4 ウルフェン 最終回
「いい子」ウルフェンは背中の毛をなでられると、たけりたっていた心が静まるのを感じた。
「心配しなくていいからね。おまえはわたしが守ってあげる」
ご主人さまの大きな丸い目が近づいてくる。
「おまえの仲間は、もう大自然のなかでは生きていけないの。人間が一方的な理由で、おまえたちを追い払ってしまったから。ただ精いっぱい生きようとしただけなのにね。これから、おまえの居場所に連れて行くから」
ご主人さまが立ち上がった。
語られる言葉はなにひとつ理解できなかったが、いっしょに来るよう命じられているのだけはわかった。ウルフェンはそれに従った。
雪の上に印されたウルフェンの足あとに、ご主人さまが丸い目をこらしている。あんなに大きな目をしているのに、光の少ない場所ではよく見えないらしい。なにかを悟った様子で、ご主人さまが口もとでにんまり笑った。
「駐車場から出よう。ペンションの人が出てくるかもしれないから」
ご主人さまがフードをかぶり、ウルフェンに先を歩くようにうながした。ウルフェンの足あとを、ご主人さまが、後ろからいちいち踏みつぶしている。
駐車場を出ると、除雪された道路のわきを、横に並んで進んだ。
「わたしのそばから離れたらダメだよ。雪の降るこんな時間に出歩く人は少ないだろうけど、たとえ誰かに見られても、犬と散歩していると思うよ。まさかオオカミを連れ歩いているなんて、想像もしないだろうからね」
町の明かりが目立ってくると、ご主人さまは道をそれて山に分け入った。その意図はいまだにわからなかったが、ウルフェンは導かれるままつきしたがった。
ご主人さまの手から光りが放たれた。
「北村の懐中電灯だよ。あいつの部屋から持ち出したんだ」
道すがら、ご主人さまが語りつづける。
「おまえの先祖はその昔、大自然とともに生きていた。でも人間はね、それを破壊し、自分たちのために利用してきた。人間もまた、自然のなかから生まれてきたのにね。でも全ての人間がそうだったわけじゃない。わたしはおまえの味方だから」
意味はわからないものの、ウルフェンは耳をかたむけていた。
「おまえの先祖は生きるため、果敢に戦った。けっきょくは負けちゃったけれど。そうして大自然のふところから追われ、ちりぢりになり、日本では絶滅してしまったの。だから、おまえは生きなきゃダメ。先祖の血を絶やしたらダメなんだから。こんなところに出てきたら、殺されちゃうよ。おまえが生きていける場所は、もうほんのわずかしか残っていない。だからそこで我慢してね。お願い」
ご主人さまが足を止めた。ウルフェンの肩に顔をうずめてくる。体をぎゅっと抱きしめられた。その意志にそむくつもりは、もとよりない。ウルフェンは愛おしさがこみあげ、ご主人さまの白い顔をなめた。
木立に囲まれた道は雪でおおわれ、ゆるやかに登っていた。ご主人さまには足が2本しかなく、足取りは、はかどらない。ときおり雪に足をとられ、よろけている。そのたびに足を止めなければならなかった。
それでもウルフェンの心は弾んでいた。自分はもう孤独じゃない。自分の主を見つけたのだ。そんな気持ちに、うっとりとなった。
さくさくと音をきしませる雪は足裏に心地いい。頭上では樹々のシルエットがおおう。木の間から、はらはらと粉雪が舞いおりる。
尾根道に出た。片側には雪の垣根が続き、その隙間から、ツツジの葉が見えかくれする。反対側には雪のひさしができている。遥かかなたには黒々とした稜線が横たわり、薄い雲のふちが銀色にふちどられていた。
ウルフェンは自然の景観に、つい見とれてしまった。
「あっ」と声があがり、ご主人さまがよろけた。踏み込んだ雪のひさしがくずれ、雪のかたまりとともに落下した。
雑木林の斜面を、光のすじを回転させながら滑り落ちていく。明かりは消え、ついにその姿を見うしなった。
大変だ――。ウルフェンは雪の斜面に飛び込んだ。
とちゅうで雪面に顔をから突っ込み、降りるというよりも転がり落ちた。つづら折りになった、ひとつ下の道の雪だまりに落下した。
泳ぐように前足を動かし、鼻づらを雪の上に突き出す。起き上がると、全身についた雪を振り払った。
すぐさま、あたりを見まわした。
落下した雪道に、ご主人さまの姿はなかった。雪の斜面に視線を走らせる。深く滑り落ちた雪面からは、たくさんの灌木の幹が突き出しているだけだ。樹々のあいだに引っかかっているに違いない、と推測した。
ウルフェンは体ごと斜面に向かっていった。四つ足で踏みかためながら力まかせに登る。積もった雪はねばりつき、しつこく足をからめとろうとする。木立を騒がせて、吹き抜ける風は冷たい。鼻が凍りつきそうだ。ご主人さまを救出しなければならない、その一念で、ウルフェンの心は燃えあがっていた。
そのとき、ご主人さまの匂いをとらえた。
近くにいるはずだ――。ウルフェンは雪のなかから大きく伸びあがり、ぺろりと鼻先をなめた。目を閉じ、全神経を鼻孔に集中させる。
――とらえた。斜め上方だ。
せっかくの手がかりが消えないうちに、ウルフェンはご主人さまの匂いをたどる。斜面を横切りはじめると、雪面が下にくずれ、何度も足をすくわれそうになる。転びかけては踏みとどまり、一心に横切る。体が雪にうもれないよう注意した。
2本の灌木がV時に立ち並ぶあいだに雪だまりができていた。そこから黒い布のはしがのぞいている。あのなかにうもれているに違いない。
ウルフェンの胸は希望で高鳴った。
灌木のまたにたどりつくと、吹きだまりを急ぎかきわけはじめた。すぐに、自分の爪がご主人さまを傷つけてしまう危険性に気づいた。長い鼻先を使って慎重に掘りおこしにかかる。鼻の感覚がなくなりだしたが、かまうものか。
ご主人さまの姿が、しだいにあらわれてきた。
その顔は雪のようにいっそう白い。あんなに大きく丸かった目は、点ほどにしぼんでいる。――大変だ。早く助けないと、ウルフェンはあせった。細心の注意を払いながらも、さらに掘るスピードをあげた。
ご主人さまの背中があらわれてきた。どうやら、うつぶせに頭を下にして、幹と幹とのあいだに挟まっているらしい。
灌木の根もとの雪を突きくずしにかかった。ほどなく雪だまりがくずれ、ウルフェンの頭に重みがかかる。横にずれると、ずしりとご主人さまが自分の背中にのったのを感じた。
ウルフェンは四肢をふんばり、ゆっくりあとずさって樹のあいだから抜け出した。大きく吐く息は白く、心臓は激しく鼓動している。体の芯から熱くなり、ご主人さまを救いだした喜びに心がふるえた。
一息つくものの、こうしてはいられなかった。このままではご主人さまは凍え死んでしまう。どこか暖かく安全な場所に運ばなければならない。
ウルフェンは斜面を見下ろしてみた。
つづら折りの雪道が、黒々とした林のなかを続いている。せせらぎがかすかに聞こえ、道は谷川に下っているらしい。深く谷に分け入ったら、ついには迷ってしまうかもしれない。やはり尾根道に戻ったほうがいいだろう。
ウルフェンは決意すると、幹をまわりこんだ。
そこから、ご主人さまが滑り落ちたあとが、尾根まで続いていた。それをたどり、一歩ずつ雪を踏みしめて登った。四肢はかじかみ、感覚はなくなっていた。ご主人さまを背負った重みは負担になったが、それを安全な場所に運ぶという使命感は活力になった。
尾根道に出ると、灰色の空が広がった。薄い雲をすかして月の影が映る。雲間からにじみだした月光が、自分がいまいる位置の見当をつけてくれた。
これからどうしようか、と迷った。
もと来たペンションに戻る気はしない。かといって、ご主人さまがどこに向かっていたのかは知るよしもない。自分をどこかに連れて行こうとしていた、としかわからないのだ。
いまは行く当てはひとつだけだった。
ウルフェンは意を決すると、ご主人さまのぬくもりを背中に感じながら、自分に残された唯一の居場所に向かって、力強く歩きはじめた。
暗い林を抜け、自分が生まれ育った施設を囲む塀ぎわまでたどりついた。
園内には明かりがあふれ、多くの人の声が聞こえた。人間のもとに戻るのはいまさら気が進まなかったが、ご主人さまを安全に届けなければならない。
ウルフェンは、動物園から脱走したときに飛び越えた柵を見上げた。ご主人さまを背負ったままでは、そんな跳躍は不可能だ。ここまで来るのに、体力は尽きかけていた。いまにもその場につぶれてしまいそうだ。
ウルフェンは天をあおぐと、声をかぎりに遠吠えをした。
ほどなく裏門が開き、たくさんの人間が出て来た。ご主人さまを背負っているのに気づくと、いっせいに声があがった。
ウルフェンは四肢に力をこめ、歩きはじめた。人間が道をあけ、そのあいだを園内に進む。もはや精も根も尽きはてていた。使命を果たした誇りだけが、足を動かしていた。
ウルフェンは最後の力をふりしぼり、ぴんと尻尾を立てた。
*
猪山大吾警部補はいまいましい気分で事情聴取を終えた。猪山の考えでは単純な事件だが、それを取り巻く状況は複雑さをきわめていた。
通報があったのは午後9時8分だった。所轄署の捜査員と鑑識係がペンションに到着したのは9時20分で、おりから降りだした雪がその足を遅らせた。
県警本部の猪山が現場に着いたのは、その30分後だ。
事件のあった306号室では、鑑識が作業をはじめたところだった。死体は窓の外にもあり、ペンションのテラスからそこまで、動物らしき足あとが続いていたらしい。新雪に薄く残っていた足あとは、雪のため、完全な形では採取できなかったという。そのせいで、いまも猪山は苛立っていた。
被害者は、このペンションオーナーの北村武彦と飼育員の畑山則雄だった。北村はのどを食い破られ、畑山は、至近距離から射殺されていた。
北村の傷あとは犬にしては大きく、例えばオオカミなどの野獣に嚙みつかれたものらしい、と検視官は見立てた。
猪山は念のため、近くの〈にこにこ動物園〉に電話をかけた。そこでウルフェンという名前のオオカミが脱走したと判明した。代わりにその檻には、飼育員の平田俊一が閉じ込められていたという。
猪山はすぐ、部下を〈にこにこ動物園〉に向かわせた。
その捜査員から、ウルフェンが動物園に戻ってきたと電話で報告を受けたのは、目撃者の事情聴取を終えてからだ。
ウルフェンは動物園に戻るさい、雪山で遭難した女性を救助したらしい。その女性に怪我はなく、いまは近くの病院に収容されているという。
ウルフェンはひどく疲労している様子で、運んできた女性を従業員に渡すと、その場に倒れた。それでも命に別状はないという話だ。
猪山の頭には、事件のあと行方不明になったという女性が浮かんだ。捜査員にペンションの近くを探させているが、いまだその消息は不明だ。救助された女性のいる病院に、照会してみたほうがいいだろう。
平田の証言も報告されている。そこから猪山は事件の概要を思い描けた。実に単純なケースだ。北村に愛犬を射殺された畑山は、その復讐で北村にウルフェンをけしかけた。そのさい畑山は北村の猟銃で返り討ちにあった。
細かい経緯はわからない点も多く、ふに落ちない部分もあるが、おおよそそれで説明がつくはずだった。しかし、目撃者の証言からはまったく異なる事件の様相が描きだされた。その奇怪な内容に、猪山は苛立つのだ。
猪山は手帳を開き、聴取した証言をあらためて精査してみた。
目撃者は、フロント係の小峰俊一、宿泊客の梶原紗枝、橘真奈美、そして行方不明の雨宮巫女だ。雨宮からは、まだ話を訊けていない。
きのうの午後9時頃に、畑山はペンションの3階にある北村の専用室を訪れた。そのときウルフェンは連れていなかった。オオカミが専用室に侵入したのはいつだ? と猪山のメモ書きがあった。
畑山が専用室に入ってすぐ、格闘の音と銃声がして、オオカミらしきうなり声が聞こえてきた。小峰は、北村の猟犬の声だと思ったという。
小峰がマスターキーでドアを開けると、血だまりに倒れた北村の上に、オオカミが立ちはだかっていた。畑山の姿は室内のどこにもなかったという。唯一の窓には内側から施錠されていた。
目撃者が嘘をついていなければ、畑山がオオカミに変身して北村をかみ殺したように見える。猪山は歯ぎしりした。事件はさらに怪奇さをます。
現場から飛び出してきたオオカミを、小峰は猟銃で仕留めたと言いはった。完全に息の根は止められず、手負いのオオカミは階段を転げ落ちて逃げた。
他の2人の証人に、命中したかと訊ねると、梶原は「わからない」、橘は「見ていない」と答えた。
もう1人の目撃者の雨宮が消えたのはこのあとだ。
同じころ、簡易ベッドを2階の客室に運んでいた従業員が、階段の踊り場で宿泊客とすれちがった。その女性が雨宮巫女だろう。
駐車場には何組かの足あとがうっすらと残っていて、それらに混じり、外に向かう足あとが確認されている。それが雨宮のものではないか。彼女のその後の足取りは不明だ。
小峰はオオカミを追跡し、テラスから中庭にのびる獣の足あとを見つけた。その足あとを小峰は梶原とともに追った。それは畑山の遺体まで続き、そこで途切れていたという。雪面には、発見者二人の足あととオオカミらしき足あとしか残っていなかった、と小峰と梶原は証言した。
――その場所でオオカミが息絶え、畑山の姿に戻ったみたいじゃないか。
その足あとは降雪によって半ば消され、その採取には失敗していた。このメモ書きの文字は濃く、ボールペンのインクがだまになっていた。
目撃者の全員が嘘をつき、自分をバカにしていると猪山は感じた。
所轄署に捜査本部が設置され、捜査会議が始まった。怪奇な事件を伝える証言を報告しなければならなかった猪山は、いっそう苛立ちをつのらせた。自分を見る刑事課長のおかしな目つきが、いまも頭によみがえる。
捜査会議が終わったのは明け方で、その日は聞き込みについやした。翌日の夕方、ふたたび部下とペンションに向かった。目撃者の供述を再確認したかった。
昨日、帰宅予定だったという梶原と橘には、1日だけペンションにとどまってもらった。雪山で遭難したのはやはり雨宮巫女で、彼女たちはその回復を待ちたい気持ちもあるらしい。2人の友人は、警察側の任意の滞在延長の申し出を受け入れた。
猪山は部下の運転で現場に向かった。
ペンションの表には報道関係者が集まっていて、車から降りた猪山たちを囲んだ。記者の質問を無視してロビーに入る。フロント係の小峰を呼んでもらった。
ソファには見知らぬ男がいて、猪山を刑事とふんだらしく、立って声をかけてきた。
「オオカミ男がオーナーを食い殺しただなんて噂を聞きましたが、捜査本部でも信じていないですよね。あの危険なオオカミはすぐに処分すべきです」
「あなたは?」猪山は訊いた。
「北村武彦の秘書をしている鈴木です」
「ウルフェンという名のオオカミが、北村さんをかみ殺したとは断定されていません。あの大陸オオカミは動物園でも貴重な存在だと聞いています」
「ウルフェンは北村を殺していないよ」
2階に上がる階段口に、小柄な女性が立っていた。
発熱しているようで、白い顔を赤くほてらせている。視力が弱いらしく、眼鏡をかけていない目がしょぼついている。目撃者の梶原と橘が付き添っているので、彼女が雨宮巫女だろう、と猪山は当たりをつけた。
退院して大丈夫なのか、といぶかった。巫女の友人によると、こっそり病院を抜け出してきたらしい。事件について、なにか知っているのだろうか。
「雨宮巫女さんですね。あなたの話しを聞きましょう」
猪山はうながした。
「人間の憎悪は、ときとして野獣の形をとってあらわれるの。オオカミ男の正体は畑山さんで、愛犬の仇を討つため、北村を食い殺したんだよ」
またその話か、と猪山はうんざりした。
「犬の件は調べがついています。北村さんは嗜虐的な趣味があったようですね。犬で味をしめたのか、こんどはオオカミを檻から放って撃ち殺そうとした」
そう言って視線を流すと、秘書の鈴木が目をそむけた。
そのとき小峰があらわれた。ロビーの様子に不審げな顔つきになった。
「畑山さんの憎悪が、その姿をオオカミに変えたという話はいただけませんね」
猪山がそう続けると、
「証拠があるの」巫女がはっきりと言った。
「うかがいましょう」猪山は挑戦的に受けた。
「畑山さんを撃った猟銃からは何発、発射されていたの?」
逆に巫女から訊かれた。
「あの猟銃には3発装填されていました。1発目は動物園内で北村がウルフェンを狙ったもので、それは外れました。現場で使用されたのは残りの2発です」
「わたしたちは、北村の専用室のドアごしに銃声を聞いているの。2発目の銃弾もウルフェンには当たらず、その結果、北村はオオカミに食い殺された」
「室内の状況からして、そんなところでしょうね」
「ウルフェンを撃ち損じた2発目の銃弾は、北村の専用室から見つかっているの?」
「ありましたよ。壁にめりこんでいたのを鑑識が採取しました」
そう応えると、巫女の口角がかすかに上がったのを、猪山の目はとらえた。その表情が気にかかったが、まずは巫女に続けさせた。
「廊下に飛び出してきたウルフェンを、フロントの小峰さんが狙い撃ちした。その3発目は当たり、手負いのオオカミは逃げた」
猪山は、それにはうなずかなかった。代わりに、
「オオカミらしき血痕は見つかっていません」
「人狼は魔性の生き物だよ。ふつうに検出できる血のあとは残らないから」
バカらしい、と猪山は鼻を鳴らした。
「命中したんだって。おれは仕留めた瞬間を、この目ではっきり見たんだからな」
小峰が割り込み、強く言いはった。
地元の猟友会で聞きこんだ話では、小峰の銃の腕前はへぼで有名だという。あいつは目がうしろまえについているんだ、とからかわれているらしい。
「わたしも見たよ。オオカミは銃で撃たれて階段を転げ落ちていった」
巫女が小峰に加勢した。
猪山は舌打ちする。やっかいな証言がまた増えた。目撃者がみんなで嘘をつき、よってたかっておれをバカにしているんじゃないか、とさえ思えてきた。
巫女が追い打ちをかけるように、「それで3発目の銃弾は見つかったの?」
「畑山さんの体内に残っていました。猟銃でスラッグ弾を至近距離から撃つと、威力が減じるんです。かれが着ていた厚手のコートとセーターも衝撃を和らげたんでしょう。その弾丸も採取して科捜研にまわしてあります」
「せんじょうこんは調べたよね」
「――は?」
猪山はすぐには応えられなかった。
「線条痕よ。弾丸が銃身の内側を抜けるときにつく傷あとで、それによって、弾丸がどの銃から発射されたかが特定できる。刑事のくせに知らないの?」
――それくらい知っている。
こんな小娘から『線条痕』という用語が出てくるとは思わなかったのだ。
「もちろん調べています。まだ結果は出ていませんけどね」
とだけ猪山は答えておいた。
「それが証拠だよ。畑山さんの体内に残っていた弾丸は、小峰さんがオオカミを撃った猟銃と間違いなく一致するから。撃たれたオオカミは、雪の上を逃げるとちゅうで力尽き、そこで畑山さんの姿に戻ったの」
強く言い切ると、巫女の身体がふらりと揺れた。
「みいこ、みいこ」
2人の友人があわてて巫女を支えた。その様子を、小峰と北村の秘書が、驚いた表情で見つめている。
雨宮巫女は、「線条痕」を指摘するために病院を抜け出し、現場で警察の人間を待ちかまえていたらしい。
ロビーの騒ぎをよそに、「またあとで来ますよ」と言い、猪山は部下をうながして駐車場に出た。
山のかげに沈みかけた夕日が、雪に縁どられた稜線を深紅に染めている。
捜査本部に戻りながら、猪山は奥歯をかみしめた。科捜研の鑑定結果は出ていた。小峰がオオカミを仕留めたと称する猟銃と、畑山から検出した弾丸の線条痕はたしかに一致していた。しゃくなので、あの女には教えなかった。
2週間が過ぎても、事件解決のめどはたたなかった。
北村と畑山は相討ちになったという最初の考えは捨てていない。しかし、目撃者の証言や現場の状況から、それでは事件の説明がつかないのだ。さらには、被疑者は死亡している。不起訴になる可能性は高かった。
ウルフェンはというと、遭難した人間を助けた村の英雄だとテレビで取り上げられた。村おこしに利用する計画まで出ているらしい。
くそっ、あのオオカミが北村を食い殺したに決まってるじゃないか。畑山がオオカミに変身するわけがない。バカらしい。
部下の運転で捜査本部に戻る道すがら、猪山の携帯電話が鳴った。
「お父さん、今日は家に帰ってこられるんだよね」
小学2年生の息子の圭二からだ。
「そんなわけないだろ。この携帯にはかけるなと、お母さんに言われなかったか」
猪山は思わず、怒りをぶつけてしまった。
「あなた」妻の美雪に代わった。「仕事のいらいらを圭二に向けないでよ。誕生日くらいは都合をつけてくれたっていいじゃない」
「バカ野郎。刑事に誕生日を祝ってやる暇なんかあるもんか」
電話を切った。くそっ、あいつは何年、刑事の妻をやっているんだ。いったい、誰の誕生日を――。
おれのか。すっかり忘れていた。
「係長。きょうは息子さんか奥さんのバースディですか」
ハンドルを握る刑事が、ちゃかした口調で訊きやがる。
捜査会議を終えて帰宅したのは午前0時過ぎだった。
ついにおれの誕生日には間に合わなかった、と思いながら猪山はリビングの照明をつけた。ガラステーブルに散らばったクレヨンと、スケッチブックに目がとまった。圭二のだろう、あえてスケッチブックを手にとる。
「勝手にのぞかないで。それは圭二からあなたへの誕生日プレゼントよ」
寝巻き姿の美雪がリビングに入ってきた。
「まあ、いいじゃないか」
猪山は表紙をめくる。
そこには猪山らしき男と並んで、口が耳まで裂けた、犬にしては大きな動物が描かれていた。これはオオカミではないか、と猪山は推測した。その上に青いクレヨンの太いひらがなで、『ぼくのえいゆうたち』とあった。
「オオカミを見せに、圭二を動物園に連れていったのか」
猪山は美雪に訊いた。
「テレビで特集していたのよ。ウルフェンは子供たちに大人気らしいの」
「そうか」猪山はスケッチブックに目を落とした。
『ぼくのえいゆうたち』
ほとんどかまってやれなかったのにな――。じん、と胸が熱くなった。
つぎの非番には映像ではなく本物の英雄を圭二に見せてやろう、そう心に決めた。
猪山はスケッチブックを閉じ、のぞいたと息子に気づかれないよう、ガラステーブルのもとあった場所に置きなおした。
了