3 北村武彦
北村武彦は、鳥や小動物を撃つだけでは満足できなかった。それは狩猟ではない。ただのお遊びだ。猟というのは、狩るものと狩られるものとの戦いだ。北村は実戦がしたかった。なによりオオカミを仕留めたい。
しかし日本に野生のオオカミはもういない。害獣だからと殺しまくり、絶滅させてしまった。
――くそお。おれにも残しておいてくれよう。
北村はくやしくてしかたない。一世紀早く生まれていればと悔やんだ。オオカミを仕留めるのは、いつしか北村の宿願となっていた。
そのためにどうするか。
北村のおさななじみで、〈にこにこ動物園〉で飼育員をしている、平田俊一の痩せて頬骨のはった顔を思い出した。
土地の有力者である北村家は、昔から平田の家族を目にかけてやっていた。失業していた平田を動物園に雇わせたのも、北村の口利きだった。
そこで平田に会い、オオカミを檻から放ってほしいと頼んだ。さすがに平田はしぶっていたが、30万円を提示すると、痩せた顔をほころばせて承知した。50歳を過ぎて子供ができ、なにかと入用だったらしい。
日曜日の夜、北村は入園ゲートを乗り越えて動物園に侵入した。
オオカミの檻に向かう途中で、ふいに吠えかけられた。犬小屋にいたのは大きな灰色の犬で、オオカミかとひるんだ。黙らせるために射殺した。
北村は、犬の死骸をそのままに、しばらく園内の様子をうかがった。密猟者が発砲したと思ったのだろう、あわてた様子で駆けつけたのは宿直の平田だけだった。
猿山の向こうで、宿舎の窓に明かりがついた。オオカミを放つ計画はさすがに延期せざるをえなくなった。
北村は平田に手伝わせ、犬の死体を山林に運んだ。園内に残しておけば、今後の警備が厳しくなるだろう。騒ぎが大きくなるのも避けたい。動物園をさまよいだした犬が、密猟者に撃たれたと思わせる狙いだ。
犬の射殺は思わぬ誤算だったが、うれしい誤算でもあった。北村は興奮し、本物のオオカミを殺さずにはいられなくなった。それには職員の少ない定休日がいいだろう。〈にこにこ動物園〉は月曜定休で、明日がそうだ。平田はせめて来週にしてはとしぶったが、もう待てなかった。
月曜日の午後7時過ぎに、北村は平田の手引きで山側の門から園内に侵入した。雪は六時頃から降りつづいていた。壁に設置された常夜灯の光のなかで、粉雪が舞う。
北村は、オオカミの檻に近い木かげに入り、猟銃をかまえて身をひそめた。
使用している銃は手動連発式で、単体で発射するスラッグ弾を3発装填していた。散弾は使わない。狙い撃ちで獲物を仕留めるつもりだ。
北村のひそむ木かげから20メートルほど離れた常夜灯の下に、あらかじめ餌を置いてあった。
殺したあとで死骸は動物園の裏にある山林に平田と運ぶ予定だ。脱走したオオカミが襲いかかってきたので、やむなく射ち殺したという筋書にする。
平田が檻から解放したオオカミが現われた。餌につられたオオカミが、あたりを警戒しながらも、おもいどおりの場所へ向かう。
獲物が餌に食いついたところを、北村は会心の一撃を放った。
それが外れたとき、北村は目を疑った。
オオカミは逃げようとしなかった。きょとんとした顔つきでその場に突っ立ち、北村に黄色い目を向けてくる。
動物園で生まれ育ったので、自分になにが起きたのか、その危険性を理解していないのだろう。
北村はすぐに気をとりおし、第2弾を薬室に送り込む。
ボルトの音が響いたとたん、オオカミが身をひるがえした。北村は狙いを定めるひまもなかった。
オオカミはものすごい勢いで園内を駆け抜ける。門の柵を乗り越えると、動物園の裏手に広がる山林に逃げ込んだ。
北村はすぐさまあとを追った。
山林は新雪におおわれていて、獲物の足跡を追うには好都合だった。北村は懐中電灯を手に樹々のあいだに分け入りながら、狩猟の興奮に心を震わせていた。
かならずあいつを仕留めてみせる――。
懐中電灯の光のなかに続く足跡を追い、しっかりした足取りで山に入っていった。
ほどなく山林が途切れ、川にぶつかった。12メートルほど先の対岸に、樹々におおわれた林道が続く。
北村は、すねほどの深さの流れに足を踏みいれた。氷つくような冷たさを我慢して向こう岸まで渡った。
北村の足はそこで止まった。
雪の上にオオカミの足跡は残されていなかった。まっさらな雪面が続いているだけだ。
おれの追跡を振り切ろうと、林のなかに飛び込んだのではないか。
北村は懐中電灯の明かりを周囲の茂みや木陰に向け、獲物の痕跡を探しまわった。念入りにあらためたが、オオカミの足跡はついに見つからなかった。
北村は頭をかきむしり、地団太を踏んだ。
宿願がついえたとわかると、北村は逃走したオオカミが気になりだした。人が襲われる事態よりも、そこから、オオカミを放した計画がばれるのでは、とそのほうがなおさら心配だった。
平田は、おれの計画を黙っていてくれるだろうか。いっそ、あいつを撃ち殺そうか。不穏な考えをいだきながら山を下りた。
北村がペンションに帰りついたのは午後8時40分頃だった。
自分の専用室でベッドに座り、獲物を打ち損じた結果にくやしがった。悔やんでも悔やみきれない。オオカミの脱走が判明すれば、猟友会による山狩りが行なわれるだろう。そのときこそ、おれがかならず仕留めてみせる――。
そう決意を固めたところで、北村はトイレに行きたくなった。使用したばかりの猟銃をベッドの上に放りだし、部屋を出て行った。
*
はじめて間近で銃声を聞いたとき、ウルフェンは非常なショックを受けた。まさか、自分の命が狙われているとは思いもよらなかった。
驚きの視線を向けると、恰幅のいい人間のシルエットがあった。その様子はどこか間が抜けて見えたが、その手に構えている長い筒はやけにまがまがしく感じられた。鼻をつく臭いが不快だった。
その臭いが、先祖がウルフェンに伝えてくれた本能を呼び覚ました。あの人間は自分の敵だ。自分の命を狙っている――。頭に警鐘が鳴り響いた。
がちゃり、と音がするや、体がそくざに反応していた。
身をひるがえしたウルフェンは猛烈な勢いで走った。園内をいっきに駆け抜けると、柵の低くなったところを飛び越え、林のなかに逃げ込んだ。
いまは頭上をおおう樹々のあいだから、雪が舞い下りる。吹き抜ける風は冷たく、ほてった体を冷やしてくれる。新雪の積もった感触はさくさくと足裏に心地いい。
こんなに思いきり駆けたのは初めてだ。自分をとりまく世界がこれほど広いとは想像もしなかった。身内に解放感が満ちあふれる。四肢に力がみなぎる。内なる野生がよみがえる。
ウルフェンは一心に走りつづけた。
しばらくすると林道は開け、川に行く手をさえぎられた。ウルフェンは前脚を一歩踏み入れ、あまりの冷たさに、すぐ脚をあげて全身を震わせた。
川の流れはゆるく、12メートルほど先が岸になっている。その先はまた、頭上おおう林によって、暗いトンネルがまっすぐ雪道をつらぬいていた。
意を決すると、ウルフェンは静かに足を下ろし、慎重に流れのなかを進んだ。川のまんなかでは流れが強く、川下に流されそうになる。足をとられまいと四肢を踏んばった。
そのとき、ウルフェンの頭にひらめくものがあった。川を渡るのをやめ、その流れにそって歩きだした。
岸辺に、雪をかぶった茂みが生えているのが目に止まった。ウルフェンはそこから岸に上がり、すっかり雪におおわれた森に分け入った。
雪面はゆるやかな登りで、カラマツの樹林帯をぬって続いている。ウルフェンは腹まで雪に埋まりながら、力強い両肩で雪を押し分けて進んだ。
しばらく登ると、カラマツの樹林が途切れ、かたく雪の凍結した尾根に出た。そこから山並みが一望のもとに見晴らせた。
雪はやんでいた。薄い雲から銀色の光がにじんでいる。連なる稜線が谷間をおおい、はるか眼下では、雪の降り積もった樹林帯が黒々と広がる。
ふいに孤独感がわきおこった。ウルフェンは大自然のなかに独りぼっちだ。これからどうしたらいいのだろう? 見当もつかなかった。
ウルフェンは体をかがめると、前脚にあごをのせ、目をすがめた。眼下のアカマツの樹林帯の先に、白い建物がかいま見えた。
人間の住まいだろう。本能的に強くひきつけられるものを感じた。
命を狙われたばかりだが、動物園で飼育員にずっと育てられてきたウルフェンは、人間なしでは生きていけないのも理解していた。自然の広大さが、いっそう孤独をつのらせる。もうれつに人恋しくなってきた。
ウルフェンは大きく伸びあがって吠えた。強い想いがこめられた遠吠えが、薄い雲におおわれた夜空にこだました。
山を下りたウルフェンは、白い建物が木の間ごしにのぞける場所までたどりついた。林のなかを迂回しながら用心深く進む。
植え込みの向こうに、明かりの灯った建物の出入り口があった。雪の積もった敷地には、3、4台の車が止まっているだけで、人間の姿はなかった。
ウルフェンは植え込みを飛び越え、出入り口の屋根の下に立った。石畳に雪は積もっていなかった。
足を一歩踏みだすと、透きとおったドアが横に開いた。びくりと退く。
罠でないらしいのを確認してから、そこを通り抜けた。そのとたん、敵の匂いをかぎつけ、もうれつな怒りがわきあがった。
いったん外に出て、再び閉まったガラスごしに、なかの様子をうかがう。
照明の抑えられた室内の斜め向こうにカウンターがあり、そこに人間が1人いる。頬杖をつき、うたた寝をしているらしい。
ウルフェンは低い姿勢で、すばやく侵入すると、壁にそって進んだ。カウンターの前をこっそり通り抜け、階段の上がり口に到達した。
敵の、まだ新しい体臭がした。身内に広がる怒りをこらえ、臭跡をたどって階段を上がった。
3階の廊下に出た。天井で照明が音をたて、びくりと足を止める。身動きしないでいると、明かりは一度瞬き、ふたたび点灯した。
少し待って動きだした。目的地はすでにわかっていた。その部屋の前に来ると、わずかに開いたドアから明かりがもれている。
さっと周囲に視線を走らせ、誰もいないのを確認してから、ドアを押して体をすべりこませた。
いっきにあいつの体臭をかぎとり、全身の毛が逆立った。その臭いに混じって、あの恐ろしい刺激臭もした。
ベッドカバーの上に、黒光りのする細長い筒が転がっている。ウルフェンは怒りのあまり、その筒に襲いかかりたい衝動にかられた。触らないにこしたことはない、とグッとこらえた。
あいつはいなかったが、ここが住処なのは、その臭いの濃度から間違いない。
ウルフェンは身をひそめる場所を探した。まっさきに目についたのはベッドの下だ。その上の武器は気になるが、他にいい場所はない。
ウルフェンはベッドの下に這い込み、鼻づらをドアに向けて、敵の帰りを待ち受けた。
ほどなく足音が聞こえ、ドアが開いてあの体臭が部屋に入ってきた。ウルフェンの全身の毛が、憎悪でささなみだつ。
2本の足が近づき、頭上のスプリングがきしんだ。カチリと音がして、枯れ葉の焦げるような臭いがする。鼻がむずがゆくなった。あいつが片方の足を小刻みに揺らしながら、調子っぱずれの声をあげはじめた。
襲いかかりたい衝動はあるが、ベッドの恐ろしい武器の存在が気になった。しかし、これ以上は、復讐を待っていられない。
動きだそうとして、ドアを叩く音がした。
あいつが立ち上がり、その足がドアに向かう。部屋の外にも別の人間がいて、ドアごしに話しあっているらしい。
ウルフェンは耳をそばだてた。
「――北村さん。ぼくは動物園の飼育員をしている畑山です」
ドアの向こうの声には聞き覚えがあった。なんだか懐かしい気持ちになってくる。
「おれはあんたを知らないんだがね」
このだみ声はあいつのものだ。
「あなたは動物園で飼われていた犬を射殺しました。それだけではあきたらず、自分の楽しみのためにオオカミを檻から出し、撃ち殺そうとしていますね」
「なんの話だかわからないね。人を呼ぶぞ」
「7時過ぎに、動物園の宿直をしていたぼくは、銃声を聞きました。そしてオオカミの檻の近くに、飼育員の平田を見つけたんです。このままドアごしに話をつづけますか。部屋のなかで相談したほうがよくはありませんか」
「わかった。あんたの相談にのろう」
ウルフェンには、会話の内容はわからなかった。しかし、人間が2人いるいま、襲撃が失敗するおそれが2倍に増えたといえる。ここは待機を決めた。
鍵の外れる音がし、懐かしい匂いが入ってきた。
ほどなく激しく床を踏み鳴らして争う音がして、ウルフェンはあごを上げた。
足が入りみだれ、ふたつの影がもつれあう。一方がはじかれ、壁に激突する音がした。同時にベッドの上に重量がかかり、つぎの瞬間、爆音が耳をつんざいた。
ウルフェンの心臓は飛び上がった。
低いうめき声が聞こえ、どすんと鈍い音がつづいた。ものが焦げる不快な臭いが鼻につく。あの武器だ、と気づいた。
頭上でスプリングがきしみ、どちらかがベッドから立ち上がったらしい。
いまの轟音は動物園で自分を狙ったものと同じだった。ウルフェンは恐怖にかられ、身じろぎひとつできなくなった。さらにあの刺激臭だ。あの長い筒を持った人間には襲いかかってはいけない、と本能がかれに教えた。
あいつの足が苛立たしげに床を往復しだす。
*
畑山は壁に背中をもたせかけ、両足を床に投げ出した姿勢で、こと切れているようだ。コートの左胸の焦げた弾痕から血が垂れている。至近距離からスラッグ弾をまともにくらったのだ、まず助からないだろう。
いきなり、襲いかかってきたのはあんたなんだぜ――。
北村は、畑山の足先に転がる狩猟ナイフに、いまいましげに目をくれた。
射殺してしまったものはしかたないが、遺体をこのままにはしておけない。おれ1人で屋外に運べるだろうか。いや、死体を引きずって廊下に出るのは危険だ。午後九時をまわったとはいえ、宿泊客や従業員に見とがめられる可能性は高い。それより――。
北村は、暗い窓に視線を走らせた。
先に遺体を外に放りだしてから、ペンションを出ればいい。建物の裏手には、すぐ樹林が広がっている。そのなかに密かに運べるのではないか。
畑山の死体を運びにかかったところで、ドアがノックされた。
「北村さん、フロントの小峰です。銃声がしたようなんですが」
「猟銃が暴発したんだ。なんでもないから、あんたは仕事に戻ってくれ」
言いながら、北村は死体を引きずった。
「畑山という男が訪問されませんでしたか」
ぎくり、と北村は足を止めた。
「そんなやつは知らん。いいから、おまえはフロントに戻れ」
窓を静かに開くと、雪まじりの寒風が吹きこみ、北村の顔をうつ。北村は腕にこんしんの力をこめ、畑山の上半身をうつ伏せに窓わくにのせた。そこで一息ついてから、夜の闇に向かって、遺体を突き落とした。
鈍い音が響く。屋根に積もった雪が落下した音だと思われただろう。
北村は窓を閉め、クレセント錠をかけた。重い金属音が響いたのはそのときだった。
*
ウルフェンはベッドの下からあいつの動きを見守っていた。
あいつは、もう一人の人間を引きずってベッドの向こうにまわった。ガラリと音がして、冷たい外気が吹き込んでくる。ウルフェンのいる位置からでは、あいつがなにをしているのかは、わからなかった。
ウルフェンはこっそりベッドから這いだした。なにかが頭にかかり、それが引っかかって足を止めた。そのとき雪のかたまりが屋根から落ちたらしい。窓が閉められる音がし、カチリと施錠音が続いた。
ウルフェンは、からみつく布にはかまわずに這い進む。金属の重い落下音が聞こえた。視線を転じると、払いのけたベッドカバーの上に、あの恐ろしい武器が転がっていた。
暗い窓の前には、恐怖に目を見開いたあいつがいた。
ウルフェンの怒りは、一瞬にして、はじけた。うなり声をあげ、両肩を怒らして威嚇する。あいつの視線が、あの武器をとらえた。ウルフェンはとっさにそれを蹴り飛ばすと、ためらわず敵に飛びかかった。
ベッドわきのナイトテーブルごと突き倒した。ものすごい力で暴れるのを、前足で床に押さえつけ、爪をつきたてる。悲鳴があがると、ウルフェンの体内の血がわきあがった。犠牲者の急所を食い破り、その身体を引きまわした。
鍵の音がしてドアが開いた。
ウルフェンは、仕留めた獲物の上に立ちはだかり、視線を走らせる。
そこにも人間がいた。こいつも敵だ――すぐにそう判断した。新たな敵が退くや、ウルフェンはいっきにドア口まで跳んだ。
そのあとの出来事は、頭に血が昇ってよく覚えていない。心を揺さぶられる出会いがあった気がするが、あの恐ろしい武器が火を吹き、全て記憶から消え去った。
ウルフェンは階段を転げ落ちた。踊り場で起き上がり、さらに2階から1階へと階段を下りる。ロビーに足を踏みだし、すぐに体を引っこめた。
ロビーでは2人の人間が、なにか重いものを運んでいる最中だった。いったん荷物を下ろし、一息ついている。ウルフェンはじっとその様子をうかがった。
「上のほうで、どすん、となにか落ちたようですよ」
「なんだろう? なんにしても、いまは両手がふさがっていてだめだ」
「簡易ベッドが見つかってよかったですねえ」
「あの天文学者のクレーマーには、毎年、手をやかされるんだよ」
2人の人間が運搬を開始した。こちらに来る。
ウルフェンは静かに階段を上がり、2階の廊下まで戻った。頭上で舌打ちがして、階段を上がっていく音が聞こえた。上下の階で挟まれた。
左右に走る廊下の一方の先に、ドアが開け放たれ、明かりのもれる部屋があった。ウルフェンは廊下を抜け、その部屋にすばやくすべりこんだ。
とたんに灰色の空が目に飛び込んできた。正面の窓が開け放たれ、その前の架台に、あの恐ろしい武器をさらに大きくした筒がのっている。
もうれつな怒りにかられたウルフェンは、架台に体当たりして、その道具をはね飛ばした。
気持ちが落ち着くと、ウルフェンはその部屋でやりすごそうと決めた。
しばらくして、みしみしと重い足音が聞こえてきた。その音が廊下を渡りだした。人の話し声が迫る。
まずい。この部屋に向かってくるらしい。もはや逃げ道はひとつしかない。
ウルフェンは窓わくを乗り越えると、雪の降る夜空に向かって跳んだ。
着地した足裏の感触が異様で、思いがけずバランスをくずした。足の下には、人間があおむけに倒れていた。その上に薄く雪が散りしいている。顔を近づけると、とたんに火薬の匂いが鼻につき、ウルフェンは一歩あとずさった。
――罠だ。と、太古の記憶が教えた。危険に気づいたら、むやみに動いてはいけない。もっとも安全なのはもと来た道だと。
もと来た道――。
ウルフェンは、とっさに判断すると、遺体からゆっくりあとずさりしだした。片側にのびる建物の白い壁を横目で確認しながら、まっすぐ後退していく。
建物が途切れ、その角まで来た。
視線を上げると、2階の一番奥の窓から明かりがもれている。
自分はあそこから飛び下りたんだと、このとき思い出した。もと来た道をたどっていたのではなかった。しかし、危険はさけられたらしいので安堵した。
雪は降りつづいている。ウルフェンは、このあとどうしようかと考えた。ふいに屋内から人影があらわれ、ウルフェンは身構えた。
ほんのりと白い顔が浮かび上がる。黒装束に身を包んだ人間だった。
その人物はウルフェンを見てビクリと足を止めた。唇を引き結び、大きなまん丸い目を輝かせ、じっと見つめてくる。
ウルフェンは、その相手と向き合った。低いうなり声をあげ、威嚇するが、なぜか、逆立てた毛はなえ、体じゅうの力は抜けてしまう。
――この人を傷つけてはだめだ。
心にわきあがった感情が理解できない。おかしな気持ちだった。人間はすべて敵だと思いはじめていた。それなのに――。
「……おいで」
手が差し出された。相手はぶるぶる震えているが、その声には威厳があった。それは呪文のようにウルフェンの体内に溶け込み、太古から受け継いだ血に浸透する。
――この人間は、自分のご主人さまに違いない。この場所まで導き、復讐をとげさせたのも、ご主人さまの力なのだろう。
ウルフェンは静かに進みでると、前足を伏せ、その上に深く頭を垂れた。
続




