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簒奪

 家を出て、以前行ったときと同じルートを辿り、僕は白い建物の前に着く。道を覚えている自分が少し恨めしく思えた。緊張感と恐怖で背中から嫌な汗が流れている。だけど、僕は彼女に会いたいと思った。その理由は分からないが。自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り彼女の病室がある階に行く。エレベーターが止まり、目的の階に着いたことを告げる。

「行くぞ」

 一度、唾を飲み込み、僕は彼女の病室の前まで歩く。

「着いた」

 自分の中に渦巻いている感情は最大限にまで膨れあがっている。それを無理矢理自分の心の器に捻り込んで、扉をノックする。

「はい」

 この前聞いたのと同じ声が返ってくる。僕は扉を開き、中に入る。

「いらっしゃい」

 僕が言葉を吐く前に彼女が僕に言葉をくれた。彼女の顔を見ると彼女の顔は微笑んでいた。それが、胸に刺さった。

「失礼します」

 丁寧に言葉を返す僕を見て彼女は、笑顔で

「失礼するなら帰っちゃえ」

 と手で向こうに行けとやりながら笑いかける。彼女の一挙手一投足が僕の心に突き刺さる。それなのに何故僕はここに来たいと思ったのだろう。

 とりあえず、扉の前で突っ立っているわけにもいかないから、僕は彼女の方へと歩きながら、言葉をかける。

「今日は調子良いみたいだね」

 そう言いながら彼女の寝ているベッドの横にある椅子に座ると、

「うん、なんだか今日は調子が良いの」

 彼女が両腕を上に上げる仕草をしながらそう応えた。

「そ、そんなことしたら腕に刺さっている点滴の針が外れるよ」

 焦って注意すると

「加減はわきまえてるから」

 と誇らしげに主張する。

「ところで、今日はどうして来てくれたの?」

 無垢な顔で彼女が尋ねる。自然な質問なはずだけど、僕に思い当たる答えは、無い。

「理由がないと来ちゃ駄目かな?」

 答えに窮して、そう言う僕に彼女は

「だってこの前はお話しがあったから来たんでしょ? だから今日は何かなと思って」

「へ?」

 彼女がそう言わなければ、僕が過去に来た理由が彼女と話がしたいからなのだということに気付くことはなかっただろう。

「もしかしたら、今日も話がしたくて来たのかも知れない」

「良いよ!」

 微笑んで彼女はそう言葉を返してくれた。もしかしたら、僕はこの娘と話がしたかったのかも知れない。僕は、話しかける。


 彼女と話をし出してからどれくらい時間が経っただろうか。正直、会話なんてそんなに続かないだろうと思っていたのに意外に続くことに驚く。だけど、僕らの会話が続くのはきっと、僕が本当に話したいと思っているだろう何かを口に出さないからだと思う。もし、その話題に触れてしまったら、僕は罪悪感で潰れてしまうだろう。だから、脳がずっと警鐘を鳴らしていて、それで僕は器用にその話題だけ避けて通っているんだ。

「それで? アルバイトって楽しいの?」

 ちなみに今は僕のアルバイトについて語っている。その前は彼女の楽しかった思い出。最初に話題になったのは何だったっけ? 自分には相応しくない程に平和で温かい時間。この娘は僕に、自分の命を奪った僕に、そんな物を与えてくれる。緊張感と恐怖、罪悪感、だけど確かにある癒し。僕は矛盾している。だけど、彼女は優しかった。

「アルバイトかぁ。楽しいって言う人もいるけど僕は正直好きじゃないな。しんどいし」

「贅沢だなぁ、私もアルバイトしてみたいな」

 彼女が未来への希望を述べる度に針が胸に刺さる。だけど、彼女の微笑みは僕の心をそれ以上に癒してくれた。

「ごめんね」

 不意に僕は彼女に謝る。彼女はきょとんとして、僕に尋ねる。

「何が?」

「え、あ、何でもないよ」

 彼女の疑問には答えられない、だから謝っているんだ。

「アルバイト、いずれ嫌でもやらなくちゃいけなくなるよ」

「そうなんだ。楽しみにしてる」 

 そうこう会話をしていると、ふと彼女の様子がおかしいことに気付いた。

「顔色悪く無い?」

 気付いた僕が彼女に問いかける。

「え、そんなこと無いよ」

 元気だと言い張る彼女だが今日会ったばかりの時とは明らかに様子がおかしかった。

「お医者さんを呼ぼう。やっぱりおかしいよ」

「やめて! 痛いのはいや!」

 医者を呼ぶためのブザーを押そうとする僕の手を握って必死に懇願する彼女。

「駄目だよ。ちゃんと見てもらわないと」

「いいの! どうせ死ぬんだから!」

 彼女の言葉に怯んでしまう。その時、彼女の身体がベッドから力なく落ちた。一瞬、硬直する僕。

「だ、大丈夫か!」

 僕はブザーを押して急いで医者を呼ぶ。向かってきたときには既に死の危険性までも予想している状態で現れて、彼女を搬送用のベッドに乗せて、手術室へと急いで連れて行った。僕もその傍らを付き走りながら、

「まだ死んじゃ駄目だ!」

 泣き出しそうな声で彼女に呼びかけていた。


 手術中を知らせるランプはまだ点灯している。僕は手術室の前に置いてある椅子に座っている。

「母親は何してるんだ」

 こんな時いつもならいるはずの彼女の母親が、いざ娘が倒れたというときに、ここにいないというのが苛立たしかった。彼女は今、どんな処置を受けているのだろうか。彼女は助かるのだろうか。そんなことが頭の中で沸き上がっている。と、ふと彼女が倒れる直前に言った言葉が頭の中をよぎる。

「どうせ死ぬんだから」

 彼女があの言葉を言ったとき、僕の身体は瞬間硬直した。彼女が死ぬ、その事実を誰よりも僕は知っていた。だから、彼女がそう言った時僕は動けなくなった。彼女は死ぬ。僕が彼女の父親を殺した瞬間にそれは確実なものとなった。だけど、それが今であって欲しくないと思うのは僕が手を下したという実感が強くなるのが怖いからなのだろうか。分からない。それまで彼女のことを純粋に心配していた僕の頭は、急遽自己弁護のための言葉を探し始める。

「汚い奴だな、僕は」

 頭を垂れながら、誰もいない廊下でぽつっと呟く。彼女には死んで欲しくない。そう思う自分に問う、何故そう思うのか、と。そうすると僕の心はたくさんの理由を述べる。「彼女が好きだから」、「彼女は死んで良いような娘じゃない」、「人が目の前で死ぬなんて嫌だ」。だけど、本当に根っこにある理由は、見るのもおぞましい、汚らわしい代物だということを僕は知っていた。


 彼女の処置が終わるのを僕はひたすらに待ち続けた。その理由はけして綺麗なものばかりじゃない。だけど、ひたすら待った。そして、手術中を示すランプが消える。扉からおそらく彼女の執刀をしたであろう医者が出てくる。僕は立ってすぐさま彼に駆け寄り彼女の状況を尋ねる。

「彼女はどうなんですか!」

 僕があまりにも鬼気迫る様相で尋ねてしまったのか、医師は少し落ち着きなさい。と一言かけた上で、

「とりあえず、君がすぐに知らせてくれたおかげで一命は取り留めたよ。だが、  次にあの発作が起きたとき、また助かるかどうかは正直分からないな」

 と、冷静に正確な情報を教えてくれた。

「ともあれ、今日はもう帰りなさい」

 僕は医師に追い出される形で病院を後にした。

 病院の自動ドアをくぐり、外に出る。外はもう夜になっていた。

「汚い奴だな」

 彼女は生き延びた。だけど、確実に死ぬ。僕のせいで死ぬ。手術室の前で椅子に座っていた僕は、彼女の心配をしているように見せかけて、本当は自分の目の前でまた自分が人を殺す所を見たくないと、自身の心配をしていた。このまま家には帰りたくない。帰りたくない。今帰ったら、あの娘の父親の亡霊がまた出るような気がする。自分が押しつぶされそうな気がする。僕は家に帰る道とは逆に街に向かう道へと歩き出した。


 街へと繰り出した僕は一軒の居酒屋に入る。

「いらっしゃいませ!」

 店員が元気よく声をかけてくる。どうして彼はこんなに元気なのだろう。恨めしく思えた。僕は彼に案内されるまま、カウンター席に座らされた。暫く何も考えずに座っていると先程とは違う店員がやってきて、

「ご注文は何になさいますか?」

 と尋ねてきた。それに対して僕は何も考えずカウンターを見つめながら

「お酒下さい」

 と応える。それを聞いて若干困りながら、

「お酒の何になさいますか?」

 と尋ねてきた。僕は少しの間をおいた後、店員の方を向いて作れるだけの笑顔を作って、

「モスコミュール下さい」

 と注文を言った。実はその苦さ故、僕はビールが飲めない。

 注文したモスコミュールが届き、食事のメニューを適当に注文して、店員がそれを確認して去ったくらいに、また一人客が来た。

「いらっしゃいませ!」

 店員はまた元気に声をかける。そしてその男を席へと案内しようとするが、その男は店員の案内を無視して僕の隣に座ってきた。店員は少し困った顔をしながらもまあ良いかと、奥に引っ込んでいった。良いのかそれで。まあ、とりあえず僕は席に余裕があるのにすぐ隣に座ってきた男を少し不快に思いながら一つ横にスライドしようとした。

「まあ、そう嫌うなよ」

 僕が腰を上げると、突然男が話しかけてきた。

「!」

 上げた腰をそっと椅子に降ろす。この男、参加者か? 僕は今武器を一つも持ってない。もし、戦闘になれば確実に、死ぬ。背中から嫌な汗が出始める。だけど、ここで不自然に振る舞えば丸腰だとバレてしまう。カウンターを睨みながら、出来る限り力強く言葉を出す。

「どちら様ですか?」

 僕の怯えきった声を聞いて、男は笑う。笑いながら、予想通りの人物であることを告げる。

「あんたと同じ参加者だよ」

 瞬間、身構える僕を見て、また笑いながら

「よく考えてみろ、こんな場所で戦ってどうする?」

 と心底、愉快そうに言う。僕はおそるおそる目的を聞く。

「どうして、僕の隣に座ったんですか?」

 すると男はさも当然かのように応える。

「あんたと話がしたかったからに決まってるじゃないか」

 話がしたい? あの女の人と言いこの男と言い一体何を考えてるんだ。

「何で僕なんですか? 何が話したいんですか?」

 半ば自分にばかり降りかかる奇人の登場に、よく分からない怒りを覚えながら尋ねる。それに男は顎に手を当て少し考える動作をした後、

「何であんたかというと何となく目に付くところにいたから。何が話したいかはゆっくり話しながらで良いじゃないか」

 とよく分からない回答をよこしてきた。

「何で僕が参加者だって分かったんですか?」

「勘、以上」

 うう……。どうやら僕は厄介な男に捕まってしまったようだ。


 僕の隣に突然現れた男の所にも店員がやってきて、飲み物の注文を聞く。男はビールを注文した。何故だか知らないけどビールを注文できるようになったら大人になったって気がする。男の注文を確認した店員は去っていき、それを一通り待ってから、男は僕に話しかけてきた。

「なあ、あんたどうしてこのゲームに参加したんだ?」

 彼の質問があまりにも率直で、加えて、僕にとって今最も触れたくない話題のトップ一位二位を争う程のものだったので、少しの間身体が硬直した。だが、その少しの間をおいた後、彼がこの戦いをゲームと表現したことに不快感を感じた。だから僕は自分に降りかかった火の粉を振り払う意味でも、男に正確な言葉選びを求めるためにも、彼の言葉を訂正して、彼に聞き返した。

「そういうあなたこそ、どうしてこの戦いに参加したんですか?」

 僕に質問しかえされたのがどうやらとても愉快だったらしく、

「なるほど。他人の名を尋ねる前に、まず自分から名乗れってわけか」

 と、多少よく分からないことを言った後、

「分かった。じゃあまず俺から話そう」

 と、全く求めてないことを言い出した。

 男の元に注文していたビールが届いた。それをグイッと飲んで、ジョッキをカウンターにドンッと置く。少しの沈黙。そして、男は真剣な面持ちで話し出した。

「俺の願い、それは救われることだ」

「救われること?」

 いまいち、漠然としていて意味がよく分からなかった僕は男に尋ねた。

「救われるって、何から救われるんですか?」

 僕の言葉がまた愉快だったらしく、男はまた大笑いする。その後、真剣な顔に戻って、

「俺はもうそんなに長く生きられないんだ」

 その言葉から、彼がこれまでの自分の半生を語る物語が始まった。


 男の注文したビールの泡が消えてゆく。それを見た男はビールを一気に飲み干して、またジョッキをカウンターにドンッと置く。

「俺は殺し屋なんだよ」

「は?」

 さっきはもう死ぬと言い、次は殺し屋だと言い、この男の言っていることは飛躍しすぎていて、正直、理解しがたいものがあった。僕のそんな表情を見てか見ないでか

「まあ、あんまり信じられる話では無いよな」

 と言った。まあ、この男が嘘を言ってるふうにも見えないし、とりあえず話を聞いても良いかと思った僕は、

「と、言っても本人がそう言ってるんだから信じて話を聞きます」

 と応えた。

「なかなか、器の大きな男じゃないか」

 僕の言葉を聞いて嬉しかったらしく、肘で僕の腕を軽く突きながら男はそう言った。

「と、まあそれは追いといて。だから、俺はたくさん人を殺してきたわけだ」

 僕は相づちを打ちながら黙って聞く。

「最初に人を殺したのは十八の時だった。つまり最初に依頼を受けたのが十八の時ってわけだ」

 男はビールをもう一杯注文する。店員が去ったのを確認して、また語り出す。

「想像も付かないことだと思う、平和に生きてる人間には」

「まあ、たしかに」

「生まれた時から人を殺すことを教わるんだ。どこを狙えばどうなるのか、どうしたら人は死ぬのか」

 ビールがやってくる。男はそれをまたグイッと飲む。

「だけど、正直、実際にやってみるまでは分からないだろう? 人を殺すなんて」

「そうですね」

 次第に彼の話に自分が聞き入りだしていることに気付く。僕もあの時初めて人を、殺した。それまでは想像することなんてそもそも無かった。

「そして十八歳になったある日、俺は生まれて初めて人を殺した」

 もう一度、男はビールをグイッと飲んだ。

「今でも忘れられない。人間が血しぶきを上げて死んでいく光景、前進を這い回るような恐怖」

「向いて無かったんじゃないですか」

 それを聞いて男は笑う。でも、直後にまた真剣な表情に戻って

「それから、俺は人を殺さずにはいられなくなった。殺すことでしか恐怖から逃げられなくなっていた」

 彼の表情は次第に真剣と言うよりも辛そうになっていく。

「そうして逃げ続けてきたせいか、この前医者に言われた。もう、いつ死んでもおかしくないとさ」

 今度は僕がモスコミュールを飲み干す。

「逃げられなくなった。そしたら、それまで感じたこともない程の恐怖が襲ってきた。毎日夢に、殺した人間が出てきやがる。酷くなってくると、眠ったら死ぬんじゃないかと感じるようになって、眠れなくなった。死んだら地獄に落ちるなんて信じてなかったが、それが現実味を帯びて感じられるようになった。そうこうしてる時あの老人に会った」

 僕は何と言葉を返したらいいのか分からなかった。

「救われるということがどんなことかは分からない。死んだ後に地獄なんてあるのかも正直分からない。だが、救われたい。この苦痛から逃れたい。殺し屋がこんな事言うのもおかしな話だがな」

 確かに人の命を奪っておきながら自分は救われたいと思うのは間違ってる。だけど、この人の顔を見ているとそれがどうしても言い出せなかった。

「さて」

 突然さっきとは語調を変えて彼が言葉を発した。

「何ですか?」

「俺は自分の話をした。だから次はあんたの番だ」

うう、忘れていなかったのか。だけどここまで来たら話すしかなさそうだ。僕は、男に僕の願いを話すことにした。



 店員に再びモスコミュールを注文する。隣に座っている男もついでと言わんばかりにまたビールを注文する。店員が注文を確認した後、去っていく。いざ、自分の願いについて話そうとすると、罪悪感が顔を覗かせる。だけど、この前もあの女の人に言った。だから、同じ事を言えば良いだけなんだ。よし、言おう。

「やっと言う気になったか。心の準備に時間がかかりすぎだな」

 男は笑いながら僕に言う。

「人を殺して生きてきた人間には分からない葛藤だってあるんですよ」

「確かにそうかも知れないな」

 皮肉を言ったら意外に納得されてしまった。

「とりあえず、簡単に言ったら、自分の存在を消すことです」

「だったら死ねば良いんじゃないのか」

「うっ。や、やっぱりそうですよね」

 あの女の人は「死ぬのは怖いものね」と言ってくれたが、普通に考えたらこの男の言い分が僕も正しいと思う。

「なるほどね。死ぬのが怖いってわけか」

 男は僕が見せた一瞬の表情で心の内をずばり、言い当てた。

「お待たせ致しました。注文のビールとモスコミュールになります」

 店員が注文した品を持ってきて去っていった。僕はやって来たモスコミュールを一気飲みする。

「おいおい大丈夫かよ」

「大丈夫です!」

 心配の言葉をかけてきた男に思い切り大丈夫と言ったものの、実を言うと僕はあまり酒に強いわけではなく、次第に酔いが回ってきた。だけど、いや、だから今なら勢いでぶつけられそうな気がする。

「死ぬのは怖いですよ。だけど、生きるのが辛いんです」

「ほう、それはまた何故に?」

「毎日、生きるために生きて、何がしたいわけでもなくて、空しいんです。他の人は楽しいって言うことが僕には苦痛でしかないんです。だけど、自分では死ねなくて、怖くて。そんなことを考えていたときにあの老人に出会って。それでこの戦いに参加したんです」

「なるほど。それで?」

 何となく良いように喋らされてる気がするけど。折角だから全部ぶちまけてしまおう。

「そうしたら、今度は戦いの中で人を殺さなくちゃいけなくて。だけど、僕は生きたくないのに、生きたいと願う人の願いを踏みつぶして。僕が死ねないばっかりに。でも死ぬのは怖い」

 一言一言を吐く度に自分が殺した人、自分のせいで命を失う人、自分の前で死んでいった人の顔が浮かび上がる。


「わからない」


 酔いが頂点に達したせいか話している内に自分が段々分からなくなってきた。

「何が、分からないんだ?」

 男は真剣な目で僕に尋ねる。

「最初は生きるのが辛くて、自分を消したくてこの戦いに参加した。だけど、娘を助けたいと言ったあの人を殺したとき、自分の中に罪の意識が芽生えた。そして、人の命を奪う度、自分は正しさを追い求めるようになった。どうしたら、罪を許されるのか、どうしたら自分は存在を許されるのか、気付いたら、生きることを求めていた。僕は自分が分からない。分からない」

 頭を抱えてカウンターにうずくまる。その様子を見て、男は一度深く息を吐き出した。そして置いてあるビールを一気飲みした。

「だ、大丈夫ですか?!」

「大丈夫だ」

 ジョッキのビールを一気飲みするのはグラスのモスコミュールを飲み干すのとはわけが違う。僕は驚いて思わず尋ねてしまったが、男は顔色一つ変えなかった。

「どうやら、俺の最期の仕事が入ったようだ」

「へ?」

「俺と戦え。俺が教えてやるよ。生きるって事も、死ぬって事も」

「……分かりました。お願いします」

 男の言葉を僕は自然と承諾し、願い出ていた。

「さて、しかし今すぐってわけにはいかない。実は今日は丸腰なんだよ」

「僕も、実は丸腰です」

「なら、今日はお互い帰るとするか」

「はい」

「また会おう」

僕らは帰路についた。


 男と別れて帰路についたは良いものの、酔いが結構回っていて、視界がぼちぼち揺れていた。我ながらモスコミュール二杯でここまで酔うとは情けない。そうこう歩いていると、いつも通り公園の前を差し掛かった。

「ん? 人影?」

 ぼんやりする視界にもはっきり映る紅く長い髪。僕はその人影の方へとフラフラ近づいていく。

「あら、こんばんは。って足元ふらついてるわよ」

 僕に気付いた彼女は僕に近づいてきて、おぼつかない足取りで近づいてくる僕の両肩を掴んだ。そこから、引っ張る形でベンチまで連れて行き、僕を座らせる。

「やけ酒でもしたの?」

「違いますよ。ちょっと変なのに絡まれただけです」

 心配してくれている彼女の言葉に適当に応える。それでも彼女は親切にも心配してくれるらしく、

「変なのって、そのいわゆるアブナイ人ってこと?」

「違いますよ。僕と同じ参加者です。ただちょっとおかしくて話がしたいとか言い出して絡まれたんですよ」

「参加者って、貴方どう考えても丸腰じゃない! 一体どういう神経してるの! 殺されるかもしれなかったんでしょう!」

「知りませんよ!」

「!」

 心配して言ってくれた彼女につい大きな声で当たってしまった。

「すみません。ちょっと色々有ったもので」

「そう、別に気にしてないわ。でも、何があったの? もし良ければ聞かせて」

 さっきの男と言い、この人と言い、何で僕に絡むのだろう。純粋に疑問に思う。両人とも僕を殺すチャンスはたくさんあっただろうし、あるだろうに。

「どうして、そんなに僕に絡むんですか」

 半分男の分の八つ当たりも込めて彼女に質問をぶつける。そうすると彼女は少し困った表情をしながら僕に言う。

「貴方、自分の目を鏡で見たこと無いの?」

「もちろん見ますよ。顔も洗うし歯も磨きますから」

 僕がそう応えると、彼女は一息、僕にも聞こえるように溜め息を吐いて、

「じゃあ、気付いてないのね。貴方の目、空しさで染まってるわよ」

「空しさで染まる?」

 彼女の言った「空しさ」という言葉が僕の記憶から今日の男との会話を思い出させる。

「空しさだけじゃないですよ、罪の意識だって感じてるし、恐怖だって感じてます。無茶苦茶ですよ。自分ですら自分が何を考えてるのか分からない」

 僕は膝に肘を立てて、手で頭を支える。それを見て彼女は僕の頭の上にそっと手を置く。

「貴方は毎日変わっていっているわ。もの凄い早さで色々なものが流れ込んできている」

「色々って何ですか?」

 僕はそのままの態勢で、さながら嘆くように彼女に問いかける。それに彼女は柔らかい声の調子で返す。

「虚無感、自己嫌悪、罪悪感、正義感、責任感、優しさ、悲しさ、怒り、その他諸々かしらね」

 彼女の言葉は何故だかとても温かくて、僕の心にしみこんで、ほんの少し、ほんの少しだけど僕を癒してくれたような気がする。僕は顔を上げて、全然違う話題を彼女に振る。

「ところでどうして今日はここにいたんですか」

「それは、何となくかしら。何となくここに来たかったから来たの」

「もしかして、ここで誰かを殺したとか」

 僕が恐る恐る尋ねると彼女は微笑んで、

「それはないわ。だって私は武器をまだ持てないから」

 そう言った。僕は彼女の発言が気になって、問いかける。

「まだ武器を持てない? 一体、どういう事ですか?」

「それは残念だけど話せないわ。でもいずれ分かる。まあ、生きてればの話だけどね」

 笑顔でさらりと不吉なことを言う。

「さて、そろそろ帰った方が良いわ。今日は酔っぱらってるみたいだし。私が特別家まで護衛してあげる」

 彼女は僕の質問を半ば遮る形で、強引に家まで付いてくることになった。


 公園を去って十数分かかって家の在るマンションの前に到着する。マンションの屋上を見ようと顔を上げると、綺麗な夜空が目に入った。

「なかなか、綺麗なマンションね」

「意外と家賃も安くて良い感じですよ」

 歩いているうちに酔いが覚めて、まともな会話が出来るようになる。

「何階?」

 オートロック式の自動ドアを開いて、エレベーターの前まで来て、彼女が尋ねる。僕はさすがにここまで送ってもらえば十分と思ったので、ここまでで良いと言ったのだが、彼女は

「貴方の家まで送って、初めて護衛任務完了よ」

 と言うので自分の家が在る階を教えた。

 エレベーターが目的の階に着いたことを伝える。僕らはエレベーターを降りて家のドアの前に着く。

「?」

 今一瞬、彼女の顔が緊張でこわばったような。まあ、良いか。とりあえず、僕は家の鍵を開ける。そして扉を開いた瞬間、僕の方に何かが飛んできた。

「どきなさい!」

 彼女が僕を突き飛ばし飛んできたものを手のひらで受け止める。

「ナイフ?」

 彼女はそれを自分の手から抜き取って投げ返す。窓ガラスが豪快に割れる音がする。

「な、なんだ?」

「逃げたわ。それより貴方武器はどこかにちゃんとしまっていた!」

 さっきと雰囲気が一気に変わり、緊張感で一杯に張りつめた声で僕に聞いてくる。

「一応、机の鍵がかけられる引き出しにしまっときましたけど」

「すぐに確認して」

 僕らは家に入り、家の惨状に驚くのは後にして先に引き出しを開けた。

「大丈夫です。ナイフも拳銃もちゃんとあります」

「本物?」

「はい。持った感じ本物です」

「そう。じゃあ、単なる嫌がらせ、脅迫って事ね」

「ん? って、ここマンションの四階ですよ!」

 落ち着き払っている彼女に対して、改めて荒らされている部屋を見て、加えて誰かにナイフを投げられ、挙げ句、マンションの四階から逃げられたこともあって僕は動揺しきっていた。

「参加者よ。しかも、おそらくバグの参加者」

「バグ? バグって何ですか」

 僕が現状知らない単語について問うと。彼女はまた困った顔をしながら

「残念だけど、説明は出来ないわ。仮にしたとしても、真実味を帯びたものでもないし」

 この人は、家を荒らされて状況が理解できないことに戸惑っている僕に何の説明もしないで逃げようとしている。知っている情報だけで良い。何が起きたのか教えて欲しい。

「そんなこと言っても家はこんなに荒らされて、突然わけのわからないことが起きて。黙って何も知らずに終われる訳ないでしょう! 説明して下さい」

 僕が必死の形相で主張しているのを見た彼女はまた一度溜息をついて

「……分かったわ。言える範囲で説明する。何にしてもここはもう使い物にならないわ。こんなに荒らされちゃってるし。どこか、他に行く当て在る?」

「それなら、一度どうしても行きたいところがちょうど一箇所ほどあります」

「そう。なら、そこに行きましょう」

「あ、でも、その前に」

「何かしら?」

「手のひらを見せて下さい。さっきナイフ刺さったところ応急処置しますから」

「あ、そうね。分かったわ」

 そう言うと彼女は手の平をさしだした。僕は応急処置セットの入った箱を開けて出来る限り適切だと思える応急処置をした。

「お礼、言い忘れてました。ありがとうございました。助けてくれて」

「あ、いや、そんなことないわ。こちらこそ、ありがとう」

 最後の言葉だけは、彼女の元々の優しい声だった。


 家の中にある最初に殺した男の遺品の中から彼の家の地図を見つけ出し、それを見ながら歩き、目的の場所に着いた。もう深夜だ、今日はなんか色々あったな。無言で佇むアパートの前で夜空を何となく見つめていた。

「これまた渋くて良い建物ね」

 隣に立っている女性がまた建物の評価をしている。

「そうですね。侘び寂びですね」

 何となく相応しそうな言葉で僕も表現してみる。お互い建物についての評価をしたところで、中に入ろうということになった。階段を上り二階にある部屋の扉の前に立つ。鍵を差し込み回す。

「ガチャ」

 鍵の開く音が鳴る。ノブを捻ると扉が開いた。

「入りましょう」

「そうね」

 僕らは靴を脱いで部屋に上がり込んだ。そこで彼女が初めてこの部屋について僕に尋ねてきた。

「ところで、ここ誰のお家?」

「僕が最初に殺した男の家です」

 俯きながら応える僕の顔を見て、彼女も少し寂しそうな顔をして、

「そう」

 とだけ言った。

 部屋の中を見渡す。綺麗に片づけられた部屋。全てが整然と配置されている。ただ何か違和感を感じる。何か悲しい違和感。と、彼女が隣で感想を述べる。

「もう、ここに帰って来ることはない。そんな覚悟が見えるわね」

「!」

 そう、そうだ。この違和感。それは死の悲しみ。

「もう、最初から帰ってくるつもりは無かったんでしょうね」

「そうね」

 僕は部屋を見渡して、静かに頭を下げ、ゆっくりと

「すみませんでした」

 自らの罪を謝罪した。

「気持ちは分かるけど、さっきの話しなくて良いの?」

「そうですね。聞かせて下さい」

 言葉に出来ない思い、敢えて言うなら申し訳ない、その思いを今は心の奥に置いて、先程の件について話を聞くことにした。

 家の主に断りも入れずに台所を借りてお茶を入れる。湯飲みも何もかも一人分しかなかったので、僕は茶碗にお茶を入れた。それを床に座っている彼女の元に持って行く。

「どうぞ」

「ありがとう。って貴方は茶碗で飲むの?」

「ええ、食器全種類一人分しかなくて」

「なるほど、多分敢えて全て二つ以上用意しなかったんでしょうね。」

「そうかもしれないですね」

 二人とも同時にお茶を一口、口に含む。

「それじゃ、話してもらえますか? 知ってることについて」

「分かったわ。でも、あまり理解できる話では無いと思うけど」

「理解できるかできないかは僕が決めることです。教えて下さい」

 彼女は一息溜息を吐いて、話し出した。

「そうね、例えば、想像してみて欲しいのだけど、この世界の空間も時間も全て、私たちが知ることも、覚えることも、喋ることも、理解することも、使用することも出来ない数字の羅列、あるいは言葉の羅列によって構成されていると」

 早速、彼女の言ったとおり理解しがたいことになったが理解できないと認めるのは悔しいので、何とか想像する。

「つまりこの空間もその数字のような言語の様なものに構成されていると考えるわけですね」

「そう、貴方の足のつま先から頭のてっぺんまで全てそれで構成されている」

「なるほど、何となくイメージできるような気がしなくもないです」

「そう良かったわ」

 とりあえず、何とか必死に彼女の言ってる感覚を想像する。目を閉じてイメージする。

「そうね。目を閉じると理解しやすいかもしれないわ」

 どうやら僕のやり方は良いらしい。彼女は言葉を続ける。

「最初、この世界、空間、全てにはその言語、数字の羅列だけが存在していた」

「はい。何となく想像してます」

「良いわ。そこで誰かがその羅列に触れる。すると、その羅列に波紋が出来る」

「はい」

「その波紋が人の形、いえ形というより情報と言った方が良いのかしら、そう言ったものを成す」

「はい」

「そして、それが人間を形成する」

「なるほど。雰囲気は分かった気がします」

「良かった。でね、普通その波紋によって形成された情報あるいは形は、言語もしくは数字を比較的、規則的に内包しているの」

「比較的? ってことは少しは乱れがあるんですか?」

「そうよ。でなければ、全ては同じ空間、同じ時間、あるいはそれ以外の全ての同一の上に存在してしまうでしょう? 考えれば分かると思うけど、実際、私はここにいて、貴方はそこにいるでしょう。それに私たちは年齢も送ってきた人生も性格だって違う」

「な、なるほど」

 いまいち分からなかったような気がするけど、納得しておこう。

「だけど、その波紋によって形成された存在の中には異常な言語、数字の羅列を内包しているものがある。それが、バグ」

「な、なるほど。で、そのバグだとどうなるんですか?」

「そうね、例えば、並はずれた身体能力を持っていたり、あるいは異常なまでの知力を持っていたり、すごく美人って事だってあり得るわ」

「なるほど。ということは、その数字、言語の羅列がどれくらい乱れているかが色々な才能や、容姿、性格などに関わってくると」

「そういうことね、なかなか理解が早いから助かったわ。この前言った主役、脇役っていうのもこれに関連してのことよ」

「じゃあ、分かるんですか? 主役に近いとか、脇役に近いとか」

「いいえ。あれはただの勘よ」

「はあ、勘ですか」

 彼女は言うべき事を一通り言ったということだろうか、お茶を一口飲んで、溜息を一度吐く。僕は茶碗に入っているお茶を一気に飲み干す。少し頭が痛い。

「まあ、バグについてはこんなかんじね。質問はあるかしら?」

「いえ、なんとなく分かったような気がします」

「それは、良かったわ」

 彼女の難しい講座はこうして終了をむかえた。僕も一息溜息を吐く。と、僕の分のお茶を注いでくれようとしてくれたのか立ち上がった彼女が

「あら、机の上に封筒があるわ」

 と、僕の背中の後ろに配置されている机を指さしながら僕に教えてくれた。僕は立って、机の前まで行って封筒を見る。するとそこには、

「妻へ」

「娘へ」

 と書かれたものが二通存在した。

「遺書ね」

 彼女が隣でそう呟く。

「これは、届けなくちゃ」

「無駄よ。この戦いに参加したものは死んだ時点で存在ごと消されてしまうもの」

「でも! これは届けなくちゃいけない。これは、あの人が最後に遺したものじゃないですか!」

「辛いだけよ。貴方が。また罪の意識に苛まれるわ」

「もう十分苛まれてます。ともあれ、これは僕が届けます。それは、僕がしなくちゃいけない気がするんです」

 何故だかは分からないだけど、そう思った。僕の決して譲らないという表情を見て彼女も諦めて、

「分かったわ」

 そう言って、溜息を一息吐いた。

「いずれにしても、明日することが決まったんなら、とりあえず今日はもう寝ましょう。明日、戦うことにでもなったら持たないわよ」

「へ、あの一緒に、ですか?」

 彼女の発言に瞬間的に耳が赤くなる。

「大丈夫よ、何もしやしないわ」

「い、い、いやそうじゃなくて」

「それとも、貴方が何かしてくるの?」

「そ、そそそんなこと無いに決まってるじゃないですか」

「なら問題ないでしょう。寝ましょう」

「うう、はい」

 こうして僕らは眠りについた。


 カーテンの間から差し込む光で目が覚める。朝だろうか、腕時計を見るともう昼過ぎになっていた。昨日の晩は寝るのが遅かったから、起きるのが遅くなるのも当然か。と、眠る前にズボンに入ったままだと痛くてポケットから取り出しておいた携帯電話のLEDが点滅している。一件は相棒からのメール。内容は今日会いたいとのこと。あと四件ほど着信履歴があるが、これは……、

「バイト先からだ。あっ!」

 思いついて額に手を当てる。そう言えば今日はバイトの日だった。まあ、でも、いずれにしても僕は死ぬか消えるかするんだよな。そう考えると良いか、とも。

「それより、あれ?」

 彼女がいない。たしか昨日、その2人同じ屋根の下というか、一緒に寝たというか、ま、まあ、照れてても仕方ない。とりあえず立ち上がり、辺りを見渡す。

「ん?」

 立ち上がると昨日はなかった紙切れが机に置いてある。手にとって見るとそれは彼女の置き手紙だった。


「おはよう。ぐっすり眠っていたので、起こすのも可愛そうかと思ったので一人先に帰らせてもらいました。鍵は私が出るときに閉めて扉の横のポストに入れておきました。遺書の件頑張って。あとお仕事ご愁傷様」


「……いや! 起こして下さいよ!」

 自分の声が空しく部屋に響き渡る。まあ、いいかとは言っても、バイト先には迷惑かけちゃったな。すみません。とはいえ、今はもっとやらなくちゃいけないことがある。あの子に父親の最期の思いが綴られたこの遺書を届けなくては。

「よし、行こう!」

 僕は武器と彼女に渡す遺書、自分の持ち物を一式持ち、早速、彼女のいる病院へと向かった。


 病院に向かう途中で、相棒には夕方いつものレストランで会おうとメールを送っておいた。病院、僕はどんな顔で彼女に会い、どんな言葉をかけてあの遺書を渡せばいいのだろうか。これは自分が渡さなくてはならないと、直感だけでここまで来たけど、本当に僕が渡して良い代物なのだろうか。迷わないはずはない。本当は、彼が勝者となって、彼の願いが叶い、健康になった少女とその母親が彼の家に出向き、発見するべきものだったはず。だけど、彼は僕が殺した。僕が殺したんだ。だから、彼が最期まで彼女を心の底から愛していたこと、いや、そもそも彼女に父親がいたということも、もはや僕しか知らない。

「やっぱりこれは僕が渡すべきものなんだよな」

 正解なんて分からない。僕は殺人者に過ぎない。だけど、伝えられるのは僕しかいない。この遺書を渡すとき、僕は自分が真実を、自分の業を彼女に正直に伝えられるとは思えない。きっと体の良い嘘をつくだろう。それでもこれは渡そう。そう、決めたのだから。

「着いちゃった、な」

 考えごとをしながら歩いていると、本当にすぐに目指している場所に着く。辛い用事だと、特に早い。僕は病院の自動ドアを通る。

「ん?」

 中に入ると何だか少しだけいつもと違う気がする。患者が椅子に座って待っているのはいつも通り。おかしい気がする理由、そう看護師さんが何故だか少し慌ただしいような。まあ、良いか。僕は少しだけこの異変が気になりながらも、彼女の病室に向かうことにした。

 エレベーターに乗り、彼女の病室がある階のボタンを押す。エレベーターが上へと動く。止まる、目的の階に着いたことを告げ、扉が開く。エレベーターを降りると、看護師さんの慌ただしさが少し増していた。ここに来て、何か嫌な予感がする。僕は足早に彼女の病室へと向かう。

「ごめん、入るよ」

 彼女の病室の前に立つと、僕は焦燥感を強く感じながら扉に声をかける。返事は、無い。取っ手を掴み、扉を出来る限り素早く開く。

「居ない。居ない!」

 病室のベッドの上にはいつも居るはずの彼女が居ない。いや、落ち着け。何か診察を受けているってこともある。

「すみません、お知り合いの方ですか?」

 看護師が話しかけてきた。

「はい。彼女どうかしたんですか?」

 僕は焦る気持ち、嫌な予感を必死に押し込んで冷静を装って彼に尋ねる。

「いなくなったんです」

 一瞬目の前が真っ暗になった。嫌な予感は見事に的中した。彼女は消えた。

「すみません!」

 看護師が僕の肩を掴んで呼びかける。おかげで意識を取り戻す。

「今、看護師が数名探しに出ていますが、全く心当たりがないんです。どこか 心当たりはありますか?」

「いえ、僕にも全く。でも、僕もさがしに行きます。見つけ次第ここに連れ戻してきます!」

「お願いします!」

 僕は病院を急いで飛び出した。


 街中を駆けずり回る。手がかりなんて、無い。彼女は昨日死にかけた。一命を取り留めたとしても、外に出て良いような体では無いはずだ。病院を飛び出して、もう結構な時間が経つ。空はもう赤く染まっている。

「夜になって、変なのに絡まれでもしたら」

 心だけが空回りする。と電話が鳴っている。携帯の表示を見ると、相棒だった。

「もしもし」

「おーい、レストランはどうした? 今日会うんじゃなかったのか?」

「ごめん。今はそれどころじゃないんだ」

 僕がそう言うと彼は真剣な声で

「何かあったのか?」

「僕が最初に殺した人の娘さんが、病院から居なくなった」

 それを聞いた相棒は少し呆れた声で

「あのな、俺たちが今何をしていて、どういう状況か分かっているのか?」

「知らない!」

「なっ……」

「彼女に渡さなくちゃいけないものがあるんだ。頼む、探してくれないか?」

 電話越しにでも分かるぐらい思い切り深い溜め息を一つ吐き出して、彼は

「……分かったよ。それで、手がかりとかはあるのか?」

「それが、全くないんだ。だから、こうやって電話してる間も走り回ってるんじゃないか」

 多少息切れ気味に話す僕の台詞を聞いて、

「あのな、それじゃ一週間かかっても探せないだろう」

 とやっぱり呆れ気味な相棒。

「じゃあ、どうしたら良い?」

「例えば、どこか行きたいって言ってた事がある場所とか」

「ごめん。そういうことは聞いてなかった」

「そうか。なら、もし、お前が彼女なら行きたいと思う場所は?」

「美味しいものが食べたいかな」

「だったら旨そうな飲食店を一つずつ回ってみるとか」

「分かった」

「俺もここを出て合流するから、落ち合うところだけ指示してくれ」

 僕は自分の知ってる飲食店の中でここから一番遠い店を落ち合う場所に指名した。

「分かった。俺もその途中で脈のありそうな飲食店を探してみるから、そうだな、その店なら一時間後には会えるだろう」

「了解」

 そして、電話を切った。本当に飲食店に居るかは分からない。だけど、居なければ、他の何か、ゲームセンターでも良い、そこを虱潰しに探す。

「無事でいてくれ」

 心の中で祈りながら、僕は走り続けた。


 相棒との待ち合わせ場所には約十分程遅く到着した。知ってる飲食店以外にも美味しそうな飲食店も探していたためだ。

「思ってたよりは早く来たな」

「ごめん」

「それでどうだった?」

「やっぱりどこにも居ない」

「こちらも駄目だ」

 一通り遅れたことについて謝った後、成果を報告し合うが結果は発見できず、だった。

「他に行きそうな所は思い浮かばないか?」

「ゲームセンターとかかな」

「一つ聞いて良いか? 親御さんはどうしてるんだ?」

「へ?」

 そう言われるまですっかり彼女の母親の存在を忘れていた。そういえば、あの人、娘が死の危機に瀕しているっていうのに結局現れなかったな。

「で、親御さんはどうしてるんだ?」

「それが、見てない」

「見てない?」

「うん。昨日彼女の病状が急変したときにも見なかった」

「それ以降に現れたことはあったのか?」

 ここにきて自分がとんでもない失敗を犯してしまっていたことに気付く。看護師にあれ以降彼女の母親を見かけたかを尋ねるべきだった。

「ごめん。聞き忘れてた」

 ううっ。彼の顔を見ると明らかに呆れている。彼は溜息を一つ吐いて、

「まあ、とはいっても普通の母親だったら娘が病院から出ていくなんて事になったら意地でも止めるだろうから、一人の確率の方が高いと思うが」

「そ、そうだね」

「だとしたら、どこだ。どこになら行く」

 必死に考えてくれている相棒の顔を見て心強く思った。

「ありがとう」

「何が?」

「いや、一緒に探してくれて」

「仕方ないだろう。これをなんとかしなきゃ、戦う気になれないってんだろう?」

「まあ、その、そうだね」

 申し訳なさそうに言う僕を見て、また溜息を吐いて、

「じゃあ、仕方ないだろう」

「ありがとう」

「さて、どうしたものかな」

 悩み果てる僕ら、何か助けになるものはないかとなんとなく持ち物を漁る。と、手がコートのポケットに入ってるナイフに当たる。その時、何故か強烈な嫌な予感が自分を襲った。ナイフの光を見てはいけない。自分の心が強く叫びを上げる。

「どうした?」

 ポケットに手を入れたまま硬直する僕を見て相棒が声をかける。いや、違う彼女が参加者になってるはずなんて無い。だから、ナイフの光を見るんだ。僕はナイフを鞘から抜いて、コートのポケットから取り出し、かざした。

「な……」

 相棒も僕の行動を見て何かを感じたらしい、言葉を飲んだ。そして、光は一直線に伸びていく。そして、その先に一箇所だけ彼女が行くかもしれない場所が存在していた。

「遊園地……」

「!」

 僕の言葉を聞いて相棒も硬直する。

「いや、まさかね。そんなはず無いよ」

 自分を必死に納得させようとする僕に、相棒が真剣な顔で

「あり得る……」

「な、言って良い嘘と、言っちゃいけない嘘ってものがあるだろ!」

 僕は彼に不安を怒りに変えてぶつける。だが、彼は声の調子を変えることなく告げる。

「知っているか? 本を見るとこの戦いに参加してる参加者の総数が分かるんだ。そして、昨日、一人参加者が増えた。」

 目の前が真っ暗になった。違う、彼女じゃない。そう必死に主張する声と、彼女かも知れないと言う声が僕の中でせめぎ合っていた。

「おい、しっかりしろ!」

 肩を掴まれ思い切り揺さぶられる。意識が帰ってくる。

「そんな、彼女のはずがない!」

 祈るような気持ちで叫ぶ。彼は混乱する僕の目をしっかり見つめて、

「だから、それを確かめに行くんだ」

「そ、そうか、そうだね」

 彼の言葉で必死に自分を宥める。

「行った先に彼女が居なければ、彼女が参加者の可能性だって低くなるだろう」

 確かに、これから行った先に彼女が居なかったとしても、百パーセント彼女が参加者ではないということにはならない。だけど、今は、この嫌な感じを振り払いたい、その気持ちで一杯だった。

「行こう」

「ああ」

 僕らはナイフの光の示す方へと走り出した。


 ナイフの光を追いながら走り続ける。途中彼女が居るかも知れないと、寄ってなかった飲食店や、ゲームセンターも覗いてみる。だけど、彼女は居なかった。遊園地がある方に光は走っているけれど、きっとそこではなく違う場所を指し示しているのだと、自分に言い聞かせた。

 バスに乗り、歩き、走り、僕らはナイフの光を追い続ける。そして、ついに答えの地に着いた。僕らは目の前に立っている大きな門を前に佇む。ここは数ヶ月前に閉園した遊園地。呆然とする、僕。否定したい気持ちと、その反面、彼女しか有り得ないという気持ちが渦を成していた。

「まあ、なんとなくここな気はしていたけどな」

 平然と言ってのける相棒を睨み付ける。

「おい、俺を睨むなよ。それに、まだ彼女が参加者になったとは限らないだろう」

「そう、だよな」

 彼の言葉をそのまま自分に押しつける。

「とりあえず、中に入るとするか」

 門をよじ登って中に入った。彼女ではない。俯き加減に自分に言い聞かせている僕を見て、相棒はある提案をしてきた。

「ここからは別行動にしないか?」

 別行動? 馬鹿な。ナイフを持っている僕が標的の所に真っ直ぐ辿り着くなんて事は彼も理解しているはずだ。訝しげに彼の表情を見る。瞬間、彼の意図を理解した。もし、敵が彼女だったとき、彼が同行していれば確実に彼は彼女を撃ち殺すだろう。それを自分自身分かっているから、敢えて、僕と行動を別にしようと言い出したのだ。もし彼女が敵だった時、僕が自分でどうするか考える時間を得られるように。それに、僕がナイフの光に従わず動けば、真実を永久に見ないで済むということにもなる。だが、それは、また彼に殺人の罪を着せてしまうということと同義だが。

「分かった。そうしよう。何かあったら携帯に電話をかける。そう言うことで」

「ああ。それじゃ、また後で会おう」

 僕らは、別れて敵を探すことになった。


 僕ら二人は、もう誰もいない暗い遊園地の中で一人の敵を探すべく別れた。さて、僕には手元に敵の居場所を示すナイフがある。これを翳しながら光の導くとおりに歩めば確実に敵はそこにいる。だけど、敵が彼女だったら、僕はどうすれば良いのだろう。分からない。故に、この光が示す方へと進まないという方法がある。だけど、その時はこの遊園地を隅々まで探すであろう相棒がその敵を殺すであろう。いや、相棒が殺されるという場合もありうる。

「……行くしか、ないじゃないか!」

 僕はナイフの導くままに走り進んだ。

 走りながら、祈る。彼女ではありませんように、と。そう、彼女には別のところで父親の遺書を渡すのだ。その時、信じてもらえないだろうけど、語ろう。彼女の父親のこと。彼がどれほど彼女のことを愛し、どれだけ男らしく僕の前に現れたかを。そして、それを僕がどれだけ無惨に殺してしまったかも。許してもらえるわけもないけど謝ろう。だから、このナイフの先にだけは居ないでくれ。

「メリーゴーラウンド?」

 ナイフの光はその途中のアトラクションを通り抜け、おそらく誰もが一度は乗ったことがあるであろう機械仕掛けの馬達の元へと僕を導いた。

「どこだ? どこにいる?」

 敵の正体も得物も分からない、メリーゴーラウンドのどこに居るのかも分からない。僕は、拳銃を構えながら、少しずつ近寄る。

「やっぱり、お兄ちゃんが来たんだね」

 暗がりの中から聞こえてくる声。僕の身体が硬直する。その声、最近よく聞いた記憶があるその声。その声の主が、メリーゴーラウンドの馬車から出てくる。僕は絶望した。


 暗がりの中から、敵が現れる。その敵の姿は、僕が最もこの場で見たくないと思っていた。いや、出会ってはならないとさえ思っていた、その子だった。

「どうしたの? 私のこと探してくれてたんじゃないの?」

 声が出ない。何も思い浮かばない。

「何も言うことは無いの? 私のパパを殺しておいて」

 彼女の言葉で目の前が真っ暗になる。

「ママも死んだわ。私をこの戦いに参加させて生かすために、それが条件だったんだって。」

「馬鹿な! この戦いの参加者は必ず死ぬんだぞ!」

 嘆くように叫ぶ。

「だから、ママが死んだんじゃない! 私を生かすために!」

 頽れる、僕。あの時、彼女が死の危機に陥った時、既に母親は死んでいた。彼女を参加者にし、且つ彼女が勝利して願いが叶ったときに、死なせないための命の引き替えとして。

「嘘だ。嘘だぁぁぁぁ!」

 頭を抱え否定しようとする。それを見た彼女は落ち着き払った声で

「嘘じゃないわ。お兄ちゃんのせいよ。お兄ちゃんがパパを殺したからこうなったのよ」

 少女の顔を見る。少女が鬼に見えた。

「だから、お兄ちゃん」

 彼女はそう言いながら背中に隠し持っている得物を前にかざして、

「死んでよ!」

 その得物を使用した。

「くぅっ!」

 体中に電気が流れ込んでくる。

「私の得物はスタンガン。だけど、このスタンガン空気中を通電するの。その代わり殺すまでの威力は無いんだって」

 少女が淡々と述べる。そして一回スイッチを切る。

「はぁはぁ」

 威力のあまり、言葉も出ない。その状況を見て少女は僕に問う。

「それで、私のパパを殺して、何も言うことはないの?」

「ごめん」

 彼女がまたスタンガンのスイッチを入れる。

「くあぁぁっ!」

 全身が痺れる。数秒電気を流した後、再びスイッチを切る。

「はぁはぁ」

「許すわけないでしょ」

「分かってる。だけど、ごめん」

 再びスイッチを入れる。

「うわぁぁぁぁ!」

 スイッチを切る。

 必死に肩で息をする。

「ママも死んだわ」

「ごめん」

 スイッチが入る。歯を食いしばって耐える。

「慣れちゃったんだね、この電圧」

 少女は電圧を上げてスイッチを入れる。

「ああああああ!」

 スイッチを切る。

「どうして、パパを殺したの?」

「ごめん」

 スイッチが入る。僕は叫び声を上げる。数秒後彼女はスイッチを切る。

「お兄ちゃんがパパを殺したせいで私独りになっちゃたんだよ」

「ごめん」

 また、彼女がスタンガンのスイッチを入れる。僕もまた叫び声を上げる。

「ごめんしか言わないんだね」

「ごめん。だけど、僕にはそれしか言えない」

「自分で死ぬって言わないんだ」

「!」

 その言葉は僕の胸を抉った。確かにあの時も、彼女の父親を殺した時も、死ぬと言って結局僕は死ぬことが出来なかった。

「僕は死ねない」

「でも、このゲームって参加者は皆死んじゃうんでしょ?」

「そうだよ。だけど、僕は死ねない」

「私聞いたんだよ。お兄ちゃんの願い」

「!」

「どうして死ねないの?」

 返す言葉に窮した。僕は、知られてしまった。何故、僕が彼女の父親を殺したのかを。その理由のくだらなさを。僕の願いのくだらなさを。

「どうして何も言わないの?」

 僕は無言以上の言葉を返すことが出来なかった。

「応えなさいよ!」

 彼女はスタンガンのスイッチを入れる。

「うぐぁぁぁぁ!」

 スタンガンのスイッチが切れる。

「応えてよ、お兄ちゃん」

「死ぬのが、怖いから、死ねないんだ」

 僕は応える。少女はその答えを聞いてさらに問う。

「だから、パパを殺したの?」

「すみませんでした!」

 土下座をして出せる限りの声で彼女に謝る。

「そんなので……」

 彼女が呟く。

「そんなので許せるわけないじゃない!」

 スタンガンのスイッチが入る。

「くぁぁあああ!」

 スイッチが切れる。

「はぁはぁ」

「分かったわ、お兄ちゃんが自分で死ねないなら私が殺すわ」

 そう言うと彼女はスタンガンの電圧を最大限にして電気を放った。僕はそれまでにないほどの叫び声を上げる。僕はあまりのショックで拳銃を落としてしまう。彼女はそのまま僕に近づいてきて、僕が落とした拳銃を拾う。そして、彼女は離れる。スタンガンのスイッチが切れた。

「はぁはぁ」

 今までにない程の強烈な電撃。飛びそうな意識を必死につなぎ止める。一方彼女は奪った拳銃を構える。

「優しい人だと思っていたけど、酷い人だったんだね。さよなら」

 彼女が拳銃の引き金を引く。僕は目を閉じる。

 

銃声が鳴る――

  誰かが倒れる音――

   僕は生きている――


 僕は目を開く。目の前には左脇腹から血を流しながら地面に空を見上げるように倒れている少女の姿が在った。僕は走って彼女に近寄り、抱きかかえる。

「しっかりしろ!」

頼み込むような声で言う僕。彼女は涙を流しながら僕の方を見て呟く。

「どうして……」

その言葉が彼女の父親が言った同じ言葉と重なる。

「うわあああぁぁぁぁぁぁ!」

彼女を抱きかかえて泣き叫ぶ僕。

「痛いよ、お兄ちゃん」

泣きながら謝る僕。

「ごめんね。ごめんね」

「痛いよ、お兄ちゃん」

「ごめん、ごめん、ごめん」

彼女は僕の腕の中で静かに息を引き取った。僕はもう一度思いきり泣き叫ぶ。

「大丈夫か?」

 一連の動作が終わって後、誰かが声を掛けてきた。声のする方を見ると、そこには相棒の姿があった。

「どう、して?」

「あれだけ叫び声を上げてれば場所くらい……」

「違う!」

「!」

 僕は身体から絞り出すように声を上げた。

「どうして、彼女を殺したんだよ!」

 呟くように嘆くように僕は、そう、言葉を吐いた。


 少女の遺体が消えていくのを見届けて後、ボロボロの身体を引きずりながらの帰路についた。一人では歩けないから、相棒に肩を借りて歩く。二人の間に言葉は、無い。僕はずっと涙を流している。二人が別れる場所に到着する。

「家まで送ろうか?」

 彼の申し出を僕は断った。一つには僕の家は荒らされてもう使い物にならない。だけど、主たる理由は、今は彼と一刻も早く離れたかった。

「そうか、ならここで」

「ああ」

 力なく応えて、僕らは互いの道を歩き出す。帰る家を失った僕の行くところは、本人も殺し、その最愛の人々も先程殺した男の、住んでいた家だ。

 男の家に到着する。僕は持っている鍵を使って中に入り、玄関に倒れ込む。止まらない涙を拭えるものを探すためにポケットに手を突っ込む。そこには、自分の拳銃、男から奪ったナイフ、その娘から奪ったスタンガン。そして、

「ん?」

 ポケットの中に二通の封筒が入っていることに気付く。それは、彼の遺書だ。もう渡すことさえ出来なくなった、彼の遺書だ。僕はそれらをポケットから取り出し、止めた方が良いと制止する心の声を無視して封を解き、手紙を読む。


 「妻へ

  愛しています。幸せに生きて下さい」


 「むすめへ

  あいしています。しあわせにいきてください」


 二通の手紙は全く同じ内容の物だった。僕には察しきることなど到底不可能だろうが、彼はきっと悩んだはずだ。どんな文章を書くか。妻には何を伝えるか、娘には何を伝えるか。だけど、結局彼は二通同じ内容にした。そして、娘には書いている内容が分かるように全部平仮名にした。それを見たとたん嗚咽が止まらなくなった。僕は一晩中声を上げて玄関で泣き続けた。


 陽の光がカーテンの隙間から差し込みだしてからどれくらいの時間が経っただろうか。時計はもう昼時を示していた。僕は昨晩から泣き続けて、もう声も完全に枯れてしまっている。嗚咽は次第になりを潜め、今は涙だけが流れている。だけど、いくら泣いたところで、僕のやったことが許されることは、無い。幸せな人生を送るはずだった母子はもう帰ってきはしないのだ。身体が怠い。もう死んでしまえたらと思う。だけど、今、コートのポケットに入っている拳銃の引き金を自分目掛けて引く勇気は、無い。それが出来れば救える命が在ったのだ。ああ、まただ。またこのスパイラルで涙が止まらない。止まらない涙を何度も拭う。目尻が痛い。

「あ、あー」

 うん、喉は完全に潰れた。ボーッと天井を眺める。そういえば、彼女は僕の願いを知っていると言っていた。何故、知っているのか。知ることが出来る経由は一つ。あの老人だ。そもそも、何故彼女がこの戦いに参加することになったのか。それも又、あの老人によるものだ。悲しみと罪悪感は俄然、雪崩れ込むように怒りへと変わっていく。そうだ、なにもかも、こうなるはずはなかった。あの老人がこんなことさえしなければ! 僕は、あの老人に怒りをぶつけずには居られなくなった。あの老人に会いたい、会って罵声を浴びせたい。どうしてこんなことになったのか、と。あの、老人に会うにはどうすれば良い?

「本だ! 本が家に置いてある!」

 僕は重たい身体を意地で起こして家に向かった。


 怒りと憎しみを抱えながら自分の家へと道を行く。端から見たら、今僕はどんな顔で歩いているんだろう。

「着いたぞ」

家の前まで到着した。鍵を開け。ノブを力一杯握りしめてドアを開く。室内はこの前現れた敵に滅茶苦茶に荒らされている。僕は土足のまま部屋に上がる。

「本はどこだ!」

 誰かに問うても応えが返ってくるわけでは無いけれど、叫ばずにはいられない。家は荒れたい放題になっていたが、本はちゃんと机の引き出しに入っていた。というか、よく考えたら、武器と同じ引き出しにしまってあったんだった。いずれにしても、そんなことはどうでも良い。

「出てこい! 話がある」

 本を開き大声で怒鳴りつける。

「なんじゃ、騒々しい」

 老人はこちらの激昂ぶりとはうってかわって、とても面倒臭そうで、つまらなそうだった。その態度があまりに癪に触ったので、銃を彼に目掛けて一発撃とうとした。

「……」

「ふぅ。やれやれ」

 銃は発砲しない。僕は舌打ちをする。老人はそれを見て宥めるように

「本をよく読んでなかったのか。武器は夜にしか使用できん。それに本に目掛けて撃ったところで、弾の無駄。まあ、その晩零時を迎えたら弾は最大量まで補充されるがのう」

 つくづく腹の立つ奴。

「何故、彼女を戦いに参加させた!」

 怒りに任して問いただす。しかし、老人は落ち着き払って

「彼女がそう願ったからじゃ」

「彼女の命については父親が参加者として参加したはずだ」

「じゃが、死んでしまったのう」

「それを彼女は知らなかった。父親の存在を忘れてしまったのだから」

「それは関係ないじゃろう」

「なんだと」

「大事なことはあの娘が生きたいと強く願ったということじゃ」

「ならどうして普通に彼女の母親を参戦させずに敢えてあの子を戦いに出した! あんな小さい娘が戦いで勝てると思っているのか!」

「他人に干渉する願いの場合は、一人の対象に一人の参加者のみが干渉することを許されるんじゃ。だから、今回はワシとしてはかなり粋な計らいをしてやったんじゃがの。それにそんなことを言うなら、お主が今まで勝ち残ってきた事の方が余程意外じゃ」

「貴様!」

 冷静に受け答えをする老人についに怒りが頂点に来た。本の老人に掴み掛かろうとする。だが、当然掴むことは出来ない。

「やれやれ。呼び出して早々に文句を言われて全く、磐余のないことこの上ない」

 白々しく彼は言う。

「どうして、彼女を参加させた!」

 僕は再び怒声を上げる。それを見た老人が見透かすような目で言葉を吐く。

「なるほど、お主、自分の願いを知られたのが辛かったのか」

「な……」

 言葉に詰まる。この気を逃すまいと彼は続けて喋る。

「それは、そうじゃろうなぁ。死にたいと言ってる奴が死ぬのが怖いからと言う理由で自分の父親を殺し、挙げ句、善人面して自分の前に現れていたと彼女は知ったのだからのう。偽善者さんには辛い話よのう」

「くっ、違う。違う! 俺はそんな理由でここに来たんじゃない!」

「違わんよ。よく考えてみろ、本当に罪を咎められるのは誰じゃ?」

「お前だ! お前が彼女を戦いに投げ込まなければ、彼女はこんな死に方をせずに済んだ! 彼女の母親も死なずに済んだ!」

 そう言った瞬間、ふと自分の心の中で何かが冷たくなっていくのを感じた。老人はそれを見逃しはしなかった。彼は冷ややかに僕に語りかける。

「お前だよ。罪を咎められるのは。お前が彼女の父親を殺さなければ、彼女は生きることが出来た。それにお前は私が悪いと言うが、私は彼女に生きる最後のチャンスを与えた。彼女の母親も死なずにすんだ? 笑わせる。娘を失って失意のまま生きることが果たしてどれほど辛いことか。もしかしたら、後を追って死んだかも知れない。私は皆に希望を手に入れる機会を与える。それを摘み取っているのは誰か? お前だよ」

 愕然とする。何も反論できない。僕が殺したんだ。そしてこいつは確かに機会を与えている。

「どうした? 何か言うことはないのか?」

 何も言えない。だけど、確実にあるこの怒り。何かが許せない。何が許せないのか分からない。だけど、確かにこの老人を許せない。

「確かに、僕が摘み取っている。確かにそうだ。だけど、許せない。許さない! お前の何かを許さない! たとえ咎人が僕であろうとも、僕はお前を許さない!」

 老人は完全に呆れ返っていた。

「はぁ、ワシももう年じゃ、お主といつまでも話をしていてもしんどいだけじゃ。もうやめじゃ。お主も少し頭を冷やす事じゃ」

 老人がそう言うと突然、僕の意識が途切れた。


 嫌な夢で目が覚める。夢の内容はもう憶えていない。だけど、とても辛くて、悲しくて、でも結局消えて無くなっていく。そんな夢だった。外はすっかり暗くなっていた。ずいぶんと寝かせられていたようだ。上半身を起こして暗がりの中、部屋を見渡す。家は相変わらず荒れたい放題。と、目の前から本が消えていた。

「もう話したくないって事か」

 状況からあの老人のメッセージを読み取る。枯れてた喉で叫びまくったもので、もう声は殆ど出ない。起こしていた上半身を支えていた肘を抜いて再び俯せに横たわる。心は焼けただれていた。怒り、悲しみ、罪悪感、憎しみ、もうたくさんだ。だけど、頭は思考を止めようとしない。結果、心の火傷はさらに悪くなっていく。

「辛いなぁ」

 仰向けになりながら、ぎっちり詰まった思考の隙間を通すようにその言葉を吐く。なんとなく、外を見る。夜だ。真っ暗の世界が広がってる。次にコートのポケットからナイフを取り出す。鞘から抜いて翳す。ナイフから光が走り、外へと向かって伸びていく。ふと、あの殺し屋のことが頭に浮かんだ。彼の最期の仕事、それは僕を殺すことだ。この光はきっと彼の居所を告げる光だと思う。そう思う。

「待ってるのかな」

 ポツッと呟く。きっとどこかで僕が現れるのを待っている。殺すために。何かを伝えるために。

「戦いはまだ終わらない」

 正直さっきのでもう嫌気がさしていた。自分で死ぬことは出来なくても、彼ならとことん最後まで追いつめて僕を殺してくれるんじゃないだろうか。いや、駄目だ。僕はあの感情、あの許せないという思いを解決しなければいけない。本は消えた。まだ分かっていることも少ない。死にたくない。今、死にたくない。たくさんの人を犠牲にした。今すぐ死んで詫びなきゃいけないのかもしれない。だけど、今は死にたくない。

「戦わなくちゃいけない、あの人と」

 だけど、今の僕にあの人と渡り合うだけの力も技量も何もない。何か、彼と渡り合えるだけの力を持つ何か。その時、僕の脳裏に一つの武器が思い浮かんだ。そう、少女が操られ、狂った戦士のように振り回したあの刀。あれは、今相棒が持っている。今は正直あまり話したくない。自分の中で彼女を殺したことがどうしても許せないから。それが、間違ってるということは分かってる。だけど、電話は辛い。

「メールで送ろう」

 僕は相棒に彼女の刀を貸してくれるようメールで頼んだ。次の戦いはすぐに始まる。


今回もご覧いただきありがとうございました。また次回もご覧下さい。

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