とおと、ひとつめ。
「おうじさま」
呼びかけとさえいえない、それは呟き。
けれど、口に出したその瞬間に、その言葉が何よりも正しいような、気がした。
ぴくり、と遠くにある、布を被ったその男の肩がわずかに震えたように思った。
けれど、風に溶けてしまったつぶやきは、彼の元まで届いたのだろうか?
不思議な沈黙がみちる。
ひどく長いような、それでいて一瞬のような。
風が吹き抜けて、ほんのせつな。時間さえも流れることを忘れたような感覚を覚えた。
「ロータス殿下。何を考えていらっしゃるのでしょうか?」
その、静かな空間を破ったのは、空気を読まない調子で紡がれた、カッツェの言葉だ。
今の今まで自分を盾にしていたとは思えないなめらかさで、カッツェはキアラの前へ半身を出した。
「貴様、こちらのお方がどなたか心得ていながら、無礼な!」
イシェ、と呼ばれていた傭兵が唸るが、カッツェは面白がるように肩をすくめただけだ。
「それならば、ロータス陛下?」
くすくすと笑いながら、細い目をさらに細めるカッツェを、キアラはただみつめていた。
おうじさま、はロータスという名前なのだろうか?
殿下だの陛下だの。よく意味はわからないけれども、そんな物々しい名前は、あんなに寂しそうにわらっていたおうじさまには、とても似合わない気がした。
「王城におられるべきあなた様が、こんなところでなにをなさっておいでですか? 悪巧みならばぜひとも混ぜていただきたいですねぇ」
「きさまッ!」
「黙れ、たかだか傭兵ごときの分際で。わたしと陛下の歓談の邪魔をするか?」
つかみ掛からんばかりの勢いで唸ったイシェにカッツェが放った一言は、先ほどイシェたちに追われて駆けて来たひょろ長い男とはまるで別人が発したように厳しく響く。
「歓談ではなかろう、ヴェルヴァルグ」
また聞きなれない名が出てきた、とおうじさまが口にした言葉にキアラは眉を寄せる。
話の流れからいけば、ヴェルヴァルグというのは、カッツェのことになるのだろうけれど。名前が二つあるということなのだろうか?
とりあえず、わかるのは。
おうじさまも、カッツェも。仲良しには見えないということくらいだ。
「そもそも私は、大地の娘と話していたのだ」
以前よりも、もっと時を経て聞こえる声。
キアラは一歩おうじさまのほうへと足を踏み出すが、警戒するイシェら傭兵たちのせいでそれ以上は進めなかった。
「おうじさま、なの?」
もう一度、問いかけてはみるものの、おうじさまは答えてはくれなかった。
「森へ、おかえり。大地の娘。私はそなたを、傷つけたくはないのだ」
ただ、先ほどの言葉を、繰り返すのみ。
くるしそうで、せつなくて。声の調子はあの日と変わらないのに。
自分の存在を乞うたあの日とは真逆に、今日は帰れと繰り返す、その声。
「ヴェルヴァルグ、そなたも。情報屋を気取るのもいいが、ほどほどにしておくがよかろう。首を突っ込みすぎれば、戻る道をなくすこともあろう」
「その言葉、そのままそっくりお返しいたしますよ」
人を食ったような調子でカッツェが言葉を返す。
「私だって面倒ごとは御免だが、友のたっての頼みとあらば、断るに断れなくてねぇ。やる気のない猫が実は虎だったってわかる前に、陛下もおとなしくおうちにお帰りになられたほうが身のためだと思いますよ?」
ふ、とおうじさまが布の下で笑ったような気配があった。
「忠告はしたぞ、大地の娘。そして、ヴェルヴァルグ。次は、ない」
キアラの質問にはまるで何も答えないまま、おうじさまが踵を返す。
その背に追いすがりたいと思いながらも、キアラは動けなかった。
まるで足が地面に貼りついてしまったみたいだ。
――キアラが、私の味方でいてくれるのだと思うだけで、心強く在れるよ。
誰よりも、キアラを求めてくれた、おうじさまが。
今は直接顔も見せてくれなくて。
せっかく約束を守りにやってきたのに、ただ帰れというばかりで。
傭兵たちを引き連れて、おうじさまが去って行く。
カッツェはのんびりとその背中を見送っていて、けれどキアラは結局、彼らの背中が角を曲がって見えなくなるまで、動けないままだった。