やっつめ。
「ところで、マーリは逃げたみたいだけど、待ち合わせはしているのか?」
ジィンがそう問うたのは、水路沿いの道に飛び込んだ例の裏通りに差し掛かったときだった。
キアラが力任せに蹴飛ばした重い樽を片付けている屈強な男たちが数人。きちんと積んでおかないから小柄な娘がぶつかっただけでなだれるんだと、持ち主らしき髭の親爺が怒鳴り散らして怒っていたのを聞いて、キアラはほんの少し申し訳ない気持ちになった。
ただ、幸いにも、壊れた樽も怪我人もないらしい。
本当によかったと胸をなでおろしていれば、ジィンがかすかに笑った。
「よかったな」
「え、あ。……うん」
ジィンの逞しい肩に手を置いてバランスを取っていたキアラは、なんとはなしに恥ずかしくなってうつむいた。
なんだろう。
ジィンのやさしげな黄金色のまなざしが、妙に落ち着かない。
「あ、マーリなんだけど」
そわそわと辺りを見回したキアラは、空気をかえるべくそう話を切り出した。
「日が沈んでから、大きい門の辺りで落ち合うことになってるの。匂いを頼りに探すといってあるわ」
「数刻、間がありそうだな」
ジィンはうなずき、目を眇めて太陽の位置を測った。
昼時は過ぎたとはいえ、夕方までもまだだいぶ時間が有りそうだ。
「おれたちが今の時間から門の辺りに行けば、目立ってマーリも隠れにくいだろう。宿で少し休むか」
「宿?」
どうせ泊まるわけではないのだ。
どこか定食屋のようなところで、少し休憩するくらいでいいのではないだろうか。
「おれの起きていられる時間がもうあまりないんだ。少し眠らないとまずい」
キアラの視線に疑問を感じたのか、ジィンはそう説明を加えた。
けれどキアラにしてみれば、さらに疑問が深まったようなものだ。
起きていられる時間、という定義は普通ないように思う。
夜中ならともかく、いまはまだ陽も高いのだ。
――神をその身に宿しているひとだから。
ふと、耳によみがえる、マーリの声。
嘘かとも思ったけれど、そもそも大地の民はあまり嘘を好まない。
とても精緻な、神代の祈りをその身に刻むほど、大地の民らしいひとならば。そもそも嘘でない可能性のほうが高いのかもしれない。
大地の民に、神が宿るという、その不自然さよりも。
ジィンが嘘をつくほうが。なさそうな気がしたのだ。
「起きていられる時間って、どういうこと?」
マーリから聞いたことは、知らないふりをして。キアラはジィンに質問をぶつけてみた。
当人から聞くほうが間違いが少ないというのもあるが。単に直接その答えを聞いてみたかっただけだった。
答える前に、ジィンは一瞬キアラをみつめた。
きれいなきれいな、黄金色の瞳。細い瞳孔が、まっすぐにキアラに向けられる。
キアラを抱えたまま、すいすいと人波を歩いていきながら、ジィンは短い時間で言葉を吟味しているようだった。
「キアラは、神代の物語を知っているよな?」
「え、うん」
質問の答えとは違うことを問われて、キアラは戸惑いながらもうなずいた。
まず、はじめに。
ただ、虚無があった。
在った、というよりも、そこにはなにもなかった。
けれど。
それを知る存在さえ、いなかった。
たゆたう、無。
時間さえも流れぬ、なにも存在しえぬ虚無。
ただ在りつづけた、虚無は、ある日。はじめて己という存在を知った。
空ろなる存在、創世の神、セリヌンティウスの誕生である。
創世の神は、上をみつめ下をみつめ。右と左を見渡したため。
天地が生まれて、距離と時間が生まれた。
けれど、創世の神はまだ、ひとりだった。
創世の神は、己が孤独に涙する。
涙はこぼれて、混沌となった。
涙、其は儚きもの。
いのちは生まれて散っていく、死すべき宿命の神子、ケイオスが生まれた瞬間だった。
ひとりでなくなったことに、創世の神は喜び、光が生まれ。
やがて散りゆくその命、その未来を嘆いて闇が生まれた。
昼と夜がうまれて、死すべき宿命の神子から分かれた数多のものが、育って散っていった。
これが、創世の物語である。
小さいころからだれもが暗記させられた物語だ。
キアラが諳んじてみせると、ジィンはかすかにうなずいた。
「この世界は、死すべき宿命の神子そのものだといえる。神子が死すべき宿命をもつように、世界もまたいずれ終焉を迎える宿命にある」
「……うん」
一応、習う世界ではそういうことになっている。
けれど、それを信じている人が世界にどれだけいることか。
しょせん、それは神代の物語なのだ。真実とは、また違う。
「まぁ、いろいろあったんだけどさ。おれはなぜか、その死すべき宿命の神子の欠片を宿しているんだ」
「はぁ……」
ジィンはマジメな顔つきで説明をしてくれたが。
神がかり的なものとは一線を画す生粋の大地の民であるキアラとしては。
ましてや、思いっきり内容を省略されたその答えでは。
どこかうろんな眼差しをジィンに向けることしかできなかった。