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ぱしーん。
乾いた疳高い音が、広い部屋に響きわたった。
凛々亜が華純の接吻を拒み、強烈な平手打ちをおみまいしたのだ、と、平子が認識するのに数瞬を要した。
華純は茫然と紅く腫れた左頬をおさえ、しおらしくぺたんとその場に座りこんでしまった。
「もう貴女との関係は終わったのよ。気安く口づけしないでちょうだい」
冷たい眼で華純を見おろし、凛々亜は蔑むように言った。
華純は床にへたりこみながら、しかし捨て犬さながらの哀れさで凛々亜に縋る。
「凛々亜さま……いいえ、お姉さま。あなたさまはかつて私を愛しているとおっしゃったではありませんか。あのお言葉は、嘘だったのですか」
そんなこと言ったのか、と、平子は内心呆れかえった。色んな女に手を出しているとは聞いていたが、眼の前のこの毒蛇女まで手をつけていたとは。
痛いところを突かれたのか、凛々亜は黙りこんでしまった。
「とにかく。貴女のように卑劣な娘は、私の伴侶にはふさわしくないわ」
その言葉がとどめとなったのか、華純は眼を見開き、ぶつぶつと何やらうわ言を述べていたが、すぐにその瞳に憤怒の炎を宿し、平子に焼き殺すような視線を向けた。
この場に凛々亜がいなければ、華純は今すぐにでも平子の首を絞めにかかるであろう。
「私が死ねと言ったら今すぐここから身を投げる、と。貴女そう言ったわよね」
だが凛々亜の冷徹なひと言によって、華純はびくりと身じろぎ、一転して蛇に睨まれしカエルの如く恐る恐る凛々亜へ視線を戻した。
「とはいえ、今回被害を受けたのは私ではないわ」
凛々亜は平子に向き直り、続ける。
「華純によって名誉を傷つけられたのは、平子、貴女よ。華純の処分は、あなたが決めるべきだわ。もし貴女が彼女を赦すというなら、私はもう口出ししない。逆に彼女を罰するというなら、どんな罰でも私がうまく執行してあげる。どちらを選んでも、貴女のことは私が守るわ。あなたは、私のモノだから」
凛々亜の眼は本気だった。もしここで自分が華純に「死ね」と言おうものなら、凛々亜は白百合グループの権力と財力をフル活用してでもこの毒蛇を東京湾の底に沈めかねない。そんな凄味があった。
「どうするの。かわいそうな平子。ひどい眼にあわされて、ようやく復讐の機会がやってきたのよ。何をためらう必要があるの」
凛々亜は眼の前の〈邪魔者〉を処理したいのか、平子が華純に罰を与えることを期待しているようだった。
華純はあくまで敬愛する凛々亜さまに楯突く気はないのか、なかば諦めたような眼で俯き、ついには観念したのか、覇気の抜けた顔で平子を見あげた。
「どうしましたの。私の生殺与奪権は、あなたが握ってらっしゃるのよ。煮るなり焼くなり、好きにしたらよろしゅうございますわ」
自分の今後の人生を左右しかねない重要な決断である、と、平子は悟り、思考には数分を要した。
こいつにはさんざんな眼に遭わされたが、さすがに人殺しはまずい……もし警察にバレたら、自分は凛々亜ともども長期間塀の中で臭い飯を食わされることになる。そんなのはごめんだ。
「私も鬼じゃない。もしあんたが全校生徒の前で罪を懺悔して私の潔白を説明するなら、今回だけは許してあげる」
凛々亜の、すなわち白百合グループの権力を笠に着た今の平子の姿はさながら虎の威を借る狐であり、平子自身心の奥底でそんな己を自嘲気味に嗤った。だが生き抜くために今までさんざん大人を利用してきた手前、すぐにどうでもよくなった。
「それはできませんわ」
平子の予想に反して華純は頭を振った。
「なぜ」
次に口を開いたのは、平子ではなく凛々亜だった。
華純の肩に手を置き、奇妙に優しい声で、囁いた。
「自分の置かれている状況が、よくわかっていないようね」
「だって、事実ですもの。全校生徒の前で嘘をつけと言われましても、私も聖家の長女。それはできません」
「わかってないわねえ。事実なんてどうでもいいのよ。貴女が平子の命令に服従する気があるのかどうか、聞いてるの」
「は?」
頓狂な声をあげたのは、華純ではなく平子の方だった。
「平子が校長を買収して東陽に入学したのは知っていたわ。でも、だからこそ私は平子に惹かれたのよ」
どこか歪で邪悪な笑みを浮かべて、続けた。
「最高の人間には、最低の恋人がふさわしい。そうは思いませんこと?」




