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07 神子姫、ダンスを踊る



 夜、アーロイス様と二人っきり、ミルクをたっぷり入れた紅茶でほっと一息。

 本当は寝る前のカフェイン摂取はあまりよろしくないけど、お茶文化のこの国で気にしている人はいない。そもそもカフェインというものが知られているのかどうかもよくわからない。

 無類のお茶好きだった前世の私は、いけないと思いつつも昼夜関係なく飲んでいた。

 アーロイス様には申し訳ないけど、道連れができてちょっとうれしい。


 あたたかい飲み物で気がゆるんでしまったんだろう。

 はぁ……と、気づけば口からため息がこぼれ落ちていた。


「……どうした、エヴェリーナ」

「エヴィです」

「ああ……すまない、エヴィ」


 これ、実はもう何回か繰り返したやり取りなんだよね。

 アーロイス様、いまだに私を愛称で呼ぶことに慣れないみたいで。

 別に絶対愛称で呼んでくれないとダメだってわけじゃないんだけど、少しさびしい。

 まあ、今はそれについては置いとくとしよう。うっかりアーロイス様に心配かけてしまったんだから。

 全然大したことじゃないのに、申し訳ない。いや私にとってはわりと大きな問題ではあるけども。

 カップをソーサーに戻して、ミルクティーに浮かぶ波紋が静まっていく様子を眺める。

 お茶を淹れるのは、私の趣味で数少ない特技だ。……数、少ない。


「どうってことないんですけど。ちょっと自分のスペックの低さに悲しくなってきちゃいまして。私、何もできないなぁって」

「……」

「あ、ごめんなさい。慰められたいわけじゃないんで、大丈夫です」


 なんて言ったらいいかわからないって顔をするアーロイス様に、即座に謝る。慰め待ちに聞こえてしまったかもしれない。

 貴族社会で、前世の記憶なんて何の役にも立たない。そもそも世界が違えば常識だって違うんだし。

 アドバンテージなんてどこにもない。そんなの最初からわかってたことだから、地道に積み重ねていくしかない。

 オルトルートさんだって言ってたしね。ひとつひとつ、って。


「貴女は、がんばっていると思う」

「……ありがとうございます」


 ああ、結局慰められてしまった。アーロイス様は優しいなぁ。

 努力を認めてくれる人がいるだけで、私は充分幸せ者だ。

 国名も地名も貴族の名前も、ひとつずつ知っている言葉が増えていく。知識も、言葉遣いや礼儀作法も、私の鎧になってくれる。

 ペースは遅くても、少しずつ確実に前に進んでる。それを見ていてくれる人がいる。

 よーし、明日からもオルトルートさんの嫌味に耐えられる気がしてきたぞ!


「……何か、俺にできることがあれば言ってくれ。力に……なりたい」


 何度もためらうように言いよどみながらも、その言葉には思いやりがあふれていた。

 気恥ずかしいのか、視線は全然違う方向を向いてしまっているけども。

 優しい。私の旦那様めちゃくちゃ優しい。

 どこが氷なんですか、ってここ一ヶ月足らずで何百回思ったかわからない。

 そして落ちこぼれのお嫁さんは素敵な旦那様に頼る気マンマンですよ!


「じゃあ、ダンスのコツを教えてください!」

「ダンス……」

「はい。姿勢や歩き方は、なんとかマシになってきたと思うんですよね。気を抜くとまだダメなんですけど。でもやっぱり……ダンスが……」

「踊れないのか」

「踊るとか以前の問題って感じです。基本のステップまでは踏めるようになったんですけど、足を動かすのに集中してると、もうそれ以外何もできなくなっちゃうんです」


 当然、ダンスってのはステップだけ踏んでれば踊れるわけじゃない。

 お祭りで大勢で踊るようなダンスならそういうのもあるけど、私が覚えなきゃいけないのはパートナーと一曲踊りきる、いわゆる社交ダンス。

 パートナーと息を合わせて動かなきゃいけないし、曲にも合わせないといけない。一定のステップを踏んでるだけじゃ出来の悪いカラクリ人形だ。

 わかってはいても、身体は思うように動いてくれない。意識すればするほど余計にガチガチになる。

 何度ダンスの先生の足を踏んだことか……。

 二度目の人生でも、私の脳みそはシングルコアなんです……。


「ダンスの練習を見に来たオルトルートさんの眉間のシワが過去最高潮で……コインが挟まりそうでした」

「それは……想像がつくな」


 アーロイス様は眉をひそめて、苦手な野菜を無理やり食べさせられたみたいな顔をする。

 もしかして、アーロイス様もオルトルートさんに叱られた経験あり……?

 なんでもできそうな人に見えるのに、そう思うと親近感がわいてくるから不思議だ。


「貴女さえよければ、だが……寝る前に、少し踊ろうか」

「踊ろうって……アーロイス様と、私が?」


 アーロイス様は至極当然とばかりに、こくりと頷く。

 いや、この状況でそれ以外の可能性がないのはわかってる。わかってるんだけども!


「そんな! アーロイス様と踊るために練習してるのに、当の本人にあんな悲惨なもの見せられません!」


 新婚だから、ということで今のところは夜会とかお茶会とか、皇妃としてやらなきゃいけないこともみーんな免除してもらっている。

 そのおかげでお妃教育に集中できるわけだけど、及第点もらうことができたら速攻で待ってるのはお披露目パーティーだ。

 まずは顔を売るのが大事だし、皇帝陛下との仲のよさアピールとかも必要だろうし。

 お貴族様の名前を覚えてるのだって、そのときに粗相がないようにってことだからね。

 つまり、アーロイス様と踊れるようになるのが最終目標で、そのための練習だ。なのにいっちばんひどい状態でお相手してもらうって、どんな羞恥プレイ!?


「この先、誰より貴女と踊るのは俺だろう。早いうちに感覚を掴んでいたほうが後々のためになる」

「うっ……一理あります……」


 アーロイス様、頭いいね……そんなとこもかっこよくて好き……丸め込まれそう……。


「で、でも、アーロイス様。私、本当に、ほんっとーに下手くそで……」

「まだ習い始めてから日も浅い。最初からできる者はいない」

「アーロイス様の足を踏んじゃうかもしれませんし……」

「気をつける。それに、万一踏まれても今なら痛くはない」

「た、たしかに……」


 今履いてる靴は、柔らかめの布でできた室内履き。

 底板はあるとはいえ、通常ダンスするときに履くようなヒールのある靴なんかと比べたら、踏まれたところで痛くもかゆくもないだろう。

 そんなこんなで、着々と言い訳が封じられていく。さすが天下の皇帝陛下!


「……呆れないでくださいね」

「ああ」


 根負けして、ちょっと恨めしげに見上げると、アーロイス様はかすかに笑みをこぼす。

 うう、絶世の美貌に微笑まれたら私の負け確定なんですけど……。

 アーロイス様は飲み終わったカップを置いて、音もなく立ち上げる。テーブルを回り込んで私の横に来ると、その場で跪いた。


「一曲、踊っていただけますか」


 ……本当、ほんっとう、かっこいいなこの人!

 差し出された手に、向けられた真摯な瞳に、すぐに反応を返すことができなかった。

 アーロイス様は動きのひとつひとつが洗練されていて、無駄がないのに華はある。背が高くて手足がスラッとしているから迫力もあって、まるで黒ヒョウみたいだ。

 そんな人が、今、私の前で跪いている。

 私のダンスの練習に付き合ってもらうのに、女性は誘われるのを待たないといけないっていうマナー通りに誘ってくれた。

 なんだか……とっても贅沢をしている気分。


「喜んで」


 どこか厳かな気持ちで、そっとアーロイス様の手に手を重ねた。

 この手に触れるのは、考えてみれば結婚式以来。しかもあの時は手袋をしていた。

 私の手よりもふたまわりは大きい手。当たり前だけど、男性の手だ。

 アーロイス様は剣を扱えるのだと、なかなかの名手だと、オルトルートさんや他の教育係の人から聞いた覚えがある。それを裏づけるみたいに硬くて、力強い。

 ……ドキドキしてめちゃくちゃ落ち着かない! ダンスの練習どころじゃないんですが!


「こちらへ」


 アーロイス様に手を引かれて、テーブルから距離を置く。

 部屋の中央に移動すれば、多少動き回っても障害物にぶつかる心配はなさそうだった。

 最初のポーズすら思い出せない私は、アーロイス様に促されるままに腕を上げて、ポーズを取った。

 腰を抱くように手を回されて、心臓がさらにうるさい音を立てる。

 心なしか、ダンスの先生と踊ったときよりも身体が近いというか、むしろ密着してる気がするんだけど……。


「貴女はステップを踏むことにだけ集中してくれればいい」

「は、はい……」


 むしろ、それしかできないからね!

 難しい曲だとくるくる回ったりするのもあるけど、私にはまだ夢のまた夢。

 いつもはある手拍子がない今、きちんとステップが踏めるかどうかすら心配なのに。

 せめてアーロイス様の足を踏まないようにだけは気をつけないと、と思いながら視線を上げる。

 ダンス中に足元を見ていたら、自信がないのがバレバレで格好つかないからダメだって、最初に教わったことだ。

 できないことばっかりなんだから、せめてできそうなことはしっかり守らないと。


 キュッ、と少しだけ強く手を握られたのが、合図になった。

 アーロイス様が足を踏み出した方向に、私も同時に足を出す。とても、自然に。

 しばらく無心にステップを踏んでいたけど、途中で、あれ? と気づく。

 ただのステップのはずが、きちんとダンスになっている。

 アーロイス様の足を踏むどころか、動きやすさに驚いてしまう。

 私は本当に基本のステップを繰り返すことしか考えてないのに、アーロイス様の視線の向きやちょっとした誘導で、次にどうやって動けばいいかがわかる。

 やり方なんて知らなかったのに、アーロイス様に促されるままにくるっと一回転した。

 なんだこれ、なんだこれすごい! 魔法みたい!


「踊れてます! アーロイス様、私踊れてます!」

「基本さえ覚えていれば、男側のリードでわりとどうにかなるものだ」


 子どもみたいにはしゃいだ声を上げる私に、アーロイス様は冷静に答えてくれる。

 ってことは、私も一応基本だけは覚えられてたってこと?

 初歩の初歩すぎるステップだけで、こんなふうに踊れるなんて。

 できないできないって思っていたときは苦痛だったのに、今は純粋に楽しい。


 音楽がスーッとフェードアウトしていくみたいに、ゆっくりと動きが止まる。

 最初から最後まで、アーロイス様は完璧に私を誘導してくれた。

 アーロイス様の手のひらの上で転がされた感があるのに、全然不快じゃない。むしろ気持ちいいくらいで、もっと踊っていたかった。

 はしゃいだせいもあるだろうけど、軽く踊っただけで私の息は上がっていた。アーロイス様は全然余裕そうなのに。

 本番のパーティーでダンスが一回で済むとは限らない。体力もつけないといけなさそうだ。


「ありがとうございます! アーロイス様はダンスがとってもお上手なんですね!」


 満面の笑みでお礼を言うと、アーロイス様はちょっと困ったような顔をした。

 自然に半歩下がって、手が離される。空いた距離が少し寂しい。


「指南役のほうがうまいと思うが。貴女に覚えさせるためにわざとリードしなかったのだろう」

「なるほど……じゃあアーロイス様と踊るときはリードしてもらえるから安心ですね!」

「……貴女には申し訳ないことだが、俺以外と踊る機会はいくらでもある。ダンスは賓客のもてなしの一環でもある」

「ですよねー。人の力にばっかり頼ってちゃダメってことですね……」


 言われてみれば当然のことだ。私はショックでうなだれる。

 せっかく踊れたと思ったんだけどな。私の実力じゃなくて、全部アーロイス様のおかげだけど。


「夜は長い。しばらくの間、練習に付き合おう」

「でも、アーロイス様の睡眠時間が減っちゃいます」

「俺はもともと短時間の睡眠でも動ける人間だ。……今は貴女に合わせているが、忙しい時は先に寝ていてもらうことになるだろう」


 そっか、社会人に残業があるみたいに、皇帝陛下だって夜遅くまで仕事しないといけない日はあるよね。

 帝国のトップなんだから忙しいのはしょうがないんだろうけど、心配だなぁ。


「そうなんですね……。私は気にしませんが、ちゃんと身体を休めてくださいね?」

「ああ。それに、机仕事ばかりでは身体が凝り固まるからな。適度な運動はむしろ俺のためにもなる」


 うーん、それが本当なのか、私に気に病ませないための方便なのかがわからない。

 アーロイス様は優しい人だ。氷陛下なんて噂がどこから出てきたのか不思議なくらいに。

 一見冷たそうなアイスブルーの瞳も、今は穏やかに細められている。


「本当に、いいんですか? アーロイス様はちょっと私に甘すぎる気がします」

「かまわない。妃のためということは俺のためということでもある」


 まあ、たしかに。妃のダンスが下手だったら、皇帝陛下の沽券にもかかわるだろう。

 ダンスで賓客をもてなすこともあるって言ってたし。

 私に上手になってもらわないとアーロイス様も困るから、手伝ってくれる。

 そういうことなら、納得はできる。


「じゃあ、もう一曲お願いできますか? アーロイス様」


 ニコッと笑いながら、私は手を差し出した。さっきの逆だ。

 基本的に女性から誘っちゃダメだけど、二人っきりだし、私が教えてもらう側だし、今くらいはいいよね。

 そう思ったのに、アーロイス様は私の手を見て、硬直した。


「……アーロイス様?」


 失敗、したかな?

 やっぱりはしたなかった? 礼儀に欠けていたかな。

 二人っきりのときは敬語が崩れても気にしない人だから、許してくれると思ったんだけどな。


「いや……」


 アーロイス様は、呆然としたようにつぶやいて、片手で口元を覆った。

 視線をそらす彼の頬は、私の見間違いじゃなければ、赤みを帯びている。


「今の俺は、エヴェリーナと踊れるのだな、と思うと」


 その声は少し震えていた。

 私の名前を、まるで大事な大事な宝物のように呼ぶ。

 何が、アーロイス様の琴線に触れたのかはわからないけど。


「少し……感動した」


 しあわせを、噛みしめるように。

 ゆっくりと囁かれた声が、私の鼓膜を揺らした。







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