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〜第一章〜誕生

 ケンタッキーの早春は、冬の名残と新たな生命が交差する季節だ。

 まだ夜明け前、牧場の草地には霜が降り、木の柵もひんやりと白く光る。

 風は冷たく、馬房の中の空気は凛と張り詰めていた。


 そんな静寂の中、ひときわ強く震えている馬がいた。


 Heavenly Love──

 2歳時にアルシビアディスS(G1)を勝った名牝であり、

 その母 Stylish はアメリカに名を馳せる 世界的良血ファミリー の中核を担う存在だった。


 Stylish はG2勝利を含む複数の重賞で活躍し、

 その牝系はアメリカのダート・芝両方で活躍馬を出し続け、

 日本やヨーロッパにも広く血が流れている。


 「アメリカを象徴する名牝系のひとつだ」

 そう専門家たちは口を揃える。


 そのファミリーに交わるのが、

 アメリカの王者 Gun Runner。


 BCクラシックを含むG1をいくつも制し、

 ダートを“ねじ伏せる”ようなパワーと持続力で世界を圧倒した。

 その産駒もまた、2歳から強く、

 アメリカの深いダートで前々から押し切ることを得意とするパワーファイター揃いである。


 Gun Runner × Heavenly Love × Stylish


 生まれる前から“走る”と断言される血統など存在しない。

 だがこの配合に関しては、誰もが期待せざるを得なかった。


 アメリカのダートで必要な

 パワー、スピード、持続力、気性、精神力

 そのすべてが揃っていると言われていた。


 そして──

 その期待の答えが、今まさに産まれようとしていた。



 陣痛が強まり、Heavenly Love が大きく身体を震わせる。

 深く湿った藁の上に、明かりを灯すランプが揺れ、

 厩務員たちの影が馬房の壁に重なった。


 そして──

 新しい命が地面に滑り落ちた。


 産まれた牡馬は濃い鹿毛の毛並みを震わせ、

 まだ濡れた身体が薄暗い光を吸い込んでいた。


 肩から腰へ流れるシルエットが美しく、

 脚は細く長いが、関節は強くしなやかだ。

 まるで生まれながらに“走るための構造”を持っているようだった。


「すごい……この子、すごいぞ……」


 厩務員のひとりが、感嘆とも恐怖ともつかない声で言った。


 しかし、本当の驚きはその目だった。


 生まれてすぐ、

 この牡馬は 母馬を見ない。


 普通なら母の匂いを探し、声を聞こうとする。

 だが彼は違った。


 ──遠くを見た。


 馬房の奥。

 誰もいない空間。

 深い影が揺れるだけの場所。


 そこを、じっと見つめた。


 怯えてもいない。

甘えてもいない。


 ただ、世界の“向こう側”を観察するような眼差しだった。


「……変わった子だ。

 いや、変わりすぎてる」


 ベテラン厩務員がつぶやく。


 その目は後に数々のレースで見せることになる

 “状況を俯瞰し、最後にすべてを飲み込む目”と同じだった。


 この牡馬──

 後に シエラレオーネ(Sierra Leone) と名付けられる馬は、

 誕生の瞬間から、明らかに普通ではなかった。



当歳──静けさの奥に灯る強さ


 生後数時間で、シエラレオーネは立ち上がった。


 最初は脚が震え、危なっかしく見えた。

 だが数歩踏み出すと、バランスが整っていく。


「立ち上がった瞬間は普通……

 でも、歩き出したら急に上手くなる」


 それは奇妙な光景だった。


 初めの一歩は鈍い。

 しかし、二歩目で学び、三歩目ではもう理解する。


 歩きながら、世界を解析しているようだった。


 そして放牧地では、

 彼の“特異性”がさらに際立った。


 群れの中で遊ぶことはせず、

 少し後ろ、

だが絶妙な距離を保って動く。


 馬群が走れば、

 その流れを読むように追走する。


 近づきすぎず、離れすぎず、

 前に壁ができれば外へ回り、

 スペースが開けばそこへ滑り込む。


「この子……馬群の動きが見えてる」

「差し馬の才能って、こんな当歳から現れるものなのか……?」


 牧場の誰もが、

 シエラレオーネの動きに戦慄した。



繊細で、しかし折れない気性


 気性は繊細だった。


 風の揺れ、鳥の影、遠くの物音。

 そのすべてに反応し、耳を動かし、

 ときに立ち止まって世界を観察した。


 だが、怯えて逃げるわけではない。

 むしろ、冷静に状況を読むように止まる。


「賢い……いや、賢すぎる」


 母 Heavenly Love の繊細さ、

 祖母 Stylish のタフネス。

 それらが一つに溶け合ったような難解な気性。


 しかし、

 “折れない心”が彼にはあった。



1歳──才能の輪郭が見え始める


 1歳になる頃、

 シエラレオーネは身体が引き締まり、

 肩と腰のつながりが見事なバランスを見せ始めた。


 しかし、初めての速歩では──


「ん?……動きが悪いな」

「なんだかぎこちない……?」


 スタッフ全員が驚いた。


 期待していたほど軽くない。

 脚の回転も鈍く、

 身体の連動もまだ取れていないように見えた。


 だがその日の調教終盤、

 彼の走りは突然変化した。


 まるで

 「ゴールがどこにあるのか最初から知っていた」

 と言わんばかりに、突如として伸び、ストライドが広がった。


「今の見たか!?」

「急に……馬が変わったように……」


 彼は

 「最初は動きが悪い」

 「しかし必要なところだけ完璧にこなす」

 という奇妙な特徴を持っていた。


 ただ脚が速いだけの馬ではない。

 理解し、判断し、走る“思考する馬”

 そう感じさせる瞬間だった。



2022年8月9日──1歳馬としてサラトガセールへ


 1歳の夏、シエラレオーネはセリへ向けて移動した。


 8月9日。

 ゲインズウェイは、この1歳馬を

 ファシグ・ティプトン社のサラトガセール へ上場した。


 アメリカ最高峰クラスの1歳馬セール。

 世界中の馬主・牧場関係者が集まる。


 シエラレオーネは、歩様こそ静かだったが、

 肩の可動域と背中の柔らかさは誰の目にも明らかだった。


 力強さとしなやかさ。

 スピードと持続力。

 アメリカのダートで求められる資質がすでに見えていた。


 そして──


 230万ドル。


 世界的名門 クールモアスタッド(Coolmore Stud) が落札した。


 落札の瞬間、会場にどよめきが起こった。


「クールモアが鹿毛のアメリカ血統にここまで出すか……!」

「本当に馬を見抜いてる……」


 それほどに、シエラレオーネには魅力があった。



2歳──競走馬への道


 クールモアの育成施設で、

 シエラレオーネの成長は続いた。


 だが、初期の騎乗訓練でも

 彼はやはり“最初は動きが悪い”馬だった。


 キャンターに移行しても、

 ぎこちなく、リズムに乗るのが遅い。


 しかし──

 流れに乗った瞬間、

 他の馬とはまったく違う走りを見せる。


 ストライドが広がり、

 脚が地面を捉え、

 砂を強く蹴り飛ばしながら前へ進むパワーは

 まさにアメリカのダート馬そのものだった。


「この子……答え合わせが遅いだけで、理解した瞬間は一流だ」


 調教師はそう評価した。



デビュー前──“差し馬としての原型”


 2歳夏には、

併せ馬で驚異的な追走能力を見せ始めた。


 古馬の背後から入り、

 淡々とついていく。

 無理せず、焦らず、

 しかし最後に少し追われると

鋭く伸びる。


 力強さとスピード、

 そして差し馬に必要な空間認知。

 そのすべてが揃っていた。


「差し馬の天才、そんな言葉があるならこの馬がそうだ」



デビュー戦──静かに、しかし確かに勝つ


 デビュー戦当日。

 シエラレオーネは落ち着いた様子でパドックを歩いた。

 気負いはない。

 しかし、周囲を読み取るような独特の視線をしていた。


 スタートは速くない。

 だが、遅れもしない。

 自然と中団の外へ位置取る。


 アメリカのダートは重く深い。

 力強さとスピードがなければ前へ進めない。

 しかし彼は、軽やかに砂を捉え、リズムを崩さず追走する。


 3コーナー。

 馬群が詰まり、進路が塞がれたように見えたその瞬間──

 シエラレオーネは迷わず外へ進路を取る。


 まるでそこに道があると最初から知っていたかのように。


 直線。

 鞍上が軽く促す。


 その瞬間、

 ストライドが一段階伸びた。


 力強くダートを蹴り、

 砂煙を上げ、

 前を行く馬との差をみるみるうちに詰めていく。


 最後の100メートル。

 シエラレオーネは馬体を沈め、さらに伸びる。


 並び、

 そして──

 差し切った。


 1馬身弱。

 決して圧勝ではない。

 しかし、勝負強さと賢さを感じさせる勝ち方。


「これは……重賞でもやれる」

「いや、クラシックすら見えてきたぞ」


 観客席からそんな声が漏れた。


 調教師は、戻ってきたシエラレオーネの首筋を軽く叩き、


「今日は入りが悪かったが……最後は完璧だったな。

 お前はやっぱり、賢い馬だ」


 と微笑んだ。



結び──まだ物語は始まったばかり


 シエラレオーネは、生まれた瞬間から異質だった。


 最初の数歩はぎこちなく、

 しかし途中から突然走りの質が変わり、

 必要なものだけを理解し、

 重要な場面だけで最大の力を出す。


 世界的良血の血統に、

 Gun Runner のパワーとスピード、

 Stylish のタフネス、

 Heavenly Love の繊細さ。


 すべてが絶妙に混ざり合っていた。


 デビュー戦を経て、

 シエラレオーネの名は静かに広まり始めた。


 「これはクラシックに乗る馬だ」


 そう語る者もいた。


 だが彼の物語は、まだ始まったばかりだった。


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