04 氷陛下、仕事をする
「……エヴェリーナがまぶしい」
はぁ、と先ほどから何度目になるかわからないため息を吐く。
エヴェリーナが嫁いできて、はや半月。
いまだに彼女をまっすぐ見つめることができずにいた。
「はいはい。初恋の姫君を無事に迎えられて幸福の絶頂なんでしょうが、口だけでなく手も動かしてください。他のすべての休息をなくしてでもお妃様との時間を作ると決めたのは陛下でしょう」
横から遠慮なく口を出してきたのは、側近のオルトルートだ。
しかも口だけではなく、追加の書類まで寄越してきた。
机の上に積み上げられた書類の山に、今度は違う意味のため息をつく。
ほとんどがここに上がってくる前に充分論議を交わし研磨されてきた案件とはいえ、内容を理解もせずに判を押すわけにもいかない。
加えて今は婚姻に際しての事後処理があり、更にはエヴェリーナの祖国に関してもまだすべてが片付いたとは言いがたかった。先ほども王族の処遇について、頭を悩ませていたところだ。
国を、周辺諸国をまとめ上げる皇帝に、休む暇など与えられはしない。
どうしても暇が欲しいのなら、そのほかの時間に多少の無理をするしかないのだった。
「嫁いできたばかりの彼女を放っておけるわけがない」
「大したご執心ぶりで。お妃様には今ひとつ伝わっていないように思えますが」
「それは……追々、だな……」
「何事も最初が肝心という言葉は当然知っておいでかと思いますが。ねえ、初恋の姫君に忘れられていたおかわいそうな皇帝陛下」
グサリ、と言葉の刃が胸に突き刺さる。
子どもの頃から教育係として傍にいたオルトルート。
俺が皇太子になっても、皇帝となってからも、彼は厳しい言動を変えようとはしなかった。
主の間違いをはっきりと諌めることのできる臣下の得難さは理解している。
が、こういうときは、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないかと思う。
「まだ、忘れられているとは限らない」
「それならさっさとお尋ねになればよろしいのでは? 何をためらっていらっしゃるのやら」
「……あちらとの約定がある」
祖国で神の子として祭り上げられたエヴェリーナ。
そこにはもちろん本人の意思などなく、彼女はこの世に生を受けた瞬間から特別な存在とされた。
人でありながら人として見られず、女でありながら女として生きられず。
そんな彼女を貰い受ける際、あちら側から提示された条件のひとつが『過去を探らないこと』だ。
セレーノの内情を知られたくないという思惑以上に、そこには彼女への配慮を感じた。
家族のぬくもりを知らず、神殿から一歩も出ることなく育ったエヴェリーナ。きっと、思い出したくもないような過去もあるだろう。
「陛下がお聞きになりたいのは、国も神殿も神子という立場も関係のない、ごくごく個人的なことでしょう」
「それは、そうだが」
「たとえるなら幼い頃の好物を聞くようなものです。取り決めに反するものではないと思われますが」
「だ、だが……」
「だが、なんですか?」
オルトルートは追及の手をゆるめる気はないようだ。
話しながらも執務は続けていたのだが、動揺すればするだけ処理速度が落ちていく。
何もこんなときに話を振らなくともと思うものの、最近は空いた時間をすべてエヴェリーナと過ごしているため、執務中にしか機会がなかったのだろう。
国の重臣が、皇帝と妃の仲に心を砕くのは当然と言えば当然のこと。
色事で国を傾けた君主が歴史の中でどれだけいたか、俺も知らないわけじゃない。
書類の文字を追いかけながら、気持ちを落ち着けようとひとつ息をつく。
「もし……本当に忘れられていたらと思うと……」
観念して白状した本音は、なんとも情けない響きを伴った。
恐怖や怯えの色がない、ただ俺の心を深く覗き込むような新緑の瞳を思い描く。
春、土の下から顔を出した二葉のような、生命の強さや美しさを感じさせられる双眸。
彼女に見つめられると、とたんに幼い頃の臆病な自分に逆戻りしてしまう。自分はこんなにも言葉を持たなかったのかと絶望したくなるほどだ。
そんなアルが好きよ、と言ってくれたエヴェリーナは、今はアーロイス様と俺を呼ぶ。
それがすでに、答えのようにも思えて。……白黒つけないほうが幸せかもしれないと、怖気づいている。
「そんなことだろうとは思いました。まったく、大陸中で恐れられている氷陛下ともあろうお方が情けない」
「……俺がそんな器でないことはわかっているだろう」
受け入れがたい呼称に、俺は思いきり眉をひそめる。
氷陛下、と民が呼ぶ。臣下が呼ぶ。
まるで氷のように冷たいお方だと。徒人とは違うのだと。畏怖を、畏敬を込めて。
氷のようだと恐れられながら、どんな熱にも溶かされない氷であることを望まれている。
……なんとも厄介なものだ。
「そうですねぇ、あなたは少々お優しすぎる。けれど今、優しいだけの皇帝では国は立ち行きません。どうか、皇妃様を想うがあまり、その氷を溶かしてしまわれぬよう」
耳にこびりつくほど聞き飽きた小言に、眉間のしわが深くなる。
皇妃を大事にするのはいい。けれどそのせいで『氷陛下』を演じられなくならないよう、気をつけろということだ。
国の大事の前には個の意思など簡単に歪められる。それが仕方のないことなのだと、俺も、理解している。
先代皇帝――俺の父は、気の弱い人だった。そういう意味では俺は正しく彼の血を引いているのだろう。
皇帝の素質に欠けていたがゆえに、皇帝の地位に固執し、実の息子と弟を遠ざけた。おかげで俺は幼少時代、碌に学ぶこともできず、一時は命さえ危ぶまれ国から逃がされた。
そして父は少しずつ落ちていき、後年は酒に溺れ、女に溺れた。このままでは国が傾くと……俺は、父を討った。
叔父上の後押しを受けて19で国を継いでから、まだ4年。この国は今、揺らいだ土台を支える者が必要だ。
「まあ、そうは申しましても、お妃様と良好な関係を築かれているのは結構なことです。早くお世継ぎのお顔を見せていただきたいものですね」
「…………」
「……? って、え、あんたまさか」
さすがに予想外だったのか、オルトルートの口調が乱れる。
初夜以降、同じベッドでは寝ているものの、毎夜エヴェリーナが作ってくれる境界線のおかげで夫婦の営みどころではない。
彼女が落ち着くまでは、と考えているが、それがいつになるのかは自分でもわからなかった。
「いや、こういうのは、その、時機があるだろうと」
「そんなこと言っていいのは一般庶民の場合ですからね。天下の皇帝陛下が何をおっしゃってるんです」
苦々しげにそう言ったあと、オルトルートはハッと何かに思い至った顔をした。
「まさか、勃たないとか……」
「恐ろしい想像をするな! 俺は元気だ!!」
とんでもない侮辱に思わず声を荒らげる。
執務机を叩いた拍子に、滑り落ちた数枚の書類がパサリと音を立て、我に返った。
他に人がいないとはいえ、執務中になんという話をしているんだろうか。
オルトルートも正気に戻ったらしく、ゴホンと軽く咳払いした。
「何か、理由がお有りで?」
「……漠然としたものでしかないが。何か、引っかかるんだ。今はまだ、その時ではないと、そんな気がしてならない」
書類に目を戻しながら、話を続ける。
我ながら言い訳じみているとは思うが、本心からの言葉だった。
「言い訳は見苦しい……と言いたいところですが、陛下の勘はあまり馬鹿にはできませんからね。陛下がそうおっしゃるならそうなのかもしれません」
渋々といった様子だが、オルトルートなりに俺のことを認めてはくれているんだろう。
幼い頃から微妙な立場にあった俺は、生きていくために運を味方につけなければならなかった。
勘とは、その多くは経験から来るものだ。
一言で説明できるようなことではないが、今のエヴェリーナは、どこか違和感を覚えずにはいられない。
「確かに、お妃様には少々不可解な点もございます。こう……明るすぎる、と申しますか」
オルトルートの言いたいこともわかる。
エヴェリーナは……いつも、微笑んでいる。
セレーノで起きた反乱。シュトルム帝国は密かに反乱軍に加担した。
通常、他の国の乱に手を貸すことなど許されることではない。それがまかり通ったのは、年々荒れ果てていく隣国を、国の終わりを、誰もが肌で感じていたから。
幾度となく遣わせた使者への対応のひどさ。信書への適当な返事。セレーノ王の帝国を軽んじた態度に、重鎮たちも怒り心頭だっだ。
もちろん表立って何かをすることはできなかったので、物流などで融通を利かせたという程度だ。それでも、シュトルムの助けなしに反乱が成功することはなかっただろう。
帝国の助けで反乱軍の勝利となり、エヴェリーナはまるで戦利品のように扱われた。
エヴェリーナが知っているかはわからないが、協力する代わりに彼女の身柄を求めたのはこちらが先だ。
「恨まれる覚悟もしていたんだがな」
「それこそ恐ろしい想像はおやめください。皇妃が皇帝を恨むなど、政にも影響が出ましょう」
「だが、お前が言いたいのもそういうことだろう」
「恨み、とまでは申しませんけれどね。そう簡単に割りきれるものなのか、不思議ではあります」
不思議。そう、不思議だ。
エヴェリーナが、生まれたときから家族と離れて暮らしていたことは知っている。ほとんど交流を持たなかったことも。
先王を、王妃を、王子や姫たちを肉親として見ることができなくとも不思議ではない。
けれど……それでも、何も思わないものだろうか。
国に関して、王族の処遇に関して……己が置かれている状況に関して。
ほんの少しも、憂うことも嘆くことも、不満を訴えることもなく、笑っていられるものなのだろうか。
「とはいえ、前向きでいてくださることに文句などあろうはずがありません。神子姫様にはぜひとも陛下のお隣に咲く枯れない花であっていただかなくては」
「お前はそればかりだ」
にこやかに言い放つオルトルートに、出そうになったため息を噛み殺す。
ぐりぐりと眉間を押さえてから、また書類に目を落とす。
判を持つ手が重みでしびれを訴えてきているが、まだ休むわけにはいかない。
「陛下はお厭いになられるかもしれませんが、政治的な利用価値はいくらでもございますよ。神に愛されし一輪の乙女。枯れない花の化身。教典より札束をめくるほうがお好きな方々でも、生ける神話を完全に無視することは難しいでしょう」
結局は、それだ。
顔を上げ、オルトルートをきつく睨み据えても、彼はどこ吹く風。
わかっている。皇帝の身で、自由に恋だ愛だを囁けないことは。
エヴェリーナとの婚姻も、彼女が神子姫という立場でなければ許されなかった。
けれど、俺はただ、約束を果たしたかっただけだった。
彼女の立場も、自分の立場も関係なく。
ただのエヴェリーナと、ただのアルが交わした約を。
「……彼女はもう、神子ではない」
「残念ながら、それは陛下の決めるところではございません」
「……それでは、皇妃に迎えた意味がない」
約束をした。誓いを、立てた。
まだ、自分にできることとできないことの区別もつかなかった、幼い頃。
彼女は忘れているかもしれないけれど、俺の中では、何より大事な。
指針で、道標だった。
その約束がなければ、今こうして皇帝として立つことができていたかすらわからない。
「鳥籠も、広ければ庭とそう変わりはないでしょう。元より、神子でなくとも王女である以上、天空は望めませんよ」
「鍵の所有者が変わるだけのことか。皮肉だな」
「それだけかどうかは、それこそお妃様ご自身にご確認ください」
話は振り出しに戻るらしい。
確かに、一人で悶々としているくらいなら、潔く聞いてしまったほうがいいだろう。
とはいえ、自分にそれができるかというと……なかなかに難しい。
「あとは、皇妃としてのお役目を果たしてくださることを願うばかりですが……」
現在のところ、まだ皇妃としての執務にはついてもらっていない。
まずは必要な教養を身に着けてもらわなくてはならない。
このまま茶会や夜会に参加しても、何も知らない彼女では恥をかいてしまう可能性がある。
婚姻を結んだ際も、本来であれば国内外の有力者を集めて盛大にパーティーを開くべきところを、最小限の宴にとどめた。
いまだ落ち着かない隣国の情勢と、神子姫という特異な立場ゆえに、疑問や不満の声を上げる者はいなかった。
けれど、そんな特例が許されるのは今だけのこと。
いずれは皇妃にも有力者の奥方や娘を招いた茶会を主催してもらい、国の女性をまとめてもらわなければいけない。
そのために覚えてもらわなければならないことは、それこそ山のようにある。
皇妃として、未来の国母として、皆に認めてもらうために。
……たとえそれが、彼女の望んだことではなかったとしても。
「正直、皇妃としては落第点です。呆れを通り越して哀れになるほどに物を知らない。特に、地理と歴史、時事問題は壊滅的ですね。算術はコツさえ掴めばスラスラと解かれるので、頭の回転は悪くないようなのですが。本当に、どんな環境に身を置いていたのか……」
独り言のように、小さく最後に付け足された言葉に、俺は唇を噛みしめる。
もっと、もっと早く、彼女を助け出すことはできなかったのか。
神殿の奥深くで俗世から隔絶され、誰とも深く関わることもできずに、一人で国のため祈りを捧げる日々。
いったい、どれだけの孤独だっただろう。オルトルートや叔父上を含め、味方も多くいた俺の想像ではきっと生易しい。
「まあ、学ぼうという意欲はあるので、どうにかなるでしょう。……どうにか致しますよ、アーロイス皇帝陛下の願いとあらば」
頼もしい側近に、俺は自然と笑みをこぼす。
昔と比べ、不自由になった部分も多いが、できることもずいぶんと増えた。
一人では無理でも、俺には力を貸してくれる者がいる。逃げることしかできなかった頃とは違う。
今の俺なら、力になれるだろうか。
少しは、エヴェリーナに頼ってもらえる男に、なれただろうか。
ポン、と最後の書類に判を押す。
これで、今日も彼女とのお茶の時間を守ることができた。