10-1.記憶の帰郷
その農村は、街と言うにはあまりにも小さい。
建物は皆、街の二階建てよりも低いせいでそのように見えるのかもしれない。あるいは、街道一つで繋がっているといえども、人の足で移動するには少々遠いせいかもしれない。
丘陵のどこかに湧水があるのだろう。
農村の入り口に架けられた橋の下では、清水がさわさわと穏やかな音を立てている。
絶え間なく流れる水の影響なのか、辺りは緑が豊かだった。古くからある農村の肩書にふさわしく、軒を連ねた家々は、苔むしたり蔦の伸びたいままにしたりしている。
建物と緑が共存している様だ。
お蔭で空気も澄んでおり、どことなく涼しい。塔で出会った少女が口にした、不穏な言葉を覆すかのように思えてならなかった。
「長閑なところだな」
「まあね。景色が売りみたいなものだから」
遮蔽物も何もない、わずかな農村までの道にて、彼女を見かけることはついになかった。しかしエイリオの不安を覆すかのように、往来には当たり前に人の姿があった。
「ここのどこかに、トーキィが居るんだね?」
「恐らく」
エイリオが隣を伺うと、眉間に皺を刻んだフラムが警戒したように辺りを睨んでいる。やむを得ない状況とは言え、思わず笑ってしまった。
その時だ。
「お兄さん、見かけない顔ー」
「ないー」
「どこから来たの?」
「迷子のお兄さんだあ」
「おいしそう」
「おいしー?」
不意に、あちらこちらから幼い声にくすくすと笑われて、エイリオは驚いた。
振り返るが、辺りには誰も居ない。唯一、荷車を押していた妙齢の男が、見かけない二人の姿に怪訝そうにしているくらいだ。
フラムが舌打ちして柏手を打つと、くすくす笑いはすぐに消えた。
「居るな。間違いなく」
欄干の向こうや、置きっぱなしにされた小さな鉢植えの影を睨みつけて、フラムはぼやいた。未だ状況を理解していないエイリオは、目を瞬かせる。
「今のも妖精、なのか……?」
「ああ。ミラージュのおこぼれ目当てに集まってるな」
「そう、か」
あれから感じていなかった寒気を思い出して、エイリオは腕を擦った。同時に、はたと往来をのんびりと歩く人々に目が留まる。
「他の人への影響は問題ないのかい?」
「ない。あるとしたら、お前に特に関係のある場所や人、だな」
きっぱりと告げられて胸をなで下ろす。それと同時に、エイリオは改めて気を引き締めた。
「そちらの方が気がかりだね。さっきの彼女の事も聞いてみたいし……一通り見ても?」
「構わないさ」
お前は守るから。何度目かのフラムの言葉に、思わず苦笑してしまう。
「ホント、君の仕事熱心さには頭が下がるね」
「茶化している暇があるなら、観光がてら心当たりでも紹介して欲しいな」
嫌味も込めて肩を竦めたが、思いがけない言葉にまじまじと伺ってしまった。
フラム自身も、口にしてみて似合わないと感じたのだろう。あまりにも苦い表情を浮かべるので、エイリオは今度こそ噴き出した。
「はは、それもそうだね。こっちだ」
エイリオはフラムを手招くと、慣れた様子で道を下った。
小さな街とはいえ、用水路に沿って道は広く確保され、しっかりと石畳が引かれている。恐らく馬や荷車を通すためだろう。石垣と家の壁が、ずっと向こうまで続いている。
「この辺りは特に、街の外の道に続いているから、あまり表に間口は開けていないんだ。流民の事もあるし」
遠くから静穏に見えた佇まいも、近くで見ると、外部から来た人間に対して何も警戒していない訳ではないと解る。
街の中枢へと引き込む水路以外、茶色い屋根と炉端の緑が二色のラインを作っている。
「ああ、懐かしいな。塔の方で遊んだ帰りに、この辺りの水場で泥汚れを落とそうとしたっけ」
「商人に護衛がつくくらいなのに、よく子供だけで街の外に行けたな」
「私がここに居た時は大きな騒ぎもなかったから、街の周りに出るくらいならあまり気にならなかったんだ。こうしてみると、街の中にこうやって水を引くことで、堀の代わりにしているんだろうね。
誤解して欲しくないのは、外部からの交流を全く受け入れていない訳ではないんだ。旅商人に向けた、街自慢のガーデンに面した宿なんかもあるからさ」
二人で並んで歩いていると、途中荷車を押す男性とすれ違った。エイリオが積極的に挨拶すると、相手も快く答えてくれる。これにはフラムが驚いた。
「もっと外の者にも不愛想だと思っていた」
「そりゃ、こちらが感じ悪ければね。外から来る客はお金を落としてくれる大切な存在だもの、意味もなく無下にはしないさ」
「……なるほどな」
何気ない会話を交えていたら、間もなく両サイドの壁は途切れた。同時に、水路は正面と右手に別れ、水場が区画を切っている。
突き当たった先は芝が広がり、正面にはここらで一番大きな建物である教会が堂々と建っている。
同じ通りの並びには、大きな窓ガラスがショウウィンドウの役割をしている店の数々が軒を連ねていた。
ガラスの向こうには、ケーキやサンドイッチが行儀よく並んでいた。
あるいは色鮮やかなキャンディやチョコレートを並べた菓子の店からは、子供のはしゃぐ声が漏れ聞こえる。
生活雑貨を路肩まで広げた店では、ふくよかなマダムが退屈そうにひさしを広げた。別の店では、豊かな水源の恩恵か、乾燥させたハーブや穀物を大きな麻袋に入れ並べている。
中には工房を兼ねそろえている店もあり、奥で職人が彫刻刀を手に木彫りに精を出していた。
何処からともなく焼きたてのパンや揚げ物の香ばしい匂いがして、空腹でなくとも食欲をそそる。
また、芝の広場にパラソルを広げて、アイスボックスの傍らでせっせと木の実の殻を割る姿もある。水の音と彼の鼻歌が、穏やかな街を彩っている。
日がな一日酪農に費やすだけではなく、内外の生活が緩やかに保たれているのだろう。一目でそこが街の中枢であり、人々の憩いの場所だと解った。
自然と足取りの軽くなるエイリオの後を、フラムがゆったりとした足並みで追う。ふと、足を止めた隣に気が付いて、エイリオは首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
「……いや、出て来た時の寒さが嘘みたいだと思ってな」
「ああ、この辺は遮るものがないからね。雨は珍しいし、温かい方だよ。水源がなければカラカラだったかもね」
「へえ! 兄ちゃんよく知っているね」
得意げに話すエイリオに驚かされたのだろう。日よけの為に簡易的に張ったタープの下でのんびりと客を待っていたらしい、果物売りの露天商が思わず声をかけてきた。
そんな彼を見た途端に、エイリオはくすりと笑ってしまう。
「こんにちは、オリヴおじさん。おじさんの作る、炙った肉のホットサンドはとてもおいしかったけれど、今はもう売っていないのかな?」
名前を当てられて、男は目玉が落ちるのではないかと思われるほどに目を見開く。やがて、あっと声を上げた。
「まさか、ルフロッテのところの……? いやあ! これは驚いた! あんなに可愛らしかったのに綺麗になって、見違えたなあ!」
「ははっ、おじさんの方は変わりなくて安心したよ」
「相変わらず腹が出てるって? うるせえ、余計なお世話だいっ」
男はにやっと笑って、作業エプロンの上から自慢の腹を叩いて見せた。ぼん、と鈍い音がするだけで、互いに笑ってしまう。
一頻り笑った後、露天の親父は真面目腐った顔をした。
「それにしても、急に戻ってくるなんてどうしたんだ? とんと音沙汰なかったろうに」
「あはは、それを言われてしまうと申し訳ないなあ。今日はね、ちょっと知り合いに故郷を紹介したくて」
「お? なら、是非ともこの広場の主と呼ばれる俺の、新しい目玉を食っていきな? 北から来たって商人が教えてくれた、胡桃のエンガディナーだ」
「ありがとう、頂くよ」
いくら? と訪ねるエイリオに、親父はラップに丁寧に包まれた包みを押し付けながら豪快に笑った。
「んなもんいらねぇよ! 人を理由にしてもいいけどよ、何もなくてもまた来てやんな。その方が、あいつも喜ぶ」
「あっはは! それもそうだね。なら少し、教会の裏の方にも足を運んでみようかな。近いし」
「それがいい。
さ、こんな親父に構ってないで、案内してやれよ。な?」
「…………うん、ありがとう」
茶目っ気たっぷりにウインクした露天の親父に、エイリオは眉を落としてくしゃりと笑った。それじゃあまた、と、軽い挨拶を交えると、男は手を上げて答えた。




