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振り抜いた刃から、真っ赤な細い線が流れていた。血は命だと思う。これが体から零れるということは、命が零れているということだ。この場では、これまで多くの命が零れてきた。その中で俺はまだ生きていている。
体を回転させながら、手にしているブロードソードを大きく払い、反撃に備える。相手は切り裂かれた脇腹を手を抑えながら「痛てぇ!」と苦痛に身をよじっていた。しかし、流れる汗がかかるその目に怒りが宿っていた。
「まだやるか?」
俺は声を掛ける。しかし判っていた。相手……ブリッツの闘志は萎えていない。今は苦痛で足を止めてしまっているが、直ぐにでも怒りを込めて反撃するだろう。
ほら、怒りで真っ赤になった顔を俺に向けてきた。
「当り前だ!ボケが!」
ブリッツは大剣を雑に振り回してきた。片手で振りまわすことが出来る筋力が無いのであれば、大した脅威にはならない。
俺は、振り回される大剣を潜り抜け、足払いによりブリッツを転倒させる。おそらくブリッツは何が起こったのか判ってないだろう。
ここで決めるべく、俺はブリッツの肩を勢いよく踏んだ。肩が外れたか……一部が砕けているだろう。更に増えた苦痛に身をよじるが、俺が肩を踏んでいるせいで自由には動けない。
ブリッツの目を睨む。この期に及んでも闘志を保っているのは流石だが、もうどうしようも無いだろう。睨み合いは少し続く。
「……降参だ」
ブリッツが大剣を落とし、降参の声を挙げた。
賢明な判断だ。闘志は萎えず怒りを宿しながらも冷静な判断が出来るとは。俺なんかより才能がありそうだ。今は実力が伴っていないだけで、生き続ける事が出来たなら、きっと、俺の先を歩いていくだろう。
「ブリッツの降参! ガイリトスの勝利です!」
アナウンスが俺の勝利を宣言した。軽い安堵から視界が開けた気がする。
周囲は高い壁に囲まれ、その上に居る大勢の観客が、勝手気ままな歓声を挙げていた。その歓声の中に「殺せ!殺せ!」と愉悦を帯びた声が含まれている。
俺たち下位ランクの奴隷剣闘士に、観客は圧倒的な力や流麗な剣術、全てを破壊するような魔撃なんて期待なんかしていない。期待しているのは、只の殺し合いだ。敗者が惨めに許しを乞い、勝者が狂気のままに殺すことを期待している。全く、外の奴らの趣味は高尚過ぎて反吐が出そうだ。
一応、勝利宣言の後に敗者を攻撃、殺害するのはルール違反のはずだ。しかし暗黙の内に容認されていて、罰則を受けるどころか推奨すらされている空気がある。だが俺は、何もせず退場門に向かった。観客からブーイングが挙がるが無視する。気にはしていないが、また俺の評価が下がるだろう。
退場門の先は控室。中に入る俺に、1人の女性が声を掛けてきた。
「怪我は無いの?傷むところがあるなら言いなさい」
彼女はこのコロシアムの下位ランク専属ヒーラーであるセレンだ。いつもの白い医療服に身を包み、包帯やガーゼ、消毒液や縫合器具等を広げて待ち構えていた。俺ら奴隷剣闘士を死なない程度には治療してくれる。ありがたいことだ。
「全く問題ないな」
俺は片手を軽く上げて答える。今日は怪我一つ負っていなかった。こんな日は珍しい。いつ死んでもおかしくない戦いで心身共に疲れはあるが、もう一戦ぐらいできそうだ。セレンの整った体型を目線でなぞる。セミロングを小さく後ろに縛った髪型が少し可愛らしい。
「どうかな?今は暇だろうし、ちょっとその辺りにでも……」
「私は仕事中です。あまり誘わないほうが良いですよ。あの子が居ますので」
セレンは後方に目を向ける。そこにはセレンの護衛が立っていた。筋骨隆々なのに無表情なのが不気味だ。聞いたところによると、元は廃棄処分寸前の奴隷で、強化実験により復活し、コロシアム関係者の護衛になったのだとか。
「確か、セムだったか?元気か?」
俺の声にセムは全く反応しない。感情が無く、護衛対象の声にのみ反応するらしい。こんな護衛が居るから、彼女は俺ら奴隷の中で活動出来るのだ。
弁えている大半の奴隷剣闘士は、戦いの後に治療してくれる彼女や他のヒーラーに感謝しており、からかう程度で手を出さないが、そういった奴らばかりではない。しかし、手を出すなら、あの護衛が襲い掛かってくるのだ。
「わかったよ。大人しく休みに入るさ」
「今日はお疲れ様。次の試合で生き残っていることを祈っておくわ」
彼女は広げていた医療機器を仕舞い、俺に別れの挨拶を告げ退出する。その後ろをセムがぴったりと付いていく。さて、俺は汗を落とすとするかね。
他のコロシアムではどうなっているか知らないが、ここでは体を綺麗にするために、水をある程度自由に使って良かった。これは俺たち奴隷剣闘士が”商品”であるためだろう。
外から来た客が、気に入ったりなんらかの事情で俺たち奴隷剣闘士を購入していくのだ。ただし、下位ランクの俺たちが購入されることは殆ど無い。購入されるのはもう一つ上のランクからだ。
汗を流し、体の熱が冷めてから、俺は下位ランクの奴隷剣闘士が寝る大部屋の一室に戻った。部屋には大勢の同僚が思い思いに寝転がっている。
ブリッツの奴は……居ないか。あの程度の負傷なら死にはしないはずだが、まだ動けるほどに回復していないのだろう。担当しているヒーラーは大変だろうなと、何気なく思った。
控室、水場、いくつかの大部屋、中庭、そして戦いの決闘場。これだけが、俺が知っている世界の全てだった。このコロシアムで生まれ育った俺は、生まれながらの奴隷剣闘士だ。他の世界は何も知らない。
きっと、これからも戦い続け、その内敗れて死に、片隅で誰にも知られることなく消えていくのだろうと思っている。だから軽いのだ、俺は。長年戦い生き残っている癖に、未だ下位ランクなのが良い証拠だ。明日は戦うこともなく寝て過ごせたら良いなと考えながら、いつもの定位置で寝っ転がった。
翌日の朝。怪我の無かった俺は、寝ていた所で対戦だと告げられた。だるいなと思うが奴隷剣闘士に拒否権は無い。対戦が決まるのは運営の気まぐれもあるので仕方ないと思い、体を伸ばしながら控室に向かった。
控室はいつもと変わらない。医療用の簡易なテーブルとベッド、それだけだ。そのテーブルにはブロードソードが置かれていた。手に持ち、軽く振る。これもいつもと変わらない。
下位ランクの場合、武器は全て支給される。おおまかには要望のものが用意されるが、大抵は粗末なものだ。ちなみに、防具は要望した場合の盾以外には用意されない。いつも着ている腰巻とサンダル。それだけなのだ。
「さて。今日の相手は誰だろうな……」
対戦相手は伝えられない。誰であろうと戦えというわけだ。特に親しい親友が居るわけでも、特別嫌いな奴が居るわけでもない。なので、俺としては誰が相手でもさして問題ではなかった。強いて挙げるなら、俺が負けた時に見逃してくれる奴がいいな。
控室の向こうの門を見据える。日の光が差し込んでいるため、決闘場の様子は判らない。多くの人のざわめきは聞こえるので、昨日と同じく大入りのようだ。日中から戦いを見に来る暇人が多いものだ。
「ガイリトス!出ろ!」
決闘場の方からお呼びが掛かった。腰巻を締め直し、ブロードソードを携えて、光が差し込む決闘場へゆっくりと向かった。
「貴方が、ガイリトスさんですね。宜しくお願いします」
「お、おぅ。まぁ宜しく」
ショートソードと盾を持っている銀髪の優男。なんだか殺し合う場に似付かわしくない奴が出てきたな。確か名はソイネス。最近、奴隷剣闘士になった奴で、連戦連勝。直ぐにでも中位ランクに行くだろうと評されていた。観客からソイネスを応援する声が挙がる。人気があるようだが、まぁ、順当といった所か。
戦闘開始の銅鑼が鳴らされた。相手によっては即攻撃に突っ込んでくる奴が居るので、俺は様子見として少し間合いを広めに取ったが、ソイネスは俺を見据えながら静かにバネを貯めていた。突っ込んでくるな……
予想通り突っ込んできたが、想定より姿勢が低い!ソイネスは掬い上げる様な突きを放つが、俺はそれを叩き落とし、その態勢のままソイネスに体当たりをかます。ソイネスは多少よろめきながら下がった。
「やりますね。聞いていた以上にお強い」
「そりゃどうも」
ソイネスの表情には余裕が浮かんでいた。実際にぶつかって、確かにこいつは強いと思った。技のキレも鋭いが、常に余裕を持って行動しているのが厄介だ。その余裕を使って俺の動きに上手く対処してくる。
次の連撃が来た!突きに盾殴り、更には蹴りも細かく出してくる。押され続けるとその内崩されるので、無理やりにでも反撃をしないと直ぐにやられる。
ソイネスの切り上げをギリギリ避けて、顔に蹴りでも入れようとすると、体に衝撃が走った!こいつ、衝撃の魔撃まで使うのか。
奴隷剣闘士にも、魔撃という攻撃魔法を使う奴がいる。衝撃の魔撃は文字通り衝撃を発生させる。威力はさほどではないが、回避が難しいことと、食らった瞬間動けなくなるうえに、数秒間体の感覚が鈍るのだ。ほら、盾殴りが顎に決められた。浮いた俺の体に回し蹴りが入り、仰向けに吹き飛んだ。
「ああ、空は広いな……」
戦いの最中、蹴り飛ばされたというのに、目に飛び込んできた空の広さに目を奪われた。俺にとっての世界はこのコロシアムだ。しかし、この青空の元、世界はもっともっと広がっているのだろう。観客席の壁の向こうには、きっと俺が見たこともない建物が並んでいるに違いない。俺は少しだけ「外の世界を見てみたい」と思った。
「これで……終わりです!」
俺に追いついたソイネスが、俺の腹にショートソードの一撃を加えた。まだ残っている衝撃のしびれと腹に強烈な痛みにより、ピクリとも動けなくなった。地面に血が流れ広がる。これはヤバいと認識はしたが、もはや自分ではどうしようも出来なくなっていた。
「ガイリトスの戦闘不能! ソイネスの勝利です!」
判定を告げる声。ソイネスはショートソードを引き抜き、振って血を払う。
「長年、戦ってきた貴方に敬意を表します。さらばです。ガイリトス」
観客の勝利を称える歓声に答えながら、ソイネス退場していった。
俺は、係に乱暴に担ぎ上げられ退場する。しびれにより腹の痛みが鈍く感じているのは良かったが、出血が酷かった。ああ、俺の命が零れていく……
朦朧とした中で、俺は恐らく控室の医療用ベッドだろう。そこに転がされた。
「昨日は楽勝だったくせに、今日は酷く負けましたね」
セレンだろうか……俺の体に付いた血を軽く拭い、貫かれた腹を縫合していく。相変わらずの鮮やかな手並みだ。まぁ、それを俺が受ける側になるとは思わなかったが。負けることは良くあるが、死にかけるのは久しぶりだ。最後に、治癒魔法が施される。
「……よう、セレン。昨日ぶりだな」
「貴方、気が付いたの?傷はある程度塞いだけど……血が流れ過ぎてる。死なないとは思うけど、あなた次第ね。」
「……そうか」
「水を持ってくるわ。待ってて」
セレンが去っていく。意識が朦朧としているせいか、セレンの去り行く姿も曖昧だ。それにしてもだ……外の世界を見てみたいと思った時に、死にかけるとはな。俺は夢を持たない方が良いってことかよ……
「この程度で諦めるとか、思ったより情けないの」
「……ん?誰だ?」
霞む視線を横に向けると、いつの間にか少女が立っていた。知らない奴だ。外から入ってきたのか?赤い髪を傾け同じく赤い瞳で俺の顔を覗き込んでいる。
「私はヒガンという。神からの使いじゃ。ま、ちょっと待っておれ」
神の使い?……どうも上手く頭が回らないな。頭もふら付いていたし、もしかしたら、頭を打っていたかもしれない。頭をガシガシと触ってみるが、特に怪我の感触は無い。ヒガンとやらは、俺の腹……負傷していた所を触り、ふん!と押した。
「ほれ、もう、なんとも無いはずじゃ。体調の調子も戻しておいたぞ」
「……治癒魔法か?傷だけでなく、体調も戻すなんて聞いた事は無いが」
さっきまで朦朧としていた意識が、鮮明になっていた。体調もいつもより調子が良いぐらいだ。ふと、腹を触ってみたが、傷跡すらない。少し前まで死にかけていたとは信じられないが、腰巻や床に流れている血がそうだったと告げている。
「ヒガンとか言ったか。助かった。感謝するよ」
「気にするな。お主を助けるのが、神から頂いた役目じゃからな。これからも、遠慮なく助けられるがよい」
「あ~、助けられた手前だが、早くここから出たほうがいい。部外者がこんなところに入られていると知られると、良いことにはならない」
俺はヒガンの姿を改めて見た。少女特有の可愛い感じの顔立ちに、乱れの無い髪。白地に赤い花のような柄をあしらったワンピースは高価な服に見える。良いところの子供か?親に権力があるなら大丈夫かもしれないが、こんな所だ。下手をすれば闇の中に攫われてしまうだろう。神とか使いだとか言っているが、頭が残念な娘なのかもしれない。
「……ガイリトス?誰か他に居るの?」
水差しとコップを持って、セレンが戻ってきた。マズいな。どう庇ったものか。とりあえず胡麻化してみよう。ヒガンの肩を掴んで紹介してみる。
「いや、こいつはだな。どうも観客席から迷い混んできたようで」
「誰も居ないじゃない?貧血が過ぎて頭が回ってるの?」
どういうことだ?確かに俺はヒガンの肩を持っている。いくらこいつの背が小さいからといって、見えない訳は無いだろう。
「言ってなかったが、私の姿はお主しか見えないし、触れる事も出来ない。声も聞こえないぞ」
確かに、セレンはヒガンを認識しているようには見えない。やはり、俺の頭がおかしくなったか?ヒガンは俺の妄想か?とりあえず、胡麻化す必要が無いことはわかった。セレンは不思議がりながら、持ってきた水差しとコップをテーブルに置く。
「この水を飲んで暫く寝ていなさい。調子は良さそうだけど、怪我は完全に塞がってはいないし、まだ目も回っているようだから」
「あ、ああ。判った。大人しく寝ていることにする」
「よろしい」
セレンはベットや床に残った血を軽く拭き取って、控室を去っていく。去り際に手を振って、別れの挨拶を交わした。変な妄想をしていると疑われてるな、これは。まぁ、実際にそうなのかもしれないし、確認する時間が欲しかったから良いか。
「……さて。お前はなんなんだ?」
「言ったじゃろ。私は神からの使いで、お主を助けるために来たのじゃ」
ヒガンは得意気な笑顔を浮かべて、俺を見据えている。
「神ってのは誰だ?」
「この世界を管理している神、ヨータロウ・サヤマ・デストロイヤーじゃ」
「なんか、凄く神っぽくない名前だな」
「それについては神から伝言を預かっておる。『ネーミングセンスが無いのは自覚しているから、気にしないでくれ』とのことじゃ」
セレンが置いていってくれた水を飲む。喉が潤い、少し落ち着いた。俺は神が居るとは思っていなかった。俺の知らないことなんて山ほどあるだろうから、もしかしたら知らないだけで居るのかもしれないが、信仰しようという気にはなったことがないのだ。ヨータロウなる神の事は、コロシアム運営のさらに上。とても強いこの世界の管理人程度に思っておくか。
「どうして俺を助けるんだ?」
「お主が選ばれたのは、偶々じゃ。偶々、神の目についた時に『コロシアムの外に出たい』と願っていたので、神は面白がって助ける事にしたのじゃ」
凄く適当な理由だったか。自分で言うのも何だが、大層な血筋ではないと思うし、才能があるわけでもない。特別な想いを持っているわけでも無いから、偶然でもなければ選ばれたりはしないだろうな。
「ふと思った程度だったんだけどな。……何処までやれるか、試してみるか」
俺が少しやる気を出したからか、ヒガンは機嫌良く笑う。
「よしよし。やる気を出したお主に、少し力を与えてやろうぞ」
「力?」
「そう、新しい力じゃ。盾と破砕の魔撃。先程の戦いで魔撃を食らったじゃろ?その衝撃で使えるようになったという体で使うがよい」
魔撃を浴びた事がきっかけで魔撃を使えるようになったという話は、稀だがある。にしても、盾と破砕か。どういった性能なのか確認や、練習も必要になるだろうな。にしても、こうなると……やるしかないか。
「戦いについて、私はこれ以上の手助けはしない。助けるのは、試合後じゃ。どんな大怪我していようと、生きてさえおれば、今日のように回復してやろう」
「それのほうが良いな。これ以上は卑怯ってものだ」
俺はヒガンに手を差し出す。
「これから宜しくな。ヒガン」
「ああ、宜しく。ガイリトス」
ヒガンは俺に握手を返してくれた。
追加の力を貰ったとはいえ、俺程度の実力でどこまでいけるか判らないが。偶には目標に向かってやってみてもよいか。