彼の願い
一つ溜息をついて玄関で靴を履く。後ろを振り返り、部屋を見つめる。
「これで必要なものは全部持ったな」
もう此処へは戻ってくることはないだろう。もし、最後まで生き残っても、途中で死んだとしても、俺はもう此処には帰れない。
「娘の命が助かるんですか!?」
俺の娘は生まれながらに身体が弱く、命を授かった時には既に十年の寿命を宣告されていた。子供ができたと妻から聞いたときは、それは本当に嬉しくて、名前はどんなにしようとか、何を習わせようかとか、そんなことばかり、考えていた。ただ、幸せになってくれるだけでよかったのだ。
娘が生まれてからはさらに辛い日々が続いた。すぐに体調を壊しては病院に行き、入退院を繰り返す娘を見て、この子を生むことが果たして本当にこの子のためだったのだろうか。日々隣にある「死」の恐怖に脅えながら生きているこの子に、どんな顔をして会えば良いのだろうか。毎日、自分の罪を責めて、毎日悩み続けた。幸せになって欲しいと思って産んだことで、彼女から幸せを奪ってしまった。毎日、自分の罪を責めて、毎日悩んだ。そして、
俺はそんな日々に疲れて、娘の前から逃げ出した――。
極力顔は見ないようにしたし、熱を出しても放って仕事にも行った。その体を抱けば、体重が、体温が自分を責めているような気がして怖くて、堪らなくて。娘から逃げ続ける中で妻とも離婚し、娘も妻が引き取ることになった。
それで、全部終わり。俺は妻と娘を捨てた男。毎日仕事に明け暮れて。空いてる時間も何かして恐怖から逃げて。それで、終わり……のはずだった、先日妻から電話が来るまでは。
「あの子、今危篤なの」
憔悴しきった声で妻が言う。馬鹿な。寿命は十年だろう。まだ、時間はあるはずだ。そう言いそうになって咄嗟に言葉を呑む。「危篤」の言葉を聞いて、すぐにでも病院に行こうとした。だけど、その次の瞬間、
(行って今更どんな顔をして会うんだ?)
そんな言葉が脳裏をよぎった。
「ごめん、明日はどうしても抜けられない仕事があるんだ」
情けなくも俺は彼女にそう言った。それを聞いた彼女は最早、無責任を責める気力も無いのか、懇願するようにお願いだから来てくれと言い。その後、続けるように
「最近、毎晩うなされながらあなたのことを何度も呼ぶの、一度で良いから、会って上げて下さい」
と話した。
有り体に言えば雷が落ちてきた。自分は娘から逃げる代わりに、娘は俺を憎んで良い、最低な奴だと言えば良い。それで五分五分だ、なんて意味も分からない言い訳をして逃げてた奴なのに。そんな奴を死にそうなときにあの子は何度も呼んだんだ。わけが分からなくて、悔しくて、憎くて、腹が立って、申し訳なくて、何も持たずに病院に駆けつけた。病院についたら、人間なんだか、機械の一部なんだか分からないような状態でいて、気付いたら一晩中土下座していた。
とりあえず、翌朝には幸いなことに一命を取り止め、俺は病院を後にした。そして、その帰り道、あの老人と出会った。
「娘の命が助かるんですか!?」
「そうじゃ、但し、お前さんがゲームに勝てたらじゃがの。もし勝てたら、お前さんの命を引き換えに一つだけ願いを叶えることができるのじゃ」
あの時はもしかしたら、今からでも娘のために何かをしたいという気持ちが強すぎたのかもしれない。あまりにも非常識な話ではあるが、藁にもすがる思いで渡された液体を飲んだ。その後の説明でゲームの内容を知った。勝っても負けても命がけの勝負。加えて「勝つ」ということは、誰かの命を奪うということだ。他の参加者も何かしらの叶えなくてはならない物を持っているのだろう。
それでも――いい。
自分は今までに、もう償えないぐらいに娘を傷付けた。この罪は命を懸けても償えないだろう。それに、自分の願いを叶えるために他の罪も無い参加者を手に掛けるのだ、自分が死ななくて良い筈が無い。他の参加者には申し訳ないが、俺にとって娘の命は誰の命よりも大事で重要だ。
準備は整った、後は標的を探すだけだ。ドアのノブをしっかりと握り、開ける。部屋の敷居を跨ぎ外に出る。鍵を掛けるといつもと違って苦しい音がした。
さよなら――
今回もご覧頂き有難うございました、次回も是非ご覧ください。