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「平子さん」
朝の登校時、学園の創始者像が社会主義国家の指導者さながらにそびえ立つ泉の前で平子を呼び止めたのは、凛々亜であった。財閥のお嬢様らしく黒塗りの高級車からお抱えの運転士に扉を開けてもらい、他の生徒の注目を浴びながら、こちらへと歩みよってくる。
「リボンが曲がっていますわよ」
微笑みながら、凛々亜は平子の制服の胸元のリボンを正した。平子にとって女性に抱かれる経験など皆無であり、その夜は興奮して思うように寝つけなかったため、身だしなみがおろそかになっていたらしい。
「あら。ごめんなさい。お恥ずかしい」
平民の出といえど、平子も天下のお嬢様学校である東陽女学院の淑女として身だしなみや所作には気を遣ってはいたつもりだったが、凛々亜のような生粋の純粋培養お嬢様と違って公立中学卒の彼女は油断するとすぐに化けの皮が剥がれてしまう。
東陽女学院は幼稚園から大学まで箱入りお嬢様を育成するための一貫校ではあったものの、営利目的なのか中高大と他校からの編入枠を設けている。学力試験はもちろんのこと面接試験まであるという徹底した選抜ぶりで有名ではあるが、平子がこのお嬢様学校に入学できたのにはちょっとした事情があった。
「昇降口までご一緒するわ」
凛々亜の誘いを特に断る理由も思いつかず、平子は流れに身を任せて当たり障りのない世間話を交わし、周囲の女生徒たちの視線を一挙に浴びながら、一緒に歩んだ。幼少期からの英才教育の賜物なのか、凛々亜の一挙手一投足にはすべて無理無駄がなく、支配者の一族の生まれ、育ちの違いを感じさせられた。
平子は思った。うん。どこからどう見ても非の打ちどころのない完璧なお嬢様だ。昨日ベッド上であんなに激しく乱れていたとは思えないほどに。
周囲の女生徒たちのいったい何人が、ベッド上での凛々亜を知っているのだろう。
そう思うと、平子の中に一種の優越感のようなものがこみあげてきた。もっとも自分ひとりが特別だ、とは思っていないし、凛々亜は他の女にも少なからず同じようなことをやっているのだろう。凛々亜の浮気癖は校内ではちょっとした噂ではあった。平子に声をかけてきたのもたまたま気まぐれで、そのへんの新入生の女子をつまみ食いしようとでも思ったのかもしれない。しかし驚くべきことに凛々亜を批判する女生徒は少なくとも表には平子の知るかぎりひとりもおらず、むしろ多くの女生徒はいつか自分も憧れの凛々亜さまからお声がかかるのではないか、と、淡い期待を抱いていたくらいである。そう、まるで白馬の王子さまの到来を期待する年頃の乙女のごとく。
天下のお嬢様学校・東陽女学院の模範ともあろう御方がそんなことしていたと最初に知った時は少し驚いたが、世の中の金持ちや権力者は見えないところでウマイことやってるから成功しているのだ。
「ごきげんよう、平子さん」
朝のHRの十分前に一年百合組の教室に入った平子を、ひとりの女生徒が背後から抱きしめた。平子より頭ひとつ分ほども背が高いその生徒は平子を向き直らせると、すかさず頬に軽い接吻をした。
「ごきげんよう、隆子さん」
突然の不意打ちにもかかわらず、平子はいたって平然としていた。東陽女学院においてこんなことは日常茶飯事だからだ。
「あら。ずるいわ。隆子さんばっかり」
背後の隆子に気を取られていた平子の正面にはいつのまにか背の低い短髪の童顔の女生徒が眼の前まで迫り、その厚めの唇で平子の唇を塞いだ。
「ずるいわ。良子さん」隆子が不服そうに抗議し、その長い腕で平子を拘束し、身動きを取れなくした上でさらにその唇を奪った。
朝っぱらから女同士でいったい何をやってるんだ、と、読者の皆さんはお思いかもしれないが、ここは女子校。すなわち乙女の園。
本来ならば異性と恋愛している年頃の娘を無理矢理異性から隔離すればどうなるかは見ての通りである。
この学園における女生徒同士の恋愛はもはや公然の秘密。その証拠に担任の教師が現れたところで止める気配すらない。むしろ楽しんですらいる。
それもそのはずで、女性同士の恋愛ならば何らかの手違いによって妊娠するなどといったトラブルは起きず、恋愛している本人同士があくまで「友達としての付きあい」と言い張ればそれ以上追及のしようがない。それに今はもう二十一世紀、LGBTの存在が世界的にも受け入れられつつある現状、東陽女学院も時代の先端を行き、世界で通用する高スペックな乙女を育てるために黙認しているというのが実情だ。東陽女学院ともなれば才女の集団と言っても過言ではないため、恋愛に溺れて学業をおろそかにする愚かな生徒はいない。それどころかかえって成績が伸びたりするケースもあるのだ。
「あの凛々亜さまの眼鏡にかなうなんて、さすがは私の平子さんだわ」隆子が誇らしげに言った。
「無理もないですわ。私の平子さんは可愛いもの」良子が対抗するように言った。
「でも、どうしましょう。あの凛々亜さまがお相手では、勝ち目は薄いわ。彼女はすべてにおいて完璧。平子さんの心も凛々亜さまに奪われてしまうのではないかと心配だわ」隆子が芝居がかった調子で言った。
「私は大丈夫ではないかと思います。凛々亜さまには華純さまがいらっしゃるもの。凛々亜さまには少々浮気性なところがありますから、おそらく一時的に平子さんに目移りされただけだと思いますわ。その証拠に今でも凛々亜さまと華純さまは仲睦まじく、一緒にランチをとっていらっしゃるじゃないですか」良子が冷静に分析する。
聖華純。生徒会副会長にして白百合凛々亜の懐刀とも言える女性である。凛々亜ほどではないが家柄もよく文武両道で器量も良し、少々気難しいところがあるものの、校内にファンは多い。もっとも華純が凛々亜に首ったけなのは周知の事実なので、華純にアタックする猛者は皆無であったが。
「下谷平子さん」
唐突に肩を叩かれた平子が振り向くと、そこには同じクラスであり、委員長の神藤道子がいた。長い黒髪を白いシンプルな髪留めでまとめたポニーテールと、赤淵眼鏡が印象的だ。そして生徒会書記も務めている。
「華純さまがあなたにお話があるそうです。放課後、中庭にてあなたを待つ、と。たしかに伝えましたから」
事務的口調でそう伝え、そっけなく踵を返し、道子はポニーテールの黒髪をたなびかせながら去っていった。
「何だかややこしいことになってきたわね」
平子はため息を洩らしながらぼやいた。




