エピローグ(ロゼ / クリスティーナ)
◇◇◇
誰にも言いはしないけれど、ロゼは自身の出自に関して、平民は平民でもその下の方だと評する。
母親との二人暮らしは貧しいの一言に尽きた。
味のない薄い野菜のスープで飢えをしのいだことも一度や二度ではなかった。
さらに言えば貧しさは何も物質的な物だけではなかった。
薄々勘づいていたことであったが、彼女は片親である母にそれほど愛されていなかった。
アムステルダム家に自身が引き取られるときに、母が金貨袋を貰い笑みを浮かべていたことを知っている。彼女の母は喜んで貴族家へとロゼを差し出したのだ。
そもそも、幼少期ならいざしらず、互いが互いに生活のために働いていたから、一日の内で共にいる時間も短く、生活を共にしているという感覚も薄かった。
だからロゼは、母に対しては、暴力を振るわずにここまで育ててくれたことに感謝すれども、彼女に対する愛情も義理もないし、あのときの生活を思い返すことはもうないと割り切っていた。
男爵家に引き取られたものの、ロゼは貴族が嫌いだった。
そこにはもちろん、自身を引き取ったアムステルダム家の者も含まれていた。
貴族家での生活を経て、「貴族とはこんなにも良い生活をしているのか」と知るにつけ彼女の貴族に対する嫌悪感は増すばかりであった。
彼女は自身の愛くるしい容姿を理解していたので、内心をおくびにも出さずに、可愛く振る舞い続けたのだった。
◇◇◇
学園に通うことになった初日にシャルパンティエ家のクリスティーナという女性を見た。
まるでお話の中に出てくるお姫様の様だなと思った。
スラムに近い底辺の生活を送り、急ごしらえに教育されたハリボテの自分とは異なる本物のお姫様だ。
「ずるいずるいずるいずるい!」
彼女は誰もいない場所でクリスティーナを思い出すと、狂ったように地団駄を踏んだ。
「あの女は全てを持っている」
そう。
ないないだらけの自分とは異なり、クリスティーナは全てを持っている。
クリスティーナは、素晴らしい生活も、知恵も知識も、気品も気立ても美しさといった女性であるならば誰もが羨む全てを持っている───そう考えたとき、ロゼは胸を掻きむしるほどにクリスティーナが憎くて憎くて仕方がなかった。
ロゼが動き出したのは、それからであった。
◇◇◇
馬鹿な貴族男子はチョロかった。
ころころと可愛い声で労ってやれば、イチコロであった。特にクリスティーナの婚約者であるベテルギウスは、笑いが止まらないほどにチョロかった。
彼は自尊心が極度に強いので、そこをくすぐってやれば簡単だった。内心では小馬鹿にしながらも、彼らに心地の良い言葉を吐き続けた。その様子を見る彼らの婚約者───特にクリスティーナの悲しそうな顔を見るだけで、胸がすく思いだった。
ざまあみろ! 私の勝ちだ!
眉を下げ俯いた表情のクリスティーナを見る度に、ロゼは生まれてこの方、一度たりとも感じたことのない勝利の快楽を感じ、彼女はどっぷりとそれに身を浸したのであった。
まさに彼女にとっての春の訪れであった。
けれど、それも長くは続かなかった。
気がついたときには、彼女は辺境の街にいたのだった。
◇◇◇
結局どこまでいっても平民は平民か───
ロゼは己の運命を呪った。
数日間彼らと生活を共にしたけれど、わかったことはザクセン以外の三人の生活力が皆無ということだけであった。
彼女は元々、彼らに対して憎しみを抱きこそすれ、少しばかりも愛してなどいなかった。
特にバカの一つ覚えのように「真実の愛が」「真実の愛さえ」「真実の愛を」と囀るベテルギウスに対しては、彼の他の追随を許さぬ愚かさ振りに、内心ではいっとうバカにしていた。
そういったわけで、彼女が彼らを見限るのはあっという間であった。ただ万が一の保険は必要ではあるので、彼らを完全に切ることはなくときおり家に戻り顔を見せた。
けれどロゼは、ベテルギウスが初日で仕事を辞めたときは、どうしても自分を抑えられなかった。
彼はどこまでいっても愚かであった。
愚かで、惨めで、性根の腐った、しみったれた人間であった。
彼はロゼの罵倒に言葉を失ったばかりか、「かつてクリスティーナだけが彼を愛していた」と告げると、途端に気を良くし、仕事をほっぽりだしたことも忘れて気味の悪い笑顔を浮かべたのだった。
仕事の面では、夜間にお酒と食事を提供するお店で働くこととなったが、貴族家で美しく着飾ることと、多少の知識を学んだ彼女はそれなりに上手くやれていた。
そういうお店であるので、彼女はお酒を注ぎ、また自分も飲むことも少なくなかった。仕事は大変であったがやりがいがあった。それにロゼの愛嬌は本物であり、次第に彼女は評判となった。
一時はどん底に陥った彼女であったが、運が上向いて来たのか、お忍びの貴族とされる人物が、何度となく、彼女目当てに店に通うようになり、彼と付き合うこととなった。
彼は、ベテルギウス達とは異なり、しっかりと地に足をつけた人物であった。彼の愛情表現は薄っぺらい言葉だけでなく、行為によって示された。
二人で会ったときに重い物を持ってくれたりだとか、疲れたときに甘い物を差し入れしてくれただとか、二人切りで過ごすときは立ち仕事で浮腫んだ脚をマッサージしてくれたりだとか───そのいずれもがロゼの経験からは思いもよらないことばかりであった。
今さらながら恥ずかしい話であったが、ロゼは彼を好きになった。
◇◇◇
彼からは、じきに両親に紹介すると言われた。
仕事を辞めて、一緒に暮らそうとも言われた。
自分は側室ではなく、貴族の正妻になるのだ。
あれだけ嫌いであった貴族が、嫌ではなくなっていた。
全て付き合っている彼のお陰であった。
ロゼの世界は希望に満ちていた。
それはある日のことだった。
食事と酒の提供が始まるおよそ一時間前に、彼女は浮ついた気持ちで開店の準備をこなしていた。
すると、カランカランという、扉を開く音がした。
どちら様ですか? まだ開店ではありませんよと伝えた。
しかしそこに立っていたのは、片足にどこかで拾ったであろう粗末な木材を括り付けて、やっとこさ動けるようになったであろうザクセンであった。
失われた右腕と右足が痛々しかったけれど、それ以上に薄汚く、悪臭を漂わせる彼は、彼女にとって消し去りたい過去であった。
「食事ならまだよ。それとも、何、金でも貸して欲しいの?」
ロゼは、かつて言葉だけではあるが『私は貴方が好きです』と伝えたことのある相手に対し、侮蔑の混じった険のある声で尋ねた。
それから、これ見よがしな溜め息を吐くと、後ろポケットに手を入れ、いくつかの金貨を取り出すと、彼の足元にそれを放り投げた。
「あげるわ。だからもう私の前に姿を見せないで。
正直、もう邪魔なのよね。私は私で生きるから、あんた達はあんた達で勝手に生きていきなさい。死ぬんなら死ぬにしても、私に迷惑掛けずにどこか他所で、勝手に野垂れ死んでちょうだい」
彼女の辛辣な言葉を受けてザクセンがぼそりぼそりと何かを呟いた。その態度にその日のロゼは何故だか余計に苛ついた。だから彼女は言葉を続けた。
「あのねあんた達気持ち悪いの! わかる? わからないならはっきり言ってあげる! あんた達全員もう本当に迷惑なの! もう、本っ当に死んでよね!!
これ以上私につきまとうなら、彼にお願いして───」
ロゼが言葉に出来たのはそこまでだった。
「お前のせいだ」
ザクセンの地に響くような低い声を聞いた。
そして───
「はっ、あっ───?」
ロゼの腹部には、刃物が深く突き刺さっていた。
なにこれ、と言おうとしたけれど声にならず、代わりに大量の血が口からこぼれ落ちた。
「お前さえいなければ───」
彼はそう呟くと、ロゼの腹部の刃物を一気に引き抜き、自分の首へと突き立てた。
どうしてなの。
私はこれから幸せになれるところだったのに。
───真実の愛さえあれば、私達は何だって乗り越えていける
失われていく意識の中で、彼女は誰かの声を聞いた。
私は、何かを、間違えたのだ。
ようやく気づくも、取り返しはもうつかない。
ああ、次生まれ変われるのなら───そこで彼女の意識は永遠に途絶えた。
◇◇◇
ベテルギウス様達は王都へと戻ってこられましたが、もはや彼らに居場所などございませんでした。
残念ながら、引っ捕らえられた彼らは、誰からも思い出されることなく処罰されることとなり、王族を騙ったベテルギウス様と、宰相の息子を騙ったブライツ様は死罪となりました。
シャリクにしても、どこかで厳しい強制労働を課されていることでしょうし、万が一生きて解放されたなら再び会うこともあるかもしれませんね。
書斎にて仕事をこなしていると、扉をノックする音が聞こえました。「入ってください」と答えると、シリウス様が入ってこられました。そして彼は私の顔を見て開口一番、
「どうしましたか? クリスティーナ様……眉間に皺を寄せて……何か考え事ですか?」
「何でもありませんわ……それよりシリウス様……貴方様は私の旦那様になられますのよ。そろそろ私のことはクリスと呼んでくださらないと……」
私の言葉にシリウス様は耳まで真っ赤にしました。
「ク、クリス……様」
「もうっ……シリウス様ったら」
「すみません……どうにもまだ慣れなくて」
「こちらこそ焦らせてしまって申し訳ありません」
シリウス様と互いに顔を見合わせて笑いあいました。
誠実で、努力家な彼はこちらの体調の変化を慮ってくれるほどに優しく、そして奥ゆかしい方でもあります。
「いきなりは難しいですが……それでもクリス様と少しずつでも歩み寄っていけたらと思います」
「私もそう願っております……」
「あのっ」
「何でしょうか?」
「よろしければこの後二人で出掛けませんか?」
「ふふ……よろこんでお付き合いいたします」
私の返答にシリウス様も微笑まれました。
「何だか、こういうの良いですね」
「こういうの、とは……?」
「貴方と過ごす何気ない時間のことです」
シリウス様の言葉に、何故か私の頬が熱くなりました。
───真実の愛さえあれば、私達は何だって乗り越えていける
そのとき何故か不意にその言葉が思い出されました。
けれど、そうですね……確かに、私とシリウス様の間に、かつて彼らの仰っていた身を焦がすような真実の愛とやらがあるかはわかりません。
だけど私は、そもそも真実の愛などといった不確かなものは望んだりはしません。
だってそんなものよりも、もっと大事なものがあるからです。
本当に大事なことは、私と彼との間にある、今確かに抱いたこの感情を、互いが互いに伝え合い、尊重し、支え、歩みより、少しずつ温め、少しずつ育んでいくことではないでしょうか?
シリウス様が赤面しつつも、おずおずと手を差し出されました。
私は未来に思いを馳せ、彼の手を取りました。
[了]
最後までお付き合いくださってありがとうございました。
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