やっつめ。
なんだろう。
今、盛大な空耳を聞いたような気がする。
呆気にとられるキアラの目の前で、ジィンは木箱の上に片膝を立て。その上に顎を乗せた。
「おやすみ」
そして、礼儀正しく一言。
「え、ちょっとあの?」
キアラが止めるまもなく、その数瞬後。
すう、と安らかな寝息が聞こえた。
すばらしいまでの寝つきのよさ。赤ん坊よりも寝つきがいいんじゃないだろうか。
「ていうか、なんで寝てるの、この人?」
まだ、これが乗合馬車の中とか。移動途中の獣の上とか。そういうことなら話はわかる。
けれど、ここは公共の場で。おまけに道で。仮に雨とかが降ってきたとしても屋根なんかはないし。いや、それよりも前に、こんなとこで寝るなんて、ちょっと用心が悪いような気がするのだが。
お財布とか、取られちゃっても知らないよ?
途方に暮れたまま、キアラはすうすう眠るジィンの顔をみつめた。
大地の民にしては、白く滑らかな肌。通った鼻梁に薄い唇。長いまつげ。
……なんか、私よりも美人じゃない?
さらりと通りを渡る風に、灰色の髪がとける。
獣のような耳が、時折ぴくりと音に反応するのも、またかわいらしい。
なんかいろいろ、負けてる気がする。
そんな感想を胸に、キアラもまた、木箱に腰をかけて通りを眺めた。
せわしなく行き交う人々。いろいろなものに、無関心なその横顔。
王都って言うところは、どうも人と人との関係が希薄らしい。
たまに困ったふうな人がいても。気づいていながらも、そのまま立ち去ってしまう人の、なんと多いことだろう。
しばらくそのまま、通りを眺めていたキアラだったが、そのうち腹がぐうとなって。
ふと、われに返った。
まだそう長い時間がたったわけではないが、ジィンはいつまで眠るのだろう。
その秀麗な横顔をみつめて、頬をちょっとつついてみたりもしたが、ジィンが起きる気配は微塵もない。すうすうと気持ちよさげな寝息をたてるばかりである。
「まぁいっか」
どうせ、いくあてがあるわけでもないし。
お金もないし。
起きるまで待ったとしても、そうなにか困るわけでもないし。
そう開き直って、キアラもまた、膝を抱えて顎をその上に乗せてみた。
うん、意外とくつろげるかもしれない。と、そんな感想を抱く。
不穏な香りが鼻先を掠めたのは、ちょうどそんなときだった。
え?
森では、時折かいだ香り。そう、特に狩りのときに。
濃厚な、命がこぼれる香り。
あかくあかく、ながれる死の香り。
この王都の雑踏には、あまりにも不似合いな。
膝を抱えていた手をそっとはなし。キアラは油断なくあたりを窺った。
耳を動かして、音もさぐる。
そうすると、ちょうど香りが流れてくる方から、ぱたぱたとせわしなく駆ける音が聴こえた。そしてその後からは、乱雑に続く複数の足音――それもおそらく、武装した。
「いた、ジィン!」
声と共に、雑踏から飛び出してきたのは、まだ10をいくつか過ぎた程度にしか見えない、育ちのよさそうな少年だった。
やわらかく波打つ、金色の髪。夏の空の色を移した瞳。
のばされた腕は白く、少女のように繊細だ。
「ジィン、助けて……って!」
抱きつくように、ジィンに手を伸ばし。
そして、一瞬動きを止め。
ついで、少年は顔から血の気を失った。
「寝てるし!!!」
その声は絶望を色濃く宿したまま、雑踏に溶けて消えていった。