2-1.修書士の男
かたかたかたと、規則正しい音が室内に響く。天井のファンは止まったままである。
「――――――…………」
三方を本棚に囲まれたその部屋は、出入口の扉すらも棚の一部になっている。
棚には本が端から順に入れているだけで、並び替えも分類もされていないのだろう。背表紙の高さがそろえられる事すらも無く、雑多に並べられている。
唯一棚のない壁は、すりガラスの入れられた大きな窓が、壁の半分を占めているばかりだ。ブラインドのかかった窓の向こうで、鳥か何かが羽ばたいているのが見えた。
「――――――――――――……」
その部屋の中央には作業の為のデスクと、黒い革張りのソファと対になるローテーブルが品よく並べられている。本棚に囲まれた空間の重々しさに合わせたソファとテーブルは好ましく見えたものの、雑多に本が積み上げられたデスクは、片付けられた形跡がまるでない。
だが、眺めていられたのはそこまでだ。
物珍しそうに辺りを伺う彼に、次第に募ったいらだちを隠せないのだろう。ガタン! と、一際大きな音に、デスクが揺らされた。
「――――って、聞いているのか? エイミー・ルフロッテ! お前の話をしているんだろうが」
読み上げていた書類をデスクに叩きつけた姿を、エイリオはゆるりと伺った。
「ええ、聞いてますよ。フラム・リドリー修書士官殿。貴方の貧乏ゆすりに比べたら、余所見程度、気になるものでもないでしょう?」
低い女性の声にも聞こえる中性的なボーイソプラノの声は、くすっと笑う。
苦いものでも飲んだように、目の前の男の表情が歪んだ。ついでに、絶えずガタついていたデスクも静かになる。
「ミラージュの行き先に心当たりが有る筈だ。吐け」
「おや、尋問ですか? 修書士というのは室内で静かに本を扱っているのかと思ってましたが、随分と体育会系のようだ」
「御託はいい。お前ら被害者は、揃いも揃ってあいつを庇いやがるから忌々しい」
今にも舌打ちしそうな姿にエイリオはふむと顎に手を当て、膝を組んだ。
「まず、二つほど訂正していただこうか」
「あ?」
「一つ、私はエイリオ。エイミーは最早過ぎ去った者の名前だよ。二つ、被害者と言われる覚えはない。私はあの時、確かにこうなる事を望んだ。トーキィは手を貸してくれたに過ぎないよ」
毅然として言うエイリオが気に食わないのだろう。フラムに睨まれて、エイリオはひょいと肩を竦めた。
「どうも貴殿と私の相性は悪いみたいだね。話が進みそうにない」
「それには同意をしよう。あんたと話してると虫酸が走る」
ならばとエイリオが妥協案を返そうとしたら、それをさせないかのように即座に遮られた。
「だが、てめえには諦めて協力してもらうぞ。あんた自身にエイミーを取り戻す気がなくとも、な」
「本人が必要ないと言ってるのに?」
「てめえの意思は関係ない。それが俺の仕事だ」
「横暴な人だ。貴方のような人で溢れているから、私のような者が現れるのでは?」
睨み合いは、一瞬に過ぎなかった。フラムの方が先に折れて、暗褐色の短髪をかきむしり悩ましそうに宙を仰いだせいだ。
「…………はあ。なら、少し周りを見ろ」
溜め息と共に促されて、改めて視線を流す。
「この部屋の本は全て、お前と同じ目に合った奴らから回収した本だ」
「ははあ、仕事熱心な事で。この本の数だけ女が男になったのなら、それだけ世の中のあり方が酷いんだと思えるものじゃないかな?」
今度呆れたのはフラムの方だ。
「皆が皆、お前と同じだと思うな。女が男になるなんて例は一握りだっつの」
「それでも当人がいいと言うならばそれでいいじゃないか」
不思議そうに首を傾げたエイリオに、フラムは眉間を揉んだ。
「ここの本には全て、核になる主人公がいない」
「はい?」
「全て、ミラージュに食われている」
言っている意味が解らないと、エイリオは眉を顰めた。
そんな彼に、フラムはデスクの上で指を組む。聞き分けが悪いと態度に言われた気がして、エイリオは自然と胡乱に見た。
「インクを削り取ったみたいに、文章が虫食いにあっているんだ。主人公の名前だけ、あるいは元になっていたそいつの特徴を表すような事が書いてあった部分だけ、ごっそり抜け落ちている」
「……誰かの悪戯って事もあるでしょう」
「かもな。悪戯にしては手が込んでるし、質がわりいが」
始終眉間に渓谷を作っていた険しい表情が、一瞬だけ苦しいものに変わる。
「けどな、そんな冗談すら言えないくらいに事態は深刻だ。この世にたった一冊しかない本の、主人公たちが名前を無くした。それだけで、そいつらは跡形もなく姿を消して、あるいは形を変えてしまっているんだ。
そんな気の毒な奴を少しでも減らせるように、一日でも早くミラージュを捕らえなくてはならない」
背もたれに体重を預けたフラムの姿に、エイリオは嘆息した。




