4-3
「おい、バカ!」
無粋な声が、世界を割った。
光に満ちた世界は唐突に遠退いて、煙の様に掻き消えた。
目の前に居た筈の姿は色あせて、人の質感を失った。
水風船にインクを詰めて割ったかのように、弾けたと同時に砂の様に崩れ消える。
ハッとした時には、何かに引っ張られてエイリオは尻餅をついた。
背中を何かでぶつける。
まるで今まで息をする事すらも忘れていたのか、自分でも驚くほど息が上がっている事に気が付いた。脂汗が背中をじとりと濡らし、指先がほんのりと冷たい。
真っ先に目に留まったのは、よく手入れのされた黒い革のワークブーツだ。
辿る様に視線を上げて行くと、先程までエイリオが手にしていた筈の物語を手に、こちらを睨むフラムの姿があった。
やがて、座り込んだ場所から布越しに肌が冷えていくのが解る。
自分が迷宮のような本棚の一角にへたりこんでいるのだと、やっと理解が及んだ。
「死にたいらしいな?」
「ええと……」
「それとも本当に、死のうとしていただけなのか?」
声を荒げこそしないものの、今までと違い明らかに怒っている様だった。けれどエイリオには怒られている理由も、立て続けに聞かれた意味も解らずに、ただぽかんと見上げる事しか出来ない。
釈然としないエイリオに呆れたのかもしれない。深く溜め息をついた姿は、腕を組んで棚にもたれた。
「今のあんたは食われやすいから気を付けろって言ったのは、エイリオ。お前自身の為でもあるって言った筈だが?」
「……そういえば」
そんな事言っていたような気がすると呟くと、険しかったフラムの表情から感情が消えた。
「そこまでして死に急ぎたいなら、次は止めねえ。勝手に物語に飲み込まれて消えてくれ」
初めて突き放されて、手元に視線が落ちる。反論すらもする元気はなかった。
「食われ、かけた」
謂われには馴染みはないものの、フラムが告げた言葉に聞き覚えがあって、間抜けにも繰り返していた。
「さっきのあれが?」
あっと思い出したエイリオに、フラムは言葉もなく目を閉じた。それが肯定なのだと嫌でも解る。
「昔から親しんだ物語に?」
「……だから余計に、だろうな」
今思えば、違和感もなかった事が恐ろしい。
自分の身に降りかかっている現象への不審も感じる事なく、むしろ優しく包まれているような安心感があった。
旧知の仲の友人に出会ったような気安さが、警戒する間を与えなかったのもあるだろう。懐に潜り込んで来られた不快感も、当然ない。
その事実が、余計にゾッとした。
「どうしてなのか、聞いてもいいかい」
ぽつっと呟いたエイリオに、フラムも無表情を崩して溜め息を零した。
「物語がお前を攫おうとする理由か? それとも、お前が攫われやすい理由か?」
「……どちらも」
「解ってて聞くのか?」
確信している様子で言われてしまうと、エイリオも自然に失笑していた。
「馬鹿な事聞かないでくれ。解りたくないから聞くんだよ」
「そうか」
頷いたフラムは、手にした本を右に左に持ち変えながら、至って淡々と続けた。
「でははっきり言ってやるよ。ミラージュの影響だ。あいつは『物語』というものを捻じ曲げる。作り話だろうが、人の生き様だろうがな。
同時にその力は妖精達にとって、途方もないくらいのエネルギー源になる。
普段は生き物から直接そのエネルギーを得られない妖精たちも、あいつに関わった事で存在の境界があやふやになった奴相手ならば、ちょっかいもかけやすいし、上手くすればそいつからエサを得られる。だから――――――」
「だから私は、彼らのエサとして狙われやすいって、事か」
理解はしても、納得は出来ない。言葉にし難い、ままならない気持ちから唇を引き結んだエイリオに、フラムも肩を竦めた。
「だから、俺が居るんだろう」
「腹立たしい事にね。どうせならもっと、実用性よりも可愛げのある人にお願いしたかったね」
「褒め言葉と受け取っておこう」
だが軽口も、不意に途切れる。
「攫われた人は……」
言いかけたエイリオに、流石のフラムも彼の虚勢に気が付いた様だった。からかう事もなく、当然と言わんばかりに腕を組む。
「言っただろ。死にたいなら勝手に攫われろってな。それが嫌なら、俺に守られていな」
「そう、か」
理解した途端に、ぞっとして寒気がした。思わず身を抱いて震えると、頭の上から呆れた溜め息をつかれた。
「ここは冷える。スタッフルームでシシリィに温かいものでも入れさせよう」
珍しく気を使ったフラムの言葉に、エイリオは大人しく頷いた。
どこかで彼らを見ているのだろうか。くすくすと、小さな子供の笑い声が聞こえた気がした。いたずらの効果があった事に喜ぶような、そんな笑い声だ。
恐らく空耳ではないのだろう。フラムが苛立たしそうに舌打ちしたのがその証拠だ。
「安心しろ」
彼にしては珍しく、真っすぐにエイリオに向き直って低く告げた。
「お前がお前を決めるまで、俺はミラージュを追いかけ、エイミーを取り戻す。それまでは、今のお前を見極めればいいさ」
視線を反らされる事無く言われたそれは、確かにエイリオに向けられたものに聞こえた。一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかったエイリオも、きょとんと見返したあと、気まずそうに視線を反らす。
「……君が親切だなんて不気味に思えて仕方ないって思うのは、私だけなのかな」
「殴られたいらしいな?」
「君相手なら、得体の知れない妖精とやらを相手するよりも、こうして向き合える分余程いいな」
「ふん。精々自衛しやがれ」