(9)真実を求めて
「行かれるか?」
「はい」
次の朝、老人の病床で出発の挨拶を交わしているセスは、老人の厚意で旅装を整えていた。旅をするには目立ちすぎると言う彼の助言を入れて、見事な金の髪も染められて見る影もない。染め粉の量が髪に比して少なかったため、あまりうまく染まらずに、ところどころ茶色のくすんだ金髪になってしまったのだ。いっそのことと、セスは髪を切ろうとしたのだが、それはあまりにもったないなさすぎると止められたので、今は、きっちりと編んで、マントの襟首から中に流し込んでいる。マントは豪奢な天空から着てきた装飾性の高いものではなく、いかにも丈夫で実用的な、なんのへんてつもない灰色のものに着替えていた。身体をすっぽりと覆うため、遠目には男だか、女だかわからないだろう。
ただし、『死せる大地』を渡るための食料と水は、この死にかけた村では調達できずに、いったん東の町に出て、入手しなくてはならなかった。
「コニーを頼む」
「わかりました」
老人は東の町にいる知人に、コニーを託すようにセスに頼んだ。コニーはがんとして病気の祖父のそばを離れようとしなかったため、今までこの村にいたわけなのだが、セスの案内と称して祖父の元を離れることを承知させたのだった。
コニーを安全なところに移すというのが、この死にかけた老人の最後のやり残した仕事というわけだった。
「おじいちゃん、準備できたよ」
旅装を整えたコニーが入ってくる。
「一人でだいじょうぶ?」
あどけなく首をかしげて、彼は祖父に尋ねた。
「だいじょうぶだよ。もうすっかりいいのだからね」
セスは老人の孫に対する嘘に心をつかれる思いだった。だいじょうぶなわけがないのだ。今朝は顔色もよくない。ベッドから、半身を起こしているだけでもかなりの負担なのだ。ただ、孫を思いやる老人の瞳が、まだ生気を宿していることだけが、救いだった。
「それより、女神様を頼んだよ。いくら神様といえ、女の身。お前は男の子だから、しっかり守るんだぞ」
「わかってるよ、おじいちゃん」
老人の空元気にその孫はすっかりだまされている。
「行こう、ええと」少し口ごもり、そして思い切って彼は言った。「お姉さん」
「ああ」
コニーの呼びように、心地よいものを感じながら、セスは新緑の眼差しに憂いの色を浮かべ、老人に別れを告げた。
「お世話になりました」
「行って来るね」
今生の別れとなるとも知らず、少年は無邪気に言った。
一人残されて床に横たわる老人は、天井を見つめたまま死を待っていた。
「そうか」
ふとつぶやく。昔、村を訪れた黒い髪と瞳の若い騎士がいた。彼は、輝く金の髪と新緑の瞳をもつ4、5歳の少女を捜していた。何かに取り憑かれたような熱心さに、少女の出自を尋ねると、疲労と苦悩の暗い影を漂わした彼は、はじめてほのかに笑った。
「かの女こそは、真の『大地の王』。我が女神」と。
あれは、もう十年以上前のことだ。彼が捜していた少女も、生きていれば十七,八になっていることだろう。騎士が告げた少女の名はセラスヴァテイー。大地の王の姫と同じ名であった。
「まこと、徒人ではなかったのだな」
そのささやきは誰の耳にも入ることはなかった。
『死せる大地』での旅は過酷なものであった。それは照りつける日差しの厳しさや、それでいて夜は骨の髄までしみいる寒さのせいではなかった。この程度の環境ならば、南方にあるという灼熱の砂漠にあたうべくもないだろう。
何よりも恐るべきことは、この呪われし不毛の大地が、生けるものの気配が完全に途絶えた、まさしく死が支配する寂寥たる場所だったことだ。孤独に慣れているとはいえ、なまじ鋭敏な感覚をもっているため、セスの心はかなりのダメージを受けることとなった。気力をうばわれ、心を蝕まれかけ、ときには狂気にさえ誘われたのだ。
このまま、大地は『死の呪い』に覆われ、世界は滅び去るのだろうか。まったき無の中に。
海の女王はわたしを大地の女王と呼んだ。そして、いずれの日にか大地がその王の手によって蘇るとも。わたしに贖えるというのか、父の罪が。
それともこの世に残されるのは、海の魔法がみせた絶対の『無』だけなのか。
募ってくる無力感に押しつぶされそうになるセスを、突き動かしたのはただ真実を得たいという強い決意だけだった。復讐を忘れたわけではない。けれど、あのときに、本当は何があったのかを知ることをなしに、あの黒き髪と瞳の殺人者を単純に憎むことは難しくなっていた。
東の町にいやがるコニーを無理に残し、『死せる大地』に入って、すでに4日。セスはついに求めるものを見出した。
崩れかけた城壁。その向こうに見える荒れ果てた灰色の廃墟。雑草一つはえるでもない忌みべき地。
凄まじいまでに邪悪な瘴気が噴き上げていた。それゆえに、そここそが世界を死に追いやろうとする呪いの源だと知ることはいともたやすいことだった。
これが、セスが幼い日をすごし、緑豊かな森の中にあった父の城塞のなれの果てなのだろうか。
これが、あの惨劇のあった場所、すべての始まりの地なのだろうか。
一陣の風が、彼女ののびかけはじめた前髪を吹きさらった。
セラスヴァティーは、白く鮮麗な顔をひきしめ、マントを胸の前でかきあわせると、その崩れかけた城壁の開かれたままの大門をくぐった。すべての真実を得るために。
『死せる大地』にゆらめく2つの影があった。
銀の髪を美しい裸身にまとわせた海の女王。
金の瞳と雪白の髪をした天空の王。
二人とも今は思念だけの存在だった。
「どうやら、上手くいったよう」
「まだ、安心はできぬ。あの子は自らのうちの復讐鬼さながらの思いを脱してはおるまい」
ふと天空の王は目を閉じる。あの激しい燃えるような復讐心がなければ、絶望にうちしがれ、傷ついたあの子は生きてはいけなかっただろう。
海の女王はその天空の王の心を見て取ったのか、うすく微笑んだ。
「そうであっても、疑うこともなく復讐を望むことはもうないであろう。すべてを決するために父の城塞にはいったからには」
「あなたには感謝している。海の移りゆく魔法のみがあの子に大地の想いを感じさせた」
「どうであろうか。他の民との接触を絶っていたあなた方がめずらしくもあの子を助けなかったら、この日はこなかったであろうな」
「手の中に飛び込んできた怯えた雛鳥を見捨てられるほど我らも無慈悲ではない、女王よ。それに、あの子が担っていた運命は決して幼くして死すことではなかった。そう、大地の真なる王として生まれてきたものであれば」
エピローグ
『大地』を死の呪縛から解き放ったのは、金の髪と緑の瞳の女神のごとく麗しき乙女であった。『大地』はかの乙女をその王として戴いた。そして、かつてなき豊穣の時代が幕を開けた。