ヤンデ霊
ええと……どこから始めようか……。
……まぁそんなに気にしなくていいか、適当でも何時も最後まで聞いてくれるし。
そうだな、折角だし……最初から。
◆
ミーン、ミーン、ミーン。
「うるさいな……」
一日中耳元で鳴き続ける蝉に、俺は思わず顔をしかめる、でもそんなことすら許せてしまう。
なぜなら、今は夏休み!
……別に学校が嫌いってわけじゃない、でも長期休暇はやっぱりワクワクが止められない。
しかも俺は、夏休みが始まってから一週間でほとんどの宿題を終わらせた。
一週間だ、一週間である、俺に怖いものなどない!
「さて、今日は何をするか……」
腕を組んで真剣に考える。
……うん。
「遊ぶか!」
俺は勢いよく立ち上がると。
「行ってきます!」
と家の中に声を掛けて外へ飛び出した。
俺が住んでいるところはド田舎だ、見渡せば田んぼ、少し遠くを見れば山。
コンビニなんてものは歩いて行ける距離にはない、でも俺はこの場所が嫌いじゃなかった。
田舎だから学校の人数も少ない、同じ学年の奴だけじゃない、学校にいる奴はほとんど全員が友達だ。
家も近所同士遊び相手に困ったことなんて一度もなかった。
俺は田んぼの間を通る細い道を駆け足で走っていく、照りつける太陽、青々とした稲、風に揺れる田んぼの波。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭う、それでも俺の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
しばらく走るとやがて大きな山が見えてくる。
「オバケ山」と呼ばれている山だ、名前の由来は知らない、ただ大人達は口を揃えて言う。
「あの山にはオバケが出る」
子供の頃から、何度も聞かされてきた話だ、もちろん俺は幽霊なんて信じていない。
でも――
子供にとってそんな噂ほどワクワクするものはない、そしてそのオバケ山には俺達だけの秘密基地がある。
俺は山の中へ入り獣道を進んでいく、木々の隙間から差し込む太陽の光、蝉の鳴き声、土と草の匂い。
やがて木々が途切れ開けた場所へ出る、そこに古びたボロ小屋が一つだけ佇んでいた。
ここが俺達の秘密基地だ、メンバーは六人。
「ケンちゃん」
「みっくん」
「ともやん」
「さっちゃん」
「ヨー」
そして俺――「ナツ」。
「おせーぞナツ!」
小屋の前で、ケンちゃんが俺を指差した。
「で、前に話してた通りお菓子とジュース持ってきたか?」
「もちろん!」
俺が家から持ってきた袋を掲げる。
今日は秘密基地でお菓子パーティーをしながら宿題をやる日だ。
……まあ、俺はもう終わってるんだけど。
俺は早々に終わらせた宿題を、みんなの前に置いた。
その瞬間だった。
「俺が先!」
「ちょっと待てよ!」
「俺にも見せろ!」
「ずりーぞ!」
みんなが一斉に俺の宿題へ飛びついた、俺は持ってきたジュースを飲みながらその光景を眺める。
まあ、こういう時に勝つのは――
「っし!」
ケンちゃんが宿題を掲げた。
「俺が最初な!」
やっぱりケンちゃんだった。
このメンバーの中で一番の腕っぷしを持っている、力比べをしたら間違いなく一番だ。
「うう……突き飛ばすことねーだろ……」
みっくんが涙目になりながら、尻を払っている。
「まあ、終わったら見せてやるから」
ケンちゃんは丸刈りの頭を掻きながら悪びれた様子もなく言った。
当然、他のメンバーから一斉にブーイングが飛ぶ。
「わーったよ!」
とうとうケンちゃんが折れた。
「ほら、置いてやるから」
地面に宿題を広げる。
「これなら見れるだろ?」
俺は思わず最初からそうしておけよ、と言いたくなった、でもケンちゃんに怒られそうだったからやめておいた。
そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎていった、木々の隙間から差し込んでいた日差しもいつの間にか赤みを帯びている。
蝉の声も昼間とは少し違って聞こえた、ともやんが小屋の外を覗き込む。
「そろそろ日が暮れそうだから、帰ろう」
「帰る?」
ケンちゃんが首を傾げた。
「こっから本番だろ!」
「本番?」
「肝試しだよ!」
ケンちゃんがニヤリと笑う。
「オバケ山の肝試し……やるだろ?」
肝試し、確かに夏の風物詩だ、それもこの「オバケ山」でやるなら尚更だ。
俺は幽霊なんて信じていない、だけど大人達は口を揃えて言っている。
この山にはオバケが出る、しかも子供には特に見えるらしい。
……まあ、やりたいのは山々だけど。
夜ご飯前に帰らなきゃ家に帰ってから怒られる、それが子供というものだ。
「俺は帰る」
「俺も」
「また今度にしようぜ」
結局、肝試しに行く奴はいなかった。
「ちぇ、一人じゃつまんねーから俺も帰る」
ケンちゃんも残念そうに立ち上がった、みんながそれぞれ帰っていく、俺もみんなに手を振ってから山を下りた。
帰り道、俺はまだ終わらせていない宿題のことを考えていた。
絵日記はまだいい、問題は自由研究だ。
何をすればいいのか、全然思いつかない、俺は歩きながらうんうんと唸る。
その時だった、ふと一つの案が頭に浮かんだ。
「オバケ山」の幽霊の正体について調べる、さっきも言った通り俺は幽霊なんて信じていない。
どうせ、動物か何かなんだろう、だったらその正体を突き止めて自由研究にすればいい。
大人達が口を揃えて言う「オバケ」。
何よりこの山は「オバケ山」と呼ばれている、きっと何か凄い発見があるに違いない。
俺はそう考えていた、そしてその日の夜。
家族が寝静まり、辺りがすっかり静かになった頃。
時刻は真夜中、昼間に思いついたことが頭から離れなかったのだ。
オバケ山、幽霊、大人達が口を揃えて語る噂、一体あの山には何がいるんだろう。
好奇心が、どんどん膨らんでいく。
――知りたい。
俺は布団から抜け出した、音を立てないように忍び足で家の中を歩く。
誰にも見つからないようにそっと玄関を開ける、夜の空気が肌に触れた。
昼間とは違う、田んぼの向こうから聞いたことのない虫の鳴き声が聞こえる、見上げれば満天の星空。
俺は少しだけ緊張した、それでも好奇心の方が勝った。
目的地は一つ、オバケ山に向かって俺は駆け出した。
◆
夜のオバケ山は、昼間とはまるで別の場所だった、木々の隙間から差し込む月明かり、風が吹くたびにざわざわと揺れる葉。
正直に言うとかなり怖い、流石に帰ろうか、一瞬だけそんな考えが頭をよぎった。
でも、ここまで来て帰るのも億劫だった。
「……行くか」
俺は意を決して、オバケ山の中へ足を踏み入れた、手に持ったスマホのライトで前方を照らしながら一歩、また一歩と進んでいく。
足元には木の根っこ、少し先には大きな石、昼間なら何でもないものなのに、夜になると全部が怪しく見えてくる。
その時だった。
ガサッ。
すぐ近くの茂みが揺れた、俺の足が止まる、心臓がドクンと大きく鳴った。
……まさか。
幽霊?
俺はライトを茂みに向けた、何も見えない、しばらくその場から動けなかった。
帰ろうか。
いや、でも……。
俺はゴクリと唾を飲み込む、意を決して茂みに手を伸ばした。
バッ!
勢いよく草を掻き分ける。
「……なんだ」
そこにいたのはただのトカゲだった、俺は思わず大きく息を吐いた。
トカゲは俺のことなんて気にも留めず茂みの奥へと逃げていく、俺は胸を撫で下ろした、やっぱり幽霊なんていない。
そう思い直して、再び歩みを進めた。
◆
それから暫く歩くとやがて木々が途切れた、俺は足を止める。
開けた場所に出た、そこにあったのは古びた神社だった。
……いや。
神社だった場所、と言った方が正しいかもしれない。
鳥居は途中から折れ、社殿らしき建物も長い年月を放置されたせいか、あちこちが朽ち果てていた。
雑草は伸び放題、月明かりだけが寂れた境内をぼんやりと照らしている。
俺は辺りを見渡した、いかにも何かが出そうな場所だ。
でも――
いくら待っても幽霊らしきものは現れない。
「……いないな」
少しだけ落胆した、せっかく夜中に家を抜け出してまで来たのに。
これじゃあ自由研究の題材にもならない。
「帰るか……」
俺は踵を返し来た道を戻ろうとした、その時だった。
「ねぇ」
背後から、声が聞こえた。
女性の声だった、俺は素早く振り返る。
「――っ」
そこに女の子が立っていた、いつからそこにいたのだろう、全く気づかなかった。
彼女は所々破けている制服を着ていた。
高校生くらいだろうか、俺よりもずっと背が高い、長い髪は綺麗に整えられていて、月明かりを受けて淡く輝いている。
少し垂れた目、整った顔立ち、明らかな人間。
俺は少し安堵し、尋ねた。
「えっと……君は?」
「……私?」
彼女は自分を指差した。そして不思議そうに首を傾げる。
「私か……」
しばらく沈黙が続いた、彼女は口元に人差し指を当てる。
まるで自分の記憶を探しているようだった。
「……私って、何なんだろうね」
「……え?」
意味が分からなかった、俺が困惑していると彼女は突然俺との距離を詰めてきた。
(ち、近い……)
思わず後ずさる、でも彼女はそんな俺の反応を気にする様子もない。
むしろ興味津々といった様子で俺の顔を覗き込んでいる。
「それよりも、君のことを教えてよ」
「お……俺?」
「うん」
彼女は笑った、その笑顔は綺麗だった、でもなぜか少しだけ不気味だった。
「えっと……俺は、夏目永遠」
「友達からはナツって呼ばれてる」
「ふ〜ん」
そして、少し考えるように首を傾げる。
「トワ君は、ここに何をしに来たの?」
俺は目を瞬いた、皆からはいつも「ナツ」と呼ばれている、だからいきなり名前で呼ばれたことに少し驚いた。
「ええと……」
俺は少し考えてから答える。
「ここに出るって言うオバケを探しに来たんだ」
「……」
少女の表情が止まった。
「オバケ?」
「うん」
俺は頷く。
「この山にオバケが出るって、大人達が言ってるから」
そして、ふと思った。
「……君も?」
彼女は何も答えなかった。
「あの……」
沈黙が怖くなって俺が声を掛けようとした、その時。
彼女がゆっくりと口を開いた。
「……知らない」
「私の事なんてどうでもいいの」
「……」
俺は更に困惑した。
一体何でこんな場所にいるんだろう、そもそも夜中に一人で山の中にいる高校生なんて普通じゃない。
俺がそんなことを考えていると――
彼女がまた一歩近づいてきた。
「!?」
また近い、さっきよりも近い。
顔と顔がぶつかりそうな距離まで彼女が迫ってくる。
「ちょ、ちょっと――」
俺は思わず後ずさった。
「うわっ!」
足がもつれる。
ドサッ!
そのまま尻餅をついた。
痛い。
俺が腰をさすっていると彼女が心配そうな顔をした。
「大丈夫?」
「う、うん……」
彼女が手を差し出してくる。
「ほら」
「……あ、ありがとう」
俺はその手を取ろうとした。
――その瞬間。
俺の手が空を切った。
「……え?」
もう一度、今度はしっかりと狙って彼女の手を握ろうとする。
でも触れない、何度手を伸ばしても俺の指は彼女の手をすり抜けていく。
そんな俺を彼女は不思議そうに見下ろしている。
それでも、差し出した手を引っ込めようとはしなかった。
その時、月明かりに照らされた彼女の首元が目に入った。
その首に締めつけられたであろう深い跡が残っている。
俺は息を呑んだ、触れられない手、夜の山に一人で立っていた彼女、そしてその首に残った深い跡。
バラバラだったものが、一つに繋がっていく。
俺は確信した、彼女こそがこの「オバケ山」の「オバケ」なのだと。
でも不思議と恐怖はなかった、俺が想像していた幽霊はもっと不気味でもっと奇怪な姿をしているものだった。
でも実際に目の前にいるのはどう見ても人間だ。
(幽霊って皆こうなのか……?)
ふとそんな疑問が頭に浮かんだが直ぐ自分を制した。
そして彼女に問う。
「君がこの『オバケ山』のオバケなの?」
「……?」
彼女はポカンとした顔をした。
「……オバケ山?」
「うん」
「『オバケ山』って何?」
「何って……」
俺は何となく答えた。
「この山の事だよ、皆そう呼んでる」
「ふーん……」
彼女は少し考えるように空を見上げた。
「今はそう呼ばれてるんだ」
「……今は?」
俺が聞き返す、彼女は首を傾げた。
「昔は違った気がする」
「昔?」
「うん」
「そんなヘンテコな名前、聞いたことないもん」
「……」
俺は少し驚いた、大人達は皆、口を揃えて「オバケ山」と呼んでいる。
でも、目の前の彼女は違うと言う。
……ということは。
「君って、かなり昔からここにいるの?」
「さあ?」
彼女はあっさりと答えた。
この人は一体いつからここにいるんだろう、もしかすると大人達が生まれるより前から?
俺がそんなことを考えているとふと別の疑問が浮かんだ。
「あのさ……」
「この山には他にも君みたいな人……」
言いかけて、俺は言葉を言い直す。
「……っていうか幽霊はいるの?」
彼女は少し考えた。
「うーん……」
やがて、首を横に振る。
「いないんじゃないかな」
「見たことないよ」
「そうなんだ」
どうやら、この山にいるオバケは彼女だけらしい。
だったら――
大人達が口を揃えて言っていた「オバケ」というのは、彼女のことなのだろうか。
でも彼女は人に危害を加えるような幽霊には見えない。
一体どうして大人達はこの山を「オバケ山」なんて大層な名前で呼んでいるんだろう。
そもそも彼女は一体いつからここにいて、どうして死んだんだろう?
俺が頭の中で色々と考えていると――
「ねぇ」
「ん?」
彼女の顔がいつの間にか目の前にあった。
「うわっ!」
思わず身を引く、さっきからやけに距離が近い。
お陰で調子が狂う。
俺は少し照れているのを隠すため、俯きながら尋ねた。
「な、何か俺の顔に付いてるの?」
「ううん」
彼女はニヤニヤしながら答えた。
「可愛い顔をしてるなって」
「かっ……」
思わず声が裏返った。
「……そんなこと言われたことないけど」
俺は少しだけ顔を上げる。
「どの辺が……?」
すると彼女はまるで当たり前のことを言うように答えた。
「全部」
「……」
即答、あまりにも迷いがなかった。
「……そ、そう」
何だろう、この人と話しているとどうにも調子が狂う。
「……ねぇ」
彼女が言った。
「話を聞かせてよ」
「話?」
「うん」
彼女は楽しそうに笑う。
「どんな些細なことでもいいからさ」
「……」
俺は少し考えた、何でそんなことを聞くんだろう、と。
でも断る理由もなかった。
「じゃあ……」
俺は話し始めた。
自身の変哲の無い話、特に面白味も無い、凡庸な話を続ける。
それでも彼女はまるで夜寝る前に絵本を読んでもらっている子供の様に興味津々に聞いていた。
「……あれ?」
ふと周囲を見るといつの間にか空が明るくなり始めていた。
木々の隙間から薄暗い青色の空が覗いている、もう夜が終わろうとしていた。
「……えっ!」
俺は慌てて立ち上がった。
「もうこんな時間……!」
いつの間にこんな時間になったんだ、話に夢中で眠気も時間もすっかり忘れていた。
「それじゃ……」
俺は彼女の方を振り返る。
「……?」
そこには誰もいなかった。
「……あれ?」
俺は目を瞬いた、さっきまで確かにそこにいたはずなのに。
辺りを見回しても彼女はいない。
まるで――
最初から何もなかったみたいに。
でも、ゆっくりしている暇は無かった。
「やばい……!」
俺は急いで山を下り、家に帰る、そしてそのまま布団に潜り込んだ。
◆
――今日も眠気が無い。
昨日はほとんど眠れていないのに頭は妙に冴えている。
原因は分かっている、昨日の夜のことだ。
気になることが多すぎる、あの少女は何者なのか、どうしてあの山にいるのか、なぜ自分のことを何も覚えていないのか。
こんなこと自由研究になんて書けっこない、先生に見せたらきっと怒られる。
でも気になって仕方がない、このまま眠るなんて出来ない。
だから俺はまたオバケ山へ向かうことにした。
◆
翌日、俺は昨日彼女と出会った場所までやって来た。
でも――
「……あれ?」
彼女が見当たらない、俺は辺りを見渡す。
間違いなく昨日、俺はここで彼女と会い、夜が明けるまで話をした。
夢なんかじゃないと確信できる、でも目の前には誰も居ない。
「……」
胸の奥に嫌な不安が押し寄せてくる。
もしかしたら――
昨日のことは本当に夢だったんじゃないか、そんな考えが頭をよぎった、俺はしばらく境内を歩き回る。
社殿の裏、折れた鳥居の周辺、昨日彼女が立っていた場所、どこを探しても彼女の姿はない。
「……居ない」
「帰るか……」
俺は諦めて踵を返した、その時だった。
「待って!」
「うわぁっ!」
耳元から突然声が聞こえた。
俺は飛び上がり、驚きのあまり足の力が抜け、その場に尻餅をつく。
「いっ……!」
腰をさすりながら声のした方を見る。
「……え?」
そこに彼女がいた。
「お、驚かすなんて酷いじゃないか……」
俺が文句を言うと彼女はきょとんとした。
「……?」
「ずっと側に居たけど?」
彼女は何でもないことのように言った。
「……今、出てきたんじゃなくて?」
俺が聞くと彼女は首を横に振る。
「ううん」
そして少し不思議そうに俺を見る。
「ずっとここに居たよ」
「……」
俺は思わず辺りを見渡した、でもやっぱり分からない。
「というか――」
彼女は境内を見渡した。
「私、ここから離れられないから」
「……離れられない?」
俺は彼女の言葉を頭の中で整理する。
彼女が言うにはずっとここにいた、確かに昨日もそうだった、俺が気づいた時には突然現れていて、日が差し込むと突然消えていた。
もしかすると――
彼女の事を認識できない時間があるのかもしれない。
恐らく、昨日と今日の体験から彼女と会えるのは真夜中から朝日が差し込むまでだろう。
そしてもう一つ、彼女はこの場所から離れることができない。
それはつまり――
「君は……」
「地縛霊なの?」
彼女の表情がほんの少しだけ曇った。
「うん……」
さっきまでの明るさが消える。
「私はこの神社から離れることができないの」
「……」
「だから私はここ以外の事は何も分からない」
その言葉を聞いて俺はようやく理解した。
彼女がどうして俺の話をあんなにも聞きたがったのか。
「……だから話を聞きたがってるんだね」
彼女は頷いた。
「うん」
そして俺を見る。
「知りたいんだ」
「……」
「それにここに来る人なんてそう多くない」
「それもこんな時間に来る人なんて居ないから」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「私が見える人なんて今までいなかった」
「だから――」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
「嬉しいんだ」
「君と会話できることが」
彼女は本当に嬉しそうに笑った、その笑顔を見ていると俺まで嬉しくなった。
月明かりに照らされたその笑顔はとても綺麗に見えた。
俺はその日も彼女と他愛のない話を続けた、夜が明けるまで。
◆
それからそれが俺の日課になった、朝は遅く起きる、昼間はたっぷり昼寝をし、夜になるとオバケ山へ向かい彼女と日が昇るまで話す。
そんな日々が一週間。
段々と俺は彼女の事が分かってきた。
幽霊は大人になると見えなくなる、個人差はあるらしいが十五歳から十八歳を超えると、幽霊を認識できなくなる。
だからたまにこの神社を訪れる人がいても、彼女を見ることはできなかった。
ましてや真夜中にこの場所へ来る人なんてほとんどいない。
彼女が幽霊になってから、俺は初めての話し相手だった。
だからだろうか、彼女は異様に距離が近い、話していると隣に来て顔を覗き込んでくる。
時々俺の肩越しに向こう側を覗いたりもする、普通なら少しくらい嫌に感じるのかもしれない。
でも――
俺はそれを不快には思わなかった、彼女は俺がどんな話をしても楽しそうに聞いてくれる、笑顔もよく見せてくれる。
この時間は俺にとっても凄く心地の良い時間だった。
真夜中の神社での二人きりの会話、それはまるでこの世界に俺達二人しかいないような、そんな錯覚すら覚えた。
時々言葉遊びなんかもした、でも彼女は俺の話の方が楽しいと言った。
きっと彼女にとって俺がこの神社の外で経験してきたことを知る方が楽しいんだろう。
そして二週間が経った、その頃になると俺は少しずつ彼女自身のことが知りたくなっていた。
いつも俺ばかりが話しているからだろうか。
だからその夜、俺は彼女に尋ねた。
「君のことも知りたいんだけど」
「……」
「教えてくれない?」
彼女は笑顔で答えた。
「私のことは……いいよ」
「……え?」
「それより、君の話が聞きたい」
まただ、彼女にこの質問をすると毎回こう返ってくる。
俺は少しだけ考える。
何か嫌な過去でもあるのだろうか、それとも本当に何も覚えていないのか。
(……分からない)
だからこそ余計に気になった。
「何か……覚えてることとかないの?」
俺は聞いた。
「死ぬ前はどんな人だったのかとか」
「どんなことが好きだったとか」
彼女は黙って俺を見つめた。
そして――
「……前の事は分からないけど」
「私が今一番好きなのは、君だよ」
「……え?」
一瞬、意味が理解できなかった。
俺は自分の耳を疑った。
「……俺?」
「うん」
彼女は迷いなく頷く。
「君」
「……」
他人からこんなにストレートに好意を伝えられたのは初めてだった。
だから心臓の鼓動が急に早くなり、顔が熱くなった。
「……」
俺が何も言えずにいると彼女がニヤニヤしながら顔を覗き込んできた。
「……照れてるの?」
「ま、まぁ……」
俺は仕方なく答えた。
「ふふっ」
彼女は楽しそうに笑った。
「君と話す時間が一番好き」
「君のことを知れるのが好き」
「できるなら、ずっと君と話したいって思ってるんだよ」
俺はもう頭がパンクしそうだった。
俺が困っていると彼女はさらに追い打ちをかけてくる。
「……ねぇ」
「君は、私のこと好き?」
「……」
俺は目の前の彼女を横目で見た。
刹那、どう答えるか迷った。
でも――
嘘をつく必要もなかった。
「……好きだよ」
本心だった、彼女と話す時間は俺にとっても落ち着く。
それに時間を忘れるくらい楽しい。
何よりも、ストレートに自分の感情を伝えてくれるところに惹かれていた。
一緒に過ごしていくうちに何も知らない筈の彼女の事が好きになっていった。
それは自分が一番よく分かっていた。
だけど同時に俺は分かっていた、この関係が永遠に続くことはない。
人間と幽霊。
触れることはできず、言葉を交わすことしかできない関係。
真夜中にしか会えず――
大人になってしまえば彼女の姿を見る事はもう二度と出来なくなる。
歪んでいる関係。
頭では分かっていても。
(……今は、それでもいいか)
と思ってしまった。
それから日を増すごとに二人の愛は確かに少しずつ大きくなっていった。
……大きい程、失った時に辛くなるのに。
◆
夏休みが終わり、学校が始まると俺が彼女と会える機会は極端に減った。
流石に夏休みと同じ生活を続けていたら身体が壊れてしまう。
学校がある日は朝から授業、帰ってきたら宿題、それが終わればもう眠くて仕方がない。
平日の疲れは思った以上に大きく、結局一週間に一日、それが限界だった。
「今日は来てくれた……」
「……良かった」
会うと彼女とはいつも嬉しそうな顔をする、そのたびに俺は少しだけ罪悪感を覚えた。
もっと会いに行きたい、俺だって本当はそう思っている。
しかし、これが限界だった。
別れる時間が近づくと彼女は以前よりもはっきりと自分の気持ちを伝えるようになった。
「行かないでほしい」
「もっと一緒にいたい」
「もう帰っちゃうの……?」
そんな言葉を聞くたびに俺も胸が締め付けられた、俺だって彼女と別れたくない、それが本心だった。
それでも俺達は毎晩会えるわけじゃない。
だからこそ彼女と話す時間は少しずつ俺の中で大切なものになっていった。
一週間に一度、その日だけは何があっても彼女に会いに行く。
俺にとってそれが当たり前になった。
そして――
時間の流れは早く、一年が経った。
◆
またこの季節がやってきた。
夏、蝉の声、照りつける太陽、青い空。
俺はその日もまた彼女と話していた。
どんな些細な事でも楽しそうに聞いてくれる、そんな彼女が俺は好きだった。
……でも。
俺は彼女の事を何も知らない、名前すら知らない。
俺はふと思った。
(……もっと、彼女のことを知りたい)
俺が一方的に話すだけじゃない、彼女がどんな人だったのか、どんな人生を送ってきたのか、どうして死んだのか。
俺は彼女のことを調べることにした、彼女のことを知る鍵はきっとこの山にある。
この山が「オバケ山」と呼ばれている理由、俺の知る限り身近な人でその由来を教えてくれる人は居ない。
その質問をすると大人達は皆、少し嫌な顔をするだけだ。
彼女は地縛霊で、きっとこの神社には何か手掛かりがあるはずだ。
そう考えた俺は――
初めて昼間に神社を訪れた。
◆
「……」
見慣れた場所、いつもの神社、何度も見た光景。
ただ――
夜じゃない、それだけで全く違う場所のように感じられた。
俺は神社を隅々まで調べていた、その時。
「……そこで何をしている?」
背後から声がし、振り返るとそこには一人の女性が立っていた。
手には箒を持っていて、顔には皺が刻まれている、四十代後半位だろうか。
俺は少し緊張した。
とても大好きな幽霊の身元を調べています、なんて言えるわけがない。
「えっと……」
俺は咄嗟に嘘をついた。
「偶然、ここに迷い込んでしまって……」
女性は俺をじっと見つめた、しばらく何も言わない。
やがて女性がゆっくりと口を開く。
「……こっちに来なさい」
「幽霊が出るよ」
「……!」
俺の足が止まった。
幽霊、その言葉に思わず反応してしまう。
「幽霊って……」
俺は女性に近づいた。
「何か知ってるんですか?」
女性は答えない、俺はさらに続ける。
「教えて欲しいんです」
「この山が、何故『オバケ山』と呼ばれているのか」
女性の足が止まった。
「……ああ」
「知ってるよ」
「本当ですか!」
思わず声が大きくなる。
女性はそんな俺を見て少しだけ笑った。
「だが――」
「先に、ここの掃除を済ませるから」
女性はそれだけ言うと手に持った箒を動かし始めた。
サッ。
サッ。
静かな境内に箒が地面を擦る音だけが響く。
「……」
俺は女性が掃除を終えるのを待った。
◆
それからしばらく時間が経った、女性はようやく掃除を終えると俺の方を見る。
「……ついて来なさい」
俺は女性の後を追い、神社を出た。
山を下り、かなりの距離を歩き、やがて一つの場所へ辿り着いた。
「ここって……」
そこは墓地だった、周囲には墓石が並んでいる。
女性は俺の言葉に答えずそのまま歩き続ける。
「こっちだよ」
「……はい」
俺は女性の後を追った、いくつもの墓を通り過ぎる。
そして女性がある墓の前で立ち止まった。
「……?」
俺も足を止める、女性は墓標を指差した、そこに書かれていたのは。
「なんて読むんですか……?」
女性はあっさりと答える。
「月城依夜」
「その人は……?」
女性は墓標に刻まれた名前を見つめながら深いため息を吐いた。
「……私の姉さ」
「彼女がお前達の言う『オバケ山』の原因さ」
「……何故、そんなことを?」
俺が尋ねると女性は少しだけ遠い目をした。
「彼女の葬式の時にね」
「僧侶の人から聞いた話なんだが……」
女性はゆっくりと話し始めた。
「この世に強い未練を残したまま死ぬと、霊となって現世に戻ることがあるらしい」
「……あれほどの凄惨な事件だ」
女性の表情が曇る。
「きっと、彼女は霊になっているに違いない」
女性が俺を見る。
「霊がこの世から消え去る時は、どんな時だと思う?」
俺は少し考えた。
「……その未練が晴らされた時じゃないんですか……?」
俺が答えると女性は首を横に振った。
「違う」
「……え?」
「その程度の未練じゃ、霊にはならないね」
女性の声は静かだった。
「晴らせないほどの大きな未練」
「それを持って、初めて霊になるんだ」
俺は首を傾げた。
「じゃあ……」
「どんな時なんですか?」
女性は、はっきりと答えた。
「人々の記憶から、忘れられた時だよ」
「……」
「だから、死者を忘れない為、生者は墓石を建てるんだ」
「その人のことを、忘れないためにね」
俺はしばらく何も言えなかった、やがて俺は疑問を口にする。
「じゃあ……」
「あの山が『オバケ山』って呼ばれているのは……」
女性は墓石を見つめた。
「それはあの山で起きた事件を忘れないため」
「そして、同じことを繰り返さないためさ」
女性は俺を見る。
「事件って……」
俺が聞くと女性は明らかに嫌そうな顔を浮かべた。
「……胸糞の悪い事件だよ」
「調べれば、すぐに出てくるはずさ」
それだけ言うと女性は墓石の周りへしゃがみ込んだ。
そして、墓の手入れを始めた。
俺はその場に突っ立っているのも忍びなくなり、女性の手伝いをする事にした。
しばらくして一通りの作業が終わった。
「……ありがとうね」
女性が言った。
「いえ」
俺は立ち上がった。
「……気をつけて帰るんだよ」
「はい」
俺は女性に頭を下げ、墓地を後にした。
◆
家に帰ると直ぐにスマホを手に取り調べた。
こんな田舎で起きた事件だ、きっとそう難しくは無い筈だ。
思った通り、あっさりと表示された。
その事件は吐き気を催す程、胸糞が悪かった。
約三十年前に起きた事件で、彼女――
依夜は日頃から学校で同級生にイジメを受け、彼女は周りにその事を相談できずに抱え込み、日に日にイジメはエスカレートしていったそうだ。
イジメをしていた動機については殆どが彼女への嫉妬だった。
しかしイジメをしていたリーダーは頻繁に父親から暴力を受けていたそうで、その鬱憤を晴らす為にイジメをしていたという。
この事件の犯人こそ、その父親だ。
その父親は無職で、日頃から窃盗や暴力を繰り返し、中でも父親は自身の娘であるイジメのリーダーに対しても性的な行為を行っていた。
イジメのリーダーはその日々に耐えられず、父親に自身の代わりにするため、依夜の事を話したそうだ。
依夜は容姿端麗で、そんな彼女の事を父親は大層気に入ってしまい、ストーカー行為や頻繁に彼女に話しかけていたりしたそうだ。
事件当日、父親は彼女を誘拐し、俺もよく知っているあの神社で彼女を強姦した後、首を締め殺害したそうだ。
父親は直ぐ周りの人の通報により逮捕されたが、彼女は残酷にも命を奪われてしまった。
依夜の制服が所々破けていたのはきっとその時にできたのだろう。
一番酷かったのは父親の動機についてだ。
父親の支離滅裂な動機を要約すると、自身に降りかかる不幸は全て神のせいだとしており、神の恩寵を受ける為、生贄として彼女を神社に連れて行き、自身の欲求を満たした後、殺害したという。
そんな身勝手な理由で一人の女性を汚し、未来を奪った事に腸が煮えくり返った。
彼女が自分の事を話したがらないのも納得だった。
日常的にイジメを受け、知らない人に汚された挙句、訳もわからないまま首を締め、殺された。
きっと彼女の経験した苦痛は俺の想像の何倍も辛いものだったのだろう。
霊と成ったのも納得出来る程の理由だ。
そして俺は決意した。
生前に辛い思いをしたのなら、せめて今は幸せな思いをさせたいと。
◆
またこの神社にやって来た。
彼女に会うため、そして彼女に伝えたい事があるから。
0時ぴったりになると彼女が現れた。
彼女は笑顔で言う。
「えへへ、今日も沢山話せるね」
俺も笑顔を返し、そして大事な事を伝える。
「……あのさ、君の名前が分かったんだ」
「……私の?」
「うん」
「君の名前は……」
「月城依夜」
「……」
「……凄く綺麗な名前だよ」
彼女はしばらく何も言わなかった、やがて胸元に手を当てる。
そして――
にっこりと笑った。
「うん……」
「いい名前だね」
「ありがとう、永遠くん」
その日、俺は今までで一番楽しい時間を過ごした。
彼女のことを知れたからだろうか、それとも初めて彼女の名前を呼べたからだろうか。
その時はただこの時間が永遠に続けばいいのに……なんて、そんな叶わない願いを胸に抱いていた。
いつか終わってしまう、それでも今はこのままでいい、彼女の笑顔を見ることができればそれで充分だった。
きっと彼女も同じことを言うだろう。
だけど時間は残酷だった、時の流れは俺が思っていたよりもずっと早く、四年の月日が経った。
◆
十五の夏。
それは突然の出来事だった、その夜も俺はいつも通り彼女と話していた。
いつもの時間を過ごし、家へ帰ろうとしていた。
「……?」
妙に騒がしい、遠くから何かが聞こえる。
サイレン、一つじゃない、救急車、パトカー、いくつもの音が鳴り響いていた。
「……何だろう」
この時の俺はまだ知らなかった。
その出来事が――
自分自身の人生を完全に変えてしまうことを。
◆
母が死んだ。
俺のせいで死んだ。
母は夜、偶然目を覚ましたらしい。
そして俺が家にいないことに気づいた。
真夜中の暗い夜道を必死に探し。
そして、トラックに轢かれた。
即死だった。
もしあの日の夜に戻れたら俺は依夜のところへ行かないという選択をするだろうか。
(「何馬鹿な事考えてる?人殺しが」)
(「そんな事を考えたって何も変わらないだろ」)
その日を境に俺の人生は酷いものになった。
◆
次の日、俺は依夜のところへ向かった、話さずにはいられなかった。
きっと依夜なら。
何か、今俺が一番欲しい言葉を掛けてくれる、そう思ったから。
俺は何度も通った神社へ向かった、いつもの場所、いつもの時間で俺は彼女が現れるのを待った。
でもいくら待っても彼女が現れる気配はなかった。
胸の奥から嫌なものがゆっくりと全身へ広がっていく、鳥肌が止まらず、頭がガンガンして吐き気がする。
一時間、二時間、三時間、■時間。
もし、今日、彼女に会えなかったら、きっと。
俺は――
そんなことを考えながら俺はただ待ち続けた。
でも、結局、彼女は現れなかった。
この日を最後に俺が彼女と会うことは二度となかった。
別れの言葉すら言えずに。
「……なんで」
声が震える。
「なんで、今日なんだ……!」
必死に我慢していたものが、一気に溢れ出した。
「彼女に……」
「彼女に、もう会えないのか……!?」
俺は地面に手をついた、涙が溢れる。
「……」
(「何を泣いているんだ?自分でも分かっているだろ?」)
(「――人殺し」)
(「彼女に囚われて、他のことを疎かにした結果だ」)
「……っ」
俺は地面を殴った。
何度も、何度も、行き場のない感情を、どうしようもない後悔を何度も地面にぶつける。
……そんな愚行に意味なんて無いのにね。
◆
母の葬式が終わった。
俺は■■さんのところに引き取られることになった。
母は女手一つで俺を育ててくれていた、父はおらず、母の両親ももう亡くなっていた。
だから他に選択肢なんてなかった。
◆
……あれから……何があったっけ?
……ああ。
そうだ、転校することになったんだ、転校先では碌なことはなかった。
君と同じだよ、イジメられたんだ。
だから学校へ行くのは辞めた、俺の居場所はあそこにはなかった。
……いや。
違うな、あそこだけじゃない、家でもそうだった。
■■さんは俺のことを金蔓としか思っていなかったみたいだ。
毎日必死にお金を稼ぎ、奴に渡す。
金はある筈なのに食い物は出ない。
だから毎日■■を食った。
どれだけ辛い日々が続いても大人になるまで耐えようと思った。
大人になれば何か変わるかもしれない。
……なんて塵みたいな妄想をしながら。
君と過ごした時間が俺の原動力だった。
◆
そこからは……殆ど覚えて無い。
ああ、働く事にしたんだ、だけど……。
……まぁ。
学校にも行かず、長所もない、そんな俺を受け入れてくれる場所なんて、所謂ブラック企業って所だけだ。
会社での日々は――
何も覚えて無い、君と同じだよ。
やっと理解出来たよ。
限界を超えると記憶って、曖昧になる。
……死んだ後なら尚更だよね。
◆
俺は依夜の方を向いた。
「……久し振りの話、どうだった?」
依夜は昔と変わらない笑顔で答えた。
「うん」
「好きだよ」
「……」
「……思えば、昔からそう」
依夜は俺を見る。
「話の内容なんて、重要じゃない」
「永遠君が、話しくれるって事が重要なんだよ」
「……そっか」
俺は笑った。
……幽霊は人々の記憶から忘れられれば、この世から消える。
俺の事を覚えてくれている人なんてきっといない。
ただ一人を除いて。
彼女が消えれば俺も消える。
……それまでは永遠に、この時間は続く。
それでいい。
今ならやっと触れられる。
俺は依夜を抱きしめた、冷たい体温が伝わってくる。
俺は大切な人を抱きしめながら、静かに言った。
「大好きだよ、依夜」
依夜は俺をしっかりと抱き返した。
そして俺の耳元で優しく囁いた。
「うん」
「私も、ずっと……」
今までで一番の笑顔を浮かべて。
「大好きだよ」




