17-1.母は嘆き、父は帰ぬ
「母さん……?」
塔の上層から聞こえた悲鳴に、エイリオは弾かれた様に顔を上げた。
言い争うような、母と男の声がする。ただ事ではない事が上で起こっていると判断するのは、容易かった。
メニエルに一瞥くれると、真っすぐに見返されていた。その眼差しが、上に行けと言っている。
彼が見せたかったのはここなのだと、否応なしに理解した。一つしっかりと頷いて、もう一秒だって無駄に出来ないと走り出す。
エイリオは螺旋階段を駆け上がる。
足音は、響かなかった。まるで自分の方が足のない浮遊霊にでもなった気分だった。
石壁を触れる手触りは、ひやりとしていて本物だ。だというのに、今この塔に起きている事には、絶対に干渉出来ないのだと思い知る。
そうでなければ、石造りの螺旋階段を、足音もなく登るのは不可能だった。
もし干渉で来たのならば、先程街中で、流れの行商と母が自分の横を過ぎていく時に、行かないでくれと言わない訳がなかった。
「あんたにゃ関係ない話だろうがね、奥さん。恨むなら、融通の利かない、あんたの旦那を恨むんだな」
階段をもうそろそろ登り切ろうと言う時、男の声が聞こえて来た。
彼には聞き覚えのない声だ。どこか愉悦さえ含むその声に、エイリオは眉を顰めた。
旦那ってもしかして、と、思わずにはいられない。
たどり着いた部屋は、扉が開け放たれていた。この塔に他に誰も居ないから、という安心からなのかは解らない。しかし、こっそりと内部を伺うのに、都合がよかった。
壁際からそうっと身を起こして中を伺うと、五歩も離れていないところに、先程背中を追いかけた行商人の姿があった。
そしてその向こうに、部屋の向こう側で、膝から崩れた母の姿が見て取れる。
母は何かを庇っている様だが、こちらからはそれ以上伺う事は叶わなかった。
ただ、その足元を見てドキリとした。母の華奢な足首には、母の足には似つかわしくない、武骨な鉄の足枷と鎖が付けられていた。
どういう状況なんだと、エイリオが戸惑ったのは無理もない。
直後、キッと母リシュナは振り返り、震える声を懸命に堪えながら低く尋ねた。
「サイアスが何をしたって言うのよ」
「ハッ! 知らないって言うのはいいなあ? 我々商人にとって、こいつは目の上の瘤の極悪人だってことさ」
「瘤? 貴方たち行商の安全を保障する為に命張ってる相手に、よくもそんな事言えたわね!」
「命を張る? 今まで起きた事もないのに? あって天災さ。だがそれも、そろいも揃ってぞろぞろと引き連れてもらわないといけない程の事が起こった事は、一度としてない。
だと言うのに、この男。こいつが渡し役のリーダーだか何だか知らねえが、護衛にはこれだけが必要な人数だからだの、このチームとして要求する経費だからだの、やたら高い金を巻き上げてくれるからな。
おまけに渡し役を通さなければ、街には入れさせないだの、御託を並べてうんざりだ。てめえら地方に点在する田舎町なんてものは、我々商人の為に、せっせと受け入れる準備をしていればいいものを!
この辺りに立ち寄れる場所がここしかないのを良い事に、こいつは事あるごとに、我々商人から金をむしり取る金食い虫さ。雇われているって自覚を持って慎んでいれば、こんな事にはならなかったかもなあ?」
吐き捨てるような男の声に、エイリオは拳を握った。
出来る事ならば、今すぐにでもこの向こうに飛び出してしまいたい。飛び出して、もう二度とそんな口を効けなくなるくらいに、殴り倒してやりたかった。
それは、母も同じ思いの様だった。
「慎むべきは貴方たちの方でしょう! 渡し役がどれほどの危険から、あんたたちを守っていると思っているのよ!
第一、そんなにお金を払いたくないなら、一度護衛抜きで街を渡ってみればいいじゃない。どうせ、出来ないでしょう? そんな度胸もないくせに、こんな狡いマネしか出来ないくらいだからね。
あんた達みたいなろくでなしから、渡し役の仲間たちを守る為に、サイアスがいるんじゃない!」
「黙れ! この街に入るはずの物流だって、止めてしまっていいんだぜ? そうなれば、こんな町、寂れるのもあっという間だな?」
がつん、と、嫌な音が響き、ばさりと重たい布が地に落ちた時のような音がした。一瞬上がりかけた母の悲鳴は、ぐっと飲み込まれていた。
驚いたエイリオは、信じられない思いで扉の方へと目を向ける。いつの間にか母の元に移動していた男は、地に伏せた母を忌々しそうに睨んでいた。
リシュナは腕に力を込めて身体を起こすと、それでも男を睨んでいた。
「……つ、良いわよね。都合が悪くなればそうやって恫喝すれば、きっと他の渡し役の人は不安に思って、貴方たちの言う通りにしたのでしょうね。
けど、バカにするんじゃないわよ。私達が田舎者? ええそうでしょう。けどね、私たちはこの地の生活に誇りを持っている。それはサイアスだって同じ想いよ。だからこそ、私達田舎者皆を守る為に、サイアスはあんたたちに立ち向かうんじゃない!
こんな卑怯で酷い事が出来る、あんたみたいなクズに安売りするようなものは、一つとしてないわ!」
堂々と言い放つ様は、心からの言葉だった。エイリオには、それが堪らなく嬉しくて、誇らしくて、そして悲しかった。
ヒーローは、父だけではなかった。もう、母が出ていった訳ではなかったのだと、疑い様もなかった。
でも、と。不意に過った嫌な予感を裏付けるように、部屋の中の男が舌打ちしていた。
「ちっ、本当に忌々しい夫婦だな。……だが」
言葉を切った男は、顔が見えなくても、にやりと笑ったのが手に取るように解った。
「だからこそ、そんな目に遭っているって自覚した方が身のためだったな?
どうだい? 二週間たっぷり物資を断たれた感想は? 水しかないようなこの地に、我々商人が居なければ、生活がままならなかったって解っただろう?! なあ!?
はは! 仲間からも信頼されている渡し役さんも、こうも干上がっちゃ形無しだなあ?!
あっははは! ざまあみろ! どうせあんたも逃げられまい? そこで共々、干からびているといいさ」
一際高く男は笑うと、かつりと踵を返していた。
肩を怒らせて傍若無人に出てくる姿に、咄嗟に道を開けてしまう。
男と目が合ったような気がしたが、それは全くの杞憂だった。真横を通り過ぎても、エイリオに何も言わずに螺旋階段を降りていく。エイリオとしては複雑だった。
だが、相手に見えていない事は、真実を知るには都合が良かった。思わず中に入る事を躊躇っていたが、男が消えた方をちらりと伺って確かめた後、そっと部屋の中をのぞきこんだ。




