(8)決意
目をさました老人は、孫息子と同じ明るい茶色の瞳をセスに向けた。
ほう。
感心したように息をつき、のろのろとつぶやた。
「女神様が見える。儂は死んだのか」
「おじいちゃんっ!」
喜びのあまり叫ぶように言って、コニーは祖父に飛びついた。
「この人は女神さまだけど、おじいちゃんは死んじゃいないよ。治して下さったんだよ」
「わたしは女神なんかじゃない」
なかばあきらめかけながらも、セスは否定した。「私はセス。あなた方と同じ、ただの『大地の民』です」
老人は深い叡智にみちた穏やかな眼差しをむけた。それはどこかセスに天空の王を思い出させた。
「とてもそうは見えぬな。少なくとも、そなたは徒人ではあるまい」
老人は、かの女の身元を判じかねていた。そこらの村娘と言うには、何一つ欠点のない完璧すぎる美貌。日に灼けていない白い陶磁器のような滑らかな肌、細く伸びやかな手足は、肉体労働には無縁のもの。年の割には落ち着いた身のこなしは優雅ですらある。旅回りの芸人ようにすれた感じもない。無造作に身にまとった、銀糸を織り込んだマントも豪華で仕立てのよい品だ。どこかの貴族の令嬢であろうか。だが、深窓の姫君と言うには、その鮮やかな新緑の瞳に浮かぶ光は強すぎる。いっそのこと、女神だと言ってしまった方が納得できるほどだ。
老人の胸元で、コニーが悪戯っぽく笑った。「女神さまだって言うことは、内緒なんだって。だけど、おじいちゃんを治してしてくれたんだよ」
「そうか」老人は少年に笑い返すと、やつれて骨ばかりが目立つ手で、コニーの頭を撫でた。
セスはなかばあきらめながらも反論を試みた。
「それはコニーの誤解だ、女神だなんて。それとも、私は人に見えぬほどに、変なところがありますか」
「変などとはとんでもない。そなたは、綺麗すぎるのだよ、この世のものに見えぬほどに」
「わたしが?」
セスは、新緑の瞳を見瞠った。ほとんど隔離された状態で育ったセスは、あまり自分の外見にこだわることもなく、まして自分が人にどう見えるのか意識すらしたことがなかった。天空の民はもちろん現実には肉体を持たないから、比較の対象にもなり得なかったのだ。
「だけど、いくらなんでも女神などと」
老人は人の悪い笑みを浮かべた。
「おやおや、どうやら、あなたは自分を知らないらしい。女神のように麗しいお嬢さん」
「えっ?」
老人の言いように、セスは頬を上気させて絶句する。
老人は軽く笑って、自分の手の下の孫を見遣った。「コニー、ご客人はお疲れなようだ。部屋の用意をしておいで」
「うん」
コニーは、身軽くベッドからすべりおりて、部屋から出ていった。
「すまないな。こんな身体では、ろくなもてなしもできん」
「いいえ。それよりわたしは伺いたいことがあるのです。コニーはあなたに聞けばわかると」
「なんなりと、お嬢さん。どうやら、そなたは儂の命を救って下さったようだ」
「わたしは……」セスは唇をかんだ。救ってなどない。熱が下がって、一時的に楽になったのにすぎない。病気自体が治ってないのだから、じきにまたぶり返すだろう。
「病気は治ったわけではありません。わたしは熱を下げただけで、楽になったかと思いますが」
老人は首を振った。「わかっておるよ。儂の命は残り少ない。だが、そなたのおかげでやり残した仕事を終えられそうだ」
「やり残した仕事?」
「あの子のことだ、コニーの。いつまでも、ここにおいてはおけぬ。そなた、この村を見たであろう?」
「はい」
「どう思われた?」
尋ねられて、セスは柳眉をひそめた。村の有様は無惨だった。陰鬱で生気に欠け、それゆえに死臭さえ漂わせた。しかし、それをこの病に弱った老人に告げる気にはなれず、口ごもる。「それは……」
「躊躇われなくともよい。この村は死にかけておる、儂と同じにな」
重たい内容を、この老人はさらりと軽い口調で言ってのけた。
「私は知りたいのです。どうしてこんなことに?」
セスは死に行く大地の断末魔にも似た悲鳴を思い出して、身をひとつ震わせた。「あれは、あれでは、『大地』はいずれ滅びる。いったい、どうして『死の呪い』なんて。コニーは、悪い王様が呪いをかけたと言っていたけれど」
ことによるとその悪い王とは、自分の父かもしれなかった。けれど、それはさすがに口には出せない。
「そなたはいったいどこの育ちだね。そなたの年で知らぬ話ではあるまい?」
「わたしは異国の育ちですから」
「儂もコニーと同じに、そなたを女神だと信じた方が納得がいきそうだ」
「ご老人!」
「冗談じゃよ。しかし、セス殿。『大地』にはもともと国は一つしかなかったのだよ。今でこそ多くの国があるが、それも『大地の王』が弑された後の話だ」
「大地の王?」
「そうだ」老人はもうセスの無知に動じなかった。「『大地』の支配者であり、守護者でもあった。そして、彼こそが『大地』に呪いをかけた張本人なのだと、言われている」
「どうして、なぜ、そんなことを? 『大地』の守護者ともあろうものが?」
厳しくも優しかった『天空の王』。毅然として美しかった『海の女王』。彼らが、いかな理由があろうと、己の守護すべき世界に、自ら呪いをかけるなどとても考えられない。『大地の王』とて、同じことのはずだ。
「さあて、なぜであろうな。我ら、下々のものには上のやることはわからんよ。ただ、その当時の大地の王は、過酷で残虐な支配者だったと、伝えられている。そのうえ、天候不順によって不作の年が続いた。『大地の王』がその責務を果たしておれば、起こらぬはずのことだ。とうとう、たまりかねた貴族たちが反乱を起こし、王の首をすげかえようとした。だが、それを潔しとしなかった王は、自らの命と引き換えに、『大地』に呪いをかけたということだ。なんともまあ、壮絶な話だな」
「命と引き換えに?」
父の末路の言葉が耳に蘇る。
(「呪いあれ! 呪いあれ!」)
では、やはり、大地に呪いをかけたのは父であったのか。
「恨みはしないのですか? あなたは。『大地』に呪いをかけたものを。あなたの村をこんなにしたものを」
緑の宝玉のような瞳が、真摯な光を浮かべて老人に問いかける。その瞳をたじろきもせず、見返しながら、老人はゆっくりと答えた。
「そうさな。恨まないと言ったら、嘘になるだろうな。だが、だからと言って、恨みに取り憑かれていてどうする? 死に行く大地が元に戻るわけでもなし。憎しみは、腹の足しにはなるまいよ」
「わたしは……」
セスはそのまま口ごもった。父を裏切ったものたちを、母を、兄弟を殺したものを、許すことなどできない。けれど、父は自分を裏切ったものを憎しむあまりに、それ以上の許されざる罪を犯したのだろうか。無辜の民さえも巻き込んで。世界そのもの滅ぼすことになることすら構わずに。
海の移りゆく魔法が見せた世界の行きつく先。何ひとつない、すべてが失われた虚無の世界。ただ憎しみ故にそれを行ったというなら、あまりに身勝手過ぎる行いと言えないか?
海の女王は言った。
大地がその王自身の手によって汚されて、と。
そして、父と同じ過ちをくりかえすか、と。
それは、憎しみゆえの過ちなのか。
私には父を責める資格はなどない。ただ復讐のためだけに世界を滅ぼそうともかまわぬと、そのために苦しむことになる罪もない人たちのことも知らず、いともたやすく大言壮語するほどの子供に過ぎぬ私には。
リディウスは、『天空の王』は、なぜ真実を教えてくれなかったのか。
いや、違う。私は聞く耳を持たなかったのだ。憎しみに、復讐に心とらわれて。
だからこそ、王は私に真実を求めさせたのか。たやすく教えることなく。
ならば、行かなくては。すべてをこの目で確かめねば。そうしなければ、私はもう一歩も前に進めない。
鮮麗な美貌に悲痛な表情を浮かべ、立ちつくす少女に、老人はいぶかしげな眼差しを投げかけた。
「どうしたんだね?」
「いかなくては、『大地の王』の宮殿に」
心ここにあらずというふうに、セスはつぶやいた。すべてのはじまりの場所。そこに戻って、確かめなくてはならない。
「あの忌み地に? 多くのものが呪いを解く法を求めて、『死せる大地』を渡り、宮殿に足を踏み入れたが、無事に戻ったものはおらぬよ。今では、あそこは悪霊の巣窟だとのことだ。そなたのような若い娘が行くところではあるまい」
「それでも、行かねばなりません」
セスの新緑を思わせる瞳は、強固な決意をうつして輝き、老人はどうでも止められぬことを悟った。