05 氷陛下、感謝される
今の自分は、このひとときのために生きているのかもしれない。
そんな愚かしいことを半ば本気で考えてしまうのが、エヴェリーナとのお茶の時間だ。
「……おいしい」
エヴェリーナに淹れてもらった紅茶に口をつけ、小さくつぶやく。
最近、ようやく素直に感想を言えるようになった。
たったそれだけのことすら羞恥が先行していたのだから、なんとも情けない話だ。
「ありがとうございます! アーロイス様の好みも教えてくださいね。もっとおいしく淹れたいです」
本当にうれしそうに破顔したのち、ん? とエヴェリーナは難しい顔になった。
「淹れとうございます……? 淹れたく存じ上げます……?」と漏れ聞こえる内容からして、言葉遣いに難儀しているようだ。
セレーノとシュトルムに言葉の壁はないというのに、敬語すら碌に扱えない。とオルトルートは嘆いていたが。
正直、エヴェリーナの親しみやすい言葉遣いが、俺にはかわいらしく思える。
「二人の時は気にしなくていい」
「よかった……本当に苦手なんです。変ですよね、王族なのに」
「貴女の立場がそれだけ複雑なものだったというだけだ」
エヴェリーナが育った環境を、すべて知っているわけではない。
俺が知っているのは過去のエヴェリーナと、人づてに聞いた情報だけだ。
それだけでも、察して余りあるほどにエヴェリーナは特殊な環境にその身を置いていた。
生まれた時から神殿に隔離され、俗世と遮断されて育った。そのため家族と顔を合わせる機会も少なく、王女としての教育も受けられなかった。
寂しくないか、と問いかけたのは、以前の俺。今思えばあまりにも無神経な問いだった。
今は、アルがいるから。そう笑った彼女は、花の精のように可憐で儚げで。
守りたい、と幼い俺が思うには、充分な理由だった。
「そうですね、ちょっと複雑でした。そんな複雑な立場の私を妃に迎えたアーロイス様は、変わっています」
「……我が国にも利はある」
大変、不本意なことに。
そこから救い出したいと思っていた彼女の立場は、神殿を出ても彼女につきまとう。
オルトルートの言うことにも一理あるのだ。最初から、完全な自由など望むべくもない。
俺が、氷陛下であることを辞められないのと同じで。
「まあたしかに、うまく使えば大きな力になりますね。セレーノは、失敗しちゃいましたけど」
カチャリ、とエヴェリーナの手の中で茶器が小さな音を立てる。
顔を上げれば、エヴェリーナは困ったように微笑んでいる。一言では表せない感情を、押し留めるように。
失言だった、と内心頭を掻きむしりたくなった。
セレーノで起きた反乱は、王への不満が溜まりに溜まった結果だ。
不満の原因は……神の権威を笠に着て、民をかえりみず、国務をないがしろにしていたから。
生ける神話を我が子に持つには、セレーノの王は器が小さかったのだろう。
「アーロイス様は、神子姫の血が欲しいですか?」
「……いや」
昔も今も、エヴェリーナを神子として見たことは一度もない。
神子特有のその薄紅色の髪も、美しいとは思えど崇める気持ちにはならない。
普通の少女と同じように笑う姿も、迷い子のように泣く姿も、俺は知っている。
俺が救いたかったのは、ただのエヴェリーナ。妃として隣に立っていてほしいのも……いずれ、俺の子を産んでほしいのも。
「……傍に、いてくれれば、それで」
そこまで言ってから、俺はハッと我に返った。
口が滑って、ずいぶんと恥ずかしいことを言った気がする。
エヴェリーナは面食らったように何度か目を瞬かせた。
「アーロイス様は……」
髪よりも少し鮮やかな唇を、じっと見守ることしかできない。
彼女と一緒にいて、逃げ出したくなるのはこれが初めてのことではなかった。
もともと人と話すのは得意ではないが、彼女の反応ひとつひとつに、心が揺れる。
本当に、子どもに逆戻りしたような心許なさに襲われる。
「まさか、不能とかでは……」
「ち、違う!!」
「あ、よかったです。皇帝陛下が種無しじゃさすがに困っちゃいますもんね」
あまりにも明け透けな物言いに、思わず言葉を失くす。
言っていることは正しいが、無垢な乙女の口から放たれたとは信じがたい単語だ。
驚愕が去ると、残るのは懸念だ。
「……何か、言われたか?」
周りに口さがない者でもいただろうか、と。
エヴェリーナの周囲には充分気を配っているつもりだが、人の心など見えないものだから、どれだけ注意したところで足りるということはない。
「いえ、なーんにも。おかげさまでプレッシャーもなくのんびりさせてもらってます。あ、勉強的な意味では全然のんびりできませんけど」
「そちらはがんばってくれ」
「はい、がんばります」
にこっとかわいらしく笑うエヴェリーナに、陰りは見られない。
もちろん、隠している可能性もあるので油断はできないが、周りから閨のことに関して圧力があったわけではなさそうだ。
……もしや、俺の言葉が足りずに不安にさせてしまったのだろうか。
エヴェリーナの現状を客観的に見れば、皇帝に手を出されない妃。そのことに初めて思い至った。
彼女の境遇が特殊だったため、細心の注意を払って接してきたつもりだったが、初歩的な部分でつまずいていたのかもしれない。
「……俺が何もしないのは、まだ、貴女の心の整理がついていないだろうと思うからだ」
「心の整理?」
「必要だろう?」
自国で反乱が起き、エヴェリーナの意思など関係なく嫁がされた。
国が落ち着けば、おそらくセレーノの王は処刑される。順当に行けば王太子を傀儡として反乱軍側主体の新たな政権が成立し、セレーノは実質帝国の属国扱いとなる。
ほとんど交流がなかったとはいえ、実の父と兄だ。
何も、思うところがないものだろうか。
自分の境遇を嘆くことも、父や兄を憐れむことも、許される立場にいるというのに。
「どう、でしょうか」
エヴェリーナは微笑んだまま小首を傾げた。
俺の言葉の意味がわからないとでも言うように。
「貴女は……」
「はい?」
エヴェリーナは笑う。
やわらかく、親しみやすい愛嬌を浮かべて。
不思議、だった。
どうして笑えるのだろうかと。
どうして少しも、何ひとつとして、負の感情を見せないのだろうかと。
「俺を、恨んではいないのか」
心の奥底に沈めていた恐れが、ふいにこぼれ落ちる。
助けて、と。ここから出して、と。かつてエヴェリーナは泣いた。
必ず助け出す、と約束したのはもう8年も前のことだ。
他国の事情に干渉するには、俺は幼く、力がなさすぎた。
こんなに時間を必要とし、こんな救い出し方しかできなかった俺を、エヴェリーナは恨みはしないだろうかと。
皇妃に迎えると決めたその時から、幾度となく浮かんだ、不安。
「恨むようなことなんて、何もありません」
微笑みを崩すことなく、エヴェリーナは答えた。
そこに嘘は見当たらない。いっそ清々しいほどきっぱりとした物言い。
それゆえに、違和感もつきまとう。
「だが……」
「アーロイス様」
めずらしく、エヴェリーナは俺の言葉をさえぎった。
そうして彼女は、にっこりと、笑みを深めて。
「私はアーロイス様に、感謝しているんですよ」
偽りのない、心の底からの言葉に聞こえた。
彼女の笑顔とその言葉に、俺は己の浅ましさに気づいてしまった。
ありがとう、とエヴェリーナは何度も口にする。
昔も今も、彼女はどんなに些細なことでも感謝の気持ちを忘れない。感謝の言葉をためらわない。
だから……俺は。
記憶の有無を尋ねられないのは、忘れられていたら悲しいから、だけではない。
恨まれていないかと怯えながらも、それでも俺はどこかで期待していた。
まるで、捕まえた獲物を飼い主に差し出して、褒めてくれと瞳を輝かせる犬のように。
俺は、彼女を救いたいと願いながら、結局は彼女に感謝されたかっただけなのかもしれない。