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2 梶原紗枝

「……ちくしょう。シルバーを撃ちやがって」


 畑山の目に涙が光る。


 紗枝は、猟銃をかついだ北村武彦の姿を、はっと思い出した。


 真奈美に目を向けると、彼女の顔は真青だった。畑山に手を差しだした姿勢のまま、なすすべもなく立ち尽くしていた。


 そのとき紗枝は、集まった作業員のなかの、痩せて頬骨のはった中年男と目があった。男はすぐに帽子のひさしを下げ、うしろめたげに顔をそむけた。


「――ぼくはオオカミになりたい。なってシルバーを殺したやつを八つ裂きにしてやる。人間なんか、みんな死んでしまえばいいんだ」


 畑山が不穏な言葉をはいた。


 紗枝のうしろから、巫女がそっと犬の死骸をのぞきこんでいる。


 巫女は犬が大の苦手だ。犬と目が合うと、かならず吠えつかれる。逆に猫にはなつかれ、カラスは集まってくる。さっきからずっと紗枝のそばを離れようとしないのは、死んだ犬でもどこか怖いのだろう。


 突風が畑山の髪を逆立たせる。涙に濡れた両目がらんらんと輝いた。


 動物園で飼われていたシルバーは、畑山に一番なついていた。仕事のあと畑山がいつも散歩に連れ出していたという。今朝、犬小屋にいないのに気づいた畑山が探しまわり、山林に捨てられている死骸を見つけたらしい。


 その園内には誰でも入り込める。外部犯とも内部犯とも考えられた。真夜中に銃声を聞いたという飼育員の証言もあるという。


 紗枝はまた、北村の鬱屈した表情を思い出した。北村の姿はきのうから見かけていなかった。


 完全に人間を拒絶した畑山を残し、紗枝たちはいったんペンションに戻った。巫女とスキーの準備を始めるが、真奈美は気分が悪いからと部屋に残った。


 有給休暇は明日までだ。昼過ぎにはスキー場をたつので、午前中に滑っている時間はあまりない。だから紗枝は、今日のうちにたっぷり滑走を楽しみたかった。


 急斜面から雪煙をあげて、紗枝は空中に舞い上がった。


 空中でバランスをとって着地すると、細かなターンを繰りかえして滑りおりる。平坦部まできて、両方のスキー板をそろえて急停止した。


 ゴーグルを外して空を見上げた。低く垂れこめた雲間が、橙色に滲んでいる。雲行きがあゆしくなってきた。いまにも雪が降りだしそうだ。


 心がはずまないのは、天気のせいばかりではない。何者かに撃ち殺された犬と、その世話をしていた畑山の暗い目の光が、脳裏にこびりついていたからだ。


 巫女がリフトから降りてきた。


 ここは中級者コースのリフトの終着点である。山頂にある上級者コースに向かうゴンドラとの中継地点にもなっていた。


 リフトから、きのうの色男とバンダナ男が降りてきた。


 そういえば、スキーの練習を終えた真奈美を放ったからして、それからずっと姿が見えなかった。真奈美とはなにかあったのだろうか。


 紗枝の視線に気づいた2人が、ゴーグルをつけた顔をさっとそむけた。ばつが悪そうな様子で背中を向け、いそいそとゴンドラ乗り場に向かった。


 なんだ、あいつら――と紗枝はいぶかった。


 これからナイターが始まる時間だが、紗枝は、早めに切り上げようと決めた。滑り足りない気持ちはあるが、スキーを楽しむ気分じゃないし、ペンションの部屋に1人残してきた真奈美も心配だ。


 紗枝と巫女はペンションに戻り、ふさいだ様子の真奈美とともに食堂に降りた。夕食のあと、気分転換に、近くの町にカラオケに出かけた。


 その途中で雪が降りだした。カラオケ店を出たのは8時20分頃で、そのときには雪は止んでいた。降っていたのは2時間ほどだったらしい。新雪が歩道に薄くつもっていた。


 帰りがけに、畑山が勤める動物園の前を通ってみた。アーチ門にはシャッターが下り、定休日の看板がかかっていた。月曜日は休みらしい。


 ペンションについたのは午後9時近くで、再び雪がちらつきはじめた。


 紗枝たちは歩道から敷地内の駐車場に足を踏みいれた。舞い散る雪のなか、玄関ポーチに、長いコートを着た人影があった。出入口の外灯がつかのま、男のやつれた青白い顔を照らす。男のシルエットが玄関に消えた。


「畑山さんよ。いったいどうして」


 真奈美が不安そうな表情で言い、足を速めた。


「まな。さっきの人、本当に畑山さんだったの?」


 紗枝は追いつくと、駐車場を横切りながら、そう問いかけた。


「間違いないわ。あのかげりのある顔は、ぜったい彼よ」


 畑山さんがなぜ――? 


 紗枝は嫌な予感がして、ペンションの3階を見上げた。オーナーの北村の専用室が、その階のどこかにあるはずだ。猟銃をかついだ北村、射殺されたシルバー、北村の鬱屈した表情が、紗枝の脳裏を離れない。


 紗枝は、明かりの灯った玄関ホールに入った。


 フロントには痩せた初老の男がいて、宿泊客らしい相手ともめていた。


「早くベッドを代えてくれないと、いつまでたっても寝られやしない」


 クレームをつけているのは、50代の小柄で太った男だ。ベレー帽をかぶり、黒ぶちの眼鏡をかけ、鼻の下にちょびひげを生やしている。


「申し訳ございません。ただいま手配しているところです」


 丁寧に言うフロント係に、宿泊客が「頼むよ」と言い捨て階段を上がっていった。


 フロント係の顔つきが、いまいましげに変わる。昼間は若い係がいたので夜勤なのだろう。ネームバッジには小峰とあった。


 小峰が紗枝たちに気づいた。


「天文学者だそうだ。ベッドの底板が抜けたから代えろだと。自然には抜けるもんか」ぎょろ目をむきだして反発する。「今夜は大事な天体観測があり、いったん雪が止んだので、雲が切れるんじゃないかと学者の先生は期待したらしい。そのあてが外れ、おれにあたったに違いないんだ」


 それは紗枝の知ったことじゃない。


「いま、若い男の人が通りませんでしたか」とカウンターに寄ってたずねた。


「通ったとも。泊まり客じゃないようだから呼び止めようとしたんだが、クレーマーにつかまっているあいだに素通りされた」


「どこに向かったかは、わかりませんよね」


「まあね。思いつめた顔つきで、目的の場所はわかっているような足取りだった。ペンション荒らしなら、おれが撃ち殺してやるよ」


 小峰が猟銃をかまえるまねをする。


「おれは地元の狩猟クラブの会員なんだ。若いころは射撃の名手だったんだけどなあ」


「おじさん、北村は帰っているの?」


 いつのまにか背後に、巫女の真剣な目つきがあった。


「オーナーなら、いまさっき猟から帰ってきたばかりだよ」


「本当に。で、北村さんの部屋はどこ?」


 紗枝は勢いこんでたずねた。


「なんだよ、そんなに血相を変えて。オーナーの専用室は3階の6号室だ」


「行こう、紗枝ちゃん」切迫した巫女がうながした。


「まな、306号室だって。畑山さんも、そこにいるかもしれない」


「なんで、そう思うの?」


 その質問には答えず、紗枝は真奈美の腕をとった。


「畑山というのか」と小峰が顔をしわめ、「なんだか挙動不審なやつだった。おれも行こう。北村さんの専用室まで案内するよ」


 そう言って、カウンターの前を抜けた先の階段を上がりはじめた。紗枝は真奈美につきそって、そのあとに続いた。巫女もついて来ている。


 3階の階段ホールに出ると、左右にのびる廊下に突きあたる。


 常夜灯に照らされ、廊下の片側にドアが並んでいる。階段ホールから見て、右手の廊下には2部屋、左手には4部屋ある。その4部屋のうち奥のドアの前に、コートを着た青年がいた。ドアごしに小声で話している。


 つぎの瞬間、ドアが細目に開いて廊下に光がもれ、畑山の身体が室内にするりと消えた。カチリ――とロックのかかる音が、静まりかえった廊下に響く。


 ほどなく、床板が激しく踏み鳴らされた。男の悲鳴があがり、誰かが床に転倒したらしい。激しい格闘の音が続き――。


 一発の銃声がした。


 紗枝は、しばらくその場を動けなかった。聞こえてきた銃声が、紗枝の行動をためらわせた。他の3人も同じ気持ちなのだろう、誰も身じろぎひとつしない。


「様子を見に行ったほうがいいよね」


 紗枝は言い、小峰がうなずいた。


 廊下を進もうとしたとたん、常夜灯が明滅して、切れた。


 紗枝は目が暗闇に慣れるのを待ち、再び歩きだした。畑山が入ったドアの前で立ち止まり、スマホの電灯で部屋番号を確認する。


 306――間違いない。北村の専用室だ。フロント係が前に出て、ドアをノックした。


「北村さん、フロントの小峰です。銃声がしたようなんですが」


「猟銃が暴発したんだ。なんでもないから、あんたは仕事に戻ってくれ」


 北村の応答までに5、6秒の間があった。


「畑山という男が訪問されませんでしたか」


「そんなやつは知らん。いいから、おまえはフロントに戻れ」


 言われて、小峰が、どうする? と目を向ける。


 紗枝はこのまま黙って引き下がるつもりはない。そのときドアごしに動物のうなり声が聞こえてきた。


 あわただしい足音がして、男の悲鳴があがる。声はすぐにやみ、なにかがぶつかる音がして、重いものが床に倒れたらしい。動物のうなり声がさらに高まる。床板がきしみ、激しく打ち鳴らされる。ほどなく物音はやんだ。


 紗枝はわれに返り、小峰を押しのけて、ドアを連打した。


「北村さん。大丈夫ですか。なにかあったんですか」


 返事はなく、獰猛なうなり声とともに、ドアにぶつかってくる音がした。


「北村さんの猟犬でしょう。自分の部屋によく連れ込んでいるんですよ。その犬が、畑山って男に襲いかかったのかもしれない」


 小峰が言い、上着のポケットから鍵束を取り出した。マスターキーなのだろう。錠を外して、ゆっくりドアを押し開く。


 ドア口からすぐ部屋になっていて、明かりがついている室内の様子は一目でわかった。


 床にナイトテーブルが倒れ、スタンドが転がっている。ベッドカバーが引きはがされ、ベッドの手前の血だまりに、男がうつ伏せに倒れてもがいている。その背中には、黒い大きな獣がのっていた。


 獣は黄色い両目を輝かせ、口を真っ赤に染め、肩を怒らせる。


「オオカミだ」小峰が声をあげ、ドア口からしりぞいた。


 男の背中から降りたオオカミが、体じゅうから殺気をみなぎらせて脚を踏みだした。体長は150センチほど、肩までの高さは1メートル近くもある。たてがみを逆立て、恐ろしいうなり声をもらしながら迫る。


 紗枝はすぐにドアノブを引いた。


 ドアは大きく開かれたまま、閉まらない。床に猟銃が転がり、それがドアと敷居のあいだに斜めにはさまっていた。紗枝は血の気が引いた。


 オオカミが襲いかかってきた。


 紗枝はとっさにドアノブから手を離し、うしろ向きのまま飛びのいた。


 オオカミがひと跳びで廊下に飛び出してきた。


 真奈美の悲鳴があがる。


 紗枝は廊下の壁ぞいに逃れ、オオカミと距離をとった。壁に背中があたる。廊下のその先は行き止まりだ。常夜灯が切れて薄暗いなか、ひときわ黒い影が立ちはだかり、黄色い瞳を光らせる。


 紗枝は壁ぎわに追いつめられ、身じろぎひとつできなかった。動いたとたん、飛びかかってきそうだ。


「――だめ」


 巫女の白い顔が浮かび上がった。丸い眼鏡の奥の表情はわからないが、震え上がっているのは明らかだ。 巫女が恐るおそる獣に近づき、


「紗枝ちゃんはわたしの友達だから、危害をくわえないで」


 巫女が話しかけるが、言葉が通じるはずがなかった。


 意外にも、オオカミの目から敵意が薄れる。紗枝は驚いた。巫女に敬意を表するかのように、前脚を床について頭を垂れた。


 そのすきに小峰がそっと動いた。北村の部屋から蹴りだされたのだろう、廊下には猟銃が転がり出ていた。小峰がそれを拾う。


 気配を察したらしく、オオカミが振り向いた。小峰が構えた猟銃の銃口は、開け放たれたままのドア口と、オオカミとを斜め一直線に結ぶ。


 銃声がとどろき、黒いかたまりが身をひるがえした。


 オオカミがすばやく廊下を逃げ、階段ホールに消える。すぐに階段を転げ落ちる音がこだました。ずしんと鈍い落下音が響く。


 硝煙が立ち上がり、火薬の匂いがする。廊下は一瞬にして静まり返った。突然に起きた出来事に、紗枝は壁ぎわでかたまっていた。


 廊下の先でドアが開き、光がもれる。宿泊客がのぞきみているのだろう。他にも客はいるはずだが、残りのドアは閉まったままだ。


 もっとも部屋の外で銃声が聞こえ、好奇心を起こしてのぞくのは危険だ。銃を持った賊と鉢合わせるかもしれないし、賊の顔を見ようが見まいが、見られたと思われ、撃ち殺される可能性だってあるのだ。


「おれが、あのオオカミを仕留めたんだ」小峰がつぶやく。「もう誰も、おれをヘボだとは言わせねえ。おれは射撃の名手なんだ」


 小峰が階段に向かった。仕留めた獲物を確認するつもりなのだろう。


 真奈美が真っ青な顔で廊下にしゃがみこんでいた。巫女が北村の専用室をのぞきこんでいる。紗枝は、部屋で休んでいるように、と真奈美に言いおいて、巫女の背後から室内の様子をうかがった。


 格闘があったらしく、ナイトテーブルやスタンドが倒れているのは、さっき見た状況と同じだ。カバーのはがされたベッドの手前に血だまりができ、そのなかに、男がうつ伏せに倒れている。いまでは、ぴくりとも動かなくなっていた。


 紗枝と巫女は恐るおそる近づいた。


 北村は、のどをかみ切られて死んでいた。そのそばには狩猟ナイフと懐中電灯が転がっている。北村の持ち物だろうか。


 この部屋に入ったはずの畑山の姿はどこにもなかった。トイレ、浴室のない一間には、どこにも隠れられる場所はない。紗枝はベッドの下をのぞいてみたが、誰もいなかった。


 ドアの向かいにある唯一の窓ガラスが、黒くぬりつぶされている。窓にはクレセント錠がしっかり掛かっていた。もっとも3階なので、窓が開いていても、そこから出入りはできない。すると、


「畑山さんはどうしたんだろう」紗枝は振り返ってたずねた。


 巫女が壁にはりついていた。たんねんに壁紙を調べ、なにかを探している様子だ。


「ちょっと、みいこ、こんなときになにをやっているのよ」


 紗枝が近づくと、巫女が振り向いた。


 壁にぴったりと背中をつけ、口もとだけで、にんまりと笑う。


「人間の憎悪はね、ときに野獣の形となってあらわれる場合があるの」


「はあ」なにを言い出すのか、と紗枝はいぶかった。


「畑山さんの大切なシルバーを撃ち殺したのは、きっと北村だよ。愛犬を殺された憎しみが、彼の姿をオオカミに変え、復讐をとげさせたんだ」


 巫女が断言する。丸い眼鏡が光りを反射して怪しくきらめいた。


「オオカミに逃げられちまった」


 小峰が入ってきて、悔しそうに報告した。


「逃げられたって、仕留めたはずじゃなかったの」


 紗枝は言いつのった。


「確かに当たったのはこの目で見たが、急所は外したらしい」


 小峰がそう言い、足を止めた。


 血だまりのなかに倒れているのが、北村だと気づいたのだ。そばに寄って、首すじの傷を調べはじめた。その様子を、紗枝はじっと見守った。


「オオカミの噛みあとに間違いない。手負いの獣は凶暴になる。見つけ出して撃ち殺さないと、さらなる被害者がでるかもしれないぞ」


 小峰が深刻そうな口ぶりで言い、顔をしわめる。


「警察に連絡したほうがいいんじゃない」


 紗枝は小峰をうながした。


「警察はおれが呼ぼう。あまり現場をいじらないほうがよさそうだ」


 と小峰が立ち上がり、周囲を見まわしはじめ、


「畑山とかいう男はどこにいった? この専用室に入るのを、おれは確かに見たぞ」


「あたしらが入ったときには、もういませんでした」


 そのとき、紗枝は巫女の姿がないのに気づいた。いつのまにか部屋を出たらしい。


「警察と消防のあとは猟友会にも連絡しよう」


 小峰が携帯電話を取り出した。


 手負いのオオカミを始末するため山狩りをするのだろう。


 紗枝は、巫女の言葉を思い出していた。人間の憎悪はときとして獣の形をとることがある――。


 畑山さんがオオカミに変身しただなんて、ありそうもなかった。


 通報を終えた小峰にうながされ、紗枝は現場を出た。自分の部屋に戻るようにと小峰が注意し、猟銃をかついで階段を下りていった。


 自室には、真奈美が1人でベッドに腰かけていた。巫女は? と訊いたが、真奈美は力なく首を振るだけだった。


 オオカミが野放しになっているのに、どこをさまよい歩いているんだ、と紗枝は心配になってきた。


 巫女を探しに2階まで下りると、左手の廊下に並んだ4部屋のうち、奥のドアの前で、従業員と客がもめている。何者かに望遠鏡を壊されたと怒っているのは、ベッドの入れ替えを言いつけた天文学者だ。


 午後9時をまわり、1階のロビーには誰もいなかった。


 ソファセットやフロントのカウンター、イノシシのはく製などが、常夜灯に浮かび上がる。静まり返ったロビーは、とくに不気味だった。


 玄関から、小峰が入ってきた。ぎょろ目が、めいっぱい見開かれている。片手に猟銃をぶら下げ、もう一方の手には懐中電灯を握っている。


「あれはなんだ? おれに説明してくれないか」


「なんの話ですか? オオカミは見つかったんですか?」


「おれの撃った銃弾は、やはり、やつを仕留めていた。まずは獲物を見てくれ」


 小峰が歩きだし、紗枝はそのあとに従った。


 ペンションの外では、雪が激しくなっていた。紗枝と小峰は建物の角を曲がり、雪の積もったテラスを進んだ。乱れた足あとが続いているのが、紗枝の目にとまった。建物の裏側にまわると、そこでテラスは途切れる。


「これだ」と小峰が懐中電灯の光を向けた。


 新たに薄く降り積もった雪面に、オオカミらしき足あとが建物に沿って続いていた。それに並んで往復しているのは小峰のものだろう。


「どちらの足あとも踏まないでくれよな」


 そう注意して、小峰が、あとを追いはじめた。


 足あとは20メートルほど先で途切れ、そこに男が仰向けに倒れていた。


 畑山だった。コートは雪にまみれ、青白い顔にも、乱れた髪にも雪が散っている。紗枝には、畑山が死んでいるように見えた。


「ほら」と小峰がライトを向ける。コートの胸のあたりが焦げ、弾痕らしき穴があった。


 遺体から先に足あとは続いていなかった。雪の上に残っているのは、紗枝と小峰の足あと、それにオオカミのものだけだった。


 紗枝は、ぞっと背筋が冷たくなった。


 ――ここまで逃げて力尽きたオオカミが、畑山の姿に戻ったみたいじゃない。


 真上で明かりがもれている。2階の開いた窓から、男の顔がのぞいていた。ベレー帽に眼鏡をかけ、鼻の下にちょびひげをたくわえる。クレーマーの天文学者だ。


 ぴしゃりと音をたてて窓ガラスが閉められた。


 この空模様では、天体観測をあきらめるしかなかっただろう。



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