最初に世界を呪ったのは、誰
「テスト勉強やった?」「全然」
このやりとりを、あと何回繰り返さなければいけないのだろう。
繰り返されるたびに、嫌な感じの違和感に襲われる。
まるで「勉強なんてするな」と牽制し合っているようだ。
あるいは、周りの人間のダメさ加減を確認して、安心したいみたいだ。
勉強なんて全然していない、と言いながら、本当はテスト前、焼け石に水のような勉強をしている。
これくらいは「勉強をやった」うちに入らないからと、自分で自分を誤魔化して「勉強なんて全然してない」と口にする。
だけど、それを口にするたびに、嫌な感じの罪悪感に襲われる。
俺は、嘘をついているのだろうか。アイツらを騙しているのだろうか。
仲の良いクラスメイトとの、何気ない日常の中、ふと感じることがある。
「勉強なんて、つまらない」「努力なんて、くだらない」「お前もそう思うよな?」
直接言われたわけじゃない。だけど、そう言われているように感じることがある。
脅されているわけでも、強要されているわけでも、そもそもハッキリ言われているわけでもない。
だけど、逆らえない。
逆らって「勉強だって大事だ」なんて言ってしまったら、その瞬間に全てを失ってしまう気がして。
俺だって、べつに勉強が好きなわけじゃない。
だけど、やらずにテストでひどい点を取れば、親からの長い説教が待っている。
そんなに長々時間を取るなら、その時間で勉強させた方がまだ有意義なんじゃないかと、毎度疑問に思う、ただ苦痛なばかりで無意味な時間だ。
そんな拷問のような時間から、わずかでも逃れられる可能性があるなら、多少のテスト勉強くらい我慢してもいい。
それに、行きたい学校へ行くためには、どうしたってある程度の成績が必要だ。
つまらなくても、好きじゃなくても、やらなければどうしようもないもの……俺は“勉強”を、そんな風に思っている。
だけど、他の奴らの前で、そんなことは言えない。
裏切り者だと思われたり、空気の読めない奴と思われたり……何より、真面目な奴と思われるのが怖い。
同年代の間で、真面目という言葉が良い意味で使われることなんて、滅多に無い。
それは“つまらない奴”と言われているのと同じだ。
普通、友達といれば楽しいはずなのに、時々、妙な息苦しさを覚える。
俺の思っていることと、周りの“空気”が合わない時――その合わない空気を、無理矢理押しつけられているように感じる。
何かが違うと感じても、それはマズいんじゃないかと思っても、受け入れないと仲間でいられなくなるような……そんな、妙な圧力を感じることがある。
これは、俺の気のせいだろうか。勝手にそう感じて、勝手に苦しい気がしているだけだろうか。
それとも、周りの空気に馴染みきれない俺は、最初からそこにいるべきではないのだろうか。
いつからだろう。
真面目さや、正しさや、ルールや努力を、目の敵にして、嘲笑って、馬鹿にするようになったのは。
やらなければならないことをやり遂げるより、他人がやらないタブーを犯す方が「スゴい」と、もてはやされるようになったのは。
俺だって、型にはまった生き方は嫌いだし、ルールやモラルを窮屈に感じることはある。
だけど、皆が度胸試しのように踏み込みたがるタブーの先に“超えてはいけないライン”があることくらいは、ちゃんと分かっている。
そこをうっかり踏み外してしまえば、待っているのは奈落の底だ。これまでにニュースを騒がせてきた数々の炎上事件が、それを物語っている。
慎重な俺は、いつもそれを警戒して、自分の行動にブレーキをかける。
周りに合わせて遊んでいるようなフリをして、ほんの何パーセントか保険をかけるように、焼け石に水の努力をする。
我ながら、いじましく、みみっちい保身の仕方だとは思う。
だけど、周りの奴らを見ていると、ヒヤヒヤするんだ。
まるで奈落の底の崖っぷちで、笑いながら逆立ちしたり、飛び跳ねたりしているような感じがして。
少しでもバランスを崩せば、転がり落ちて命が無いのに、それさえも見えていない気がして。
過去の例を見るに、超えてはいけないラインの判定は、案外ひどく難しくて、見分けづらいのではないかと思う。
そもそも、まだ社会にもロクに触れていない俺たちに“世間の目”なんて、きっと分からないのだ。
どこまでがセーフで、どこからがアウトなのか……仲の良い友達同士のノリや感覚で判断すべきではないのだ。
なのに、まるでチキンレースのように、ギリギリのラインを攻めたがる奴が多過ぎる。
どこまでが本気で、どこからが冗談なのかも分からず、俺はいつも、ついて行けない気持ちになる。
だって、俺は自分の人生が大事だ。ほんの軽い悪戯心なんかで、ダメにしたいとは思わない。
他人に迷惑をかけたいとも思っていない。だって、迷惑をかけた分、何かしらの報復や罰が返ってくる気がするから。
だけど、そんな正直な心の内さえ、俺は上手く言えずにいる。
周りが盛り上がっている中、水を差すようなことを言えば、白い目で見られる気がして。
将来のために、嫌でもやらなければいけないことがある。
将来のために、やってはいけないことがある。
それがちゃんと見えているなら、その通りに進めば良いだけだ。
なのに、それをしづらい“空気”がある。
いや……それは“空気”と言うより、ドロドロの底無し沼だ。まるで、呪いのような……。
俺は既に片足がはまって、上手く脱け出せずにいる。
いつの時代からなのかは分からない。
だけど、この世界には確実に、呪いのような“闇”が在る。底無しの、泥沼のような“何か”が在る。
真剣に努力しようとする人間の、足を引っ張り、堕落させて、底辺に沈めようとする“何か”だ。
努力ができない人間は、自分が努力する代わりに、他の誰かを引きずり落とすことで、安心を得ようとするのだろうか。
自分と同じ場所に沈む仲間を増やすことで、安心して、より一層、努力する気を失くしていくのだろうか。
そうして落とされ沈められた人間は、また別の誰かを引きずり落とそうと、手を伸ばす。
これは、連鎖する呪いだ。時代を超えて広がり続ける、“正しいこと”や“努力”を許さない呪いだ。
人間、誰だって、嫌なことなんてしたくない。
楽しいことだけやって、面白おかしく生きていきたい。
そんな本能的な欲求に、この呪いは寄生し、煽り立てる。
「勉強なんてつまらない」「努力なんてくだらない」「ズルをしてでもラクをしたい」
そんな本音に同調する仲間が増えれば増えるほど、それはまるで“世界の真実”“この世の常識”のように意識の中に浸透していく。
「真面目な奴はつまらない」「必死に努力するなんてダサい」「要領良くチョロっと結果を出す奴が天才」
その呪いはそうやって、真剣に努力することを「カッコ悪いこと」「いけないこと」のように、脳に刷り込んでくる。
この呪いは、誰かがこの泥沼から脱け出すことを許さないのだ。
この泥沼にハマった奴らも、何割かは、ちゃんと気づいているだろう。
楽しい“学生ノリ”が、いつまでも通用するわけではないと。
大人になったら、それを捨てなければいけない時が来るのだと。
そうして就職活動やインターンシップの時期に入った途端、それまでのノリが嘘のように、急に真面目で誠実な人間のフリをしだすのだろう。
だけど、それができない何割かも、きっと確実に存在する。
人間、そんなに急には変われない。
努力や真面目さを嫌い、とことんラクに、ズルをして生きてきた人間が、型にはまった社会人の生き方に、馴染んでいけるはずもない。
あるいは真面目なフリでやり過ごそうとしても、身に染みついた学生ノリが、無意識に出て来て、立場を危うくする。
そうして皆、自分が呪いの泥沼にハマっていたことにも気づかずに、周囲とのギャップに、生きづらさに苦しむのだ。
周りに合わせ、ノリ良く振る舞いながらも、何割かの人間は強かに、自分の人生に保険をかける。
嫌でも向き合わなければならないものに、しぶしぶながらも目を向けている。
社会に出る前に身につけておかなければならないのは、知識だけじゃない。
むしろ“嫌なこと”と、どう向き合っていくか、どうしても避けられない人生の難題、やらなければどうにもならない面倒事を、どうやって乗り越えていくか、だ。
誘惑に流され、してはいけないことに手を出してしまわないよう、自分の心をコントロールする方法だ。
それを身につけられなければ、きっとごくありふれた平凡な幸せさえ、手から零れ落ちてしまうのだろう。
真面目なだけでは堅苦しくて生きづらい。
だけど、真面目さを全て排除してしまっても、きっと生きていけない。
そのことに気づかず、学生のうちのノリだけで、人生を全て乗り切れると信じ、破滅していく人間を、皆、どんな目で見ているんだろう。
「あいつ、馬鹿だなぁ」と、愚か者でも見るように嘲笑うんだろうか。
自分も呪いの泥沼の中で、他人の足を引っ張っておきながら、他人事のようにその失敗を嘲笑うのだろうか。
俺の周りの人間が、どこまで物を考えて生きているのかは分からない。
だけど、急に「ちゃんと将来考えてるか?」なんて訊いても、説教と警戒されるか、余計なお世話と思われるだけな気がする。
そうして一人、焼け石に水の努力をしながら、テストのたびに罪悪感に襲われる。
俺は、アイツらを裏切っているのだろうか。
呪いの泥沼に沈みそうなアイツらを、見殺しにしようとしているのだろうか。
この世界には、いつ頃からか、真面目なことを言えない空気がある。
真面目なことを言い出すと、ヘンな目で見られる空気がある。
本当は胸の奥に真面目な部分を抱えていても、ノリだけでは生きていけないと悟っていても、それを表には出さず、隠して生きている。
まるで「楽しいことだけやって、ノリだけで生きていける」と、そんな“幻想”を、集団に植えつけられているみたいだ。
そしてそんな幻想を壊そうとする人間を、許さないみたいだ。
この呪いは、一体いつから始まったのだろう。
本やドラマでしか知らない、ずっと昔の時代は、むしろ真面目さの方が尊ばれていた気がする。
今の時代のこれは、その反動なのだろうか。
いつかの過去に、真面目に生きられずに苦しんだ誰かが、この世界を呪い始めたのだろうか。
呪いに呑み込まれないように、必死に踏ん張りながら、いつも頭のどこかで、誘惑に攫われそうな自分を感じている。
嫌なことを我慢して頑張っても、報われるとは限らない。逆に、好きなことだけやって成功したという人間もいる。
何が本当のことなのか、何を信じれば良いのか分からない。
それでも呪いに抗っていられるのは、俺が自分の人生をギャンブルに賭けられない小心者だからだ。
焼け石に水の努力で、ギリギリ自分を守りながら、甘い幻想を信じて呪いの沼の底に溺れていく人間を、横目に見ている。
この世界はいつから、こんな風になってしまったのだろう。
これが本当に呪いなのだとしたら、恐ろしく根が深く、絶大な効果を持つ呪いじゃないか。
この呪いの連鎖は、いつから、どこから始まったのだろう。
この世界をこんな風にしたのは……最初に世界を呪ったのは、一体誰だったんだ。
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