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エイリオの問いかけに、その姿は友好的に微笑んだ。
そうしていると、気心知れた旧知の仲に思える。
実際、それくらいの親しみを、エイリオは感じていた。もしかしたらその気持ちすらも、彼が意図的に作り上げたものなのではないかと、ふと過ったのは余談だ。
そして気が付いた。
その左手には、動くことを忘れてしまった夕日と同じ、朱色の表紙に金糸で装丁された本が握られている。
そのタイトルは、エイリオにとって最も馴染み深い名前に他ならなかった。
トーキィもエイリオの視線の先に気が付いたのだろう。うっそりと笑みを深くすると、至って軽い調子で告げた。
「君がここに来るとは驚いた。今、一番面白くて、一番おいしいところなんだ。出来ればね、用件は後にしてくれると嬉しいなあ」
返答は予測の範囲に収まるものだった。それもそうかと納得しない訳もない。
「そう、邪魔してしまって申し訳ないね」
エイリオは眉を落とした。せめて彼の気が変わって、話すら聞きたくないと言われてしまわないように、気を使いたかったせいだ。
しかしエイリオには、遠慮したとしても、話を切り上げる気は微塵もない。
「けどね、悪いけど、切り上げてもらえるかな。どうしても、君がそれを読み終える前に、君と話がしたいんだ」
「ふうん……」
トーキィはエイリオの言葉を吟味するように、腕を組んだ。まじまじと向けられる視線は、好奇心に満ちている。
「よく、ここが解ったね」
返された言葉に、エイリオは虚を突かれて目をしたたいた。エイリオ自身、まさかこんな事聞かれなくても解っているものだと思っていたせいだ。
「貴方を追っているフラムが言っていたよ。貴方は必ず、私の記憶に一番残っている場所にいるって。
家の跡にも、父の為に建てられた空の墓も違うのならば、ここしかないんじゃないかって思うのは、普通じゃないかな?」
ことりと首を傾げたら、途端、目の前の黒髪は、どこか嫌そうに眉を顰めた。
「ああ……フラム・リドリーね……。うん、まあ、僕と接触したからには、あいつが出てくるのはそうなんだろうけど」
あいつなあ……とぼやきながら、悩ましそうに額をかいた。
やがて、溜め息と共にエイリオを見やる。そのしぐさがあまりにも人間臭くて、エイリオには意外だった。
はたと、そんなトーキィと目が合う。
「でもね、解ってる? ここは、君が当たり前に過ごしていた場所とは、少し違うんだよ。本来なら、君がたどり着けるはずがない場所だったのに」
「違う? ……どういうことか、お聞かせ願えるのかな」
「どうもこうもない、よ? 君の――――いや、彼女の記憶の中で、最も鮮やかな場所はここだった。だろう?
この場所で、遠くからやって来る父親の姿を探して、待ちわびて、大きくなった影に向かっていく時間が、君にとっていつよりも嬉しい時間だったね。そうだろう?」
尋ねられた言葉の意味に、何か裏の意図があるのだろうか。一瞬そう疑問に思えてしまう程、トーキィの言葉に意外性はなかった。
エイリオは視線を外してもう一度反芻してから、しっかりと頷く。
「違いないよ。ならば、私達がこの場所に着いた時には、貴方は既にずっとここに居たって話だろう?」
しかしトーキィは呆れたのか、溜め息と共に首を振った。
「生憎だけどね、それならばフラム・リドリーが、真っ先に気が付いていて可笑しくないんだよ。癪に障るけどね、あいつ、僕に関してはやたら鼻が利くし、察しがいいからね」
「……つまり、貴方が居たのは『ここ』じゃない?」
確かめるような問いかけに、トーキィはにやりと笑った。初めて彼を雪の中で見かけた時とは打って変わり、意地悪さをにじませた、少し得意げな笑みだ。
「ここであって、ここではない。君の作り上げた思い出の中の塔を隠れ蓑にして、僕は本当の事が起こった塔にいたって言えば、少しは伝わるのかな」
「本当の……塔?」
「そう。君の思い出から続いている塔じゃない。だってそれは、所詮君が作り上げた思い出に過ぎないから。解る?
『あの日』、君の全てを変えてしまった出来事が起きた、要である塔こそ、彼女の物語の中心だって言えるよね」
笑顔で告げられたせいだろうか。エイリオには、それが酷く裏切られたような言葉に聞こえた。
「私が、知らなかったのに?」
恐らく今、エイリオの顔から血の気が引いている。だが、そんな彼の様子も知った事なく、トーキィは肩を竦めた。
「知らないから、そこに隠れたって言えるかな?」
「……隠れて、いたのか? 私から?」
「もちろん。それと、あいつからもね。ここはすごく都合が良かったんだ。だって、久しぶりの食事、あいつに邪魔されたくなかったから。
大体ね、君の思い出の中で、僕があいつに見つからずに隠れられそうなところは、ほとんどなかったんだもの。意地悪でも、仕方ないでしょう?」
唇を尖らせた様子は、不貞腐れた子供の様だった。
「だから、不思議なんだよ。あいつじゃなくて、君が僕の前にやってこれた事が、ね」
ずいとこちらを覗き込む姿を、しばし呆然と眺めてしまう。小憎たらしく見えるその表情に、しかし、不思議と怒りも不満も湧いてこなかった。
「だとしたら、貴方のお蔭なんだろうね。貴方がここに居たから、私はメニエルに会えた。父さんと母さんの本当を知れた。
例え過ぎた時間だったとしても、貴方のお蔭で、私は私の間違いに気が付けたんだ」
きっぱりというと、トーキィは一瞬苦い顔をした。
「……君は本当に、興味深いね。エイリオ・ルフロッテ」
余りにもエイリオが真面目腐った顔をするから、おかしかったのかもしれない。やがてくすりと笑うと、トーキィ・ミラージュはぱたんと音を立てて、手にしていた小さな本を閉じた。
「それで? 話ってなんだろう?
出来ればわくわくするような冒険の話だと、僕は嬉しいな。僕、楽しいお話は大好きなんだ」
にっこりと笑ったトーキィに、エイリオは小さく胸をなで下ろした。その様子だけを見ると、今から何が起こるのだろうと、未知の科学実験に胸を高鳴らせている子供にも見えた。
そんな表情に吊られて、まじまじと見返した。
そういえば彼は、誰かの笑顔の為に嘘をつき続けていたのだったっけ。ふとそんな事を思い出して、思わず苦笑してしまう。
「そう、あまり期待した目をしないで欲しいな。君にとって面白いかどうか、私には解らないのだから」
「そう? なら、面白いかどうかはちゃんと僕が決めるから、君のご用件を話して?」
さあどうぞ、と。快く促してくれる姿に告げるのは、少しばかり心苦しく思えた。けれど、言わないと言う選択肢だけは彼にない。
まっすぐに見返すと、エイリオは覚悟を決めた。




