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「エイミーは、町で一番足の速い女の子でした――――。
枝を剣に見立てて振るえば、エイミーに勝てる男の子はいませんでした。だからエイミーに勝てなかった男の子たちは、指を指して笑いました。男の成り損ないが男の真似をするんじゃない、と。
エイミーは、笑った男の子達をみんなやっつけてしまいました。でも、悲しい気持ちがエイミーに涙を流させました。
何でも出来るエイミーは、出来ない事がないようにと、苦手なお勉強も毎日毎日一生懸命。もっと苦手な針子の授業も必死にやりましたが、それよりも図書館で熱心に本を読み漁りました。
お陰でエイミーは沢山の事を学びました。沢山の事を学んだエイミーは、誰よりも賢くなりました。
でも勉強でも勝てなくなった男の子達は、エイミーをからかいました。頭でっかちの女なんて、嫁にする奴の気が知れない、と。頭でっかちは、図書館にいる機械司書とでも結婚するのだろう、と。
エイミーは、からかってきた男の子達に言い返しました。私よりも頭の悪い男の癖に、嫁が貰えると思っているとは驚きだ、と。男の子達を黙らせる事は出来ましたが、でも、悲しい気持ちにエイミーは歯を食い縛ってました。
エイミーはずっと、悔しく思っていました。
何故、女であるだけで、楽しいと思う事が出来ないのかと。
何故、女であるだけで、努力が努力と認められないのか、と。
「なので、エイミーはエイリオになる事にしました」
囲い込もうとするような声に、いつの間にか聞き入っていた彼女はハッとした。
少しでも距離を取ろうとして、音戸朗々と語る姿を突き飛ばす。慌てて自分に迫る姿から離れられる、窓辺へと逃げ出した。だが、変化はその瞬間だった。
「エイミーが心に決めたその途端、まるで魔法がかかったみたいに、エイミーの身体が、男の子の身体に変わりました。
さあ、これでもう、女の子をいじめる悪い人はいません。女の子だったエイリオも、涙を流す必要がなくなりました。
そうだろう、エイリオ?」
いたずらっ子のようにぺろりと舌をのぞかせながら、トーキィは窓辺に逃げた姿に問いかけた。
恐る恐る窓に手をつき、夜のガラスに写っている姿をぼんやりと眺めていた、女性ものの制服を着ていた小柄な男は、豊かなブロンドの髪を耳にかけながら振り返り、微かに笑った。
「『エイミー』は、君にまだ必要かい?」
ゆるり、首を振った拍子に、彼のブロンドの髪が耳からほどけた。
「……いいや」
低い女性の声ともとれなくない、ボーイソプラノが柔らかく答えた。
美しい男に、にっこりとトーキィも笑い返す。いつの間にか手にしていた、手に収まる程の小さな本を閉じて、それを軽く持ち上げた。朱色に金糸で装丁されたタイトルには、一人の女性の名があった。
「ならこれを、僕が頂いても構わないよね? エイリオ」
「ああ」
「ふふ、ご馳走様。それじゃあ僕はもう、行くとするよ」
告げられた言葉に、エイリオが応えるまでもなかった。
次の瞬間。まるで霞か雪解けかのように、トーキィの姿は空気に馴染むようにして、支部所の中から消えていた。
支部所の中に、静寂は訪れる。外では何事もなかったかのように、雪がちらちらと街灯に炙られていた。
深々と雪に閉ざされていく様子は、まるで長い間彼を苦しめていた思いを鎮めるかのようだ。ほう、と、気が付くと溜め息が零れていた。
その、時だ。
「くそっ、遅かったか!」
遅れずして、濃紺色の外套を纏う男は支部所に駆け込んできた。フードをすっぽりと被り正体を隠すその男は、窓辺に佇んでいた彼を見るなり舌打ちした。
「どちら様だろうか?」
不思議そうに首を傾げたエイリオ・ルフロッテに、苛立った様子が溜め息を溢して、低く告げた。
「……こちらは対魔想悪食機関だ。これより被害者エイミー・ルフロッテの身柄を保護する。話は後だ。同行して貰うぞ」
有無を言わせない態度に、エイリオは困った様子で肩を竦めた。
序章の幕開けは、雪だけが見ていた。