〜第二章〜完成された末脚
デビュー戦を終えたシエラレオーネは、馬房に戻ると静かに呼吸を整えていた。
勝利を挙げた馬が見せる高揚、昂ぶり、はしゃぐような仕草──
そのどれもがない。
だがそれは、決して冷たさでも無関心でもなかった。
むしろ、
「この程度は仕事だ」
と言わんばかりの落ち着きだった。
「変わった馬だよ、お前は本当に……」
調教師は首筋を軽く撫でながら、驚きと感心を隠さなかった。
賢い。
それも、競走馬として“異常”なほどに。
どこで脚を使えばいいか、
どこにスペースができるか、
どうすれば最短距離でゴールへ向かえるか──
デビュー戦から、彼はそれを“分かっていた”。
だからこそ、陣営は早くも次のステップを決める。
クラシック路線への足固め。
その試金石となるのが──
レムゼンステークス(G2) である。
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レムゼンステークス(G2)──“内から差し返された敗戦”
アクアダクト競馬場の冬は厳しい。
雪こそ積もっていないが、
吹きつける風は皮膚を刺すように冷たい。
シエラレオーネは、前走よりも筋肉が浮き立ち、
いかにも力がついているように見えた。
だが調教師は、ひと言だけつぶやく。
「まだ完成じゃない……今日はその粗が出るかもしれん」
スタート。
決して速くはないが、焦る必要もない。
後ろから運ぶ馬なのだから。
道中、
砂を巻き上げる音を聞きながら、
シエラレオーネは流れを読むように走る。
3コーナー過ぎ、鞍上が肩を叩くと、
ギアが一段階上がる。
そして4コーナーを大外から回り、
直線の入り口で他馬を飲み込むように伸びた。
残り200メートル。
シエラレオーネ、先頭。
砂を深く蹴り、パワーに満ちたストライド。
勝負は決したように思えた。
だが──
勝負の神は簡単に微笑まない。
内から、一頭。
伸びてくる影。
シエラレオーネは気づいた。
しかし、まだ幼い。
反応がわずかに遅れる。
「差し返される……!?」
調教師が思わず声を漏らした。
伸びてきたその馬は、
ゴール前でわずかに前へ出た。
最後の最後、内から差し返されて2着。
強さを見せたが、勝てなかった。
悔しさよりも、
“まだ未完成であること”を突きつけられた敗戦。
しかし調教師は静かに微笑んだ。
「これでいい。
これで、この馬は強くなる」
この“差し返された経験”は、
後の大舞台に確実に生きることになる。
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冬──パワーと精神の成長
レムゼンSの敗戦後、
シエラレオーネの走りは変わった。
朝の調教で初めて砂を踏みしめた瞬間、
スタッフが息を呑む。
「踏み込みの深さが……全然違う」
「パワーが一段上がってる」
アメリカのダートでは、
砂に“沈む力”と“跳ね返す力”の両方が必要だ。
シエラレオーネは沈めた力を
そのまま前へと変換できるようになっていた。
精神面でも成長していた。
デビュー時の柔らかく繊細な気性はそのままに、
レースでの精神力──
いわば“折れない芯”が強くなっていた。
クラシック戦線を戦うための土台が整い始めていた。
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年明け──クラシック候補としての評価
年が明け、シエラレオーネは
クラシック戦線の有力馬の一頭と見なされていた。
レムゼンSで差し返された敗戦は、
むしろ“伸びしろの象徴”として語られる。
「末脚のポテンシャルは世代屈指」
「クラシックに乗る馬だ」
「フィアースネスの対抗馬になるかもしれない」
そんな声が自然と上がっていた。
そして彼が次に挑むのは、
クラシックへの真価を問うレース。
リズンスターステークス(G2)。
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リズンスターステークス(G2)──“クラシックの試金石を制す”
フェアグラウンズ競馬場。
歴史あるこの舞台は、クラシック戦線の重要な分岐点になる。
シエラレオーネはレムゼンS以降の成長から、
有力馬の一頭として注目されていた。
パドックで見せる彼の姿には、
無駄な動きがない。
他馬が周囲を気にする中、
シエラレオーネだけは真っ直ぐ先を見る。
「今日の主役は……この馬だろうな」
そんな声も聞こえていた。
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スタートは相変わらずゆっくり。
しかしそれでいい。
この馬は前半を“生きるために”ではなく
“勝つために”使う馬 だ。
中団後方を進みながら、
馬群の動きを読み、
砂の流れを感じ取る。
3コーナーから少しずつ脚を溜め、
4コーナーを大外へ。
直線。
シエラレオーネは身体を沈め、
弾みをつけるように脚を伸ばした。
外からゆっくり、
確実に前との差を詰める。
残り200m。
並ぶ。
残り100m。
交わす。
そして──
半馬身差、綺麗に差し切って1着。
観客は沸騰した。
「クラシック候補だ!」
「末脚が鋭すぎる!」
「フィアースネスと並ぶ存在だ!」
レムゼンSの敗戦から一転、
シエラレオーネは
“本物のクラシック馬”として認識される。
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ブルーグラスステークス(G1)──“堂々たる1番人気”
そして迎える、ブルーグラスS。
ここでの戦いは、
ケンタッキーダービーへの最終試験。
勝てば本命級、負ければ立場が揺らぐ。
シエラレオーネは──
揺るがぬ1番人気。
これは期待ではなく、
確かな実力への信頼だった。
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スタートはいつも通り。
だが、道中で見せる集中力は
これまで以上に鋭い。
向こう正面で、
微妙なペースの変化を読み切り、
誰よりも無駄のないラインを取っていく。
3コーナー。
鞍上が軽く手綱を押し出す。
4コーナー。
外へ膨らむようにして加速。
直線に入ると同時に、
末脚が解き放たれる。
ダートを叩く力、
伸びるストライド、
全てが一体化して前へと押し出した。
前を行く馬たちは、ただ飲み込まれるだけ。
シエラレオーネは
1馬身半差の完勝。
観客は叫び、
実況は声を枯らし、
専門家は頷いた。
「フィアースネス最大の対抗馬は、この馬だ」
もはや疑う者はいなかった。
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打倒フィアースネス──しかし勝利への道は“自分の競馬”
ブルーグラスSを勝った瞬間から、
ケンタッキーダービーは
“フィアースネス vs シエラレオーネ” の構図になった。
逃げて圧勝するフィアースネス。
差して確実に伸びるシエラレオーネ。
対極にある2頭。
陣営は言う。
「フィアースネスは強い。
だが、倒すために無理をする必要はない。
この馬は“自分の競馬”を貫けばいい」
砂を読む。
馬群を読む。
流れを読む。
そして最後に脚を使う。
それがシエラレオーネの必勝パターン。
ダービーで必要なのは、
敵を見て走ることではなく、
自分の競馬をどれだけ完璧に遂行できるか だった。
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そして──海の向こうから
こうしてアメリカでは、
フィアースネスとシエラレオーネ、
2頭の怪物候補がクラシック戦線を賑わせていた。
いつもの年なら、この2頭だけで
アメリカ中の話題を独占していただろう。
──だが、今年は違う。
海の向こう、日本から。
“怪物” がアメリカへ殴り込みをかけてくる──
そんな噂が、
静かに、しかし確かに広がり始めていた。
その馬の名は、まだ語られない。
しかし、近いうちに世界が知ることになる。




