(4)死せる大地
「はあ、やっぱりだめか」
ため息をついた少年の眼前に広がるのは、渺々とした干涸らびた荒野。わずかに枯れ草がはえる以外は、一面何もなく、ひび割れ白茶けた不毛の地。ほんの数カ月前までは、ここは肥沃な草原で、薬草の宝庫だった。けれど、いまはその面影はない。
目前の光景がゆがむ。
じわっと、少年の大きな茶色の瞳が涙にうるんだ。
「ひっくっ」
嗚咽をこらえ、手の甲で涙をごしごしと拭き取る。
「もう帰らないと」
涙声でつぶやく。
たった一人の家族である祖父が寝込んでから、一週間になろうとしていた。今日は熱が高くて、でも一月前から村の井戸から汲み上げられる水はわずかでしかなくて、村人の飲み水をまかなうだけて精一杯だった。そんな貴重な水を身体を冷やすためには使えない。せめて熱冷ましの薬草をと、隣のおじさんが無駄だと止めるのもかまわずにここまで出てきた。けれど、やっぱりレイおじさんの言うとおり、ここにもまた『死の呪い』がやってきて、草原は虫いっぴきもいない死の荒野と化していた。
ごうっ、少年の耳元で風がうなった。
いや、風ではなかった。ふと顔を上げた少年の前に巨大な水の壁が立ちはだかっていた。今にも、水の壁が少年の頭の上に崩れ落ちてくる。
「うそーっ」
おどろきのあまり、彼はその場にへたりこんでしまった。逃げなければと思うのだが、身体がいうことをきかない。
(おぼれるっ!)
思わず目をぎゅっとつぶる。
けれど、いつまでたっても何も起こらない。
(あれっ??)
おそるおそる目を開けた彼の視界を射たのは、金のまばゆい輝きだった。見事なまでの金の髪を背中にひろげて、見知らぬ人がたおれていた。
まわりの荒野には、大洪水の痕どころか、水にぬれた形跡すらない。
何だか、あまりの非現実さに少年は言葉もなく、その見知らぬ人物にもう1度、目を転じた。すると、その人はゆっくりと身をおこした。
美しい人だった。見たこともないほどに。
金の髪にふちどられた白い顔は整いすぎて、とても自分とおなじ人間とは思えない。見事な宝玉のような新緑の瞳が、少年にむけられたとき、彼は心臓を鷲掴みされたような衝撃を覚えた。初夏の森の色のような瞳は、激しい意志の輝きと同時に孤独の影をはらんでいた。見ているのが怖いような、けれども見ずにはいられないような。
少年は思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
(女神さまだ、女神さまに違いない。ぼくたちを助けに来たんだ)
古い伝承。金の髪と緑の瞳の『大地』をつかさどる女神。『大地』が危難にさらされるとき、必ずその麗しき姿をあらわし、救いの手を差し伸べるという。
「ここは」
つぶやくかの女の声は、冷たく澄んだ水のように清冽だった。ふと何かに気づいたように首を西の方角にめぐらした。たちまち鮮麗な白い顔に険しい表情が宿る。
意識を取り戻したセスの目の前にいたのは、まだ幼い少年だった。あかるい茶色の髪と瞳。薄汚れた半袖のシャツと半ズボンからのびる手足はひどくやせこけている。けれど、セスをまじまじと不思議そうに見つめる少年の大きな茶色の瞳には、利発げな輝きがあった。
セスの髪も服も濡れてはいなかった。海の波にもてあそばれたはずなのに。
「ここは……」
たずねかけてセスは口をつぐんだ。きかなくても答えがわかった。
あたりは荒廃した土地だった。白茶けた緑息吹かぬ荒野がえんえんと続き、命の気配すらない地。セスが幼き日を過ごした緑豊かな肥沃な土地とは、あまりにも似ても似つかない。
けれど、わかる。
わかってしまう。
鼻をくすぐる空気。髪を揺らす風。手がふれた地面。その中のなにか優しいものがかの女に語りかける。
ここは『大地』。
セスの故郷。
あるべき場所。
還ってきたのだと。
ふと何かの気配を、かの女のいつも以上に研ぎ澄まされた感覚が捕らえた。
(なんだ?)
その方を振り向く。半分、身を起こしかけたままの姿勢で。
よくない感触だった。強大で、邪悪なまがまがしい瘴気。
(なんで、こんな?)
夢と現実のはざまに住まう天空の民の元で育ったために、自然に培われた感覚。見えざるものを見、触れざるものに触れる能力。それをかの女は凝らす。
地面の中に滔々と流れる力。それは本来、力強き命の力。芽吹き、育む力。それが吸い上げられ、ねじ曲げられ、邪悪な死の力の源となって噴き上がっていた。まるで、『大地』自身が、己に死の呪いでもかけたように。あるいは緩慢な自殺でも図っているように。これでは、土地が荒むのも道理である。しかも、その死の呪いが大地の力をむさぼる勢いは、衰えをしらない。このままでは、いずれ『大地』は枯れ果て、滅ぶだろう。
『大地』は悲鳴をあげていた。断末魔の叫びにも似て。
「あっ!」
一声、叫んで、かの女は胸をかかえてうずくまる。
身体に激しい痛みが走る。まるでねじまげられ、そのまま引き裂かれでもしたように。
(いけない、引きずられてる!)
その痛みは、かの女のものではない。『大地』の痛み。
あわてて凝らしていた感覚を引きあげるが、それでも身体の奥深くでうずくような痛みが残る。
(なんで、ここまで同調する)
世界がどうなろうが、関係ないはずだった。望みはただ復讐のみ。なのに、死にかけている『大地』の痛みがなぜこんなに切なく感じられる? 引きずられるほどに。
「ねえ、だいじょうぶ?」
いつのまにか側によってきていた少年が、セスを心配そうにのぞきこんだ。
「だいじょうぶ、だ」
セスは脂汗をうかせた額を無造作にぬぐい、ふらつきながらも立ち上がった。
そして、指さす。西の彼方を。
「あそこには何がある?」