1話〜壊された日常
月明かりすら遮られた山の中。
その山の中腹にある木の上に、一つの影があった。
───少女だった。
分厚い闇色のコートと同色の鎧を纏い、長く艶やかな漆黒の髪を冬の風に揺らしながら、その銀色の瞳で街の夜景を眺めている。
………いや、街の中にいるナニかを“見据え”ている。
完全に闇と同化しながら、唯一闇に浮かぶ銀色の瞳を鋭く細め、ここから距離にして数キロはある街を見下ろしていた。
「………………」
不意に、少女が何事かを呟く。
わずか一瞬、小さな光が生まれ、カラだった少女の左手に長大な弓が握られた。
青く、そして少女の身の丈ほどはあろうかという弓を構え、無造作にその弦を引く。
「………………」
少女の呟きに、再び小さな光が収束し、引き絞った弓に矢が番えられる。
そして、一瞬の動作。
明かりが殆ど消えた夜の街に素早く狙いを定め、その矢を放った。
「ふっ────!」
一撃、二撃、三撃、四撃───!
鋭く息を吐き、一拍にして放たれたのは、まるで銃弾のような矢だった。
巨大な弓を扱っているとは思えない程の高速連射を行い、少女は木から飛び降りて山道を駆け降りる。
「………ちっ。四度撃って外したか。傷の痛みで集中を欠くとは、無様な」
舌打ちと共に僅かに顔をしかめながらも、木々の生い茂る急な山道を駆け抜ける様は、まるで疾風。
その少女が押さえた胸元からは、赤い血が零れていた。
∽壊された日常∽
友人こと坂井亮の声で、今日は朝から机に突っ伏して寝っぱなしの優斗がようやく目を覚ました。
「おい、起きろって!昼休みだぞ、食堂行こうぜ!」
「…………ぁ?」
亮の叫び声に気だるげに答え、優斗はのろのろと体を起こす。
「いや……俺、今日昼飯いいや。寝てる」
「はぁ!?お前今日はどうしたんだよ」
目を覚ました優斗が時計を確認すると、時刻は正午を過ぎ、今は昼休みだった。
優斗と亮は、普段は風宮高校の学食を利用しているのだが、優斗はとても行く気にはならなかった。
「ねぇ、優斗。午前中はずっとそんな感じだったけど、どっか体の調子悪いの?」
心配げにこちらを覗き込んでくる高見千夏を、やはり優斗はまどろんだ瞳で見返し、大きくあくびをした。
「いんや、果てしなく寝不足なだけだ。もう少しすれば、調子出てくる」
「今日はもう半分終わったんだよ、まったく!」
ぶつくさ文句を言いながら、亮は仕方なく一人で食堂へと向かった。
千夏も他の女子の集団と、昼食をとりに教室を出ていくのを見送り、優斗は小さく溜め息を吐いた。
…………昨夜。
優斗は、傷を負って道に倒れていた少女を発見した。
いや、発見してしまったというか………
とにかく発見し、救急車を呼んで、成り行き上病院まで付き添った。
そうして、病院の人に事情だけ話し、今度こそ帰宅しようとした矢先、
「………ったく。病院から、消えただと……」
そう、重傷を負って倒れていた少女は、医者が僅かに目を離した隙に、病室から忽然と姿を消していたらしい。
動けるような体ではなかったし、そもそも意識不明になるほどの傷と出血だったのに、だ。
その後、警察を呼んで捜索を依頼したそうだが、まだ見つかっていない。
優斗も警察に事情を説明したのだが、なにせ発見した時は既に倒れていたし、少女の名前すら知らないのだからほぼ無意味であろう。
そうこうしている間に、優斗が帰宅出来たのは夜中だった。
「…………はぁ。ま、見ず知らずの他人………なんだけど」
溜め息をつき、窓からぼんやりと空を眺める。
見上げた冬の空は、青く澄んでいた。
「………………」
こてん、と体を机に寝かし、再び寝そべった。
昨夜のことは、亮にも千夏にも話してはいなかった。
事情ならさんざん警察に説明したせいで、もううんざりだったし、なにより眠くて面倒くさい。
「ふぁ…………顔、洗ってこよ」
寝不足で重い体を持ち上げ、優斗は席から立ち上がった。
廊下に出ると、昼休みで賑わう雑踏が優斗の耳に入ってくる。
その賑わいに僅かに顔をしかめ、優斗は廊下にある水道へと向かおうとして、
「……………あ」
ぴたりと、その足を止めていた。
………優斗のすぐ横を通り過ぎた女性。
歩く余韻に揺れて、なびく長い黒髪。
昨夜は殆ど閉じられていたので分からなかったが、見たこともない銀色の瞳。
真っ黒の分厚いコートではなく、何故か今は風宮高校の制服を着ているが、間違いない。
昨夜、道で血を流して倒れていた少女。そして、怪我の治療もせずに病室から姿を消した少女だった。
「ま、待て!」
横を通り抜けようとしたその少女の華奢な腕を、優斗は反射的に掴んでいた。
「………………なにか?」
特に驚いた風もなく。
いや、むしろ落ち着いてさえいた少女は、迷惑そうに振り向いた。
「な………なにか、じゃないだろ!?お前、あんな怪我をしてたのに何で病院から抜け出したんだよ!!」
場所もわきまえず、自分よりも頭一個分背の低い少女に優斗は怒鳴っていた。
しかし、無性に腹を立てて放った優斗の言葉に返ってきたのは、やはり冷静な声だった。
「なんのこと?」
「だから、昨日のことだよ!だいいち、なんであんな大怪我してたん、だ…………」
少女のあまりに冷静な態度と、自分の言葉の内容に、優斗は落ち着いてその女子生徒を見た。
………怪我なんて、していない。
だいいち、あんな重傷では立ち上がることすら出来なかったであろう。
なのに、今は平然と歩いていて、しかもこの学校の生徒で………
「あ、れ…………?」
「なんのことか知らないけど、多分人違いだと思う」
さらに、少女の追い討ち。
確かに、暗かったし慌てていたので、倒れていた人物の顔まではっきり覚えていなかった。
人違いだと言われてしまえば、そこまでである。
「あ、その…………ごめん。本当に人違いだったみたいだ。腕、痛くなかったか?」
「………………別に」
少女は優斗を糾弾をするわけでもなく、謝る優斗を一瞥すると踵を返してさっさと歩き出した。
艶やかな黒髪が、やはり歩く余韻に揺れていた。
◆
「……………ふぅ」
六限目の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、優斗は大きく息を吐いた。
午前中はずっと寝ていたせいか、体の節々が痛む。
「おい、早瀬」
「ん?」
後ろからかけられた亮の声に、優斗は振り返った。
すると、亮の腕が伸びてきて、優斗の肩をがしっと掴む。
「あ?いて、いててて!なんだよ!?」
「いや、少し小耳に挟んだんだけどな」
ずいっと亮が顔を近付ける。
その目が、少しマジだった。
「お前………今日の昼休みに、我らが月城 伊吹さんの腕を思いっきり掴んで、しかも怒鳴り散らしてたそうじゃないか」
「つきしろ、いぶき………?って、あぁ。あいつ、月城伊吹って名前なのか。いや、今日まであんな奴、知らなか───いてててぇっ!?」
優斗の言葉の途中で、肩を掴む亮の手に力が篭もった。
悲鳴を上げながら優斗がその手を解くも、尚も亮が顔を近付けてくる。
「近い、近いって………」
「てめぇ、我らがTKOを差し置いて、抜け駆けしようとはいい度胸じゃねぇか」
「ティ、TKO……?」
「そうだ。T(月城さんを)K(影から)O(お守りする会)だ」
「なんじゃそら………」
思いっきり脱力する優斗に、さらに亮が迫った。
「彼女とお近づきになりたいなら、TKOに入会するんだ。今なら入会金は半額の一万五千円」
「やけに高いな」
「活動内容としては、主に放課後にこっそり家まであとをつける」
「ストーカーの集団か。ってか、お前部活は?」
「さらに今なら双眼鏡もつけてやる。これで遠くからもバッチリだ」
「頼むから止めろ。犯罪だ」
半眼で突っ込む優斗に、ぶわっと亮が滝のように涙を流した。
「うるせえ馬鹿やろう!お前なんかになぁ、月城さんにアタックして散っていった俺たちの気持ちが分かるのかよ!?」
「いだだだだ!分かるか……っての!!」
渾身の力ですがってくる亮を突き飛ばし、優斗は肩をさすった。
馬鹿なだけに馬鹿力というものが亮には備わっているのだろう。
「しかも、俺たちって………TKOってのは何人いるんだ?」
「さあ?途中で把握するのを断念せざるをえない人数になったからなぁ」
「あ、そうですか………」
亮の言葉に、僅かに顔をひきつらせる。
危険な集団だ。
それも、かなりの人数の。
「ってか、一年の時にあんな奴いたか?」
「な!?超が付くほどの美人に加えて、不思議な魅力すら兼ね揃えた月城さんを知らなかったのか!?」
「…………悪かったな。で、その月城ってのはどこのクラスだ?」
「C組。あぁ、言っておくがな」
一体言葉を区切り、亮がポンポンと優斗の肩を叩く。
顔には爽やかな笑顔があった。
「入会金はきっちり払えよ?」
「入るかッ!」
◆
「…………やれやれ」
ホームルームを終えて、げた箱で靴を履き替える。
部活がなければ一緒に帰っている亮は、優斗がTKOの勧誘を拒否し続けた結果、ふてくされていなかった。
「ったく、なにがTKOだか………」
───月城伊吹。
確かに………確かに美人であった。
整った目鼻立ちに、輝くような銀色の瞳。
不思議な魅力というのも、僅かだが言葉を交わした優斗にも理解出来たのだが…………
「なんつーか………ちょっと不気味だったよな………」
得体の知れない魅力は同時に、なにか不気味なものを優斗に感じさせた。
などと、一人ぶつくさ呟きながら、学校内での上履きを脱ぎ、げた箱からローファーを取り出し───
「………んぁ?」
自分のげた箱を開け、優斗は首を傾げた。
げた箱に、覚えのない紙切れ……というか、真っ白の封筒があった。
「……………えっと」
困惑した。
なんというか、真っ白の味気ない封筒なのに、何故かハートマークのシールで留めてあるあたりがアンバランスだ。
………さっそくTKOからの果たし状だろうか。
いやいやいや、ハートのシールはないだろう普通。
「差出人は………書いてない、か」
味気ない封筒のシールをはがし、中身にある一枚の紙を見る。
そこには一言。
“放課後、屋上に来たれり”
「…………………」
優斗の混乱は、ここに極まった。
字は、何故か筆で書かれていて、しかも達筆だった。
その上呼び出す場所が、体育館裏でも教室でもなく、屋上か。
一瞬、優斗は先生か誰かに相談すべきか真剣に悩んだ。
「…………むぅ」
……………まぁ。
行ってみて、チラリと屋上を覗いてから、様子を見てみよう。
そう考えると、優斗は手紙を制服のポケットにしまい、屋上へと繋がる階段へと向かった。
◆
「………………」
そーっと、階段から屋上へと続く扉を見る。
TKOはおろか、誰もいない。
「屋上……屋上に来いってことは………やっぱり」
あの扉の向こう、であろう。
長い間、階段で腕組みし、考え込む。
………。
……………。
…………………。
「おし」
覚悟を決め、ずんずんと階段を上がる。
喧嘩でも女の子の告白でも、なんでも来いってんだ。
階段を上りきり、屋上へと続く鉄製のドアを開こうと、優斗はドアノブに手を伸ばし……………
───優斗の手は、空を切っていた。
「んなぁ───!?」
否、空を切ったのではなく、開けるべき扉が吹き飛んだ。
文字通り、粉々に。
「な、な、ぅ……えぇ!?」
ガラン、ガランと鉄製の扉が階段を落ちていく。
吹き抜けになった屋上から差し込む夕日に、優斗がほんの僅か目を閉じて、
「───遅い!来たと思ったら扉の前で立ち止まりおって。わたしを待たせるとは何事か、たわけ」
よく透き通るその声に、優斗は目を開けた。
冬の赤い夕日を背に受けて。
仁王立ちで優斗を待っていたのは、
「月城………伊吹?」
優斗が呆然と呟いた、その人であった。