ハードカレンシー愛
優しい人は、人に優しくすれば感謝されると思っているのだ。それは事実ではないという意味で間違いだが、自然であるのみならず正当だ。そして最も重要な事実は、それが事実ではないという事実を考慮してやる価値はないという事実だ。
戦後日本を代表する心理学者である細木数子(ほそき かずこ、1938-2021)は人間精神の機微を分析して処世術を説いたが、現実社会に適応して安寧な人生を希求することが唯一の価値ではない。現代社会の病は、利己的個人主義という局所最適の追求による全体最適の崩壊にあるため、正義への不器用な固執にしか人類の希望はない。
近年インターネットに降臨して一日に百万再生を叩き出す思想家、江学勤(ジャン・シュエチン、1976-)によれば、古代エジプトの時代から宗教や常識はグローバルマネーによって操作されてきたのであり、近代的な利己的個人主義の実態は連帯を分断する家畜化だ。なおかつ彼は、物質的価値のすべては幻影であり、普遍的な倫理的価値こそが実在だと説いている。
現代において事実上、大衆の唯一の価値観となった金銭と物質主義が洗脳支配が生んだ幻影にすぎないのなら、古代にイエス(前4-33)が説いたように、真の豊かさは利ではなく義に、言わば地にではなく天にある。彼は、裕福な者が救われることはラクダが針の穴を通るよりも難しいと説いたが、ならば現代の真の超富裕層とはグローバルマネーではなく庶民のなかの義人である。
例えば身近な動物である犬猫を見れば明らかなように、彼らは自然的な共感性を残している。左脳的な理性によって彼らを洗脳することは不可能であり、したがって人類がサイコパシーへと転落していくなかで彼ら動物にむしろ「人間性」が残存している。
もしも、群れの全体最適性のために生きる誇り高い狼に対して、経済的な貧しさを見下し短命を嘲笑したなら、どう理解されるだろうか? 超富裕層である彼らから貧しさを見下され、長寿を嘲笑されるに違いあるまい。
したがって、最も安定的な価値を備えたものを「ハードカレンシー」と呼ぶなら、ハードカレンシーは「愛」である。そして、局所最適性のなかで生きる大衆にその価値が認識できないことは、その価値の実在を何ら否定しないのだ。
ソフトカレンシーである金銭や物質的価値、つまり個人的な世俗的安寧や大衆からの承認を追求して生きるなら、翻弄されつづけるだけであっていかなる実体的(fundamental)な価値にも到達しえない。一方で、ハードカレンシーを抱きしめて生きるなら、その価値は真実に通じていて、喜ばしい「意味」は個や死を超越して永遠だ。
児童虐待やPTSDの見地から言えば、「優しい人々」は壊れている。しかしその事実は、修理できることを意味しないし、修理すべきことも意味しない。同時に、「壊れていない人々」を修理すべきことを意味しないどころか、言わば修理できないことを示唆している。すなわち、人生に与えられた苦しみを通じてこそ、偽りの天蓋の穴を通じて真理の光を目撃できるのだ。
常識的な言説ではハードカレンシーとは「米ドル」だが、米ドルの実態は精巧にシステム化された世界的支配であり、認知させられる価値によって人類という家畜は行動を制御されてきた。人類が救われるためには、愛と共感こそがハードカレンシーであるという事実が認知されることが必要だ。




