭い所に挟まりたいと言っていたが、そこまで行く気力が無いらしく、また布団に包まろうとするが辰雷が布団を返してくれない。布団を掴んだ状態ぐでーんとしている霊慧丸を見ていると、なんだかいじめている気分になり、仕方なく返してやったた。すると案の定、また布団に包まり始めた。今度はちゃんと顔を出している。

「で? 何があったの。さっきの電話じゃよく分かんなかったけど……しかもさっき戌月の悲鳴が聞こえたんだけど」

「しかもさ、たまちゃんがそんな風になるってよほどだよね」

 二人の問い掛けに霊慧丸は上の空だったが、ポツリと呟いた。

「アイツだよ。やっぱいやがった。出てくんなつったのに……」

「アイツって、誰さ?」

「藍火だよ。昔の将斗。将斗の中に居たんだ」

 二人はまた顔を見合わせた。その表情は、何言ってんだだこいつと言いたげだ。藍火は約三世紀前に自殺した筈だ。それがなくてもとっくに寿命を迎えている。対して霊慧丸はやはり信じてもらえないかと言わんばかりにため息をついた。

「だったら入ってみなよ。そしたら分かる。ワシはアイツに心折られたから丸まってる」

 布団に包まっている状態でもぞもぞ動き、手だけを出して将斗の部屋を指差した。

 嘘を吐いているようには見えないが、前世が復活するなど前例が無いため信じがたい。だが前例がないだけだ。もしかしたら自殺のショックで受け継がれなかった記憶が、突然蘇ったのかもしれない。それが爆発して一時的に記憶に飲まれた可能性もある。というか意識したら断続的に戌月の悲鳴が聞こえてくる。

 意を決して寅果が将斗の部屋のドアを開けた。

 部屋の中に居たのは将斗と戌月。それは当然だが、光景は異常だった。将斗は戌月がベタベタしてくるのを嫌がっていた筈だが、今は逆で、将斗が嫌がる戌月を離さないよう捕まえている。満面の笑みの将斗と、必死に逃げようとする戌月。

「ねぇ辰。これは一体……」

「戌月のキャミが肩紐だけ切られている! あれは男子が理想とする最もエロいキャミの脱がし方! ムハー!」

「どこ見てんの君は」

 少し引き気味の寅果と、着目する部分が美空に似てきた辰雷だが、感じていることは同じだった。凄まじい違和感。それこそ気持ち悪いほどの。

 ドアを開いて数十秒、遅いくらいの感覚で将斗が二人に気付いた。将斗の眼は未だ琥珀色と黒に染まっており、寅果達も身体的異変に気が付いた。

「あらあら、力馬鹿の筋肉虎ゴリラと、のっぽ爬虫類もどきじゃないか。何しに来たんだ邪魔だなぁ帰れよ」

 開口一番の悪態に、辰雷は美空で慣れていたいたのでダメージはまったくないが、寅果からはプッツンという音が聞こえた。辰雷が不安を感じながら姉を見ると、感情がまったく籠もっていない眼で下唇を噛んで怒りを押さえていた。

「ねーちゃん、落ち着いてね」

「エー、イツモドオリダヨー」

 声を出したら、嘘を付いたりしようとしている時の戌月みたいな喋り方になった。

「うわあ゛ぁぁあ゛あ゛! 姉様だずげてぇえ!」

 寅果をなだめようとしたが、号泣している戌月が助けてくれと辰雷達を呼ぶ。ここまで泣き叫んでいる戌月を見たのは、昔彼女が食べようとしていた饅頭を横取りした以来だ。

 戌月の頬には涙の跡がくっきりと残っており、それを将斗が舐めた。ゆっくりと、味わうように。

「ひぃぃぃ!?」

「嗚呼、いいねいいね、素晴らしい限りだね。どれだけ戌月は私の趣味を熟知しているんだ。今日は怯えた戌月が見たい気分だったから丁度いいよ。その表情も、声も、涙や汗の味も、皮膚も、爪、吐息の匂いも、毛という毛も、眼も口も愛らしい耳も、目脂や耳垢、五臓六腑も骨も血肉だって全てが素晴らしい、愛すべき戌月だ。あっ、だが排泄物は別だね。もう戌月の一部じゃないんだから。だったら目脂や耳垢もそうかな。しかし抜け毛は惜しいね。このふわふわとした毛は抜けて、戌月から離れても価値はある。食べてもいいが勿体ない、何か入れ物を用意して収集してもいいなぁ。髪の毛や尻尾、陰毛なんかに種類わけして眺める。朽ちる時に私の一部にしようかな。フフフ」

 なんだか背筋がゾッとする感覚を覚えた。詩織もたまに似たことを言い狂気的な時があるが、あれよりも更に酷い。なんというか説明が難しいが、絶対に触れてはいけない呪われた異物が目の前で喋っている、といった未知の恐怖が本能に語り掛けてくる。気持ち悪いの一言ではかたずけられない。言葉の一つ一つが生理的に受け付けない。寅果もあまりの気持ち悪さに怒りが抜けた。辰雷は本気をだした美空といい勝負じゃないか、とすら思えた。

 森重将斗という少年を、寅果はあまり知らない。辰雷も寅果に比べて知識はあるが、それでも少ない。だがその少ない知識でも、目の前の将斗と記憶の将斗は違うと判断できた。

「一つ質問していいかな」

「嫌だね、断る。今は戌月の耳をハムハムするので忙しいんだ」

「…………一つだけなんだ、頼むよ。詩織ん家にある、戌月が気に入ってた玩具あげるから」

 気に入ってた玩具とは、どこにでも売っているゴムボールだ。戌月が木嶋屋に居候していた時に理音がよく投げてくれて、本能的に追い掛けて遊んでいた。

「そういう事なら。一問だけだ、早くしたまえよ」

 こいつ気持ち悪いけどちょろいな、と辰雷は内心思ったが勿論口にはしなかった。

「君は森重将斗君か?」

「そんなことか。それだけか?」

「ああ」

「あらあら、愚問だな。ふむ、躰は確かに森重将斗だが……だが違う。今の躰の主導権は私藍火にある。復唱してみろ、藍火だ。この人格の名前は藍火」

「!」

 霊慧丸が言っていた事は本当だった。契約者は記憶を受け継げても、人格はそうはいかない。人格はリセットされ、現代では新たな人格が設定される。それがどうして。

 事実に固まる二人を尻目に、将斗こと藍火は今まで離さなかった戌月を手放した。そのチャンスを逃さず、戌月は転びそうになりながらも辰雷の背中に隠れた。携帯電話のマナーモードよろしく、小刻みに震えている戌月はとても痛ましかった。

「堪能した。だから次は別の感情の戌月が見たいよ」

「フー!」

 辰雷の後ろで藍火を威嚇するが、虚勢にしか見えない。尻尾も丸まっていた。

「あらあら、まさか戌月が私に威嚇するとはね。だが嫌じゃない」

 フフフ、と笑う藍火。見た目は将斗なので違和感しかない。

「しかしまぁ……藍火といやぁ契約者の異端児って言われてたけどまた会うとはね。まさか幽霊で、少年君に取り憑いたとか?」

「そうそう懐かしいなぁ。なぜ私は異端児と言われていたんだっけ。何か、特別な力があったわけではないのに」

「それは……君が女だったからだよ」

 契約者は輪廻転生の中で性別が変わることはない。誰かがそう言ったわけではないが、歴史上一度も性別が変わった事が無いので、十二支と契約者の中で常識になっていた。しかし、前世の将斗、藍火は女性だった。戌月は持ち前のポジティブで気にしなかったが、他の十二支は前例の無い存在と異常な戌月愛により彼女を異端とした。それよりも性格がアレ過ぎて、皆が嫌っていたのもあるが。

 受け継がれる記憶は劣化する。それは魂も同じで、転生するたび魂は劣化する。転生する前は好青年だった人物も、今では親の脛をかじるニートだ。魂の劣化は性格だけではなく、性別情報にもエラーを起こしたのかもしれないと、十二支の長女は仮説だてていた。

「あー、そうだった。異端児か、別にいいじゃないか。男でも女でも。男と女の違いなんて下の竿があるかないかと、玉二つが上か下なだけだろう」

「いやぁ人間そんな簡単な構造じゃないっすわぁ」

「戌月以外がその口調で喋るんじゃあない。斬るぞ。あぁそうだ。さっき爬虫類もどきは私は幽霊と言ったな。それは違う……と思う」

 辰雷の言葉を否定したが、すぐに藍火は首をかしげた。まるで自分自身を完全に把握できていない様子だ。

「というと、君は結局なんなん? なんで少年に、つーか少年どした」

「もう私は質問に答えた。これ以上は答える気はないぞ」

 藍火との会話をしながら過去の彼女自身を思い出していくが、寅果はどうもおかしさを感じた。確かに藍火は昔から戌月が好きで好きで仕方なかったが、ここまで口が悪く自分自分の性格だっただろうか。なにか記憶と現実にズレを感じる。

 そういえば戌月は、なぜここまで藍火に拒絶反応を見せているのだろうか。もし彼女が藍火なら戌月は拒絶なんてしないだろうし、将斗の躰だから喜んでいいだろう。なぜ戌月は嫌がっているのか。

「ねぇ戌月、今ボクらの目の前に居るのは本当にあの藍火かい? それとも森重将斗君?」

「……分からないっス」

「答えじゃないよ。君の意見、考えだ」

「……うー、見た目は将斗様っス。でも確実に中身は将斗様じゃない。喋り方は似てるっスけど藍火様かどうか……でも匂いが違う」

「匂い?」

「匂いがまったくの別人なんス。将斗様の匂いじゃないし、かといって私が覚えている藍火様の匂いでもない。なんだか色んな沢山の人をごちゃ混ぜにしたみたいな匂いで……。今日空午兄様達と一緒に玄武らしき狐狗貍と遭遇した時、急に切り替わったみたいな」

 寅果は将斗の匂いなんて覚えていないからどうかは分からないが、面白い意見だ。戌月のような匂いに敏感な動物だと、匂いで個体認識をする者が殆どだ。十二支の戌月は視覚情報も発達しているが、将斗の見た目で中身がまったくの別人、それで匂いすら違うため戌月は目の前の人物を、知らない人と認識した。なるほど、知らない人からあんな事をされたら誰でも嫌だ。

「ん、ちょっとまってちょっとまって。玄武みたいな狐狗貍? それどういうこと!?」

 藍火について話をしていたのに一転、別の話題に寅果だけではなく辰雷も食い付いた。二人からしてみれば、藍火に乗っ取られた将斗なんかよりも別格の強さを持つ玄武の方が重大なのだ。戌月にとっては将斗の方が大事なのだが、姉二人に説明を迫られので渋々今日の出来事を話した。空午達と遊びに行ったこと、一時的にヴァンが迷子になったこと、ヴァンを探していたら防御命な見た目をした玄武っぽい狐狗貍を一緒に見つけたこと、将斗がおかしくなったこと、怪我をしたヴァンを病院に連れていくため空午達と別れたこと、藍火をなんとか森重家に連れてきたことを身振り手振りを交えながら説明した。

「ふーん……」

「ヴァンちゃんがダメだったって、太刀打ちできるの子乃にーちゃんらだけじゃない?」

「確かに……強度ならヴァンのより詩織の腕の方が上だけど、戌月の話じゃあダメージが全然通っていないようだからね。でも君らも何かあるんじゃない? 隠し札なら子乃様達並みにあるでしょ」

「実際の堅さが分からないからどうとでも言えるけど、一応あるんだよ。それこそジョーカーが。たまに美空がテンション上がりすぎて勝手に使おうとするけど、ホントは子乃にーちゃんに使うの禁じられてるんだよ」

「でもいざとなったら出し惜しみは」

「もぉ〜〜〜! 確かにそっちも大事っスけど! 今はあの人どうにかして欲しいっス! 私ストレスで尻尾脱毛しそうっス!」

 動き出したであろう敵にたいして、対策を考える寅果達が正しいのだが戌月はたまったもんじゃない。こちらの問題をなんとかしてもらわないと、玄武どころではないのだ。頭の悪い自分ではどうにもならないから、霊慧丸に頼んで姉を呼んでもらったというのに。

「そう言われてもボクらにどうすることもできないし。あとで丑夜様に相談しとくから、今は我慢しな。できればボクは帰りたい、子乃様や他の十二支に連絡しなきゃいけないし」

「我慢で〜き〜な〜い〜っス〜! 自分の問題じゃないからってその対応はないっスよぉ!」

「ハッハッハッ。私は今すぐ帰って欲しいがな。昔は女と女だったけど、今は戌月を孕ませることができると思うとぞくぞくするね。昔は昔で想像妊娠なんかなら余裕だったけど」

 話の内容からして、寅果達が帰ったら戌月はまだ明るいうちから大変なことをされるだろう。それを察した戌月は分かりやすく青ざめた。

「いやァァァーーー! 帰らないで! 姉様帰らないで! あっ、辰雷姉様なら。辰雷姉様なら私を見捨てないっスよね!」

 辰雷なら、現実主義の寅果はともかく、なんやかんやで面倒見がいい辰雷なら自分を見捨てないだろうと期待する眼で見る。現に今自分を庇うように立っている、と戌月は勝手に思っているが実際はただ戌月が隠れているだけだ。

 可愛い妹は必死に助けを求めてくるが、正直既に飽きてきている自分がいる。なぜ暑い中走ってきて、気持ち悪い奴を相手にしなくてはいけないのか。気持ち悪いのは美空とアパートの住人だけで十分だ。彼ら、特に美空にはまだ愛があるからいいが、気持ち悪さしか感じない奴だからどうでもいい。飽きてきた辰雷は、この現状より大切なことを思い出して、思わず口に出してしまった。

「…………あ、相●のシーズン4と劇場版のDVD、明日TS●TAYAに返さなきゃ」

「あぁあぁあああ! 辰雷姉様までぇぇ!? 見捨てないでくださいよぉ」

「右●さんの相棒は亀●君だけだと、私は信じています」

 戌月が情けない声を出して辰雷の躰を譲るが、当の本人は●棒のことで頭がいっぱいだった。

「あらあら、頼みの綱の姉達に見捨てられちゃったねぇ。絶望の顔も可愛過ぎるね、それだけで三回絶頂しそうだよ」

 見た目は最愛の人だが、中身と匂いが違うとギャップでおぞましい何かに見える。先程から尻尾の毛がさがだちっぱなしだ。

 何を思ったか一度解放した戌月に向かって再び歩み寄る藍火。戌月は直ぐに逃げるために部屋から出ようとするが、藍火に回り込まれた。原因としては戌月にたまった多大のストレスと恐怖心で足がすくんで、数秒のタイムラグがあったことと、藍火の神威と神威開眼の副作用の一つである、脳のリミッターが馬鹿になって現れる運動能力強化にあった。

 将斗兼藍火の神威、五感限界突破。種類は美空の千里眼と同じ脳酷使型。五感とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの感覚である。五感限界突破は通常時の限界を飛躍的に越え、全ての感覚が研ぎ澄まされた状態にする能力だ。単純な能力だが、シンプルな能力ほど強いという言葉があるとおり応用の効く力だ。視覚で敵の筋肉の動き一つさえ捉え、嗅覚で探索や追跡し、聴覚で呼吸の強弱を読み取り相手の動きを予想できる。五感が限界を超えた結果として、第六感じみた直感をも有する。だがリスクもあり、発達し過ぎた嗅覚は戌月よりも臭いを嗅ぎとり鼻がもげる思いをし、敏感な味覚で刺激物を食べたら気絶してしまう。使い慣れた藍火ならばコントロールも効くが、将斗だったら地獄を見る。

 愛おしくてたまらない戌月のことだからどんなことをするか大抵予想できるし、五感限界突破の視覚と嗅覚、第六感もどきなら手に取るようにわかる。回り込むと直ぐに手を伸ばし、戌月の肩を掴むと自分に引き寄せた。また抱き付かれた戌月は近所迷惑レベルの悲鳴を上げる。

「昔、戌月が眠りについた時、凄い淋しかったよ。生まれ変わっても人格が受け継がれるわけではないからね。もう藍火として会えないから死んでいいや、と思ったから自分の首をナタで切ったのはもういい思い出さ。でもどうだい、ふと目が覚めたら目の前に糠が付いた戌月がいるじゃないか。興奮したよ、直ぐに抱き付いて舐め回したかった。だけど躰の自由が効かなくてさ、最近やっと出れたんだ。戌月がいるのに触れないなんて拷問だったから、心の安らぎとして察知できる記憶は根こそぎ集めて鑑賞してたよ。癪なのは森重将斗と犬二匹がたまに潜り込んできたことかな。そのせいでちょっとずつ記憶が漏れちゃって」

 戌月が触れるか、戌月が関わると口が緩い彼女の言葉を、寅果はいくつか記憶した。話からするに藍火の人格は戌月と将斗が接触した日から目覚めていたらしい。この情報を覚え、十二支の長女に言えば何か分かるかもしれない。帰りたいと言っても、手掛かりになるなら瞬時に記憶するあたりはやはり真面目だ。

 この状況ならば、戌月を救出すべきなのだろうが、つきつめれば相手は戌月が好きなのでそこまで酷いことはしないだろう。それに邪魔をした方が大変なことになる可能性がある。しかし、辰雷はそう思っていなかったようで藍火に近づこうとしていた。

「やめなよ」

「ちょ……なんで?」

「たぶん藍火は戌月を愛でたいだけだよ、言い方がアレなだけで。あまり本気にしなくてもいい」

「ホントかなぁ?」

「うぅ〜……姉様助けてくださいぃぃ……」

 少し元気が無くなってきた。言ったばかりだが、寅果は不安を感じてきた。

「いいね、弱る戌月も良過ぎるよ。あぁ興奮が止められない!」

 藍火は初めて声を大きくした。宣言通り気分が高揚したのか、今まで以上に強く抱き締める。その際に戌月は潰された蛙のような声を出していた。しかしそれだけでは済まず、覆い被さるかたちで藍火はいきなり顔を戌月の顔に近付けた。それはもう後少しで鼻と鼻がぶつかり合いそうになるほど。

「うひぃ! な、なななんスか……?」

「何ってアレだよ。現代ではキスって言うんだっけ? それ久しぶりにしたいなぁって」

「はぁ!? なに言ってるんでスか! ダメっスよ、嫌っスよ!」

「いいじゃないか。昔は朝起きたらおはようの変わりに唇を合わせ、夜はおやすみの変わりにまた唇を合わせただろう?」

 それは事実だが、本当にませた子供がするような挨拶変わりの軽い接吻だった。それは信頼関係があったからしたのであって、将斗なら喜んでしたが、戌月の記憶と違いがあり匂いまで違う自称藍火とはしたくない。

 藍火の胸に両手を当てグイグイと押すが、いかんせん躰は将斗。本気を出したら肋骨等が折れてしまう可能性があるので無意識に手加減をし、少しずつ力負けしてしまう。それでいて強化された腕力があるので尚更距離は縮まる。

「姉様後生でス! 一生と来世の分のお願いっスから助けてぇぇぇ!」

 いい加減助けないと恨まれるなと思い、寅果と辰雷は本格的に行動しようとした。

 邪魔されてなるものかと藍火はより力を込め、戌月は左手を相手の顔を押さえた。それでも藍火は引かない。一度力を抜いて戌月を油断させてから、再び力を入れるという頭脳プレイを見せた。立ち相撲でよくある手だ。実はこの間、一秒もかかっていない。戌月は見事引っ掛かり、顔の距離が一気に縮まった。

「ぎゃああぁぁああぁ!」

 もうダメだ。妙に素早い藍火なら寅果達が助ける前に全てを終わらせるだろう。戌月は内心で、将斗に謝罪しながら諦め眼をギュッと瞑った。

「…………チッ。時間切れかな」

 いつまでも唇に温もりを感じず、何かポタポタと顔に液体が掛かった感触、更には藍火の舌打ちから恐る恐る眼を開いた。

 時間切れと舌打ちした藍火に、戌月を含め本人以外は眼を見開いた。なんと藍火は血涙を流し大量の鼻血を出していた。戌月の顔にかかったのは藍火が流す血だったのだ。

「あーあ、残念。でも戌月、また会えるからね」

 そう言うと、藍火は糸を切れた人形の如く倒れた。抱き寄せられていた戌月も、押し倒されるようにして倒れた。背中を床にぶつけていたが、将斗の安否を確かめるため直ぐにちゃんと座り、将斗の頭を自分の膝に置いた。

「一体何が……」

「うーん……そう言えば戌月。森重将斗君が藍火になってから、眼はずっとあの状態だったかい?」

「あ、はい。えっと、三時間ぐらいスかね?」

「あーそれだね。神威のせいだ」

 将斗兼藍火の神威は脳酷使型。使用状態が長ければ長いほど脳にダメージが蓄積し、激しい頭痛や目眩、大量の鼻血等の症状に見舞われる。あの副作用が出ていない美空ですらこういった症状が出るのに、藍火が無事なわけがない。やっと症状が出たのだ、ある意味戌月は幸運だった。

「将斗様大丈夫でしょうか?」

「大丈夫じゃない? 時間切れってことは、ヤバくなる直前で意識を切ったってことだし。躰が防衛本能でやった一時的な気絶だよ、たぶん。目が覚めたらまた藍火って可能性あるけど」

「そんなぁ……」

 それでも一安心した。あのままだったら色々大変なことになっていた。目を覚ましたら将斗に戻っていることを、心から祈るだけだ。戌月は将斗の血涙や鼻血を拭ってやると、頭を優しく撫でた。

 その後まもなくして寅果達は帰っていった。その時戌月は、

「助けに来てくれてありがとうございました。……まぁ、感謝できないこともありましたがね」

 珍しく卑屈な顔をして、恨みを込めたように感謝の言葉を述べた。

 今日は宗光が残業なのは幸運だった。こんな状態の将斗を見せたらどうなるか分かったものじゃないし、あまり心配させたくない。戌月は将斗に付きっきりで看病をした。看病と言っても、ベッドに寝かした将斗を見守り続けていただけだが。将斗は悪夢を見ているのか、たまに表情を歪めて唸っていたのが心配で離れる事ができなかった。晩ご飯も食べずに、普段ならとっくに寝ている時間になっても将斗を見守っていた。不思議と眠気を感じず、時間の経過も気にならなかった。将斗の名前を呼んだり、語りかけてやると表情が少しやわらいだのでずっと声をかけていた。

 外は暗くなり、時計の針が九時を過ぎた頃。唐突に将斗は目を覚ました。

「ッハァー! ハァー……ハァー……」

「将斗様! 良かった、目を覚ましたぁ……将斗様? 将斗様っスよね……?」

 実は藍火でしたなんてオチは止めてほしい。それが心配で将斗の顔を覗き込んだ。眼の色はいつもの色、焦点があっておらず忙しなく動かしている点を気にしなければ、ひとまず安心できた。

 やっと将斗の眼の焦点が合い戌月を発見すると、突然将斗から戌月に抱き付いてきた。いきなりの行動に戌月は狼狽えた。

「ひゃ!? え、将斗様?」

 喜んでいい状況なのだが、藍火の件があるので警戒してしまう。だが戌月は、将斗が震えているのに気が付いた。小刻みなんてものじゃない、漫画ならガタガタという擬音が付きそうなレベルだ。

「な……なんかよくわかんない奴に、急に真っ暗なとこに閉じ込められて…………助けてって言っても………………だ……れも……………じ……ぶんの……声だ…………て……き……………こえ……………」

「将斗様声が……」

 恐らく神威開眼の副作用だろう、かなり途切れ途切れな喋り方になっている。いくら何か怖い目にあったとしても、これは異常だ。

 玄武との戦闘中、将斗は何者かによって上も下も分からないどこまでも真っ暗な空間に閉じ込められた。声を出しても、自分の声すら飲み込まれて聞こえない。ただひたすら自分以外の誰もいない空間に閉じ込められる。まるで人の想像より遥かに残酷で辛い拷問のそれだ。完全な孤独、無音、暗闇。人は暗闇を本能的に怖がる。そんな中、自分の声すら聞こえないのは死んでるのか生きているのかも分からなくなる。何度も気が狂いそうになった。たった十九年しか生きていない将斗には怖過ぎて、辛過ぎた。アレに比べたら虐めなんて屁でもない。

 ただ藍火によって将斗の意識は深層心理に閉じ込められていただけなのだが、将斗は知る吉もない。やっと出てこれて、人肌が死ぬ程恋しかった将斗は戌月に縋りつくよいに抱き付いたのだった。誰かが傍にいてくれることを認識できるだけで、こんなに安心できるとは思わなかった。

「こ…………わか………………た………」

 戌月の温もりに安心し、対には堪え切れず泣き出してしまった。

 最初は戸惑っていた戌月だが、なんとなく将斗がとても怖い思いをしていたのを理解し、彼の背中に腕を回した。

「大丈夫。恐かったんだね。もう大丈夫。私が傍にいまスから」

 子供をあやす母親のような優しい声。その日は宗光が帰ってくるまで、二人はその姿勢のままだった。

 翌日将斗は恥ずかしがって今まで以上にツンツンしていたが、弱みを見た分、戌月は前より将斗に近寄れた気がした。



「―――というわけですが、どう思います?」

 深夜帯の時間。寅果は声を押し殺して電話をしていた。眠っている詩織達を起こさぬよう、細心の注意をはらって。

『自分の眼で見なきゃ分かんないけど、私の見立てでは記憶の集合体が人格を持ったってとこかしら』

「と、いうと?」

『話聞くかぎり、過去の記憶に支配されて人格が裏返る事例に当てはまらない。昔なら性格が前世に似てるとそういうこともあったけど、その将斗って子と藍火じゃ性格はまったく違うからね。藍火は記憶を集めてたって言ってたんでしょ? てことは蓄積されていた記憶が一塊になって重なり人格となって、森重将斗の一部となった。それが藍火と名乗ったのは、藍火が記憶の中で一番自我が強かったからでしょうね。記憶もそれメインで構成されてるっぽいし』

「記憶が人格になるってホントですか。どうにも信じがたいんですよね」

『記憶と人格は密接に関係してんのよ。元々気性が荒い人間が、記憶喪失になると別人みたく大人しくなる、なんて事例は山のようにあるわ。記憶が蓄積されていって人格が構成されていくといっても過言ではないわね。もし私の予想が合っていれば、なぜ森重将斗に戌月の記憶が受け継がれなかったか説明がつくし。自殺によるエラーなんかじゃない』

「藍火が戌月に関する記憶を独占していたから……?」

『それが一番しっくりくるわ。だから恐らく森重将斗の躰を乗っ取った藍火は、偽物か本物かと問われれば限りなく本物。寧ろ戌月に関する記憶や、神器と神威の使い方の記憶、ルーツから現代の森重将斗の記憶を持っている分、将斗って子より戌月の契約者としての資格を持っている。いつか躰の主導権が完全に逆転しちゃうかもね。まあ戦力を考えればそっちの方がいいでしょ、アイツや貴方の考え方なら』

「……確かにそうですね。お話ありがとうございました」

『ふわぁ〜……できればもうこんな時間に電話しないでちょうだい。明日も朝起きて旦那のお弁当作んなきゃいけないんだから』

「それは申し訳ありません。では失礼します」

 苦笑を交えながら謝罪すると、携帯電話のボタンを押し通話を切った。通話時間を確認してから、窓から月も星も見えない夜空を見る。

「藍火の存在……これが吉となるか凶となるか。どちらにせよ、玄武戦では役に立たないな」

 寅果が冷たく言い放ったのと同時に、携帯電話を閉じた。静かな部屋の中にパタンという音が鳴るが、直ぐに霧散した。

将斗の前世は男性の予定でしたが女性に変更しました。ご了承ください。


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