1-1.魔想悪食は物語を食む
これは、ほんの序章に過ぎない。
「……おなか、すいた」
まだ昼間だというのに、重い雲が低く立ち込め妙に暗い日の事。ぽつと呟いた男の拙い言葉は、白い息と共に冷やされた。
頬を切る風に誘われて曇天を見上げる。ちらちら、ちらちらと降り始めたばかりの真白い綿のような雪が、早々に灯された紫電灯に照されていた。
辺りの人気は薄く、わずかに往来を行く姿もロングコートの襟を立てて足早に過ぎていく。街を照らす紫電灯すらもまばらな石造りの街は、活気があってもおかしくない時間だ。だと言うのに、雪風に吹かれているせいか人気は薄く、より一層寒々しさを増していた。
それもその筈だ。物流に長けた行路の街とはいえ、所詮田舎街に過ぎない。
各地から集まる交易品が、街の者たちの生活を支えるようになった今日この頃。男たちは決まった時間に郊外に赴き、各地からやってくる品物の仕分けや、荷車を変える商人達の対応に忙しくした。そして彼らは皆、逢魔が時には帰路につく。
日中夜に人気がある方が珍しいと言っても過言ではない。
旅路を急ぐ商人達は、寝る暇も惜しんでいるのだ。街の者だけが、娯楽に興じて良い筈がない。
その様に言われてしまうと、街の者達も、仕事上がりに酒を嗜む事すら控えざるを得ないものだ。さもなければ、たちまちに街に落される物資の恩恵が取り上げられてしまうだろう。閑古鳥の鳴く表通りの酒場は、もう随分と開けられていない。
これで街の発展があるのかと、心に余裕の有るものならば、もしかしたら気が付けたかもしれない。昼間から暗鬱とした曇天は、もしかしたら街の未来を示しているのだろう、と。
当然、女子供すらも日のある時に表を歩くことなどありえない事だ。街の外れであくせく働く男たちに代わり家内を守る事こそ、夫を持つ婦女の勤めであり、美徳なのだと囁かれる事もしばしばある。
しかし、世も世だ。男ばかりが働く時ではない。働く女ももちろんいる。
家内に勤めることがよしとどれ程世間が主張しようとも、巷では女の学士が功績を立て、女の技工士が男と肩を並べている。彼女たちへの風当たりは強くとも、皆、それがどうしたと胸を張っている。街の支配者気取りの商人たちですら、鼻を明かしてきた猛者たちだ。そこに、男女の貴賤などはなく、己の持つ技術と知識、あるいは誇りを以て日々を挑んでいる。
そんな街中で先を急いでいたエイミー・ルフロッテも、そのうちの一人と言えよう。
「もし? そこのお兄さん。具合でも悪いの?」
まだ雪が降り始めて間もない筈だというのに、既にうっすらと頭に雪が積もりかけた男の姿に、数少ない女性の巡査は足を止めた。きっと彼はずっとそこに座り込んでいたに違いない。
頭の雪を払ってやりながら、彼女はその表情を覗きこんだ。焦点の合ってなかった赤い瞳が、ゆるりと彼女を捉える。
「聞こえてる? 言葉は解る? 解るなら返事、出来るかな?」
辛抱強く彼の目の前で手を振り、遠くから意識を引き戻させていたら、相手はゆっくりと頷いた。同時に、きゅるきゅると切ない音が、彼女の耳に届いてしまった。
その不意打ちに、ぶはっと吹き出してしまう。
「ふふ、ごめんなさい。お腹すいてたんだね」
くすくすと肩を震わせ、目元を軽く拭い、黒い革の手袋に包まれた手を差し出した。
「立てる? こんなところで寝ていたら、風邪を引いてしまうよ。急に冷え込んで来たしね。私、丁度支部所に戻るところなの。暖かいお茶を出してあげるから、いらっしゃい」
柔らかい声に促されて、座り込んでいた姿もその手を見つめていた。やがて、緩慢な動きで腕を持ち上げ、彼女の手をしっかりと取った。
雪が、外の世界を少しずつ閉ざす。