第9話 ポチ先輩。実は俺、帝国の皇子なんですけど……
■□リル視点■□
暗い離宮の廊下で、ゆらゆらと炎が揺れている。
これは普通に松明を燃やしている炎ではない。
オリビア王女殿下が、魔法で灯した炎だ。
殿下の話によると、6時間は燃え続けるらしい。
本人は「簡単な魔法しか使えない」と言っていたが、この持続時間は凄まじいものがある。
帝国の宮廷魔導士でも、できる者がいるかどうか……。
これを独学で取得したというのだから、とてつもない才女だと見て間違いない。
俺は離宮の廊下に座り込んだまま、溜息をついた。
ヴァルハラント王家には、本当に呆れる。
あれほど優秀な王女を、どうして蔑ろにするのか。
【緑の魔女】とは、一体何なのだ?
なぜヨルムンガルド帝国には、【豊穣の聖女】という名で伝わっているのか?
剣を抱きかかえたままオリビア王女のことを考えていると、何者かの視線に気付いた。
「やあ、ポチくん……だったね? 君が獲ってきてくれたマーダーフィッシュ、美味しかったよ。ありがとう」
黒い子犬がポツンと、廊下の先でおすわりの姿勢を取っていた。
いつからそこに居たのだろう?
俺は周囲に、警戒していたつもりだが。
話しかけると、ポチはトコトコと近くに寄ってきた。
撫でようとしたが、手が届く間合いのギリギリ外で止まる。
再びおすわりの姿勢を取ったポチは、小首を傾げながら俺を見つめてきた。
何だか、品定めの視線に感じる。
気のせいだろうか?
「オリビア王女殿下の護衛としては、君の方が先輩だな。よろしくお願いします」
俺が座り込んだまま頭を下げると、ポチは静かに尻尾を振った。
「よきにはからえ」とでも、言いたげだな。
不思議な子犬だ。
「ポチ先輩にだけ、俺の正体を話しておこう」
何となく、そうすべきだと思ったのだ。
念の為、周囲をキョロキョロと見回す。
誰もいない。
寝室の扉は厚いので、中で眠っているオリビア王女に聞こえる心配もない。
「俺の本名はフェン・ルナ・ヨルムンガルド。帝国の第1皇子だ」
ゆらゆらと振られていた、ポチの尻尾が止まった。
「誤解しないでくれ。オリビア王女殿下を害するような真似は、決してしない。俺の任務は護衛騎士となって殿下に近づき、彼女がどのような女性なのか見定めることだ」
尻尾でぺしぺしと床を叩く仕草が俺を責めているように思えて、つい弁明してしまう。
子犬相手に、俺は何を言っているのだろう?
「任務とは別に、俺はオリビア王女の人柄に惹かれている。彼女を守りたいという思いは、本物だ」
選考会の時、観客席から向けてくれた笑顔。
俺がエリザベート王女から侮辱された時に見せた、真剣な怒りの表情。
王者としての器。
料理に魔法と非凡な才覚を持っているのに、イマイチ自覚していない天然なところ。
今まで見てきた、帝国貴族のご令嬢達とは全然違う。
彼女から、目が離せない。
オリビア王女の姿を思い浮かべるだけで、ワクワクする。
胸が暖かくなる。
全身に、活力が漲る。
存在価値のない俺に、居場所をくれる姫君――
『【神獣騎士】となりうる、最低限の条件は満たしているようだな』
突然脳裏に、低い声が響き渡った。
「……えっ?」
驚いて顔を上げ、周囲を油断なく警戒する。
――誰もいない。
俺とポチだけだ。
「……空耳……か? 犬であるポチが、喋るわけないよな?」
「わふっ♪」
不思議な子犬は、ワンコらしく鳴いてみせる。
やはり、どう見ても犬だ。
この子があんなに低くて凄みのある声で喋るなんてこと……あるわけがない。
俺はどうかしている。
自嘲気味に笑っていると、不意に寝室の扉が開いた。
闇の中でも輝く、緑玉色の髪と瞳。
オリビア王女だ。
ひと目見たたけで、心臓がトクンと鳴る。
「オリビア王女殿下。まだ起きていらっしゃったのですか。……っ! いけません! そのような格好で!」
トクンじゃ済まなくなった。
俺の心臓は、バクバクと張り裂けそうな動悸を始める。
ね! ね! ね!
寝間着だと!?
透き通るように白い腕も、可愛らしいふくらはぎも丸見えではないか!
これは男に見せていい格好ではない!
俺は全力で、視線を逸らした。
「リル? 何をそんなに慌てているのですか? 確かに殿方には、絶対見せられない格好です。しかし、わたしと貴女は女同士でしょう?」
そ……そうだった。
俺は今、女騎士リルなのだ。
ならば……いいのか?
オリビア王女の寝間着姿を、目に焼き付けても。
――ダメに決まっている。
不敬だの無作法だのと言われても、絶対に彼女の方は見ない。
見た目は女騎士でも、中身は帝国紳士であれ。
必死で目を逸らす俺の視界端に、オリビア王女はそっと毛布を差し出してきた。
「夜になり、かなり気温が下がってきました。これを着て警備しなさい」
「それでは殿下が、風邪をひいてしまいます」
「わたしはいいのです。毛布はもう1枚あります」
「殿下が2枚、重ね着すべきです」
「大丈夫。わたしはポチと、一緒に寝ます。モコモコした毛皮は、毛布の何倍も暖かいのですよ。……おいで、ポチ」
オリビア王女が手招きすると、ポチは嬉しそうに駆け寄った。
そのままポフンと、腕の中に収まってしまう。
「リル……。貴女が一生懸命に警備してくれるのは嬉しいけど、無理をしてはダメよ。いざという時に疲労していたり体調不良だったら、わたしを守り通すことは難しくなるでしょう」
「……分かりました。毛布は有難く、使わせていただきます」
「ふふふ……。体を冷やさないようにね。それじゃ今度こそ、おやすみなさい」
ポチを抱えたオリビア王女は、にこりと笑って寝室へと消えていった。
「帝国の皇子なんか辞めて、一生彼女のプリンセスガードでありたいな……」
離宮廊下の窓から覗く満天の星空に向け、俺は静かに呟いた。