十二支英雄見聞録・第二章・玄武討伐編第二節
嫌気がしてくる蝉の鳴き声が苛立たしい、夏のとある日。大人は熱に嫌な顔をしながら仕事し、子供は間近となった夏休みに心を弾ませている頃、将斗は五郎左衛門と知り合った場所である、名もない山に来ていた。今回の同伴者は詩織ではなく、戌月とヴァンと空午だった。
本来ヴァンと空午は他県に住んでいるのだが、今回は子乃に呼ばれたらしくそのついでに遊びに来たのだった。この山に来たのは、どこか遊びに行こうと誘ったらヴァンは人混みが苦手らしいので、どうしようかと考えた結果こことなった。この場所なら人もいない上静かなので丁度いいだろう。五郎左衛門も美空の所に行っているのか、簡単だが探しても見つからなかった。まあ幼い容姿のヴァンが居るので、居ない方がいいのだが。因みに霊慧丸は昼寝をしていたので置いてきた。
「あ〜〜づ〜いぃぃ〜……」
暑さにやられた戌月が唸る。将斗達は木陰に腰を降ろしているが、熱に弱い戌月はすっかりダウンしていた。長い年月を生きたであろう木に背を預けている将斗と空午とは対照的に、いくばくかは温度が下がっている草が生えた地面にねっころがっている。最初は将斗の膝を枕にしようとしていたが、暑苦しいからと拒否された。
「う゛ぅ〜〜……」
寝ていた地面が、戌月の体温で温かくなったのか転がりながら寝返りをうった。
「だらしないな」
「まあ戌月は毎年こんなもんだよ。冬、特に雪が降ればかなり元気なんだがなぁ」
「まるで童謡っすね」
将斗と空午はわりと仲が良い。まだ将斗は敬語を使っているが、頻繁に連絡を取っている方だ。空午とは何故か馬が合うのだ。
ばてている戌月とは逆に、タンクトップがよく似合う空午の視線の先にいる、契約者のヴァンはいきいきとしていた。
黄色のリボンが付いた麦わら帽子を被ったヴァンが、興味津々といった様子でちょこちょこと動き回っている。ヴァン達は都会に住んでいるので、こういうのは珍しいのだ。初対面の時は空午の後ろに隠れていたヴァンだが、意外に活発なのかもしれない。しかし将斗は、まだヴァンと話したこともないし、声を聞いたこともない。あまり他人と話さず、空午と話す時も小声で耳打ちしているので聞き取るのはかなり難しいだろう。しかし戌月曰く、話声は聞いたことがあるそうだ。そこは流石犬といったところか。
「そういえば、最近戌月とはどう? 上手くやってる?」
「いやぁ、色々キツいっすわ。コイツ自身もそうだし、父さんとかも大変だし」
「でもたま公とは仲良いんだろ?」
「ええ、まあ。たまちゃんは友達感覚ですし、ある意味人生の先輩なんで頼りになるし。でもなんか可愛くって、ギャップがあるからかな」
頼りになるというのは精神面という意味になる。相談役としては父と同様に頼りになり、父に話せない事は彼女に相談していた。
だが将斗が言ったように、霊慧丸は見た目通り子供っぽくなったり宗光や好物に目が無い等のギャップがあり、それが可愛らしかった。
「なぬっ!?」
将斗のセリフに反応したのは、ばてていたはずの戌月だ。がばっと上半身を起き上がらせ、信じられないといった表情をしている。
「将斗様子供の方が好きなんでスか!?」
「安心しろ。頭の方は圧倒的にお前の方が子供だ」
「えっ、本当スか? やったぁ!」
基本的に戌月に皮肉が通じない。将斗に関する事や余程露骨なもの以外は、すべてポジティブに受け取ってしまうからだ。戌月を論破するのは容易いが、言葉によって傷付けるのは難しい。すっかり喜んでいる戌月に、将斗はつまらないとため息をついた。
二人のやり取りを見て、笑ったのは空午だった。
「戌月は変わってないなぁ。見てて羨ましいよ」
「それってどういう意味で?」
「ほら、今のヴァンはまだ子供だろ。俺とヴァンは兄妹にゃ見えないから、戌月みたいにイチャイチャできないんだよ」
「まぁ……下手したら某河童の仲間に見られますからね」
某河童とは勿論彼の事だ。将斗の言葉に、空午は苦笑いしてしまった。
「今の見た目はどうあれ、昔から好き合ってた仲だからな。色々と問題がなんやかんやあるから、俺らみたいのは辛い。その点戌月は、将斗さんがどうあれ態度は変えないと思うぞ。前の将斗さんから受け継がれた将斗さんの『ナカミ』が、変質しない限り」
空午が示すナカミとは、転生を繰り返した将斗の魂を示している。繰り返していると言っても、将斗の魂が戌月の契約者として覚醒した回数はあまり多くはないが。今のところ死以外で寿命という概念がない十二支達は、契約者を魂で判断、確認し今の契約者に慣れていくのだ。
生まれ変わっても、その人間の本質は変わらない。それが十二支達の考えだ。人間とは違い、寿命という寿命が存在しないからこそ長い目で生まれ変わり、変わった部分もある愛した人を受け入れ、再び愛していく。ゆえに戌月も、前の将斗と性格がまったく違う筈の将斗を愛し、慕っているのだ。
空午の話から連想するのは、手記を書き上げた昔の自分だった。取り敢えず把握しているのは、戌月がかなり大好きな奴、だ。
「……前の俺か。どういう奴だったんですか、空午さんからみて」
将斗の問いに、空午は少し思い出すように、澄み渡った夏の空を仰ぎ見た。そして、少し言いにくそうに言葉を発した。
「正直、気持ち悪い、かな。あんまり好きじゃなかった。将斗さんとは大違いで、現代で将斗さんと知り合った時はまだまともになったと安心したよ」
知らない過去とはいえ、自分への悪口だ。将斗の表情が無意識に苦いものになる。
「そんなに酷かったんすか?」
「今でいう……ヤンデレ? ちげぇな、まあとにかく歪んだ愛とか、病んだ愛ってのを体現したみてぇな奴だった。名前は、藍火。アイツ、というより昔の将斗さんは契約者の中で前例が無い異端児だったよ」
「藍火……」
復唱する名前は初めて聞くものだった。手記にも書いてなかったし、戌月は将斗の事を御主人様、もしくは将斗様や将斗さんとしか呼ばなかった。
空午と将斗の会話を聞いている人物で、不機嫌になっているのは戌月だった。
「異端児って言われる理由は――」
「ぶぅー……あんまり藍火様のこと悪く言わないでくださいよ! あの人は欲望に忠実な真っ直ぐな方でした!」
「うん、その欲望が余計だったんだよ」
昔の将斗をフォローしようとしたが、所詮は戌月といったところか。空午にツッコまれてぐうの音もでない。寧ろ将斗本人は昔の自分はろくでもないのかぁ、と軽いショックを受けていた。そしてすぐ、無職で親の脛を齧っている今もろくでもないなと思い、またショックを受けてガクンと頭をうなだらせていた。
「あれ、そういえばヴァンは……?」
ふと空午は、ヴァンが視界に入る範囲から居なくなっている事に気付いた。頭を左右にふっても、近くにヴァンはいない。空午は焦り、立ち上がる。何故か空午は急に嫌な予感を感じ取っていた。それは本来、草食動物としての空午の危険感知の本能が知らせたものだったのかもしれない。つられて将斗も立ち上がる頃には、空午は走りだしていた。
*
森の奥で、おろおろと辺りを見渡すヴァン。慣れない森にテンションが上がり、色々見ているうちに迷ってしまっていた。見慣れぬ土地で、一人ぼっち。先程まで輝いて見えた自然が、急に怖くなっていく。淋しくて、怖くて、自分が一番頼れる存在である空午を思い浮かべ、泣きそうになった。
ヴァンは数ヶ月前まで、家出少女だった。理由は両親に嫌気がさしたから。ヴァンが両親は、彼女が小学校三年生くらいの頃から喧嘩が絶えなかった。五年生の頃には離婚の話もよく出ていた。両親のそんな会話は聞きたくなかったが、ドロドロの愛憎ドラマよろしくヒートアップすれば声を荒げ、ボリュームを上げて喋るので例え部屋にいても聞こえてしまう。しかしヴァンの両親はどちらも優柔不断で物をなかなか捨てられないタイプ。離婚話を引き摺りながらも共に生き、次第にヴァンは眼中から消えお互いしか見れなくなった。詳しく言えばヴァンを意識していたが、自分だけで精一杯だった。徐々にヴァンは、自分の居場所が家から消えたことを理解した。
ならばどうしようか。彼女は孤独に慣れる忍耐力も、寂しさをはねのける精神力も、一人で居ることを好きだという狂言を言う見栄も、持ち合わせていなかった。今まで彼女を支えていたのは『幼さ』だ。幼さは現実の辛さを弱めるフィルターの役割をしていたが、心身の成長が少女の繭を捨て去り、辛い現実を直に浴びさせた。内向的な彼女に親しい友人はいない。寧ろ友人は居ただろうか。
居場所が消失した。それは非常に淋しくて悲しいことだ。泣き喚いて言いたかった、「ちゃんと私を見て」と。だが唯一の居場所は彼女を追い出した。救いを求め、心が限界に達しそうになったヴァンは、何の前触れもなく育った町から消えた。自分の荷物をまとめ、お気に入りの貯金箱を割って紙幣や硬貨を財布に押し込んだ。本格的な家出をしたのだった。ヴァンが消えて、両親や誰かが騒いでくれたり、捜索依頼が出たのかは分からないし、彼女自身諦めていた。
ヴァンは小さい女の子が好むような、ベターな物語が好きだった。脳内妄想で自分を悲劇のヒロインに仕立てて、いつか白馬の王子様が助けてくれる。そんなことを夢を見て、他県に行き橋の下などで野宿生活をしていた。資金の残高を気にしながら当てもなく歩き回り、警察に職務質問等されないように気を付けながら。そのうち家出は少女にとって旅にすりかわっていた。自分の居場所を探す旅であり、自分を見てくれる王子様を探す旅であった。
それから少したってからだった。現実の厳しさに心挫けそうになった時、白馬の王子様ではなく、黒馬の王子様が現れたのは。正直、初めて空午を見た時は本気で泣きそうになった。空午と出会ってからは一緒に住むようになり、金は空午が働いて得ている。が、ヴァンは諸事情により学校には行っていない。
あの時、記憶が蘇って空午を認識した時の安心感は人生で一番のものだった。
「くうごぉ……」
将斗が聞いた事がないヴァンの声は、年齢相応のものだったが少し暗かった。
数回弱々しく空午の名前を呼ぶが、森特有の音などの反応しかない。名前を呼ぶ度不安になった。
「…………うぅ……」
まさか自分から離れてしまうなんて、考えもしなかった。
ヴァンは空午に依存していると言っていい。居なくてはならない存在。今空午が自分の前から永遠に居なくなったらと想像するだけでゾッとし、それだけでストレスにより吐き気に襲われる。
ヴァンにとって空午は居場所だ。自分が存在してもいいという証明。彼以外、誰が自分の価値を見いだしてくれるか。彼という居場所が無ければ、もう街を一人では歩けない。現代で再会した時代を越えた愛おしい人は、酸素以上の存在であった。彼女自身は、自分が最近女性に多い依存性である事は自覚していない。それが自分の中で当たり前だからだ。他人から指摘されても気付く事はないだろう。
うなだれて俯くヴァンの目尻に涙がたまる。その時、何かが近くで動いた。草を踏み付ける音に、ヴァンは反射的に頭を上げ音がした方向に視線を向けた。一瞬空午かと思ったが、違う。足音からして空午より体重が重い生物の筈だ。将斗と戌月は空午に比べれば軽いので、直ぐ除外した。
ならば野性動物か。しかし音の主が野性動物ならば、どんなに良かったか。
現れたのモノを見たヴァンの顔は一気に強張る。一見すれば、亀の怪獣のようにも見える怪物だった。恐らくは狐狗貍、だが今まで見てきた奴らよりも人に近い姿であった。狐狗貍と言えばグロテスクな表皮や、アンバランスな手足など、どこか不恰好な姿のモノが多い。なのだがこの亀の狐狗貍は左右対称な太さの手足があり、二足歩行をしている。背丈も空午より大きいくらいで、特撮の敵怪人で採用されそうな見た目をしているのだ。転生を繰り返すヴァンの記憶に、このようなタイプは居ない。『整っている』、これは狐狗貍にとっては異質を意味していた。
「ア゛ァ……コドモ……カァ? ウブブブブ」
亀の狐狗貍が酷く聞き取りづらいがらがら声で何か喋ったが、ヴァンは気にせずいつでも動けるように構えながら敵を観察する。
見ただけで硬質だと分かる皮膚は、もはや生体装甲と表現した方がいいだろう。滑らかな光沢を発している生体装甲は、深い黒色をしており、白いスジがいくつも入っている。目は確認できるが、生体装甲に埋もれてかなり小さい。手足に指はない。手は握りこぶしを作って指を癒着させたような形をしており、指の代わりに短い爪が五本生えている。足も似たような形をしている。亀の狐狗貍が歩くたび、尾として生えている長い白蛇が揺れていた。亀の狐狗貍の見た目の特徴は白蛇と生体装甲以外は口だった。唇が無く歯がむき出しで、その歯が異様に長い。一つ一つが五センチ以上あるだろう。尖っているので上下の歯茎に刺さるかたちでおさまっていた。
「コドモ、コドモダァァ。ウブブ、ウブブブブブブブブ。アソボ、ブブブ、アソボォ」
また何か言っているか理解できないが、ブブブとは笑い声だというのは分かった。まがまがしい口の口角が吊り上がったのを見て、ヴァンはまた驚愕した。狐狗貍が笑った。表情を作る狐狗貍なんて聞いた事がない。それに、聞き取りづらいが、狐狗貍が発しているのは呻き声の類いではなく、ちゃんとした言葉になっているのにも気付いた。考えてみれば狐狗貍が話すなんて事はありえない。そんな知能は無いからだ。輪廻転生を繰り返してきた中で、ヴァンはこんな狐狗貍に会う事もなければ、聞いた事もない。
だとしたら、このなにもかもが異様な狐狗貍の正体は何か。学校の成績では常に上位だった賢いヴァンは直ぐに思い付いた。自分があまり情報を持っていない狐狗貍といえば、五芒魔星と悪食魔王。その中で名前と脳内イメージが目の前の狐狗貍とピッタリと合うのは、玄武だ。ヴァンの中で予想が確信に変わる前に、彼女はチカラを発現させる。本当に五芒魔星の玄武にしろ、普通の狐狗貍にしろどちらでもいい。どちらにしろ、滅殺しなければいけない敵だ。
ヴァンの午の獣印は、右足の付け根の辺りにある。服の下でそれが光りを発すると、チカラは明確な形を持って発現した。型は詩織の鎧甲・腕に近い。違いは腕に纏うか、脚に纏うかだ。膝上から爪先までを、白銀の鎧が覆っているそれは、名を鎧脚・蹄鉄。ただ蹴りの威力を上げ、脚を守る役目を果たすためシンプルな形をしている。脚裏には、他とは違う黒い金属が馬の蹄に付ける蹄鉄に似た物が取り付けられていた。
「ウブ」
恐らく玄武と思われる狐狗貍がまた何か言う前にヴァンは動いた。地面を蹴り低空で跳び、空午に買って貰った麦わら帽子を押さえながら玄武との距離を一気に詰めた。数十メートルの距離を一跳びで縮められるのは、神威による副作用の恩恵であった。勿論、ヴァンにも別の副作用は出ている。
なんとなくだが、玄武はトロい奴なんだろう。そんな雰囲気だだ漏れだ。ヴァンは副作用と蹄鉄のおかげでスピードに自信があり、蹄鉄の作用で蹴りの威力も上がる。総合的に見れば戌月の上をいく彼女の攻撃に、玄武は対応できないだろう。ヴァンが地面から離れて数秒もかからず、玄武の首元に飛び蹴りが直撃した。気道を潰し、脊髄を圧し折る気持ちの一撃だ。ヴァンのような子供がする攻撃ではないので、少なくとも知能があるようだから同様ぐらいはするだろう。
「……ッ!」
しかし、表情を歪ませたのはヴァンだけであった。玄武に至っては無表情だ。まるでコンクリートを詰めたドラム缶を素足で蹴ったような衝撃。足の骨が砕けるかと思った。よく漫画などで見る硬い物を殴った時の、頭のてっぺんから体中が痺れる描写はこんな感じなのだろう。
玄武の生体装甲に傷一つ無いし、ダメージすら無い様子。衝撃すら感じてないのではないか。だったら些かショックだ。
躰を突き抜ける衝撃に硬直していたヴァンに、玄武がゆっくりと手を伸ばす。やはり動きが遅い。これはわざとではなく、自然体の筈だ。捕まるわけなくヴァンはバック宙をして躱した。更に攻撃するために、一度空を蹴って高く跳んだ。ヴァンは蹄鉄はどんな場所でも一度だけ踏みつけ、反発させる能力がある。空中を踏みつけ反発させまた跳び、地上に脚がつけばリセットされ、また反発が使えるようになる。簡単に言えば二段ジャンプ能力だ。水の上でもジャンプが可能になり、反発する力を応用して直接相手を吹っ飛ばすことも可能だ。
玄武の首に蹴りを入れた位置から、約二メートルの高さまで跳び上がった。自分より高い位置にいるヴァンを、玄武は大口を開けて見上げている。攻撃を躱す仕草すらない玄武はいい的だ。ヴァンは空中で一回転すると、ぼけっと彼女の一連動作を見続けていた玄武の脳天に、踵落としの要領で一撃を叩き込んだ。純粋な威力と回転による遠心力、更に少々の重力加速の足し算の一撃は、確かに敵のツルツルな頭に直撃した。耳をつんざく直撃音が響き渡るが、事実を詳しく言えば、一撃は直撃しただけだった。
「ん゛んぅ!」
どちらかと言えば無口であったヴァンの悲鳴が、小さく漏れた。
ヴァンが放った威力増し増しの一撃は玄武にダメージを与えられず、ヴァン本人に還元した。脚を貫いた鈍痛に、ヴァンは玄武の足下にどさりと落ちた。地面にぶつけた躰よりも、右足が泣きたくなるほど痛い。無意識に押さえている踵は、無惨な姿になっていた。脚を守る存在であった蹄鉄は一部分が完全に砕け、顕になった色白の踵が裂けて血が零れていた。一定の感覚でくる、筋肉の中に針を直接刺されメチャクチャに引っ掻き回されるような感覚。とにかく痛い。ただそれだけだった。傷が完治するのに時間がかかるだろう。破損した蹄鉄は、もとい神器は契約者にとって神器のイメージとなる十二支の躰の一部が無くならない限り自己修復できるが、契約者本人の怪我はどうにもならない。しかも戦闘に支障を来す利き足、ヴァンは自然とリタイアという烙印が押される。
右足の膝から下が痙攣している。記憶ではこれよりも痛い思いをしているが、記憶は記憶であり、現在痛みを体験しているのは現代のヴァンだ。『過去の記憶に支配され、人格が裏返らないかぎりは』、ヴァンはヴァンなのだ。過去の痛みの記憶は詳細ではない。今まで骨も折ったこともない少女にとっては、踵が粉砕するという怪我は痛過ぎた。空午に鍛えられたが、痛みへの耐性はあまりない。総合的なスペックとして戌月より上だが、戦士としては戌月より下だった。
「ブブブ、ウブブブブブブ」
苦痛の呻き声を上げるヴァンに向かって、玄武は指の無い手を伸ばした。その爪を突き刺すつもりか、それともどうやるかは分からないが掴むつもりかは予想できないが、躱すため反射的にヴァンは右足から手を離し匍匐前進のようにして玄武から距離をとろうとした。玄武の手と負傷したヴァンの移動速度はほぼ同じ。
「……ウブー」
捕まえられそうで捕まえられないヴァンに、玄武は苛立っていた。しかしその判明、面白がっている部分もあった。なんだか鬼ごっこをしている気分、玄武にとって遊びなのだ。子供ならば遊んであげなくてはいけない、そんなふうに思ったから『アソボウ』なのだ。突如として現れた五芒魔星は様々な意味で、戌月を超えるほどの純粋であった。
距離がなかなか詰まらない。玄武の見た目が中年男性だったならば、通報確実の状況に保護者が黙っているわけがない。玄武にとってはまったく反応できないスピードで、何者かがヴァンを抱き抱えバックステップで距離を取った。その何者かとは、駆け付けたヴァンの保護者こと空午であった。
「やばい怪我はしてないな、良かった。でも踵が……もっと速く来てればな。すまんな」
「…………ッ」
腕の中で空午の顔を、ヴァンは安堵の意味を込めた潤んだ瞳で見つめた。落ち着かせるように頭を撫でてやると、ヴァンは空午の胸板に顔を押し付けた。
「…………なんだアイツ。狐狗貍だよな……いや何かが違う」
少しの時間差で戌月と将斗も到着した。将斗は恥ずかしそうに、いつかのように戌月におぶさっていた。なにも最初からこうだったわけではない。
ヴァンが居ないことに気付き、嫌な予感を覚えた空午は手当たり次第に山の中を走り回った。戌月は勿論ついていけたのだが、神威開眼も神器覚醒もしていない将斗は辛かった。直ぐにばててしまい、戌月が背負うかと提案してきて仕方なく頼ることにした。本気の手前で走る戌月の背中は下手な絶叫マシーンより恐かったという。そのうち、山は比較的に匂いが落ち着いているため、戌月がヴァンの匂いを嗅ぎ当てて発見に至る。因みに力があまり無い戌月は、将斗を背負っていたのと気温が高かったため少し息が乱れていた。
ヴァンが痛みを我慢しながら、かなり少ないが、短い戦闘て得た情報を空午に耳打ちした。
「攻撃したら逆にその有様か。見た目通り硬いタイプか」
「どうしまス、やるっスか?」
将斗を抱えた戌月がヤル気満々に言う。久しぶりの使命に燃えているのだ。敵との対峙に、熱による気落ちもどこかにいっていた。
「いややらない。退くぞ、二人とも」
「うぇえ!?」
空午の撤退宣言に、すっとんきょうな声を上げる戌月。反対に将斗は大賛成と言わんばかりに首を縦に振っていた。
「当たり前だろ、ヴァンが攻撃して傷らしいものが一つもついていないんだ。あの皮膚だか殻だかがあるかぎり、俺達は決定打は入れられない」
「でも……」
「はぁ……分かってるだろお前も。俺達は寅果の姉貴や詩織さんみたいな一撃必殺みたいな打撃はできないし、辰雷の姉貴や美空みたいなトリッキー且つ高威力技は無いんだ」
陽組で戦闘力順で順位を作るとしたら、戌と午は最下位争いをするだろう。ダントツの子のコンビにはある強みがある。辰コンビは言わずもがな、寅コンビは打撃力は勿論、戦闘スタイルと詩織の神威が上手い具合に噛み合っている。上位二組はどんな相手にも基本的に対応でき、寅コンビは遠距離タイプには苦労するが倒せないことはない、だが戌と午はそうはいかない。戌は素早さ、午はスタミナを生かした戦闘スタイルが主力となる。どちらも防御力が高い敵を苦手とし、場合によってはどうにもならない。更に午より戌は刀が武器なので、より一層闘い辛くなるのだ。
この状況はまさしくそれであり、どうにもならない場合であった。この中でダメージが与えられそうな午の契約者がダメだったのだ。年長者である空午の判断は正しい。格闘ゲームでいうならばケズりを目的とした闘いなど、非効率的だ。
露骨に納得していない顔をする戌月に、空午がもう一言言おうとしたが、将斗がぎょっとしているのに気付いた。将斗の視線を追う。
「なんだアイツ……口が!」
悲鳴の様な声を出したのは将斗だ。
戌月と空午が話をしている間に、玄武は距離をつめようとはしなかった。変わりに、ゆっくりと口を開けていた。口は顎の骨がいかれてるんじゃないかと思うぐらいの大口。分度器を当てたら、八十度くらいは開いているんじゃないだろうか。長い歯で隠されていた口内は、ピンクに近い色だった。舌もある。人間に似ているが、喉の奥に繋がる部分は明らかに広い。
思わず見入ってしまう、異様な大口。本人は目を奪われていたが、無意識に戌月の耳はある音に反応していた。
「ん、おいどうしたんだよ。耳忙しなく動かして」
ある種のグロテスクさがある光景だが、眼前でピクピクと動く戌月の犬耳が目障りで意識が玄武から離れた。
「え? ……あぁ、いやその……なんか音が」
「音? ホントだ。ゴボゴボって」
「この音……水か? 発信元は……ッ! 奴からだ!」
戌月が音に気付き、つられるように将斗達も耳を澄ませた。その頃には音は常人の将斗にも十分聞こえるレベルであり、空午が音の主を見破った。
それと同時に、玄武の大口から大量の水が、マーライオンよろしく吹き出した。玄武から出た水はかなり澄んでいて透明度が高い。地面に染み込むことはなく滑るように広がっていった。速い速度で広がる玄武の水は戌月達の足下にまで迫ってきた。体内から出された水に危険を感じた空午はヴァンを抱え、近くにあった木へ跳び移った。戌月も続こうとしたが、将斗を抱えていたため一瞬動作が遅れ、玄武の水が爪先に触れた。
「ッ! アレ? ちょ、ぶっ!」
「いだッ!」
水が触れた状態で飛び上がると、塊始めた接着剤のように水が伸びた。高い粘着性を含んだ水に足を絡めとられた戌月は、後方へ跳ぼうとしていたので仰向けになるようにして転んだ。背負われていた将斗も、戌月の下敷きになっている。
「何やってんだよ! 逃げなきゃヤバイ……うわなんだこのゲロ!? ボンドみたいにねちゃねちゃ引っ付く!」
「むしろこれは水飴っぽい、というかゲロって言い方止めてくださいよ。こんな引っ付くゲロ塗れになってるって考えると嫌過ぎるっス!」
二人が悲鳴に近い声を出している間も、水はより広がり、躰は浸かった。脱出したくとも、粘着性の玄武の水は放してくれないうえ、この水かなり滑る。立ち上がるのが難しく、将斗が立ち上がろうとしたら戌月がまた転んで道連れにしたりなどして状況は最悪だった。更に立ち上がれても、水のせいで身動きが上手く取れず、すっころんだ戌月の後頭部が将斗の腹筋を強打するという、コントのような光景であった。
「ブブブブブブ、ブブブ、ウブブブブブブブブブ」
二人の滑稽な状況に、玄武は放水を止めて接近してきた。水は流れる、いつかは将斗達を解放するだろう。が、玄武の速度でも今の二人を捕える事ができる。それほどまで、二人は玄武の水に浸かり過ぎた。
「くそっ、今助けに行ったら俺も……!」
ミイラ取りがミイラになる。空午が助けに行っても同じ目に合うのは目に見えていた。もしもヴァンが怪我をしていなければ、蹄鉄の能力で助けられたかもしれない。だがそれを言っても、ヴァンにとって嫌味にしかならない。ヴァン自身も自覚しているのか、下唇を噛んで苦い表情をしていた。仲がいいとはまだ言えないが、助けれるなら助けたいのだ。長いロープ等があればいいのだが、そんな物都合よく準備されていない。
動けば動くほど悲惨な状況になる戌コンビに、玄武がゆっくりと近づく。近づくほど、当たり前だが玄武顔がよく見える。そこで戌月は、玄武からは敵意がないように感じた。狐狗貍と対峙すれば、必ずと言っていいほど痛みを感じるかのような敵意が滲み出ているのだが、玄武からはそれを感じない。それが異様で、どこか気味が悪かった。
十分接近すると、玄武の手が戌月に向けられた。ヴァンはその光景にデジャヴを覚えた。逃げられないこの状況に戌月と将斗は慌てるが、どうすることもできない。立つこともできなければ、前にも後ろにも、右にも左いけない。
戌月の鼻先に玄武の爪が。それを弾こうと固有武器を召喚しようとした。
その時、戌月が行動するよりも速く将斗に変化が起きた。予兆なしに頭を通り過ぎた瞬間的な激しい痛み。それだけで将斗の意識は気絶した時と似た感覚で消え去り、視界はブラックアウトした。そして、気絶した筈の将斗が手に何かを持って振り抜いた。
白刃が玄武の手を弾き、甲高い音が響いた。相変わらず頑丈な玄武の生体装甲に覆われた手は無傷で、変わりに白刃が刃こぼれしていた。しかし、手はしっかり戌月とは違う方向に向けられていたので良しとする。戌月は振り返りきょとんとし、空午とヴァンはぎょっとしていた。
将斗の手に握られているのは、幅広の刀身の野太刀。日本の刀とは、基本的に使用者の身長に合わせて造られる。将斗が握る大野太刀・牙も将斗の身長に合わしてはいるが、身の丈を越える長さと成人男性の握り拳なみにある刀身の幅は、やはり大きい。
「将斗様神器と、か……むい……?」
戌月がきょとんとしたのは神器の覚醒もそうだが、将斗の眼だ。戌の神威は発動すると、瞳が戌月と同じ琥珀色になる。だが今の将斗は琥珀色の瞳に、白くあるべき部分が真っ黒になっていた。こんな眼は見たことがなかった。
神器覚醒と神威開眼を同時にした将斗は、今まで見せたことがないほど鋭い目付きで玄武を睨み付けている。失せろ、と言わんばかりに。それに対して玄武は動じない。それとも将斗の意図を分かっていないのか。何故か玄武の水は付着はするが染み込むことはなく、徐々に将斗達から流れていく。
静かな睨み合いのなか、暑い夏の日の太陽を浴びながら蝶が、一人と一体の間を通り過ぎた。探そうと思っても中々見つけられない大きなアゲハ蝶だ。子供が見付けたら追い掛けたくなるような蝶であった。将斗はその蝶に眼もくれない。だが玄武は、自分に似てゆっくりと空を飛ぶ蝶を眼で追う。
「ウブブ」
そのまま玄武は将斗達への興味が失せ、蝶を追い掛けていく。それを追う者はいない。元々逃げるつもりだったし、将斗の牙も刃こぼれしてしまったので闘う気はあまりなかった。
玄武が大分離れた頃には、水もすっかり流れていた。空午も地面に降りて将斗達に駆け寄った。将斗はまだ座っており、牙は消しているが戌月を抱き寄せていた。普段の将斗からは考えられない光景である。
「すまないな、助けられなくて。でもこのタイミングで将斗さんの神器や神威が出て運が……? どうした戌月」
またこれも普段通りなら、尻尾を振って喜ぶ筈なのだが、その尻尾を下げて犬耳を垂れさせていた。彼女は恐怖を感じたり、緊張状態になるとこうなる。更に戌月本人も小刻みに震え、怯えた顔をしていた。
「違う……」
「あ? どうしたんだよ、戌月。様子おかしいぞ」
「違う……違うこの人……違う! 将斗様じゃない!」
かなきり声を上げる戌月。将斗は彼女を黒と琥珀色の眼で愛おしげに見つめ、ニヤニヤと笑っていた。
たまちゃんはお年寄りなので基本的に体力がありません。結構高い確率で、ゲームか昼寝をしています。
もし誤字脱字があれば、お手数ですがお教えくださいませ。




