(7)精霊の主
玄関の扉を開けかけて、そこでコニーの手がふととまった。悄然とうなだれる。
「どうした?」
後ろからセスが声をかけると、コニーはふるえるようなか細い声で答えた。
「ぼく、忘れてた。おじいちゃん、ずっと寝込んでて今日は熱がでて」
とても弱っていて、まともに人と話せる状態じゃないのだ。美しい女神さまに有頂天になりすぎて、コニーの頭から祖父の容態はすっぽり抜け落ちていた。そんな自分がすごく自分勝手な嫌な奴に思えた。女神さまにも軽蔑されてしまう。
「熱くらいなら、下げられる」
セスは淡々と答えた。天空の王から、かの女は多くのことを学んだが、そのなかには医術の初歩の心得と癒しの魔法もあった。怪我や軽い病程度なら、なんとかならないこともない。
返った意外な言葉にコニーは振り向く。「ほんとうに? でも、薬草なんかないんだ。さがしたんだけど」
「だから、一人であんなところにいたのか?」
「うん」
そうして泣きそうな顔になる。「さがしたんだ。たくさん、たくさん、さがしたんだ。だけど・・、みつからなくって・・・」
後は言葉にならない。うつむいて瞳から湧き出た涙を隠す。小さな肩が震えていた。
「そうか」セスはしょげ返った少年の茶色の頭に手をのせた。ふわりと柔らかな暖かさがセスの手のひらに伝わる。実体のある人間に触れるのは何年ぶりだったろうか。張りつめたセスの気持ちがすこしだけなごむ。
「薬草はなくてもだいじょうぶだ。少しばかり心得があるから」
そう優しく言われて、少年は涙に汚れた顔をあげた。潤んだ明るい茶色の瞳が一心にセスを見あげた。
「そっか。女神さまだものね。病気くらい、治せちゃうよね」
私は女神なんかじゃない、そうセスは言いかけたが、少年の瞳の期待に満ちた輝きを見てとると、とっさにその言葉を飲み込んだ。「治せるかどうかは、診てみたいとわからないよ。私にできることには限界がある」
しかし、少年はセスの後の言葉など聞いてはいなかった。勢いよく、玄関の扉を開くと、セスの腕にしがみつくようにしてひっぱった。
締め切った薄暗い室内には、病室独特のむっとした臭いが漂っていた。
病人の枕元に立ったセスは、その人目を奪う端麗な美貌を曇らした。
老人のしわぶかい顔には、苦悶の表情が浮かんでいる。たしかにかなりの熱があるのに、血の気のない蒼ざめた顔。混濁した意識。浅く速い呼吸。弱々しい脈。痩せこけた身体。よい徴候はなにひとつない。
無言で老人を見下ろしたセスは心の中で深いため息をついた。
熱を下げることだけなら、セスにもできる。しかし、本来、発熱は生体の防御反応だ。やみくもに熱だけ下げても、けっきょくいい結果にはならない。かえって、命を縮めることになりかねない。
(だが、どう転んでもわたしには根治治療は無理だ。こんなことなら、まじめに癒しの術を習っておくべきだったか。)
天空の王は、セスがねだっても攻撃魔法は教えてくれなかったが、治癒の魔法や医術はかなり熱心に教えてくれた。ただ、復讐のためだけの力を求めるセスは、必要を感じず、あまり真剣に覚えようとしなかったために、実際にできることはほんの基本的なことにすぎない。
(しかたない。熱だけでも下げるか。このままでは、どんどん体力を消耗していくだけだ。それにわたしにはこの老人の知識が必要らしい。)
ふと、セスの薔薇の花びらのような唇がゆがみ、うすい笑みが宿る。復讐を成就するためには、何をも、誰をも、犠牲にしようがかまわないはずだった。それなのに、なにを今更、こんな見知らぬ、どっちにしろ老い先短い年寄りの命に動揺する。
「コニー。窓をあけて」
背後でいっしんに見守っていた少年に命じる。
「うん」
コニーは飛び立つように、締め切っていた窓にとりついて、開け放つ。薄暗い室内に光が差し込み、新鮮な空気が流れ込む。
セスの細くしなやかな指が宙を舞う。力ある古い文字、精霊文字を描く。文字を通して、強い呼びかけの念が空間に刻まれるのだ。空間に刻まれた念が強ければ、強いほどに精霊たちは惹かれてくる。明かりに群がる夜虫のように。
『我は喚ぶ。風よ。聖なる風よ』
セスは風の精霊を喚んだ。この滅びようとしている土地で、どの程度の精霊を喚びだせるものか、実はあまり自信がなかった。
反応は、思いもかけずに素早かった。
窓から一陣の風が吹き込んでくると、セスの周りに渦巻いた。かの女の輝かしい金色の髪が風にもてあそばれ、ひるがえった。
声もなく、コニーは彼の女神を見守った。セスの新緑の瞳が淡い輝きを放って、中空を見すえている。
(何が起こっているんだろう?)
目に見えない何かの気配がかの女の元に集ってくるのが、コニーにもわかる。けれどそれ以上のことはわからない。
セスは極度の集中の表情を浮かべたまま、動かない。
そのかの女にしか聞こえない声なき声で、風の精霊たちがささやく。
(愛シキ姫。)
(小サキ姫。)
(我ラガ主ガ、戻ラレタ。)
風の精霊たちがセスの周りで歓喜の舞を踊り、かの女の帰還を言祝ぐ。
これは、いったい? セスは驚愕に瞠目した。天空では精霊たちは、セスの命令をなかなか聞こうとはしなかった。お情けでいうことを聞いてやっているという傲慢ぶりで、もしかして精霊使いというのは精霊たちの玩具ではなかろうかと思わせるほどだった。
だのに、ここの精霊たちはセスの命に喜んで従おうしている。
ここが大地だから、私が大地の娘だからだろうか。
よく感覚をこらしてみると、喚んでもいないほかの精霊たちの気配を感じた。ちらちらと輝く光、熱く燃える炎、冷たく澄み渡った水の気配。光と火と水の精霊までもが集ってきている。ただ、土の精霊の気配のみがなかった。彼らは死の呪いの中に取り込まれてしまっているのだろう。
他の精霊たちも、『天空』の精霊たちに比べるとずっと気配が薄い。弱っていると言ってもいい。この『大地』に棲まう精霊たちにも、当然のごとく死の呪いは影を落としていた。
(命ヲ。)
(命ヲ。)
(我ラガ 姫。)
(主ノ命コソ 我ラガ 歓ビ。)
喚ばれた風の精霊たちが、セスのためらいを察したか、命令を促す。
セスは一つ息をついた。細い指が、複雑な文様を空に描く。
『悪しき熱を祓え』
手を老人の熱い額に下ろす。
(御望ミノ ママニ。)
打てば響くように応えると、精霊たちは次々に老人の体内に入り込み、その熱を運び去る。その過程でかなりの精霊たちが、己の存在の元である力を使い切り、消滅していく。
「お前たち・・・」
止めようとしかけて、手を浮かしかけたセスは躊躇う。中途半端なところで止めれば、老人の命に関わる。
額においた手を通して、老人の熱が引いていくのがわかる。病巣自体を絶った訳ではない。ほんの一時しのぎにすぎないが、老人の蒼ざめた顔にいくらか生気が戻る。荒い呼吸が穏やかなものに変わっていった。