夕暮れに染まる
もみじ 光 探し物をテーマに書いた三題噺小説です。玄斗楽の誕生日祝い。
誕生日おめでとう。まごころを君に。
如何しても、如何しても、忘れるなんて悲しい事、できません。
この想いに色を与えるとしたら、あの、山辺にかかる陽のような――――。
○◆○◆○◆○◆
私は、昔から本好きの大人しい娘でした。学校から本をどっさりと借りてきては、休日には朝から晩まで文字を見つめて過ごしました。家族には女の子らしい、けれども内気すぎる困った子だと思われていたらしく、そんな私を見かねてよく買い物やら、演劇やらに連れまわされました。
ですが、私はちっとも趣味を改めず、外に出ても本をねだり、劇を観ても結局は戯曲を読み直し、とうとう家族にも「そういう子」だと呆れられ何も言われなくなりました。無類の本好きであるという以外は至って真面目で、親の言うことにはよく従う聞き分けの良い子だったのが幸いしたのだと思います。
そんな私ですが、外に出るというのが嫌というわけではありません。私の家族は決まって秋口、彼岸の頃になると母方の祖母の家に帰省します。秋に連休があれば数日泊まって田舎で何をするともなくのんびりするのです。そうなると都会暮らしの私には奔放な田舎の自然というものが珍しく、また不思議と居心地よく本を置いて出かけることがありました。
空気が澄んでいるからでしょうか。あてもなく歩き回っているだけでも何か新しい発見が自分を待っているようで浮き立つような心持ちになりました。
それに、祖母の家近くの山――とはいえ大そうなものではないのです――には変わった特徴があったのです。まだまだ暑い日も続くこの時期に既に真っ赤にもみじが色づいているのです。夕方になると山が燃えるようで、地元の人々は恐ろしがって山に入るのを嫌がるほどです。
私はというと、幼さゆえか、都会の友達よりも一足先に紅葉を目にすることができて誇らしいような嬉しさがありました。それに、この山のもみじが世界で一番美しいのだとまるきり信じ込んでおりましたので、自分よりもずっと年かさのある祖母や近所のおじさんが山を恐れるのが変な感じがしました。美しいものが持つ恐ろしさなんて、ちっともわかりませんでした。今は、というと、祖母たちの気持ちもわからなくはないです。
中学生の頃でした。私は祖母の家に来ると、縁側で本を読んでいました。祖母は夕食の準備で何か煮立てておりましたし、両親は弟とトランプをしておりました。私はトランプの誘いを断って、一人散歩に出かけました。この頃から散歩は一人と自分の中で決めていました。こっそり山のほうまで出歩くためです。
私は紅の道しるべをたどるように山へ、山へと歩いていきました。つぶさに足元を見ても、まだらの葉などはなく端のほうまで真っ赤です。山の神様が一枚ずつ夕日の赤で染め上げているのではないかと元来空想好きな私はそぞろに考えをめぐらせました。
子供というものは総じて天邪鬼です。はっきりとは言わないけれど皆がこの時期の山を避けているとわかっていた私は、好奇心で山へと足を踏み入れました。小さいときは夏に虫取りにだって来たことがあります。勝手知ったる紅葉の山。人が踏みならしてできた道を頼りにどんどん登っていきました。落ち葉が鳴る音が耳に楽しく、頭上を覆うように枝いっぱいのもみじが私を見下ろしていました。葉を透かして注ぐ光が柔らかく、立ち止まってしばしば心ゆくまで瞳に美しい風景を映しました。
てっぺんにたどり着くと額から汗がこぼれ、本来の季節を思い知らされました。もみじの頃にこんなに暑いととてもおかしな感じがします。さて、一息ついてあたりを見渡すと私ははっと気づかされました。山の向こうに日が落ちかけようとしています。田舎ではそろそろ夕飯時、家族に帰りが遅いと叱られてしまいます。心配をかけるのもよくありません。
急いで山を下り始めました。今度は落ち葉がうっとうしくなります。慌てて踏みつけて滑ってしまうと危険です。ですが、運動などからきしな私のことです、いけないいけないと気を付けていても半分ほど降りたところでころりと前のめりに転んでしまいました。舗装などてんでされていない山道、運が悪いことに、道から外れて、斜面へと真っ逆さまに落ちていきました。
がさがさと大きな音を立てて右手から地面に衝突します。あまり高さがないのと、やはり落ち葉のおかげであちこち擦りむいた程度で立ち上がることができました。
ところが、日は完全に落ちて、このまま先へ進んでいくのは不安になりました。変わったところがあろうとなかろうと、ここはちょっとした山なのです。道に迷えば、出ることは能わず、暗い木立の中で独りぼっちになってしまいます。急に汗が冷えていくのを感じました。思わず二の腕のあたりを抱きしめながら、それでも、じっとしているのは我慢ならず、歩き出しました。
私が迷うわけがないのだ。何となくでも方向が分かれば簡単にあぜ道まで出てしまえる。こういうときは根拠がなくっても自分の勘というものしか当てになるものがありません。自分の方向感覚とやらが勘であると気づいたのはどれほど歩いてからでしょう。途中からは半ばやけくそでした。
道に迷うという経験のない人はいないでしょうけれど、山の中で迷うということは本当に心細いです。行っても行ってもおんなじ景色。街中ならば、他人がいるでしょう、同じ店が続くということもないでしょう。私は、遭難者が方角を見失って同じ場所をずっと回り続けるという話を思い出しました。人は、山に入るとまっすぐ歩くことすら怪しいのです。
ですから、ほとんど暗闇の視界の中に光を見つけたときは体から力が抜けるほど安心しました。半べそをかいていたので、その光が何かは全くわかりませんでしたが、人家の灯りだろうと早合点して重い足をそちらへ急がせました。
どこまで不運は続くのでしょう。その光は人家ではなく落ち葉の間からさしていました。しかも、思っていたよりもずっと小さいものです。その光の前で私はへたり込んでしまいました。今思えば、体力と同様に気力も相当すり減らしていたのでしょう、とても疲れて一生動けないような気がしました。
近くの木にもたれて呆然と小さな光を眺めていると、少しだけ安心できました。いえ、何も考えずにいられるというだけで相変わらず体は、疲労そのものを背負わされているように重いのです。光が何か確かめたかったのですが、私にはどうにもできません。
風がひんやりと冷たく、急に眠たくなってきました。枝葉のこすれあう音がして、誘われるように瞼を閉じました。
これより後の記憶は子供の見た夢と思われても仕方のないかもしれません。
私は妙な音で目をさましました。枯れ葉が、近くの地面で鳴るのです。かさかさ……、かさかさ……。風は、ありませんでした。視線を上げると、あの、小さな光が動いて、こちらに近づいてきます。近づいてくるのは光だけではありません。
その光る何かを持った腕が、こぶしと手首を器用に使ってこちらに這ってくるのです。
震え上がりました。人の腕! 肩までしかないそれが自分に向かってくるなど、たとえ小心者でなくても平生のままではいられません。
無我夢中で私はそれから遠ざかろうとしました。走り出すことはできたけれど、三歩も歩けば足がもつれて倒れました。恐ろしくて、もう何にもわかりませんでした。とにかく足も手も精いっぱいに動かしているのに、腕はどんどん近づいてきます。
「行くな、行くな。なぜ逃げる」
男の声がしました。鬼気迫るといった感じで、大きな声ではないのに空気が震えるのを肌に感じます。声を聞いた途端、体が動かなくなりました。動かそうとしても関節が軋む感覚があるだけでちっとも動いてくれません。ぜんまいが切れた人形のように私はうつぶせに這いつくばってしまいました。
背中を氷のように冷たい腕が這ってきます。腕は顔の横に光るものを差し出してきました。
「かえで、すまなかった。さあ黄泉の国にいこう」
ゆらり、と見えているものの何もかもが水面に映った月のように揺れて、歪みました。あ、と思うときにはすでに体の重さはなく、倒れている自分を見下ろしていました。「自分」というものが遠ざかっていくのを感じましたが、恐ろしさも、悲しみも、私の中にはありませんでした。私の中のすべてがすっぽり抜け落ちてしまったように感ぜられました。
あのまま空に浮かび上がっていれば私は死んでいたのでしょう。
もう少しで隣の木を越そうかという高さに来た時に、体の芯に響くような重い衝撃がありました。そうすると今度は渦の中に放り込まれたかのようにめちゃくちゃに目が回って、元のとおり地面に伏していました。服が湿るほどに汗をかいていました。ぜんそく患者のようにひゅうひゅうと喉笛を鳴らして、私はやっと生きた心地をとり戻すことができました。
起き上がると目の前に青年がいました。私には驚く元気もありません。和服に、結って垂らした黒髪が田舎でも見ないくらいに古風で、そのくせ田舎くささの感じられないさっぱりとしたところがあります。青年は持っていたものをこちらに放ってよこしました。それは、あの、腕。腕は中指と薬指のあいだから縦に裂かれていました。地面に落ちると砂のお城が崩れるかのように形を変えて、もみじとなって紛れてしまいました。
「やあやあ。娘よ、いずこから来たる」
青年は節をつけて言うのですぐには何のことか私にはわかりませんでした。言葉遣いまでやけに古風です。
「私は、ここの……ふもと近くの、家から来ました」
「何故ここに来たる」
「もみじを、見に」
「お前はかえでというのか」
私は頭を横に振りました。青年は何か、はっと気づいた様子で真剣な顔をしました。名前を言おうとしたところで、青年は手でそれを制しました。
「言うには及ばん。して、お前はこれがわかるか」
青年は袂から光る一枚の葉を取り出しました。よくよく見ると赤く「ワレ」と文字が書かれています。
「ワレ……? 我? という文字が光っているみたい、です」
青年は興味深そうに葉を眺めます。ときおりひくひくと眉が動きました。青年は袂に葉をしまいなおすとこちらに来て、真正面から目をのぞき込んできました。
「手伝え、この枉狐のたのみぞ」
腕をつかんで枉狐――名前なのでしょうか――は無理やり私を立たせました。私は立つこともできずに引きずられて、落ち葉を体中にくっつける羽目になりました。
枉狐は不思議そうに、冬を越すでもないのに枯葉のみのを作る私を見下ろして、合点がいったように手を放しました。もちろん私は何度目かわからない落下を経てもみじに顔をうずめる羽目になります。
「疲れたか、水を飲め。さあさあ」
竹の水筒が差し出されました。考えなしに私は受け取って、口にしました。普通ならば、分別が働いて受け取りはしないのだろうけれど、これは異常な場合だからしようがないと、飲み下してから心の中で言い訳しました。冷たい水を口に含み、のどを伝ってお腹におさまっていくと私は元気になりました。ちょっと歩くくらいならば平気そうです。
「さあ、往かん」
また枉狐が腕を引っ張りましたが、私は抵抗しました。危ないところを枉狐が助けてくれたのは何とはなくわかりますが、私はもう家に帰りたくて「手伝い」などしている暇はありませんでした。
「ごめんなさい、私、家に帰りたいんです」
「帰るには手伝え、もみじを探せ」
てんで話になりません。
「助けてやった、水も与えた。その恩義を返す良い折ではないか」
確かにそれはそうです。しかし疲労困憊、そんなことはしたくありません。
「あの、今は駄目です。疲れて。お願いです。明日必ずお手伝いしますから」
「明日は雨だ。これ以上散ったらもう駄目だ」
私は気が付きました。帰る道を知るにはどのみちこの方の先導が必要です。それに、あの腕といい、あの腕を退けた枉狐といい、私には太刀打ちできません。私には手伝うしかない。
「あの……じゃあ私は何をすればいいんですか」
枉狐はにっこり笑いました。口元からのぞく八重歯がとても少年的で幼く見え、わけもなく胸が騒ぎます。
「おお、嬉しや。なに、もみじを探すだけだ。ただのもみじにあらず、光るもみじをあと二つ」
二つ、とはもみじを二枚という以外ありえないでしょうが、この山の中で二枚という意味ならば、それは……。ああ、こんなことならば家でトランプをして温かなご飯にありついていたかった。額に手を当てて疑似的な眩暈を抑える試みをします。
「どうした? まだ水が要るか?」
「違います。そんな、この山中探してもみじを二枚だなんて、本気ですか」
「ああ。だが心配ない。お前は光って見えるのだろう? 枉狐はわからん。枉狐が探すよりずっと早いな。数十年かかっても一枚も見つけられなかったのだからな」
自信たっぷりに他力本願をされてもよくありません。それに、数十年だなんて。枉狐は成人にすら見えません。私よりは年上のようですが、まさか。まさか、妖怪だなんて、言い出したりなどするはずもないですし。
あの、腕。あれのようにいきなり襲って私を恐ろしいところに連れて行くなんてこと……。
「呵ハハ! 心得よ、当てはある。今夜中には見つかる。さもなくば已める」
顔に出てしまっていたのか、元気づけのような言葉をかけてはくれても私の不安は晴れません。その言葉の裏には何が一体潜むのでしょうか。怯えた私は枉狐の顔をよぎった影を見逃しませんでした。
「まずは祠に行こう。徒歩でも構わんか? 何、遠くはない」
私は何も気が付かないふりをして、彼についていきました。知らないふりをしていれば、何も怖いことが起こらないのではないかと信じて。
「最近の山は枉狐に冷たい。枉狐が我が儘だと怒る。酷い奴だ」
聞こえなかったふりをしてやり過ごすのがやっとです。頭の隅では嫌な考えが形になって、絶えず私を脅します。祖母をはじめみんなが山を恐れていた理由。それは腕とか枉狐がこの山にいるからだったのでしょうか。それならば、私は。もしかして、もみじを見つけなければ腹いせに食べられてしまうのかもしれません。見つけても、帰り道を教えてくれないかもしれません。一緒にいて、それで大丈夫なのでしょうか。
「なんだ、お前も冷たいのだな」
枉狐が立ち止まりました。不機嫌そうな目が私を捕えます。
「ひっ。あ、いや、そんな」
取り繕うこともできません。帰れないかもしれない。あの平凡な幸せがこんなに遠く感じるなんて、わからないものですね。死というものがわからないままにそれを予感しました。
「枉狐は嫌われているのか。憂き身よの」
意外、というか当たり前ですが枉狐は私を殺めようという気はなかったと見えてしょげ返っていました。
「人の理はわからん。なあ、頼まれついでに枉狐に人のことを教えよ。山にも言われる、枉狐はわからぬやつだと」
枉狐は髪留めを外し、微かに息を吐きました。ぬばたまの黒髪はうねって、その痩躯を見る見るうちに覆いました。そして、形を変え、巨大な四つ足の獣へとなりました。黒々とした、狼、いえ、特徴的なつり上がった眼は狐のもの。鼻先を私の顔へと近づけ、枉狐は琥珀のような瞳をきらめかせます。
「やはり、何も話さずに依頼するなど義に反する。見よ、これが枉狐よ」
先の曲がった尻尾を一振りしてお座りすると、きっと彼の意に反してでしょうが、『さあ食事にしよう』という風にしか見えず、私は卒倒してしまいました。
やわらかなぬくもり。目が覚めると私は巨大な妖狐の背中にいました。祠に向かっているのでしょうか、木々の間を枉狐は迷いなく進んでいきます。
「起きたか」
優しい声でした。恐るべき人外であるなどとは、感じられませんでした。
「すまなかった。人に姿を現すなど久しく、お前を驚ろかすなどとは」
何を言うべきなのか、よくわかりませんでした。夢を見ているのかもしれない。そんな気がしました。月明かりもない森で、疲れて眠った私が夢を見ているのです。
森が開け、崖の下の広まった場所へ着きました。ぽつねんと小さな石の祠が崖に背を預けてたたずんでいます。苔むした、古い古い祠は、人からすでに忘れ去られた存在なのでしょう、少し傾いでいるのがうつむくように見えました。
「昔はここに手を合わせに来る者もいたのだがな」
「貴方の祠?」
枉狐の耳がぴんと動きましたが、それきり何も言いませんでした。背に乗る私にはどんな顔をしているのかもわかりません。
「もみじを探せるか」
私は枉狐の尻尾をつたって下に降りました。見渡しましたが、どこにも光はありません。もみじの赤さえも暗闇でわからない。
「焦るな。もとより無いのやも知れぬ」
人の姿に戻って枉狐は祠のそばに腰かけました。私にもその隣を促します。嫌な気は、しませんでした。
「枉狐はここのしがない狐。それが死んだのも気が付かず、山に棲みつき数百年、山の妖狐になっていた。きまぐれに人を化かしたり迷わせたり。助けて美味いものをもらうこともあった」
「山がこの時期に紅葉するのも、貴方のせいなの?」
狐の話なんて今までこの村で聞いたことがありませんでした。神社なんてここにはないし、紅葉する山は怖がられるばかりで誰も寄り付いてはくれません。
「……ああ、そうだな。だが枉狐も困っておる。自分のことだが、好きにできないのだ。この時期は思い出すのだ」
はらりと目の前にもみじが落ちてきました。風もないのにどうやってここまで飛んできたのかと自然、面を上げます。崖の上に数本のもみじの木が見えました。そこに、星明りのように瞬く光がちらつきます。
「あれ。光ってる」
「上か」
枉狐が宙へと飛び跳ね、獣へと変じた影を地面に落とします。私は彼の尾ではね上げられ、辛うじてその背にしがみつきました。
「どれだ?」
光る葉はきりもみしながら風に流されていきます。
「もっと、ひ、左の!」
手を離すこともできないので口で言うしかありません。枉狐は風を切って体を翻し、もみじ目掛けて噛みつきます。すんでのところでもみじは狙いを外れました。
「惜しい」
「いや、今のは……」
急に夜風が激しくなってきました。もみじは逃げるように舞い落ちていきます。
やめて、やめて、やめて…………。
風に乗って女性の声が聞こえました。悲痛な、それでいて消え入りそうな声とともに突風が私たちを押し戻します。
「ぐう」
枉狐はそれでも足に力をこめ、風を無理やり突き抜けました。
「きゃあ!」
私は耐え切れず枉狐の背中から引きはがされます。心臓がぎゅうと縮み上がりました。やや遅れて、枉狐は私の落下に気が付きます。私にはあと地面までどれくらいあるのやも見えません。
「枉狐っ!」
背中を強打して息が止まります。痛みと息苦しさで動けない。私は、どうなってしまうのでしょう。家族は、私のことを見つけてくれるでしょうか。こんな山の中で死ぬなんて。
仰向けでいるのも辛く、力の入らない体で身じろぎすると、やわらかな温かい感触と毛皮の上にいることがわかりました。
「お前、お前よ。返事をしないか。枉狐のせいでこのような、嗚呼」
間一髪のところで、枉狐が地面との間に滑り込んだようでした。つかの間安心しましたが、咳き込んでしまって、安否すら伝えられません。
「! 息はあるのか。怪我は」
瞬きの内に枉狐は人の姿に戻り、私は横抱きにされていました。地面に降ろされると、子供にように狼狽えた青年が脈をとるなど体の具合をあちこち診るので少しくすぐったいくらいでした。痛みが引いて来ると、私は起き上がって笑ってしまいました。
「大事ないのか? 平気か?」
「うん、ちょっと打ち付けただけみたいです」
「そうか……」
枉狐はその場で座り込んで、長く息をつきました。暗い中ですが、こちらの気が引けてしまうほど顔色が悪く見えました。
「貴方こそ、平気ですか?」
「お前は……優しいのだろうな」
じっと地面を見つめてそうつぶやく妖狐には、ありありと苦難の影がありました。変な、感覚。
私にいきなり手伝いを要求してきたかと思うと、逆にこちらが戸惑うほどの気遣いを見せてくるなどと、真意が読めません。人でない魑魅魍魎ことなど本でしか読んだことがありませんが、人を食う、害して何も思わない、そんな存在かと思っていました。
突然、枉狐が居ずまいをただして、私に頭を下げました。
「すまなかった。怖い思いをさせたな。やはりもみじのことは枉狐に償うことのできぬ業であると思われる。お前はすぐに帰そうぞ」
勢いよく枉狐は顔をあげると、狐の姿になり、背に乗れと示します。
「え。えっと、家に帰してくれるんですか」
「そうだ」
悠然とうなずく枉狐。帰れると思ったとたん、居間の灯りが瞼の裏に浮かんで、体が動きました。枉狐が足場にしてくれている曲がった尻尾に手を掛けます。帰れる。帰れるんだ。でも、
本当に帰っていいの?
本当に?
「どうした? もうあの風は襲っては来るまい。あれはもみじを枉狐から遠ざけているだけだ。自身からももみじを遠ざけてしまっているようだが」
「……ええと私、家族から、変な子だって言われるんです。本が好きで、毎日本を図書館から借りてきて。読みだすと、止まらない。続きが気になってご飯に呼ばれても、夜遅くになってもやめられない。ねえ、枉狐。私は、中途半端はできないんです。それが枉狐の助けになるのなら、最後まで、もみじ、探しましょう?」
物語が好きだから、未知の存在に惹かれたという側面も、勿論あるんだと思います。だからと言って枉狐の助けになりたい、という気持ちも全く嘘ではありませんでした。純然として、私の胸の中に温かく、湧き起こった衝動でした。
固唾をのんで、枉狐の返事を待ちます。逡巡ののち、彼は人の姿となり、苦い顔をして私に相対しました。
「参った。お前は、何故そこまでする」
「貴方が優しいからでは、駄目ですか」
「枉狐は、優しいなどとは縁遠い」
怒りさえもはらんだ厳しい声音で、握った拳を震わせる枉狐。
「枉狐は戯れに人を殺したケモノだ。山が赤く色づくのを早めたのは枉狐のせいよ。それが真実。聞け、吾が業を」
ずっと昔のこと。まだ人が刀を携えていたころのこと。この山の集落に剣士を志す若者がいた。剣で名をあげるわけでも、義を世に知らしめるでもなく、若者は自己を鍛え上げるためだけに剣の腕を磨いていた。変わり者である。集落でもあまり好かれていなかった。それでも物騒な時代である。強ければ用心棒なりなんなり、食い扶持にありつく手立てはあった。集落を出て、人の多い街に出ればの話ではあるが。毎日毎日、雨が降ろうと雪が降ろうとその若者は山にこもって研鑽を積んだ。強いということが有り難いとでもいうのだろうか。鬼気迫って剣を振るっていた。
既に山を自分の居場所としていた枉狐にも、それは奇異に映った。からかってやろうと化かしてみる。ところが何も手ごたえがない。それどころか何の恐れも見せずに切りかかってくる。
『妖に切りかかるなど、恐れを知らぬやつよ。それとも剣を振るばかりで気が狂ったか?』
『お前が山の神なのか。待っていた、俺はあんたと戦うためにここにいたのさ』
若者は刀を握りなおして、さらに切りかかる。枉狐は一足飛びに枝の上へ飛び上がり、やすやすとそれを避ける。しかしなるほど、確かに剣戟の威力は凄まじく、枉狐の背後にあった木には大きな傷跡ができた。一昼夜続けて枉狐とその若武者の戦いは続いた。先に膝をついたのは、若者のほうだった。もとより現世の肉体は休まなければまともに動いていられない。あの世とこの世のあわいにいる枉狐には時間の流れすら緩やかである。
だが、枉狐も無傷ではなかった。のらりくらりとかわしていたはずが、気が付けば体のあちこちに小さな切り傷ができていた。地面に寝転んで休む若者に、ついちょっかいをかける。
『やるな。お前、名は何だ』
『“あ”……いや、妖に名前なんて言えるか。言えば最後、傀儡のようにされるんだろう』
『よく知っておる。だが、枉狐は人形など要らん。人の身でかように善戦したことを称える。報酬をやろう』
『負けてものがもらえるかっての。はあ、山の妖を切ったらここから出ようとしてたのがなあ。この程度じゃあ、自分を切ることもままならないな』
『己が身を切る?』
『自分の弱さを切るのさあ。そのために剣を持ってる』
克己。その言葉が彼の胸中を占めているらしかった。
『まことに殊勝な事よの。ますます褒美をとらせたい。枉狐の霊力を分けるのはどうだ? 肉の器を持つ身の力では、しょせん煩悩からは逃れられぬ』
ごろりと寝返りを打って、興味深そうに若者は枉狐を見る。だがすぐに砂塵が舞うほどのため息をついた。
『そうやって他力本願じゃあ強くなれねえよ。馬鹿にするない』
そう言うと若者は目を閉じた。ついさっきまで切りかかっていた枉狐の前で眠ろうというらしい。山の妖狐は思案顔でじっとそれを見つめる。不意に山の日が暮れようとしているのに気が付いた。
『それでは此のような趣向はどうだ? これから枉狐がお前の強さを試してやる。これから、お前が山の中で出会った者を切れればお前の勝ち、その者が逃げきれば負け。……これまで励んできた分を棒に振る必要もあるまい』
若者の規則正しい呼吸が止まり、ゆっくりと上体を起こす。
『なんだそりゃ』
『運試しのようなものだ。あと半刻が過ぎて誰にも会わなければそれまで。お前は今疲れているのだから、相手次第では返り討ちにあうやもな?』
『ふうん。これも縁かね。試してみるか』
開始場所は祠の前と取り決め、若者は人を探して山を下り始めた。誰そ彼時――出くわしても、それが誰と分かるのは切り捨てたあとだろう。若者に迷いはなかった。あらゆる弱さを切り捨てるならば、俗世の情もまた捨てるべきもの。親であろうと、隣人であろうと、そして最後には自分すらも一刀のもとに断たなければならない。その先を、臨んでみたかった。
「若者の名は、明仁。枉狐はあやつを騙した。誰が山にやってくるのか、それを知っていながら、あやつをけしかけた」
目を見開いて独白する枉狐は、過去の自分を叱責しているかのようでした。見ているこちらが辛く、身を切られるような気持ちになります。
枉狐は祠へ鋭い視線を向けました。若者へ試練を課したスタート地点。そして、恐らくは枉狐のための祠でしょう。苔むして、今は誰も訪れないとしても、かつては枉狐を慕ってお参りに来た人がいたはずです。枉狐は祠へと歩を進めると、手を振りあげました。
「何してるんですか!」
容赦なく祠は打ち据えられ、傾いでいたそれは地面に横たわりました。
「もう、よい。山にも迷惑をかけた。枉狐はここを出る。残暑の紅葉は今年で仕舞いだ」
枉狐は、最後に祠に通っていたという女性について語り始めました。
祠に花をそえ、毎日欠かすことがなく熱心にお祈りをする娘がいた。枉狐は気まぐれなうえに、人の勝手な願いに辟易して追い返すこともあった。願いをかなえても、人というのは恩を忘れる生き物のようで、次の日から来なくなった。いつの間にか手を合わせに来るものは減っていた。人の願いをかなえる義理もない。だが、毎日の些事を報告し、周りの者の安寧を願う娘の健気さは気に入っていた。だが、娘は成長するにつれ、あの若者のことについて話すことが多くなった。若者が山籠もりを始めると、怪我の無いように枉狐へお願いをした。しばらくすると枉狐はその若者の名を聞くだけで不快な気分になった。娘の神様は枉狐ではなく、いつからか明仁という青年になってしまった気がした。しかも、娘はいつも明仁から冷たい仕打ちを受けていた。差し入れの昼餉を無視され、声をかけても『構うな』と返されるだけ。一体どうしてそんな神様がいいのだろう。娘の失せ物を探し、獣たちに畑を荒らさぬように言い含めて回った自分は、何だったのか。枉狐は、結局いてもいなくとも同じ。
だから、娘にも同じ思いをさせてやりたくなったのかもしれない。
夕暮れどき、毎日の仕事の片がついて娘は山にその日もやってきた。明仁に、人を切れと課したあの夕暮れ。
枉狐が目論んでいたとおり、若者は娘を切った。当然の報いであると、笑い出したいくらいだった。慕っていた相手のためになれたのだから娘も喜ぼう。後悔しているのならば、それもよし。山に魂を引き留めて、迎え入れてやろう。
刀の血を拭う男に、声を掛けに行く。人ながら、大したものだ。本当に悟りでも開くかもしれないと感心する。
『よくやったな。約束通り、褒美を……』
言葉が続かなかったのは、突然、男が膝を折り、嗚咽を漏らし始めたからだった。
『俺は、なんで、泣いてるんだ? 畜生……畜生‼』
こいつは何をしている。日々を剣に捧げているのではなかったのか。あの娘のことをどうでもよく思うほどに。呆然と、血にまみれた娘と、涙を流す男を眺める。
『お前は褒美を受け取って、この山から出ていくのであろう。どうした、泣くことなど無い』
『いらない』
男は左手に刀を持ちかえると、着物の裾を噛みしめて右の腕を一息に切り落とした。額に大粒の汗、目は血走り、枉狐が口を差しはさむ余裕もなく、今度は自身の首に刃を掛けた。朦朧とし、力が入らず、切っ先はふらふらと彷徨する。ついには左手で刀を地面に固定し、倒れながら首をかき切った。娘と同じ朱に染まり、満足そうに男は笑う。娘の屍体に言葉を掛けようとするも、すでに声はだせない。赤く濡れた指でまだらに紅葉したもみじに字を書く。枉狐には、何と書いてあるのか読めなかった。それらに手を伸ばそうとした瞬間、山が揺れた。轟々と森全体が非難の声をあげる。戯れに生き物を殺したこと、山を穢したことを恨む木々の声なき声が枉狐を責めた。今まで枉狐は山はともにあった。山すら枉狐を受け入れてくれないのならば、枉狐には何もない。それなのに――――。
その日を境に二人の屍体が目に焼き付いて離れなかった。
そして、二人の屍体と、もみじは気が付くと消え、二人の霊魂は紅葉の頃だけ山をさまよった。お互いの姿が見えないまま。
「あやつらは霊として下級だ。現世にとどまるのがやっとでお互いの姿を認めることもできぬ。そのような目に合わせたのは枉狐だ」
「そんな……。でも、もみじを探しているのは二人のためなんでしょう? 娘さんに見せてあげるため、なんでしょう?」
私は枉狐が人を殺した経験がある、残忍な存在であるとは信じられなくて、そう尋ねました。二人が亡くなってから、ずっとそのことを忘れられなかった優しい枉狐が本当で、平気で非道い仕打ちをする枉狐は嘘なのではないかと縋りつきたくなりました。
「さあな」
「でも、確かに枉狐は私にやさしくしてくれました。娘さんに非道いことをしてしまったのも、それは貴方がその人を、」
「殺しておいて、好いていたとでもいうのか? そこまで恥知らずにはなれん。兎も角、わかっただろう。枉狐はお前に優しいなどと言われるに足らぬ」
一陣の風が吹き、賛同するように梢があちこちで揺れました。枉狐が、もみじに囲まれてそのまま消えてしまいそうに感じました。倒れて、少しひびの入った祠。それが今の枉狐そのもののような気がして、私は見ていられなくなりました。
「それでも、よく言えないけど、枉狐は、辛かったんでしょう? 毎年、もみじを探そうとしたんでしょう? それでいいんじゃないですか。確かに、枉狐がきっかけなのかもしれないけど、もみじを集めて二人に謝って、それからどうするか決めてもいいんじゃないですか?」
枉狐と祠の間に立ち、私は、つい熱くなってまくし立てていました。震える枉狐の白い手を取り、ぎゅっと力を込めて、どうか自棄にならないでほしいと訴えました。
「これも「縁」なのか?」
枉狐も手に力を込め、それから離しました。袂から、二枚の光るもみじを取り出します。二枚目には「キミヲ」と赤く、乱れた字で書いてありました。
「心得た。最後に、もみじがありそうな場所へ行こう。あの若者がよく鍛錬に使っていた、山の頂上へ」
歩いてきたときはあんなに大変だった頂上も、枉狐の背に乗っていくとすぐに着いてしまいました。ここからは、人家も見えます。光は、一目でそれと分かりました。私たちを待っていたかのように頂にひとひらのもみじがありました。それには、崩した漢字が書かれているようで私にも、文字の読めない枉狐にもわかりませんでした。
「やっとそろったな。おい、娘、“かえで”よ。ここにお前の手紙がある! 来てくれ」
枉狐が三枚を空に放ると、それらは中空で静止し、光を強めました。そして、立つのもやっとの突風が吹き荒れます。薄目をあけて見れば、うっすらと女性の影が風の中心にありました。もみじの光が青年の形を作り、女性の影を抱きしめます。
二人は、安らかに微笑んだように見えました。にわかに二人の姿は掻き消え、あたりはただ静寂に包まれました。
何もない、ただの山の中、私と枉狐は顔を見合わせました。
「有難う」
枉狐は涙を流していました。疲れているようだけど、表情は今までで一番晴れやかで私もほっとします。そうすると、急に気が抜けて、私は気を失うように眠っていました。
私は未明に、霧雨の中発見されました。村中総出で探され、怒られるやら、無事でよかったといわれるやら、都会の家に帰るまで混乱の最中にいることとなりました。枉狐が言っていたとおり、その日は雨で、もみじはどんどん落ちていきました。でも、あの中にはもう光っているものは一枚もないのです。その翌日、家族にどうしてもと頼んで、祠を直しに行きました。倒れたのを元に戻しただけですが、枉狐が人から頼りにされていた証なのですから、ちゃんとしておきたかったのです。
私は、高校を卒業した後、この田舎の祖父母の家に移り住みました。親からは相変わらずよくわからない子だと思われています。でも、いいんです。
あの美しい残暑の紅葉がなくとも、枉狐を忘れたくありませんでしたから。今なら、あのもみじの言葉もなんとなく、わかります。きっと────。
「我」「君を」「愛す」