蛹に針を
鞄の中にはアイスピックが入っています。
もちろん、あなたを刺すために。
あなたが蛹になったと聞いても、それほど大きな驚きはありませんでした。
むしろようやくか、という感想が浮かびましたし、それは私だけが抱くものでもありませんでした。
蛹になる人は確かに多くはありません。ですが、少なくはないということも事実です。
生徒会長、陸上部の彼女、絵画で賞を取った彼。
あのやけに話下手な校長先生ですらかつては蛹になって、そして羽化したというのですから、あなたが蛹になるというのは、一般に予想できたことです。面と向かって褒めればきっと調子に乗って面倒くさいでしょうから口には出しませんが、私だってあなたの能力を疑ったことはありません。
とはいえ、動揺がなかったというのは嘘です。
担任の先生が教壇で嬉しそうに、あなたが蛹になった、と告げたとき、私の瞼の裏に浮かんだのはここ数日、たった一人で食事した、あの昼休みのことでした。てっきり風邪か何かで、その日にも復帰してくると思っていたのです。でも、この件であなたを責めるつもりはありません。なんだかんだと別のグループが迎え入れてくれましたし、そもそも携帯を持っていない私が悪いのです。連絡手段さえあればきっとあなたは私に事前に知らせてくれただろうと、そう信じています。
あなたのいない教室は味気なく感じます。窓から注ぐ光は白昼夢のようにぼんやりとしていて、私はひとつの白い板のようになって、そこで呼吸をしていました。
もっぱらあなたが教室の話題でした。
羽化した人が、比類ないほどに優れた形質へと変わるというのは、知られた話です。
彼も、彼女も、美しく変貌して現れました。ただでさえ美しかったあなたが、どれほどの人物になって帰ってくるのか、みんな楽しみに、ときには鼻の下を伸ばして待っていたのです。
でも、私はみんなのうちに入っていません。
こうして、アイスピックを持って、あなたの家を訪れています。
家の中に入るのは、あなたにもわかる通り、とても簡単なことでした。
何度も何度も訪れた場所です。あなたのご両親はすでに私の顔と名前を覚えています。あなたが私の名前を家で出さない日はない、と二人は言います。これは少しだけ、嘘かなと思います。あなた、そんなに家で自分のことを喋るタイプじゃないでしょう。だってあの二人、あなたを相手にするより私を前にしたときの方が話しやすそうだもの。
蛹になっている最中の人に会うのは、すごく難しいことです。
蛹になっている間、人はどうとでもできてしまうからです。死への飛翔は有名な話ですけれど、どれだけ優れた人間であっても、この瞬間だけはひどく脆く、無防備なものです。
それでも、私はあなたの部屋に通されました。
あなたの両親は、私の来訪を喜んで迎え入れてくれました。お行儀がよくて、しっかり者の友達ですから。あなたのお目付け役にうってつけの。
蛹になったあなたを見ると、ひょっとして沈痛な気持ちになるかもしれないと思っていました。いつも溌剌としたあなたの笑顔や手足が、硬く、柔い殻の中に押し込められている姿は、冷酷めいているのではないかと、心配していました。
けれど、あなたの部屋の扉を開けた瞬間に私の口から漏れたのは、隠しきれない笑い声でした。釣られたように、あなたのお母さんも笑いました。蛹になってもふてぶてしい。その言葉でさらに笑います。思っても見ませんでした。身じろぎすらしないのに、こんなに存在感を持って部屋を支配する蛹があるだなんて。あなたのこういうところ、時々奇跡的だと思います。
あなたがどんな姿になるのか、楽しみで仕方がないと二人は言いました。私は頷きました。
変わった身体のサイズに合わせて新しく服を買わなくてはならないことに、溜息をついていました。私は首を横に振りました。何となくあなたはずっと、その液晶タブレットみたいにまっ平らなスタイルでいる気がするのです。変わるとしたら身長くらいでしょう。
私たちは、部屋の入り口でいくらか話をしていました。
さすがに、踏み込むまでは難しかったのです。それは二人が私を警戒していたからではなく、あなたという蛹を怖がっていたのだと思います。うっかり変なことをしてしまって、あなたに大事があったなら。そういう予想が、私とあなたの両親と、あなたの距離でした。
私はあなたと二人きりにならなければいけません。
そのためには、二人が邪魔でした。そして、部屋の中に入らなければいけませんでした。なのに口実はひとつだって思い浮かばないのです。どうしてただの友達が、蛹になったあなたと二人きりにしてほしいだなんてことを言えるでしょう。
結局、偶然に助けられました。
ちょうどそのとき、別の来客が現れたのです。インターホンが鳴って、二人は階下へと行きました。あなたの部屋には、私とあなたが二人だけ、焼け焦げたような夕の日に晒されて佇んでいます。
私は、部屋の中に入りました。
後ろ手に、ゆっくりと扉を閉じました。
部屋の中に鎮座する蛹のあなたは、やっぱり図々しいくらいにどっしりしていて、だから私は、あなたにやんわり触れたときのその頼りない感触に、思わず息を呑みました。
昆虫の外殻よりも、ずっとずっと儚い手触りでした。時期過ぎた硬葉のようなあなたの皮は、私の細い指先でも、埋めればたちまちに破けてしまいそうなくらい、柔いものでした。
私は、恐る恐るあなたの表皮を撫でました。
この薄皮の下、あなたがいるのです。
ずっと私の横で笑っていた、天真爛漫のあなたが、黄金のスープのように溶けて、この蛹の中、ぐるぐると回っているのです。
あなたの指が、耳が、舌が、眼球が、ぐるぐると、春の雷雨のように輝かしく、この蛹の中、変わりつつあるのです。
あなたの中には、あなたのすべてがありました。
だから、私はアイスピックを取り出したのです。
私があなたを初めて見た日のことを、あなたは覚えていないでしょう。だって、私が一方的にあなたを観察していたのですから。
遠い昔のことのようにも、つい昨日のことのようにも感じます。当時の私は園芸委員会の仕事のために、薄汚れた軍手を嵌めて、校舎裏の花壇へと歩いていました。
そのとき、私に連れ添う人はいませんでした。委員会の仕事なんて、誰が真面目にやるものでしょう。そんなのは気が弱く、自分のやりたいことをするよりも人に従っている方が楽なんて情けない性根を持った生徒、ただ一人だけでした。
春の日でした。
けれど花壇まで続く道へ校舎の影は水に濡れたように濃く、私は前髪に視界を隠されるように歩いていました。
そのとき、話し声が聞こえたのです。
誰ぞそこにいるものか。
私は人付き合いに対する生まれつきの臆病さを発揮して、自分の姿が相手の意識に入らないように、そろり、そろり、と様子を窺いました。
そこに、あなたがいたのです。
あなたの他に、もう一人。私も憎からずに思っていた、美形のあの人が立っていました。
あなたはまるでとぼけたように間抜けた顔で立っていて、一方対面するあの人は、照れ臭さを隠しきれないように、首の後ろをやたらに手のひらでこすりながら、言葉をしどろもどろに紡いでいました。
好きです。
嫌です。
結局そのやり取りはその二言にまとめられ、あの人は駆け出しました。
陰に隠れた私とぶつかるや、邪魔だよ、と一言吐き捨ててたちまち姿を消しました。
あなたはそれに気付きませんでした。
ただ、心ここにあらずといった様子で、花壇を眺めていました。
そして、あなたはぶつりと、私の育てた真っ白なツツジを、摘み取ったのです。
そのときの私の心に何があったのかは、今になっても私自身、わかるところではありません。
けれど、あなたの仕草を見たとき、気が違ったように頭に血が上って、私は決意したのです。
復讐してやろう、と。
そのときから、ずっとそう思っていたのです。
逆恨みであることはわかっていました。
それでも、私の中にこれほど烈しい感情が眠っていたのかと、自身でも驚くほどに目標に邁進する日々が始まりました。
まずは、あなたに近付く必要がありました。
眼鏡をやめました。
髪型を変えました。
口調も変え、仕草も変え、あれほど苦手だった数学の教科書と朝に夕に睨み合い、趣味ではないジョークもたくさん覚え、原型の見て取れないほどに私は変わりました。
そして、初めてあなたの視界に入るようになりました。
あなたの好きな話題を覚えました。
好きな映画、好きな音楽、好きな本。
好きな人がいないというのは、まさに私の予想した通りでした。あなたはそういう人だろうと、初めて見たときから確信めいていたその認識は、そのときはっきりと真なる確信へと変わりました。あなたのようにすべてを持った人は、私のような小さな人間が大切に思う程度のもの、歯牙にもかけずに土をかけてしまうのです。
私は、あなたの好むように語り、好むように頷き、好むように傍に座りました。
それは一心に、復讐のためでした。そのことに疑いはありません。たとえあなたとの間に些細な友情を感じるようなことがあっても、私の芯は決して崩れることはありませんでした。
だから、あなたが私に言ったとき、とうとう目の前に来た、と私は笑ったのです。
私が蛹になったとき、何を混ぜるつもり?
まさに私はそのつもりだったのです。
よもや見破られたのでは。そうした恐怖はほとんどありませんでした。屈託なく笑うあなたの顔はただ私に対する信頼に満ちていて、それが単なる軽口であることは明白だったからです。
ツツジでも入れてあげる。
彼女は私の言葉がわからなかったようで、一瞬きょとんと目を丸くしました。けれど私がからかうように笑えばすぐに、意味もわからぬままに笑ったのです。
ええ、確かに。
私はあなたの蛹に、ツツジの毒を混ぜるつもりだったのです。
ぐるぐると、殻の下で廻る黄金の中に、ツツジの毒を混ぜ、あなたを破壊してやろうと、そう思っていたのです。
生まれ変わる途中の蛹にそれを混ぜるのがどれほど恐ろしい行いか、誰にだってわかることでしょう。
これからあなたは、生涯この毒でもって苦しめられることになるのです。
あなたは馬鹿な人です。
私がどれだけあなたに媚びへつらっていたか、己を偽って接していたか、そんなこともわからずに、私に全幅の信頼を寄せました。あまつさえ、あなたを守るはずの家族の懐にすら、私を潜り込ませてしまいました。
今や、気高く強いはずのあなたを守るものは、何もありません。
薄皮の一枚を突き刺して、開いた穴からツツジの毒を。
私はずっと、あなたが憎いと思っていたのです。
針先はすでにあなたに触れています。
ほんの小指の爪先ひとつ分、押し込めればあなたという蛹に穴が開くことでしょう。
静かな部屋で、私の呼吸だけが乱れ行く様に音を立てていました。
痺れるように血の気の失せていく指先は、制御を失いぶるぶると震えていました。
表面に引っかかるように揺れた針先が、その薄皮に傷を残すことを恐れ、私はピックを握る右の手を、左手で押さえ込みました。けれどそれは震えを肩まで広げるだけで、二の腕についた薄い肉が、するすると揺れるのがわかりました。
膝から力が抜けていくのがわかります。
針先を押し返す蛹の張力は、あなたの生命そのもののようで、私を押し潰そうとしていました。
ああそうだ。
針先にばかり気を取られていて失念していたことを思い出しました。ツツジです。穴を開けたところで、流し込むものを準備していなければどうしようもないではありませんか。
私は鞄を開き、中から花を取り出しました。
白いツツジです。
あの日あなたが摘み取ったあの白いツツジ。
これは復讐です。
あなたがあの日、私にした仕打ち。
それを、そのまま返すつもりでした。
だから私は、ツツジを唇につけ、一息にその蜜を口に含んだのです。
甘い匂いが、瞳の裏までに抜けました。
私はそれを飲み込んでしまわぬよう、いつでも注ぎ込むことができるよう、唇のすぐ裏側に溜め込みました。
これは復讐です。
これは、あなたが私にした仕打ち、それをそのまま返すためのものです。
あなたは知らないでしょう。
自分の隣にいる友人に興味はあっても、私という人間自体には興味のなかったあなた。
あなたは知らないでしょう。白いツツジの花言葉を。
好きな人はいないと言ったあなた。恋とはどういうものかわからないと言ったあなた。数多の好意を、ひどく鈍感に振り払ってきたあなた。
あなたは知らないでしょう。このツツジの毒が、心にどんな影響を及ぼすか。
あなたは知らないでしょう。
恋をするという機能が、あなたをどれほど醜く変貌させてしまうか。
逆恨みであることはわかっています。
けれど、これは確かに初めから、私の復讐だったのです。
私のツツジを摘み取った、誰よりも美しいあなた。
誰からも好意を集めながら、誰にも好意を返すつもりのないあなた。
あの日、ツツジを摘み取るあなたの無慈悲で美しい手指に心奪われたそのときから、私は復讐のためにあなたの隣に立っていたのです。
ひどいではありませんか。
だって、ひどいでは、ありませんか。
あんなに容易く人の心を蹂躙しながら、自分自身は傷一つ負わないまま、無邪気に笑っているだなんて。
この蛹の中、あなたのすべてがあるというのに、そのすべての中に私は入れてもらえないまま、目の前に取り残されているだなんて。
ひどいでは、ありませんか。
だから私は針を持ったのです。
ツツジの毒を含んだのです。
あなたの蛹の中に恋という毒を込めて、醜くしてあげようと思ったのです。
なのにどうして、震えるばかりの私の指は、ほんのわずかに針を押すことさえもできずにいるのか。
瞳は乾き、額には汗。
背中は氷を刺されたように冷たく伸びて、呼吸は浅く、ほんの少しの間違いでツツジの蜜を飲み下してしまいそうになります。
階下からは未だ会話する声が聞こえています。
しかし、いつ戻ってくるともしれないのです。
機会は今しかないのです。
なのに、私はただ時計の針の音を聞く人のように、強張ったまま、立っているのです。
その逡巡が、どれほどの時間にわたったかは問題ではありません。
ただ重要なのは、その間、私の意識が巡ったということです。あなたを目にしたあの日から、ここでこうして立ち尽くす今までの間を、私は何度も、何度も何度も何度も記憶の中で巡り続けたのです。
そして、わかってしまったのは。
私には、できないということ。
う、と漏れた嗚咽を、唇を噛んで抑えこみました。
大声で泣くわけにはいきません。そんなことをすれば、すぐにでもあなたのご両親が駆けつけてしまうでしょう。そして、針を持つ私と、横たわる蛹のあなたを見て、すぐに事態を悟ることでしょう。
私は声を殺して泣きました。
ひたすらに、己の弱さが憎かったのです。
これがあなたを思いやって、針を刺せないのであれば、まだ恰好がついたでしょう。
でも、違うのです。
これは単に、怖いからできないのです。意気地がないから、あなたを壊すことができないのです。
私の針先を止める力は、あなたへの思いでもなんでもなくて、ただ一人、誰か他人を変えてしまうこと、傷つけてしまうことを恐怖する、飾りのない臆病さだったのです。
何年も。
何年も何年も。
復讐してやると息巻いて、その結果がこれでした。
私に、人を傷つけることはできません。
悔しかったです。
憎かったです。
涙はぼろぼろと珠のように零れて視界を塞ぎ、私は手探りであなたの蛹に触れ、縋るように抱き着きました。
そして私は、ツツジの蜜を一人飲み、顔を浅く押しつけて、ひたすらに泣きました。
針で刺してやりたかった。
そこから毒を込めてやりたかった。
本当は、その開いた穴から吸いついて、あなたを丸ごと平らげてしまうくらいの、独占欲がほしかった。
私はあなたが好きでした。
大好きと言えないのが、臆病に負けてしまうほど小さな恋慕でしかないのが、悔しいくらい。
アイスピックの針先を握っています。
あなたに傷が、つかないように。




